笑わず姫と魔法使いーアルトゥール⑪ー
「えっと……お待たせしましたわ。麦酒五杯と牛肉のスープですわ」
アルトゥールがふらつきながら料理を差し出すと、その客は首を振った。
「いやいや。頼んだのは麦酒七杯だぞ」
「牛肉のスープはこっちだぞー」
離れた席で、他の客が手を上げる。
それを振り返り、アルトゥールは事も無げに言う。
「あら。じゃあ、取りに来て頂ける?」
「コラコラコラコラー!」
アルトゥールの背後で店主が眉尻を吊り上げる。
「客に取りに来いなんて言う奴があるかい!お嬢さん!食った分きっちり働いてもらわなきゃ困るよ!」
「ええー?」
アルトゥールは不満げに口を尖らせる。
その様子に、周囲から笑いが上がった。
「もう許してやれよ店長」
「そうだそうだ。元はと言えばお嬢さんが食った分を払えなかった甲斐性なしのせいだろ」
「じゃあ、残りの分をお前らが払え」
店主が言うと、途端に店内は静まり返る。その日の飲み代を稼ぐために働いているようなものである彼らには、他人の飲食費を肩代わりするような余裕はないのだ。
アルトゥールは口を尖らせた。
(これじゃスピーゲルを探しに行けませんわ……)
せっかくお腹が満たされ歩く元気を取り戻したというのに、本末転倒である。
「お嬢さん」
麦酒を飲んで顔を赤くした男が、アルトゥールに声をかけてきた。
「あんた本当に美人だなあ。無愛想だけど、そこが『笑わず姫』みたいでいいねぇ」
アルトゥールはギクリと身を固くした。
周りの男達も、口々に言う。
「確かに。『笑わず姫』みたいだな」
「『笑わず姫』?何だそりゃ」
「知らねえのか?国王の一人娘だよ。絶世の美女だけれど、絶対に笑わないってお姫様さ」
話を聞いていた店主が、口を挟んだ。
「そういや王都からきた商人が言ってたぞ。『笑わず姫』が死んだってな。魔族にやられたらしい」
「何?」
「あれか?例の聖騎士団の関係者が殺されてるって……あれと同じか?」
「見るも無惨で……まともに死体が残ってないってやつだろ?」
男達は酒に酔った顔を曇らせた。
「嫌だねえ。物騒で」
「魔族なんざ、早く捕まえて火炙りにしちまえばいいのさ」
「聖騎士団もなさけねえ」
そして麦酒をあおる客達を眺めて、アルトゥールは奇妙な違和感を抱いた。
(……そういえば)
スピーゲルが殺した聖騎士団の関係者は、皆まともに死体が残っていなかったという噂だ。あたりは血だらけで、肉片が飛び散り、落ちている遺留品からしか身元が特定できないのだ、と。
エラの死体も、同じように無惨な状態で見つかったと聞いた。
(……でも)
アルトゥールが見たエラの死に様は、まるで眠るような様子だった。
一滴の血も流れず、一筋の切り傷も苦しむ様子すらなく彼女は絶命した。
それなのに、何故見つかった死体は目を背けたくなるほどに酷いものだったのだろう。
(……わざと……傷つけた?)
