笑わず姫と暖炉の火ー帰宅ー
『ねぇ、いつあのこを迎えに行くの?』
アーベルを見上げ、幼いスピーゲルは尋ねる。
腰掛けに座り薬草の仕分けをしていたアーベルは手を止め、スピーゲルの首から下がる砂時計を指差した。
『その砂時計の砂が落ちきったらだ』
『……ぜんぜん落ちてこないよ?壊れてるんじゃない?』
父親の形見だという砂時計を自らの目の位置まで持ち上げ、スピーゲルは中を覗いた。
まるで雪のような砂は信管の窪みの上に溜まり、落ちてくる様子はない。詰まっているのではないかと、スピーゲルは思った。
(思いっきり振ったら直るかな?)
試しに上下に振ってみたが、砂は落ちることも逆流することもない。
『ゆっくり落ちているからね。詰まっているように見えるだろうが大丈夫だ。壊れていないよ』
笑いながら、アーベルはスピーゲルの頭に手を置く。
優しく、大きな手。
その温かな感触にスピーゲルははにかんだ。
『……スピーゲル。この砂が落ちきる頃にはお前もあの子も大人になっているだろう。そうしたら、迎えにお行きーー……お前の花嫁を』
***
暖炉にかけた鍋のなかを、ベーゼンは長い木匙でかき混ぜた。牛肉の葡萄酒煮込み。アルトゥールの大好物の一つだ。
他にもチーズとベーコンを混ぜ混んだオニオンパイ。ジャガイモと腸詰めの炒め物。キノコとブロッコリーのスープ。卵を練った小麦を油で揚げて砂糖を振りかけた揚げ菓子。その他諸々……。
居並ぶ料理の数々を見下ろし、ベーゼンは手を腰にあてた。
「……いくら何でもつくりすぎたかしら……」
深くため息をつき、腰掛けに腰を下ろす。
数日前、ベーゼンの主人であるスピーゲルはアルトゥールと連れだって出掛けたのだが、その日のうちに三日は戻らないと書かれた手紙を羽蜥蜴のジギスヴァルトが携えて帰って来た。
手紙には祭りがどうのと書いてあったので、ベーゼンはあまり心配はしていなかった。きっと祭り見物でもして帰ってくるのだろう。
アルトゥールから聞く土産話を楽しみにベーゼンは留守を守ることにした。
ところが、帰宅する予定だった昨日、スピーゲル達は戻らなかった。
夜が明けて朝になり、昼になり、また夜がきたというのに連絡一つない。
生真面目なスピーゲルが連絡を忘れるなんてあり得ない。きっと、連絡出来ないほどの事態に陥っているのだ。
スピーゲルとアルトゥールに、一体何があったのか。
二人を探しにいく術がないベーゼンは、不安をまぎらわそうと次から次へと料理にとりかかり、気づけば長方形のテーブルの上には所狭しと料理が並んでいた。晩餐会でも開けそうである。
「「「ベーゼン!!」」」
林檎の木々の輪唱に、ベーゼンは顔を上げる。急いで鎧戸を開けると、ツヴァイク達は庭先であたふたしていた。
「落ち着きなさい。どうしたというの?」
ベーゼンが嗜めると、ツヴァイク達は口々に声を上げる。
「帰ってきたぞ!!」
「スピーゲルとお姫様!!」
「……帰ってきた!」
彼らが指し示す方を見ると、夕闇の中、連れだって歩く二つの人影が見えた。
遠目でも分かる。スピーゲルとアルトゥールだ。
二人の姿に涙ぐむほど安心したベーゼンだが、すぐにそれは苛立ちへと変化した。
これほど心配させたスピーゲルに、一言言ってやらねば気がすまない。
「スピーゲル様!連絡をいれてくださいとあれほどお願いしましたのに、一体今まで……」
ベーゼンの文句は、スピーゲルとアルトゥールが近づくにつれて尻すぼみに小さくなり、途切れた。
布の端切れが巻かれたスピーゲルの肩は赤黒く血が滲み、腕の切り傷も痛々しい。上着も脚衣も薄汚れてボロボロだ。
アルトゥールはと言えば、全身煤だらけな上に着衣のあちこちが焦げて黒くなっており、脚は裸足だ。
