笑わず姫とロールキャベツーレオナ①ー
日差しが穏やかな春の日。
雨戸を閉めきっているせいで部屋の中は暗く、暖炉で燻る鈍い火だけが唯一の光源だった。
土間に敷かれた毛皮の上に、アルトゥールとスピーゲルは向かい合って腰を下ろしていた。
「……とにかく、あなたの魔法を無効化する体質を変える方法を探します。すぐどうこうってわけにはならないので、あなたは今のうちにやり残したことでもやっておいてください」
アルトゥールと目をあわせずに、スピーゲルは言った。
アルトゥールはぼんやりと訊き返す。
「やりのこしたこと?」
スピーゲルは重くため息をついて、持っていた本のようなものを閉じた。
「あるでしょう?やりのこしたこと。食べてみたいものとか、見てみたいものとか……何でもいいです。とんでもなく無理なことでなければ協力しますから」
「……やりのこした……こと」
アルトゥールは呟き、目を伏せる。
(……何か……)
何かあるだろうか。
食べることは大好きだが、死ぬ前にこれだけは絶対……と言うほどのことではない気がする。
見てみたいと思うほど、何かに興味をもったこともない。
何もないのだ、アルトゥールには。
自分でも寂しくなるほど、何もない。
何の感慨もなく、アルトゥールは自らの人生を振り返る。
あの人の視界に入らないことだけを心掛けて生きてきた。
生きながらにして、死んでいるような人生。
失われたところで、惜しくもなんともない。
―――――けれど、アルトゥールはそこに、それを見つけた。
(……あった……)
たった一つ。
夢見たこと。
憧れたこと。
いつか、と願った未来。
「……キスがしたいですわ」
アルトゥールがそれを口にすると、スピーゲルの手から、彼が持っていた本のようなそれがバサリと床に落ちた。
何拍か停止した後、スピーゲルがゴホン、とわざとらしく咳払いする。
「……えっと…………何ですって?」
アルトゥールはもう一度言った。
「キスがしてみたいですわ」
―――それから数ヵ月。
夏の狂暴な日差しが、ギラギラと地上を照りつける。その強い日差しを避けるために、行き交う人々の多くが外套を頭からかぶっていたが、皆一様に額に汗を滲ませていた。外套は日差しからは守ってくれても、地面から立ち上る熱気からは守ってくれないのだ。
国の最南端に位置するこの街は、大河に隣接し交易の中継地として船着き場を中心に賑わっている。
大声で取引する仲買人。水夫や、積み荷を上げ下ろしする日雇いの人足相手に商売をする行商人。様々な人々が忙しなく行き来している道の隅で、人足達が木陰に座り込んで休憩していた。
「聞いたか?王城にまた魔族が出たらしいぞ」
「22年前の魔族狩りに関わった騎士団の関係者が殺されてるって本当なのか?」
「ああ、そうらしい。あたり一面血の海で死体もまともに残らない殺され方だってよ」
「穢らわしい魔族め。そもそもは奴らが悪いって言うのに」
飲み物代りの果物をかじりながら話すには随分物騒な内容の話だったが、遥か遠くの都にある王城の話は、彼らにとってはおとぎ話の月の都と同じくらいに現実味がないのだろう。恐ろしいと口にしながらも、実際には誰一人恐怖を感じてはいないようだった。
「そういや、笑わず姫も魔族に殺されたらしいな」
「笑わず姫って……王様の一人娘の?」
「そうさ。自分の美しさを鼻にかけてニコリともしない傲慢で高飛車な笑わず姫だよ」
「傲慢で高飛車でも、まだ若かっただろうに。気の毒にねぇ」
「四肢がバラバラだったそうだ」
「首が城の門に吊るしてあったっていうぞ」