死んだ後に、わざと死体を傷つけたとしか思えない。
けれど、何故そんなことをする必要があるのだ。
憎しみを示すためだろうか。
それとも、他に何かしらの意図があって……。
「見つけましたよ」
「……え?」
アルトゥールが顔を上げると、そこには煤色の外套を頭からすっぽりかぶったスピーゲルが立っていた。
外套の奥で、赤い目が鈍く光る。
「うまく逃げたつもりかもしれませんが、そうはいきませ……」
「スピーゲルー!!」
スピーゲルの文句を半ば聞くことなく、アルトゥールは持っていた皿をスープごと放り出し彼の胸に体当たりするように抱きついた。
「ぎゃ――!!あっつ――!!」
放り出した牛肉のスープを頭から浴びた客が絶叫する。
けれどアルトゥールはそれにはかまわず、スピーゲルを見上げた。
「どこに行っていたんですの!?探しましたのよ!?」
「それは僕の台詞です!!」
その様子を見ていた店の客達が、指笛を鳴らして二人を囃し立てる。
「おいおい!イチャつくんじゃねえよ!」
「夫婦喧嘩はよそでやんな」
「ああ!俺も嫁さん欲しいっ!!」
どっ、と沸く周囲に、スピーゲルは慌ててアルトゥールを押し離す。
「ふ、夫婦って……ち、違います!!そんなんじゃない!!」
「何だ?まだ結婚してないのか?」
尋ねてくる店主に、スピーゲルは全力で抗議する。
「恋人でもありません!!」
「まぁ、どっちでもいい。とにかく、このお嬢さんが食った分のお代を払ってくれ」
スピーゲルが首を傾げた。
「お代?」
手を差し出すことで支払いを催促しながら、店主はスピーゲルに告げた。
「一皿銀貨十五枚を二十皿。しめて銀貨三袋だ」
「…………っ姫――!!どんだけ食べたんですか―――!?」
勢いよく振り返ったスピーゲルから、アルトゥールはさりげなく目をそらした。
その後、スピーゲルは財布から金貨を一枚取り出して店主に渡した。
アルトゥールにはよく分からないがそれは大変な大金だったらしい。店内がどよめく中、アルトゥールとスピーゲルは急いで店を出て、元いた橋のたもとに落ち着いた。
「……つまり、あなたは見ず知らずの男について行って上手いこと奢らせようとしたわけですね?」
腕を組むスピーゲルは、怒っているというより酷く疲れているようだった。
彼と向かい合い、アルトゥールは悪びれずに言い放つ。
「お酒に付き合えと言われたんですもの」
だからアルトゥールはあの若者二人が酒を飲む隣で食事を楽しんだまでだ。
けれど、スピーゲルはアルトゥールの言い訳を渋い顔で両断した。
「あなたがやろうとしたのは地味な詐偽です。そもそも見ず知らずの相手にのこのこついていって何かあったらどうするんですか」
「……だって、お腹がすいていたんですもの。ねえ?ジギス」
アルトゥールが同意を求めると、肩にのっていたジギスは慌てて狸寝入りを始める。あまりにも分かりやすい誤魔化しに、アルトゥールは剣呑に目を細めた。
「裏切り者」
ジギスだって一皿分はゆうに食べているくせに。
「まったく……」
スピーゲルは項垂れるように俯いた。
「こっちは逃げられたと思って焦って探し回ったというのに……当の本人は呑気に大量の鶏肉を頬張っていたなんて……」
「え?」
アルトゥールは瞬いた。
「逃げられたって……わたくしに?どうしてそんなふうに思ったんですの?」
逃げるはずがないではないか。
スピーゲルに殺されてやる約束を違えるつもりはないし、そもそも逃げたところでどこにも行くところがない。
「どうして、て……」
スピーゲルは、気まずそうに言葉を切る。
「……僕は、あなたを殺そうとしているんですよ?」
「知っていますわ。そういう約束ですものね」
アルトゥールがコクリと頭を下げると、スピーゲルは何故か途方に暮れたように橋の手摺に寄りかかる。
「……あなたは、死ぬのが怖くないんですか?普通、殺されると分かっていれば逃げるものです。足掻くものです。それなのにあなたは……」
深く、彼は嘆息した。
「あなたは……やることなすこと『世間知らず』の枠を逸脱しすぎですよ。殺されると分かっているのに逃げないし、顔を隠せと言えば頭から籠をかぶるし、やり残したことはないかと訊けば『キス』がしたいなんて突拍子もないことを言いだすし……もう、わけがわからない……」
