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笑わず姫と魔法使いーアルトゥール⑨ー



***



(よりによって……)

スピーゲルは舌打ちしたい気分だった。

前触れもなくやって来たこの初老の男は、スピーゲルが住む家がある荒れ地から森を越えて山を越えた先の街に大きな店をかまえる商人だ。

名前はローマン。数年前から定期的に訪れる『客』だった。

気難しそうな顔つきを裏切ることなく、常に苛々として他者を上から見下ろすローマンは、王都にも店を持ち、貴族の屋敷に出入することもあるらしい、

何かの機会に王女だったアルトゥールの顔を見かけたことがあるかもしれない。

もし彼がアルトゥールの顔を知っていて、そして死んだはずの『笑わず姫』が生きていると知ればまずい。

アルトゥールの頭を抱え込んだ右手に、スピーゲルは力をこめた。

(……冷静に)

下手な反応をして、ただでさえ痛い腹を探られては困る。

小馬鹿にしたように、ローマンは鼻で笑った。

「ふん。大方(おおかた)、魔法の報酬代わりに寄越せとでも言って連れてきたのだろう?これだから魔族は……」

「……」

『これだから』何なのだ。

スピーゲルの一族が、まるで人攫いを平気でやってのける残虐な集団だと決めつけるようなローマンの言いように、スピーゲルは密かに苛立った。

(……いちいち……)

嘲られるごとに腹を立てては、身がもたない。侮られ、蔑まれるのはいつものことだ。

スピーゲルは自らに言い聞かせると、静かに深い呼吸を一つし、怒りを無理矢理捩じ伏せた。

「……彼女は体調が悪いようなので部屋で休ませてきます。少しここでお待ちください」

スピーゲルはアルトゥールの肩に手を回すと、ローマンに背を向けた。無言で歩き、家の戸口をくぐると、扉を静かに閉める。

「あら?どうなさったんです?」

芋の皮を剥いていたベーゼンが、連れだって入ってきたスピーゲルとアルトゥールに首を傾げた。

「ローマンが来た」

スピーゲルが端的に言うと、ベーゼンが眉をしかめた。

「……まぁ」

いつも尊大で居丈高なローマンのことを、ベーゼンは良く思っていない。

スピーゲルは俯くアルトゥールを覗き込むように、少し屈んだ。

「姫君。すみませんが、彼が帰るまでしばらく部屋(うえ)にいてください」

「……」

「……姫君?」

返事がないことを不思議に思ったスピーゲルは、アルトゥールの正面に回って、改めて顔を覗き込む。

(……あれ?)

いつもと同じように筋肉が固定されたアルトゥールの頬が、何だか少し赤いように見える。

本当に熱でもあるかのようだ。

「大丈夫ですか?何か飲み物でも……」

「おい!!いつまで客を待たせるんだ!!」

ローマンが乱暴に戸口を叩いた。

ベーゼンが顔をしかめ、スピーゲルも小さく溜め息を吐いた。

「とにかく、部屋にいてください」

アルトゥールの背を押して少し強引に階段に追いやる。

「早めに帰しますから、大人しくしてて下さい」

「……わかりましたわ」

アルトゥールは素直に頷き、階段を登っていった。彼女が部屋の扉を閉めたのを確認して、スピーゲルは振り返る。

すると、ベーゼンが意味ありげな目で此方をみていた。

「……何?」

「まるで初々しい恋人同士みたいですこと」

「馬鹿言わないでくれ」

戸口を開けてローマンを招き入れるために、スピーゲルはベーゼンの前を横切り通りすぎた。




***




ローマンに急かされたスピーゲルに、アルトゥールは二階へ追いやられた。

「早めに帰しますから、大人しくしてて下さい」

「……わかりましたわ」

スピーゲルを困らせるつもりはない。

アルトゥールは素直に頷くと莢を剥いた豆が入った籠を抱えたまま、階段を上がった。

部屋にはいり扉を閉めると、ややあってスピーゲルがローマンを招き入れる物音がした。

アルトゥールは莢を剥いた豆が入った籠を抱えて、窓辺に置いた腰掛けに腰を下ろした。

(……何だか心臓が……)

バクバクと、いまだに大騒ぎをしている。

何故スピーゲルに抱えられたり、手を繋いだりすると、これほど心臓が騒ぎ出すのだろう。

「お姫様?どうした?」

鎧戸が開け放たれた窓から、林檎の木々が室内を覗き込む。

「ツヴァイク、ライス、アスト」

おかしい、とアルトゥールは思った。ここは二階。どうやって彼らは窓から顔を覗かせているのだろう。

アルトゥールは窓に寄ると、林檎の木々の根本(あしもと)を窺った。

(……なるほどですわ)