人足達が震え上がっていたその時。道を挟んで向かい側の食堂ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
「困ります!やめてください!」
「いいじゃねえかよ!ちょっと付き合えよ!」
給仕係の若い娘が、質の悪い客に絡まれていたのだ。牛を飲み込んだような大男とその仲間達は、嫌がる娘に無理に酒を飲ませようとしている。
五つ目の南瓜パイを頬張っていたアルトゥールは、円卓を挟んで向かい側でお茶をすするスピーゲルに囁いた。
「助けた方がいいんじゃありませんの?」
だがスピーゲルは立ち上がる気はないらしい。外套のフードを目深にかぶったまま、問題の男達を見ようともしない。
「下手に関わって僕の正体がばれるのはごめんです。それにこういう大衆食堂は警備担当の用心棒を雇って……あ」
スピーゲルは少し慌てたように自らの袖口を押さえた。
「ジギス。ダメだよ出てきちゃ……こら!」
スピーゲルの指の間をすり抜けて、掌ほどの小さな羽蜥蜴が顔を出した。
羽蜥蜴とはその名の通り羽がある蜥蜴のことだ。爬虫類的な見た目のせいで若い娘などには嫌われがちではあるが、毒があるわけでも噛みついてくるわけでもない。湿気を好んで水甕の裏側に張り付いている、そこら辺にありふれた大人しい生き物だ。
「ダメだよ。誰かに見つかったら騒がれる」
スピーゲルに叱られ、羽蜥蜴は赤い舌を不満げにチロリと出した。
ジギス、と呼ばれる彼は、世にも珍しい二股の尻尾を持つ羽蜥蜴だ。スピーゲルが子供の頃からその肩にへばりついていたというから、五年から七年程度と言われる羽蜥蜴の寿命の軽く三倍は生きていることになる。
「ジギス。一口いかが?」
アルトゥールは南瓜パイを一切れフォークにのせ、ジギスに差し出した。
味見をするように赤い舌でチロリとパイを舐めたジギスは、南瓜パイの味を気に入ったらしく、後ろ足で立ち上がると前足で器用にパイを掴んだ。そしてたどたどしい二足歩行でスピーゲルの外套の奥へと姿を消す。
もはや動きが普通の羽蜥蜴ではない。さすが二股である。
ちなみに、通常の羽蜥蜴は虫や蛙を食べるのだが、ジギスは尻尾が二股に分かれた時点で生態に何かしらの変化があったのか、人間が食べる物を好んで食べる。なかでも甘い物に目がない。
「ほら、座れって!」
「やめてください!放して!」
アルトゥールとスピーゲルがジギスの相手をしている間にも、問題の男達のせいで店の雰囲気は悪くなっていた。
スピーゲルが言うような用心棒はいないのかと、アルトゥールは伸び上がって店の奥を見る。
「……あ、誰か出てきましたわ。あの人が用心棒……」
出てきた男を見て、アルトゥールは言葉を濁した。
店の奥から出てきた男は、用心棒と呼ぶにはあまりに痩せていて気弱そうだったからだ。
「……大丈夫かしら?」
「……」
頼りない用心棒らしき男は、それでも果敢に給仕の娘を助けようと問題の客へ近づいて行き……。
「ひっこんでろ!」
「うわあ!」
……案の定、牛男に張り手をくらい、あろうことかアルトゥールとスピーゲルが食事をとる円卓にまで吹っ飛ばされてきた。
立て付けが悪い使い古された円卓は、用心棒が降ってきた衝撃に耐えられずに脚から折れ、南瓜パイとお茶が皿と共に床の上に散乱する。
「あ―――ッ!」
アルトゥールは悲鳴をあげ、慌てて床の上に横たわる南瓜パイを拾おうとした。
だが、パイ生地は崩れてボロボロ。中の具も同様で手のほどこしようがない。
「……わたくしの南瓜パイ……!」
パリパリして美味しいところを最後に食べようと楽しみにとっておいたのに。