「……」
アルトゥールは肩を竦めた。
自分としては一貫して行動しているつもりだったが、改めてスピーゲルの口から聞いてみると、確かに我ながらぶっ飛んだ行動を連発しているような気もする。
アルトゥールの数々の自由すぎる行動に振り回され、スピーゲルはすっかり疲弊しているようだ。
(せめて……)
死ぬ前に何故キスがしたいのか、それくらいはスピーゲルにきちんと説明したほうがいいかもしれない。
スピーゲルに面倒をかけている自覚はあるし、今後もかけるであろうことは目に見えている、それならば自分がどういうつもりで行動しているのかくらいは、明確に言葉で示す努力をするのが誠意というものだろう。
「えっと……」
アルトゥールは歯切れ悪く口を開いたが、いざとなるとなかなか言葉が出てこない。
それは仕方がないことだった。それまでの人生で、アルトゥールには自分の考えを述べる機会など滅多になかったからだ。
横暴な父親の前では自分の意見など口にしようものなら横殴りにされたし、塔に半軟禁状態だった七年はまともに人と話す機会にも恵まれなかった。
だから、何から話せばいいやらさっぱりわからない。
「……『キスがしたい』というのは……その……子供の頃」
考え考え、アルトゥールは言葉をひねり出す。
「子供の頃……部屋から見たんですわ。下女が雪の中で恋人とキスをするのを」
スピーゲルが、橋に寄りかかりながらも少し頭をもたげた。無言で先を促され、アルトゥールは昔話を続ける。
「とても美しくて、夢のような光景でしたの。それで……」
アルトゥールは両手の指を、そこで言葉を捏ねるように絡ませた。
「そこに、あるように見えたんですわ」
スピーゲルが微かに首を傾げる。彼がどんな表情をしているかは、外套のフードに隠れてアルトゥールには見えなかった。
「……あるって……何がです?」
アルトゥールは伏し目がちだった目を上げて、スピーゲルを見た。
「わたくしが欲しいもの」
「欲しいもの?」
「それは目には見えないんですわ。でも、あの日……城から下女とその恋人がキスをしたとき。見えないはずのものが見えた気がしましたの」
アルトゥールはスピーゲルから目をそらすと、橋の手摺に手をやり、風に波打つ川面を見下ろした。そこに過去が――――降りしきる雪の中の恋人達が見えるかのように、アルトゥールは目を細める。
「それは、確かにそこにあって……」
あれから何年もたっているのに、あの光景は鮮明にアルトゥールの瞼に焼き付いている。
抱き締めあい、唇を寄せる恋人達。
後から後から降り積もる雪も、寂しさも、悲しみも、凍土ですら溶かしてしまいそうなほどの熱量。
その熱を何と呼べばいいのか、アルトゥールは今もしかとは分からない。
『愛』と呼ぶのか『恋』と呼ぶのか、『絆』か、『繋がり』か。どの言葉も相応しいようで、何かが足りない気もする。
どこからか桃色の小さな花弁が風に吹かれてやってきた。花弁は川面に浮かび、緩やかな流れに身を任せて遠ざかっていく。
それを、アルトゥールはぼんやりと見送った。
「……死ぬのが、怖くないわけではありませんの。死んだことはないけれど、死ぬということは、きっと、とても寂しくて寒くて……」
雪のように白く冷たい寝台に、埋もれるように横たわっていた母を思い出す。
王妃という身分にありながら、母の臨終の場には夫である国王はおろか、宰相も、大臣の一人すらも駆けつけなかった。
寂しい最後。
残されるアルトゥールを心配し、泣きながら逝った母。
彼女の死後、涙で濡れたその頬を浄めようと触れたアルトゥールは、酷く驚いた。血の通わなくなった母の頬は、雪山で凍えたように冷たかったのだ。
その冷たさを思い出し、アルトゥールは身震いした。
死ぬのが怖くないわけでは決してない。むしろ、何より死を恐れている自分に、アルトゥールは気づいていた。
けれど恐れたところで、それはいつか必ずやってくるのだ。
季節が巡るように、人が老いるように、絶対に避けられない理。
「……でも、それがあれば」
アルトゥールはスピーゲルを見た。
「それさえあれば、きっと死ぬ時も寂しくないだろうなと思いますの。凍えずにすむのではないかと、そう思うんですの」
「……」