まさに満身創痍な二人の様相に、ベーゼンは目を剥いて絶句する。
表情が見てとれるまで近くに来たスピーゲルが、困ったように笑った。
「心配かけてごめん、ベーゼン」
「ただいまですわ!」
焼け出されたような酷い様相とは反対に、二人は明るい声だった。
しかも、アルトゥールの頬にははっきりと見てとれる微笑みが滲んでいる。
ずっと人形のように表情が固まっていたアルトゥールが見せてくれた、初めての笑顔。
「……っまあ……っまあまあまあ!!」
扉を開けて入ってきたアルトゥールを、ベーゼンは強く抱き締めた。
***
「いっ……たたたたた!ベ、ベーゼン!もうちょっと優しく……」
「さぁさぁ!グズグズなさらないで!」
抵抗するスピーゲルから、ベーゼンが上着を剥ぎ取るように脱がせていく。
血と泥に汚れた上着の下からあらわれたのは、しなやかな背筋をまとった背中だった。
緩くまとめた白銀の髪が、肩甲骨をなぞるようにサラリと流れる。
細い細いと思っていたスピーゲルの腕は、思っていたよりも厚く筋張っていた。
その広い背中のあちこちに、紫がかった黒い痣がある。痣は長細い。
(……何?)
どこかでぶつけたのだろうか。
(それとも殴られた?)
痣は聖騎士達が持っていた剣より細い。となると、聖騎士にされたものではないらしい。そもそも、聖騎士達は剣を鞘から抜いていたから、痣ではなく切り傷がつくはずだ。
(火掻き棒みたいな細いものに殴られた?)
よく見れば、スピーゲルの体はあちこちに小さな傷痕があった。
(おかしいですわ。スピーゲルは強いのに……)
そういえば、いつだったかも頬に引っ掻き傷があったこともある。
(いつだったかしら?)
床に膝を抱えたまま座りこみ、アルトゥールはスピーゲルの背中を凝視する。
その熱い視線に耐えかねたのか、スピーゲルが居心地が悪そうに身動いだ。
「姫……ちょっと、あっち向いてて下さい」
「どうしてですの?」
あっちを向いたら、スピーゲルを見ていられなくなってしまう。
「それからスピーゲル。その痣、いつ……」
「これはもう治りかけですから。いいから、あっち向いてて下さい」
「……むー」
アルトゥールは頬を膨らまして不満を訴えた。けれど結局、渋々ながらも身体を反転させる。
「矢傷だなんて……」
湯に浸した布でスピーゲルの肩の傷口を丁寧にぬぐいながら、ベーゼンが怒ったように呟いた。
「まったく……何をしてきたのやら」
「……ごめん」
「スピーゲルは悪くありませんわ」
苦笑いで謝るだけのスピーゲルの代わりに、アルトゥールは急いで口を開いた。
「スピーゲルはザシャやイルゼやヨナタンを助けてくれたんですわ。それからわたくしのことも……」
そこまで言って、アルトゥールははたと気が付いた。
そしてスピーゲルを振り返る。
「スピーゲル……ザシャ達は?」
それからジギスヴァルトも。彼は目を怪我していたはずだ。
スピーゲルは大丈夫、と言うように微笑んだ。
「信頼できる場所に匿ってもらっています」
「信頼できる場所?」
それはどこだろう。
アルトゥールの心の内を読んだように、スピーゲルは困ったように眉尻を下げた。
「どこ、とは言えませんが……」
スピーゲルは一度は言葉を濁したが、何か思い直した様子を見せ、また微笑んだ。
「……いや。すぐには無理ですが、今度案内します。彼らのいる場所に」
「本当に?」
「はい。約束します」
スピーゲルが頷くのを見て、アルトゥールは胸を撫で下ろす。
スピーゲルがこうまで言うなら、ザシャ達はきっと大丈夫だ。
「よかったですわ」
安心から、頬は自然と綻んだ。
その緩やかな笑顔を見たスピーゲルは、まず固まり、そして妙に機敏な動きでアルトゥールから顔を反らす。