ワナワナと、アルトゥールは怒りに手を震わせる。
「……ああ、まずい」
スピーゲルが呟くのには構わず、アルトゥールは立ち上がった。そして憎しみをこめて牛男を睨み付ける。
「何てことしてくれたんですの!!この牛男―――!!!」
「……ああ、やっぱり……」
アルトゥールの背後で、スピーゲルが頭を抱えた。
牛男と仲間達が眉を潜める。
「何だ?この女」
「随分綺麗な顔してるなあ」
「ちょうどいい。あんたが酒に付き合ってくれよ」
アルトゥールの腕をとろうと男が伸ばした手を、スピーゲルが払いのける。
「彼女に触らないでください」
「何だ?てめぇ」
牛男達が詰め寄るも、スピーゲルは当然ながら臆する様子もない。
そんな彼の肩に、アルトゥールは手を置いた。
「スピーゲル。手出しは無用ですわ」
「……ほどほどにしてくださいよ」
ため息まじりに、スピーゲルが引き下がる。アルトゥールは諾とは答えなかった。食べられることなく生ごみとして処分される可哀想な南瓜パイの恨みを思い知らせてやる。
「望みどおり。付き合ってさし上げますわ。ただし……」
ギギギギ、と頬の筋を軋ませ、アルトゥールは形の良い唇の端を引き上げた。
「わたくしと勝負して勝てたら、ですわ」
その歪な微笑みの迫力に、食堂にいた誰もが顔を青くした。
「すげえー!!」
「いけいけー!」
声援の中心にいるアルトゥールと牛男が並んで座る長机には、魚介類と野菜と米を一緒に炊き込んだこの地方の郷土料理が、両腕を広げたほどの大皿にてんこ盛りになっていた。アルトゥールと牛男は、それを一心不乱に食べている。
「すげえ!あのお嬢ちゃん食べるペースが全然乱れないぜ!」
「あんな美人で細っこいのにやるなあ!」
「お嬢ちゃん頑張れー!」
声援に、アルトゥールは片手を挙げて応えた。余裕である。
頬袋には栗鼠もビックリするほど食べ物がつまっていたが、それをゴクリと一飲みし、また匙で料理を口に掻き込む。残る料理は大皿の四分の一ほどだ。
対して大男の皿にはまだ半分以上の料理が残っていた。とはいえ、普通の皿であれば軽く十皿以上は食べたことになる。そのせいか、大男は顔色も悪く、目も虚ろだった。
「何やってんだ!フーゴ!食え!食え!」
「女に負けるぞ!」
仲間は必死の形相で牛男を焚き付けるが、フーゴの額には脂汗が浮かび、匙を持つ手は震え始める。
「う、うぐぅ……っ!」
とうとう、フーゴは椅子を巻き添えに仰向けに倒れてしまった。
「おい!!」
「しっかりしろ!!」
仲間達が駆け寄るが、フーゴは目を回したまま動かない。
その隣で、アルトゥールは勢いよく立ち上がった。
「御馳走様ですわッッッ!」
アルトゥールの前の大皿には、一粒の米も残っていない。
「す、すげえ!」
「食べたぞ!食べきったぞ!」
取り囲んでいた客達がどよめくなか、アルトゥールは気絶したフーゴとその仲間達に向き直り、持っていた匙を突きつけた。
「わたくしの勝ちですわ!約束通り、娘さんに謝りなさい!それから二度とこんな無粋な真似はしないと誓うのですわ!!」
「いいぞー!お嬢ちゃん!」
「男前ー!」
客の男達が口笛を吹いて囃し立て、調理場からは女達が顔を出し拍手喝采が沸き起こる。
「く、くそ!」
「調子に乗りやがって!」
フーゴの仲間達は焦りと怒りを顔に浮かべ、立ち上がる。そして腰から短剣を取りだし、鞘から抜いた。
大人しく謝る気も、退散する気もないらしい。
「わあ!?」
「け、剣だ!」
周りの客達が一斉に後退るなか、離れて壁際にいたスピーゲルが背中にアルトゥールを庇うように男達の前に立ち塞がった。