スピーゲルは、じっとアルトゥールの話を聞いている。
「……だから、それが欲しいんですの。どうすれば手にはいるのかはわからないけれど、でもキスをしたら……もしかしたら」
上手く説明できている自信がない。
それでもスピーゲルに分かって欲しくて、アルトゥールは言葉を重ねた。
「……多分」
それまで黙っていたスピーゲルが、口を開く。
「キスをしたところで、あなたが欲しいものは手にはいらないと思いますよ」
まるで突き放すようなスピーゲルの言葉に、アルトゥールは軽く瞠目した。
微風が通り抜け、アルトゥールの黒髪とスピーゲルの外套が揺れる。
春の風は、まだ少し冷たい。
「……そう、ですわね」
項垂れるようにアルトゥールは瞼を伏せた。
「……きっと……そんなに簡単に手にはいるものじゃありませんわね……」
わかっているのだ。それを手にいれるのは、とても難しいことなのだと。
どんなに沢山の金貨を積んでも、例え命を捨てたとしても、手にはいるとは限らない。
虹を手で掴もうとしているようなものなのかもしれない、アルトゥールは思った。
血がつながった父親にすら愛されることができなかった自分には、所詮それは手に入らないものなのだろう。
「でも」
スピーゲルの呟きに、アルトゥールは瞼を上げた。
穏やかな微風にスピーゲルの重い外套が揺れ、彼が滲むように微かに笑んでいるのが垣間見えた。
「それでも、あなたが試してみたいと思うなら……手伝います」
「え?」
戸惑うアルトゥールに一歩、スピーゲルが足を踏み出した。
「キスの相手。探しましょう。一緒に」
「……」
胸の奥が、痺れるように震えた。
不思議だ。
目の前にいるのは遠からずアルトゥールから命を奪うだろう相手なのに、アルトゥールの言葉に耳を傾けてくれた。
今まで母以外にこんなに真摯にアルトゥールの話を聞いてくれた人がいただろうか。
誰もがアルトゥールの美しい顔を見て息を飲み、そして笑わないアルトゥールに臆して遠ざかっていったのに。
「姫?」
どうかしたのか、と尋ねた気なスピーゲルに、アルトゥールは小さく首を振って応える。
「何でも……ありませんわ」
そして、スピーゲルに向けて一歩を踏み出した。
「改めて……よろしくですわ。スピーゲル」
「はい」
微笑んだスピーゲルの目は、太陽の光を浴びて琥珀色をしていた。
***
「スピーゲル!あれ!」
アルトゥールの声に、雑踏のなかでスピーゲルは立ち止まった。
「どうしたんです?」
「あれ!あれが食べたいですわ!」
肩越しに見たアルトゥールは、瞬きすらせずに一点を注視している。
その視線をたどったスピーゲルは、小さな商店を見つけた。
その店先には、女子供が好む色とりどりの鮮やかな飴が並んでいる。
「……飴、ですか?」
「林檎飴!あれが欲しいですわ!食べたいですわ!スピーゲルー!」
アルトゥールはその場で軽く跳び跳ねて、スピーゲルの腕を引っぱる。
(……この人は……)
平気でスピーゲルに触れる。
スピーゲルに触れるのに、何の躊躇いもない。
魔族相手に怖いとは思わないのだろうか。穢らわしいと思わないのだろうか。
「……」
袖を引く小さな手を、スピーゲルは何とはなしに見下ろした。
小さな手だ。
目も鼻も口も耳も腕も足も、アルトゥールを構成するそれらは何もかもが作り物のように美しく整っている。それなのに、小さな手だけは『普通』だった。
その歪さが、アルトゥールが作り物ではなく生身の人間である証のような気がして、スピーゲルには好ましく思えた。
「スピーゲル?」
見上げてくる青い瞳に、スピーゲルの心臓が刹那飛び上がる。
「え?あ、わ、分かりました。林檎飴ですね」
スピーゲルはアルトゥールから逃げるように足早に商店に向かう。
「これを下さい」
林檎飴を指差して言うと、店番の娘は「銀貨五枚」と金額を提示した。言われた通りに銀貨を払い、林檎飴を受けとる。
拳より一廻り小さな林檎飴は、けれど見た目に反してズシリと重かった。
「どうぞ」
両手の指を祈るように絡めて待っていたアルトゥールに、それを差し出す。
アルトゥールは、すぐには受け取らなかった。
「……綺麗」
そう言って、キラキラと目を輝かせて林檎飴を眺める。
その様子に、スピーゲルは思わず吹き出しそうになってしまった。