薪置き場の屋根に、彼らはよじ登ったらしい。

「どこに行ってましたの?」

アルトゥールが豆の莢と格闘していたときは近くにいたはずなのに、いつの間にか彼らの姿は見えなくなっていたのだ。

「気をきかせたんだよ」

ニヤつきながら応えたツヴァイクに、アルトゥールは首を傾げる。

「何に気をきかせたんですの?」

「……ダメだ。このお姫様とあの草食系を二人っきりにしたとこで何も進展しねえ」

「諦めちゃダメ。作戦練るわよ」

ツヴァイクとライスは(かお)を寄せ、ヒソヒソと何かを相談している。アストだけは我関せずな様子だ。

いったい彼らは何に気をきかせ、何の進展を狙っているのだろう。アルトゥールにはさっぱりわからない。

「ところで」

アルトゥールは出窓に豆の籠を置いた。

「ツヴァイク達はあのお客を知ってますの?」

「ローマンのことか?」

「馴染みの客よ」

「……嫌な奴」

ツヴァイクもライスもアストも、一様に顔をしかめた。

「俺らを見ると『呪いの木』とか『化物』とか、うるせえんだ」

「お金を出せば何でも許されるとおもってる偉そうな男よ」

「……スピーゲルを苛める」

確かに、随分と横柄な態度の客だった。

スピーゲルがアルトゥールを攫ったと決めてかかっていたし、『魔族が……』とスピーゲルの一族を露骨に侮蔑していた。

「……お金って……スピーゲルは何か売ってますの?」

「「「魔法」」」

三本が口を揃えた。

つまり、お金と引き換えにスピーゲルは客が希望する魔法をかけてやるようだ。

「ここらへんで面倒な病気にかかった奴はスピーゲルを頼ってくるんだ!」

「得意なのは医療魔法だけど基本的に何でも出来るのよスピーゲルは!」

「……スピーゲル、優秀」

ツヴァイク達はどこか自慢げだ。

アルトゥールは腰掛けを引っ張り出すと、窓辺に置いてそこへ座った。

「スピーゲルがすごいのはわかりましたわ。でも……客が来るということは騎士団に居場所がばれかねないのではなくて?」

魔族を見つけたら騎士団に通報しなければならない義務がこの国にはある。

ツヴァイクは()を揺らす。

「誰も通報しねえんだよ。お金渡して魔法をかけてもらってるんだからな」

「後ろ暗いのね。きっと」

「……人間、都合いい」

アストの毒舌に、アルトゥールも全面的に同意した。

『穢らわしい』とスピーゲルの一族を蔑んでおきながら、その魔法だけは利用するなんて。

それだけ切羽詰まった人がスピーゲルのもとには来るということだろうか。

「ローマンは……何の魔法を頼みに来たのかしら」

「知りたいか?」

ツヴァイクが悪戯っぽく口の片端を上げる。ライスとアストも、にやりと大きな体を揺らした。

「知ってますの?」

アルトゥールが訪ねると、林檎の木々は満面に笑みを浮かべて窓枠いっぱいに詰め寄ってきた。

「実はなあ~!」

「待って待って!私に言わせて!」

「いやいやダメだ!俺が…」

「私が……」

「……発毛の魔法」

争い始めたツヴァイクとライスを尻目に、アストが淡々と答えを発表した。

「……あの人、頭が寂しくてスピーゲルに発毛の魔法をかけてもらってるんだ」

一瞬の沈黙の後、ライスとツヴァイクが、アストの(からだ)に枝をからませ締め上げる。

「いいとこ持っていきやがってー!」

「抜け駆けなんて卑怯よー!」

「……く、苦しい……」

アルトゥールは目を瞬かせた。

「わざわざ……髪を生やしにくるんですの?」

こんなことを言ってはいけないかもしれないが、こんな森の奥深くに来るほどのことなのだろうか。声から察するに薄毛を気に病むような繊細な人物とは思えなかったのだが。

ツヴァイクが窓枠に頬杖をつく。

「アイツ商人なんだよ。自分の店で売ってる発毛薬の広告塔を自分でしてるらしいぜ」

「こんなに生えますよ、てね。随分とそれで荒稼ぎしてるらしいわー」

「……欲張り」

林檎の木々が頷きあう。

アルトゥールは、少し戸惑いながらも疑問点を指摘した。

「それは詐欺と言うのではなくて?」

「あるいはペテンな」

「または欺瞞ね」

「……うそつきとか」

その時。

バンッ、と机を叩く音と怒鳴り声が響いた。

『高い金を払ってるんだ!言われたとうりにやれ!』

ローマンのその言葉に、林檎の木々はうんざりといった様子でため息を落とす。

「偉っそー」

「やだやだ」

「……むかつく」

アルトゥールは何も言わずに、耳をすました。

鎧戸が開いているので、階下の声がよく聞こえる。

『では手を』

静かな、落ち着いたスピーゲルの声。

どうやら、これから魔法をかけるようだ。

『ローマン』

『さっさとしろ!』

その態度に、アルトゥールは眉間に皺を寄せた。

どうして、こうまで他者を見下すことが出来るのだろう。

(……礼儀知らずにもほどがありますわ)