男達が、ニヤリと笑う。
「恋人を守ろうって?格好いいな兄ちゃん」
「だけどな、怪我したくなきゃひっこんでな」
彼らの手元で、短剣が鋭く光る。
男達に対峙したまま、スピーゲルは喚いた。
「恋人じゃありません!……まったく。結局こうなったじゃないですか。あなたが下手な騒ぎを起こすから……」
ブツブツと文句をこぼすスピーゲルの肩に掴まり、アルトゥールはジリジリと間合いを詰めてくる男達を睨みつけた。
「わたくしの南瓜パイを台無しにした彼らが悪いんですわ。それでどうしますの?」
スピーゲルなら刃物をちらつかせている輩だろうと簡単に蹴り倒してしまえるだろう。けれどそうすると狭い店内がメチャクチャになるのは明白だ。
アルトゥールは声を落とした。
「魔法を使うんですの?」
正座させて反省させるなり、眠らせるなり、言って聞かない馬鹿を黙らせる魔法は色々とある。
アルトゥールと同じように、スピーゲルも声を落とす。
「まさか。こんなに人目がある場所で魔法なんて使ったらたちまち自警団か騎士団に囲まれて明日にも僕は広場で火炙りです。そもそも、彼らの名前が分からない」
名前が分からないとスピーゲルは相手に魔法をかけられないのだ。
アルトゥールは考え込む。
「じゃあどうしますの?」
「こういう時は……」
「こういう時は?」
不意に、スピーゲルは屈み込むとアルトゥールの膝を抱えるようにして立ち上がる。
肩に担ぎ上げられたアルトゥールは、スピーゲルを見下ろした。
「つまり、逃げますのね?」
「ご名答」
端的に言うが早いか、スピーゲルが跳躍した。
「わああ!?」
「何だ!?」
男達のみならず他の客や店員もギョッと目を剥くなか、スピーゲルは店の土壁を蹴るように数歩走り、戸口の前に着地する。
「お代ここに置いておきますから!」
「御馳走様でしたわ!」
手近な所にあった円卓に金貨を一枚置いて、スピーゲルはアルトゥールを担ぎ直すと扉を開いた。
「ま、待て!」
「逃げるな!」
男達は慌てて追いかける。だが……。
「あ、あれ?」
「くそ!どこにいった!?」
店の外に男達が飛び出した時、そこには既に商人や水夫が忙しく行き交う姿があるだけだった。
水路と平行する路地裏の道を、アルトゥールはスピーゲルの背中を見ながら歩いた。
街の喧騒の代わりに、時々子供の遊ぶ声が聞こえる。
「……まったくあなたは……」
はあ、とスピーゲルは盛大にため息を落とす。
「ああいう目立つ行為は控えて下さい。あなたの顔を見知っている人がいたらどうするんですか!」
「大丈夫ですわ。王都からこんなに遠く離れた街にわたくしの知り合いがいるはずありませんもの」
アルトゥールが呑気に言い返すと、スピーゲルは勢いよく振り返り、アルトゥールの鼻先に人差し指を突きつけた。
「万が一ということがあるでしょう!?……もう……」
はあ、と大きなため息と共に肩を落とすスピーゲルの横で、アルトゥールは犬のように鼻をひくつかせた。
「いい匂いがしますわ……」
漂う匂いに引き寄せられ、アルトゥールはフラフラと歩き始める。
「姫!?どこ行くんですか!?」
脇道にそれたアルトゥールを、スピーゲルが慌てて追いかけてくる。
「姫!」
「美味しそうな匂い……」
細い路地裏の更に裏の道を進み、やがて小さな民家の裏庭に出た。
その裏庭で、アルトゥールより少し年かさの娘が大きな鍋を抱え、その鍋の中身を庭に掘った穴の中へと捨てようとしている。
「……っちょっと待った―――ですわッ!!」
アルトゥールは夢中で叫んだ。
2020.6.27 一部改稿
2024.2.9 一部改稿