(……この人……)
何だか、まるで子供だ。
興味があるものに、躊躇なく突進する。
「こんな綺麗なもの、初めて見ますわ」
うっとりと、アルトゥールは林檎飴を眺める。
スピーゲルは笑いを噛み殺しながら頷いた。
「まぁ、王城にはないでしょうね」
「食べるのが勿体ないですわ」
「食べない方が勿体ないので食べて下さい」
スピーゲルは林檎飴を左右に揺らすことで、アルトゥールにそれを受けとるよう促した。
「……」
アルトゥールは恐る恐るという様子で両手を伸ばし、林檎飴が刺さった細い棒に触り、握り締める。
そしてそのまま、頭上に林檎飴を掲げた。
「この艶やかな光沢……鮮やかな紅色……まさに果物の宝石ですわ!」
伝説の聖杯でも仰ぐような大仰な身振りに、周囲の人々がアルトゥールを横目に囁き合う。
スピーゲルは狼狽えた。彼女も自分も、目立つわけにはいかない身の上だ。
「い、いいから!早く食べて下さい!」
アルトゥールの手首を掴むと、スピーゲルは半ば無理矢理、林檎飴をアルトゥールの口に押し入れる。
「……っ!?」
アルトゥールが目を見張る。
呼吸が苦しいのかと、スピーゲルは慌てて林檎飴をアルトゥールの口から引っ張り出した。
「ひ、姫?すいません、大丈夫で……」
アルトゥールは瞬きさえしない。紅い唇が震えている。
「……姫?」
「……美味しい」
「……え?」
アルトゥールは右手を頬にあてて目を潤ませた。
「心臓が止まるほど美味しいですわ……!」
目は口ほどに物を言う、とは良く言ったものだ。
アルトゥールの唇にも頬にも目元にも、欠片も感情は反映されないのに、その青い目からは溢れるほどに様々な感情が見てとれる―――ようになったのは、共有する時間が長くなってきたからなのだろうか。それとも、スピーゲルの視力の方が何かしら変化したのだろうか。
とにかく、今のスピーゲルにはアルトゥールが『無表情』には見えなかった。
「美味しいですわー」
目を煌めかせて林檎飴を味わうアルトゥールを見ているうちに、鋼の糸で編んだはずの警戒網はまるでしつけ糸のように寸断されていく。
それを感じつつも、スピーゲルにはどうすることもできない。
「おかえりなさいませ」
夕刻。
家に戻ったスピーゲルとアルトゥールを、ベーゼンが笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」
「ただいまですわ―――――カボチャパイ!!」
戸口をくぐるなり、アルトゥールはテーブルに並べられたカボチャパイを見つけて外套を脱ぐ手間も惜しんで飛び付いた。
「ベーゼンのカボチャパイですわー!」
その様子に、スピーゲルはクスリと笑う。あれだけ食べ歩いたというのに、彼女の食欲は底無しらしい。
「やっぱひベーゼンのカボチャパひは絶品でふわね!」
アルトゥールは早くも椅子に陣取りカボチャパイを頬張っている。
呆れたように笑いながら、ベーゼンは煤色の外套を脱いだ。
「それで?如何でした?」
カボチャパイに夢中なアルトゥールに聞こえないように、密やかに尋ねてきたベーゼンに、スピーゲルは小さく首を振る。
「はぐれて、結局今日はキスの相手は探せなかった」
その答えに、ベーゼンが目を丸くした。
「……本当にキスの相手を探しに行ったのですか?私はてっきり姫君様の動向をさぐる口実なのだとばかり……」
「……」
スピーゲルは黙した。
そう言えばベーゼンにはアルトゥールに情を移すなやら、アルトゥールがあの人の回し者かもしれないやら、色々と言った気がする。
だからベーゼンは、スピーゲルがアルトゥールを街に連れ出したのを、アルトゥールの動向を探るためだと考えたのだろう。彼女がそう考えたのも無理からぬことだ。
「……えっと」
スピーゲルは言葉を濁した。
アルトゥールに対する見解を改めたことをベーゼンに伝えなければならないが、どう切り出したものか。
言葉選びに窮したスピーゲルは、手で前髪をかき上げた。
「……ベーゼンが言ってたことが、わかった」
「私が言ったこと?」
怪訝に眉を寄せるベーゼンの顔を、スピーゲルは見ることが出来ない。
何故か妙に気まずかった。
「ちゃんと見ればわかる。彼女は……その……いい娘さん、だ」