「……スピーゲル?」
スピーゲルの不審な動きに、アルトゥールは瞬いて彼の顔を覗き込む。
「どうかしましたの?」
「……いえ、別に……」
口ではそう言いつつも、スピーゲルは更にアルトゥールから顔を反らそうと体を捩る。
すると、不自然な体勢のせいで肩の傷が痛んだらしく、彼は眉根を寄せた。
「……いっ……たたたたた……」
「スピーゲル!?大丈夫ですの!?」
その後、スピーゲルの肩に薬草を湿布してから、ベーゼンはたっぷり湯を湧かし、アルトゥールの部屋に用意した大きめの桶に注ぎ満たしてくれた。
湯で髪を洗うと、瞬く間に湯が黒く濁る。汚れている自覚はあったものの、ここまでとは思っていなかったアルトゥールは目を見開いて驚いた。
「それで姫君様。スピーゲル様とキスはできましたの?」
新しい湯に浸した布で手足を拭うアルトゥールにベーゼンは背後から尋ねてきた。ベーゼンは、アルトゥールの濡れた髪をまとめて、水気を絞ってくれている。
ベーゼンを振り返らず、アルトゥールは腕を拭う手を止めた。
「……え?」
「言ってらしたじゃないですか。スピーゲル様は理想的なお相手だと」
折々に、アルトゥールは様々な相談をベーゼンにしていた。
死ぬ前にキスがしたいこと。その相手として、スピーゲルが理想的だということ。それをスピーゲルに話して、キスしてもらえるように頼みたいが、何故かそれが出来ないでいることも、ベーゼンには話していた。
「どうなりました?キスして欲しいと、お願いできましたか?」
「……言うには……言いましたわ」
アルトゥールは俯いた。すると、首筋を水滴が滑り落ちて、背中を僅かに濡らす。
「でも……断られましたの」
「……まぁ」
ベーゼンも、アルトゥールの髪を絞る手を止めた。
「まあまあまあ……それはどうして?」
「……許嫁がいるから、と」
アルトゥールは身を捩り、ベーゼンを見上げた。
「ベーゼンは、スピーゲルに許嫁がいると知ってまして?」
「……それは……」
困ったようなベーゼンの表情から、彼女がスピーゲルの許嫁の存在を知っていたことをアルトゥールは悟った。
「知ってましたのね……」
「……黙っていて申し訳ございません」
ベーゼンは申し訳なさそうに目を伏せる。
アルトゥールは前に向き直り、肩を落とした。
「……スピーゲルは許嫁の方を大切に思っているんですわ。だから……」
だから、アルトゥールとはキスしたくないのだ。
そう考えると、アルトゥールの胸にもやもやとした影が渦巻いた。
沈み込む心に引きずられて、表情を取り戻した顔もしょんぼりと曇る。
「……姫君様」
ベーゼンはアルトゥールの髪から手を放すとしゃがみこみ、アルトゥールの横顔を覗き込む。
「スピーゲル様に許嫁がいることは本当です。でも、あえて申し上げます」
アルトゥールは戸惑いがちにベーゼンを見る。すると、ベーゼンはニッコリ笑った。
「あの方は押しに弱いので、とにかく押して押して押して押し倒しておしまいなさい」
「……押し倒すんですの?」
アルトゥールが目を丸くすると、ベーゼンはにぃぃぃっこり、と笑みを深める。
「そこまですれば、あのヘタレの無駄に頑丈な理性もさすがにブチ切れるでしょうから」
いくら育て親も同然とは言え、主人をヘタレ呼ばわりするのはどうなのか。
だが、アルトゥールはそれをわざわざ指摘しなかった。スピーゲルとベーゼンの力関係は、既に十分理解している。
アルトゥールは白い湯気が上がる湯に、布を浸した。
「でも……わたくし、わかりましたの。スピーゲルが嫌がってるのにキスしても意味がないんですわ」
キスにずっと憧れてきた。キスをすることで、ずっとずっと欲しかったものが手にはいるような気がしていた。