アルトゥールは思っていることをねじ曲げて、都合がいいことを口で並べられるような器用なことが出来る人種ではない。
人を欺いたり傷つけたりすることも好まないだろう。
はっきり言って、間謀の真似事など彼女には無理な芸当だ。
アルトゥールはほぼ間違いなくあの人とは無関係だと、スピーゲルは判断した。
「……」
ベーゼンは何も言わない。
それが何故なのか分からず、スピーゲルはおずおずと目線をベーゼンに戻す。
すると彼女の顔には、得意気な笑みが浮かんでいた。してやったり、とでも言いたげである。
途端に、スピーゲルは気恥ずかしくてたまらなくなった。
「だ、だからって、完全に信用したわけじゃないから!」
スピーゲルは顔を赤くして必死に弁明したが、ベーゼンはまともにとりあってくれない。
「はいはい。分かっています。言われずとも、スピーゲル様のことならこのベーゼンは何でもお見通しでございますから」
ベーゼンは、何故かひどく嬉しげだ。
「いつ姫君様を奥様とお呼びできるのか、今からその日が楽しみですわ」
鼻唄でも披露しそうなほどに上機嫌なベーゼンの背後で、スピーゲルは表情を硬くした。
「……ベーゼン。妙な冗談はやめてくれ」
「冗談じゃございませんよ?魔法を依頼にくる方や例の村にも年頃のお嬢さんはたくさんいますけれど、あなたの赤い目を怖がらずに真っ直ぐ見つめるのは姫君様だけです」
「……そうだとしても」
首から下げた紐の先を、スピーゲルは手繰り寄せる。
布越しに硬い質感を握り締めた。
「僕には許嫁がいる」
向こうは、そうは思っていないだろうが。
ベーゼンは眉を寄せた。
「……スピーゲル様。アーベル様があなたに許嫁をあてがわれたのは、ご自分の亡き後にあなたが一人になってしまわれることを心配なさったからです。あなたの人生を縛りたかったわけでは……」
「許嫁の件は別としても」
スピーゲルは、小さく笑って見せる。
「魔族の花嫁なんて、姫は不快に思うに決まってる。だから冗談だとしても、姫にそういうことは言わないでくれ」
「ですが……」
ベーゼンは何か反論したそうに口を開いたが、結局目をそらすように俯いた。
「……畏まりました」
「スピーゲル?ベーゼン?何を話してますの?」
カボチャパイを頬張りながら、アルトゥールがこちらを窺う。
スピーゲルは、笑って首を振った。
「何でもありません」
「早くしないと全部食べてしまいますわよ?」
そう言う口元に、カボチャの欠片がくっついていた。スピーゲルは手を伸ばし、指先でそれを拭う。
かすかに触れたアルトゥールの唇は予想外に柔らかくて、スピーゲルの指は痙攣したようにビクリと揺れた。
「……」
「スピーゲル?」
どこかあどけない様子で見上げてくるアルトゥール。
『死ぬのが、怖くないわけではありませんの』
彼女はそう言った。死は、きっと寂しくて寒いのだろうと。
『でも、それがあればきっと死ぬ時も寂しくないだろうなと思いますの。凍えずにすむのではないかと、そう思うんですの』
その言葉に見え隠れする、壮絶なまでの孤独。
何故だろう。アルトゥールは国王の唯一の実子。大切に大切に守られてきたはずだ。孤独など、無縁のはずだ。
けれど確かにアルトゥールが抱えるのは『孤独』だ。
彼女は独りで、寂しくて、だからこそ、そうではない『死』を望んでいる。
その姿はあまりに哀れだった。
(僕は彼女に同情しているんだろうか……?)
だから、あんな約束をしてしまったのだろうか。キスの相手を探すのを手伝う、だなんて。
スピーゲルは肩を竦め、天井を仰いだ。
「……妙なことになっちゃったな」
「……天井がどうかしたんですの?」
アルトゥールが、スピーゲルの視線を追いかけて天井を見上げる。
その様子がおかしくて、スピーゲルは吹き出した。
「何やってんですか」
「天井が妙なのでしょう?」
「さぁさぁ、いつまで立っているんです?スープが温まりましたよ」
ベーゼンがテーブルに置いた器からは、白い湯気が揺れてのぼる。
窓からツヴァイク達が顔を覗かせた。
「俺の新作ギャグきいてくれよ!!」
「傑作よ傑作ー!!」
「……防寒具用意した方がいいよ」
森の奥の林檎畑に囲まれた小さな家で、賑やかな晩餐が始まった。
<幕間「アルトゥール」終了>
次回より第二部です。