けれど、だからスピーゲルに嫌な思いをさせたり我慢を強いるのは、何かが違う。
「それに……キスなんてしなくてもいいような気がしましたの」
ぼんやりと、アルトゥールは揺れる湯気を眺める。
その向こうにスピーゲルの滲むような微笑みが見えた気がして、自然と目が綻んだ。
「スピーゲルが……笑ってくれて傍にいてくれて……それだけでわたくし……」
スピーゲルが笑って、話して、歩いて、そんな姿を見るだけで、アルトゥールのなかの何かが満たされていく。
それはアルトゥールがずっと欲しかったものが手にはいったような、そんな感覚に似ていた。
もう、それで十分なのではないだろうか。
元々、身の丈にあわないものを欲しがっていたのだから。
「……でも」
ふと思い出す。
(……あれは……)
火炙りにされかけてスピーゲルに助けられ、逃げ込んだ地下水路。
ゆっくり近づいてきたスピーゲルの唇。
あの時、確信をもってアルトゥールは瞼を閉じた。
(それなのに……)
ぶつけた痛みが蘇った気がして、アルトゥールは額に手をやる。
「……あれは絶対、キスしようとしていましたわ」
「はい?何て?」
訊き返してきたベーゼンに、アルトゥールは小さく笑って首を振った。
「何でもありませんわ」
自然と唇で弧を描くアルトゥールに、ベーゼンが嬉しげに目を細める。
「表情が随分と柔らかになりましたこと」
アルトゥールは少しはにかみながら、自らの頬に手をやった。
「スピーゲルのおかげですわ。それに、ベーゼンや、ジギスヴァルトやツヴァイクやライスやアストや、皆が親切にしてくれたおかげですわ」
彼らが優しくしてくれたから、凍てつき砕けた心を、アルトゥールは拾い集めることが出来た。また笑えるように……泣けるようになれた。
けれどベーゼンは、少し残念そうに眉尻をさげて肩を竦める。
「……だから、てっきりようやくお二人がまとまったと思いましたのに」
ベーゼンを見上げ、アルトゥールは首を傾げる。
「まとまる?」
「以前からもどかしくてたまりませんでしたが……帰ってきてからのお二人は一段と親密になった様子でしたので、やっと胸の内に秘めていた想いを打ち明けたのだなと期待したのですが……」
溜め息を吐き出すベーゼンに、アルトゥールは眉をひそめた。
「……胸の内?想い?何のことですの?」
ベーゼンが何を言っているのか、さっぱりわからない。
もう一度大きくベーゼンは溜め息をつく。
「……なるほど。そもそも自覚もまだでしたか……」
そしてがっくりと肩を落とす。
汚れを落としてさっぱりとしたアルトゥールは、簡単に着替えてから階下に戻った。
すると、暖炉の前に置いた椅子に腰かけて、スピーゲルが俯いている。
「……スピーゲル?」
動かないスピーゲルにそっと近づくと、規則的な寝息が聞こえてきた。
アルトゥールは床にしゃがみこみ、スピーゲルの寝顔を見上げる。
彼が寝ているのを見るのは初めてだ。
白銀の睫毛が、暖炉の暖かな火に照らされて光って見えた。
(……きっと、すごく疲れていたんですわね)
それもそうだ。
騎士団に追いかけ回され酷い怪我を負い、その怪我をおしてアルトゥールを助けてくれた。
胸の奥が締め付けられて、鼻の奥が熱くなる。涙がでそうだ。
アルトゥールは鼻をすすると、急いでまた階段をのぼり、部屋から上掛けを持って降りてきた。
それをスピーゲルの肩にかける。
そして自分も床に腰をおろして、スピーゲルの膝に頭を預けた。
(……スピーゲルの怪我が、早く治りますように)
祈るように目を閉じると、強い眠気が襲われる。
パチパチと、暖炉の火がはぜた。
寄り添い眠る二人の姿を見て、ベーゼンが微笑んだ。