アルトゥールは苛立ち、唇を噛み締める。

スピーゲルが『魔族』だから、こうまで彼を蔑ろにするのだろうか。

にもかかわらず魔法だけは利用しようとするなんて、本当に都合が良すぎる。

アルトゥールの胸の奥で苛立ちは沸々と煮えたぎり、明確な怒りへと形を変えつつあった。

スピーゲルの静かな詠唱がはじまり、階下の窓から光が漏れ見える。けれどその光はすぐに消え、スピーゲルの声も止んだ。

途端に、ローマンの不機嫌な声がまた聞こえる。

『ああ、まったく!いちいち手を触らんといかんとは!!汚らわしい!』

アルトゥールは腰掛けから勢いよく立ち上がった。

(『汚らわしい』って……!)

魔法をかけてくれと頼んでおいて、よくそんなことが言えたものだ。

階下に怒鳴りこんでやりたい。

けれどスピーゲル本人が何も言わないものを、アルトゥールがしゃしゃりでて事を荒立てるのは如何なものだろう。

「……っ」

体が熱い。怒りで、身が焦げそうだ。

けれど我慢しなければ。手を強く握り締めたアルトゥールの耳に、水音が届いた。

(……手を、洗ってる?)

何故こんな時に手を洗うのだろう。

(……スピーゲルと……手を繋いだから?)

瞬間、怒りが振り切れた。

アルトゥールは、着衣の裾をたくし上げる。足が膝まで丸見えだが、そんなことはどうだっていい。

「お、おい!どうした!?」

「お姫様!?」

「……何するの?」

ぎょっとする林檎の木々に答えず、アルトゥールは籠を掴むと中にはいっていた豆を着衣の裾の襞に無造作に移す。そして、空になった籠を迷わず頭にかぶった。

「何してんだ!?」

「ちょっと落ち着いて!」

「……お姫様!」

止める声に耳をかさず、アルトゥールは部屋の扉を叩きつけるように開け放つ。

階下にいたスピーゲルとローマンがアルトゥールを振り仰いだ。

籠を頭にかぶり、衣をたくしあげて膝まで丸見えのアルトゥールのとんでもない姿に、スピーゲルは切れ長の目を満月のように真ん丸にした。

「ひ、姫……?」

「な、何だ?珍妙ななりをしおって……」

さすがのローマンも気圧され、戸惑い気味だ。

アルトゥールは階段を駆け降り、ローマンの前に立ちはだかった。

「スピーゲルを侮辱することは許しませんわ!」

怒鳴っただけでは、当然だが気がすまない。

「さっさと出ておゆきなさいですわ!!この無礼者!!」

アルトゥールは豆を掴んで、思いっきりローマンに投げつけた。

「う、うわ!?」

予想もしていなかっただろう出来事にローマンは強かに尻餅をつく。

アルトゥールは更に豆を投げつけた。

「出ておゆきなさいですわ!」

「い、痛……っ!や、やめろ!おい!やめさせろ!」

ローマンは脇にいたスピーゲルを見上げて喚いた。

唖然としていたスピーゲルは途端に我に返り、慌ててアルトゥールの腕を掴む。

「ひ、姫!ちょ、ちょっと落ち着……」

「落ち着いてなんかいられませんわ!どうしてあなたは怒らないんですの!?」

アルトゥールは籠ごしにスピーゲルを見上げた。

「あんなに侮られて!どうしてそれに甘んじるんですの!?」

スピーゲルは、むしろアルトゥールの勢いに戸惑っているようだった。

「ど、どうして……って、むしろどうしてあなたがそんなに怒ってるんです……?」

「それは……」

その続きを己の中に見つけることが叶わず、アルトゥールは黙りこんだ。

「それ、は……」

アルトゥールが言い澱むうちに、ローマンがよろめきながらも立ち上がる。

「この……っ」

彼は目を吊り上げて怒鳴り散らした。

「礼儀も知らん愚かな小娘め!!」

落雷のようなその剣幕に、アルトゥールは反射的に身を強ばらせる。

炎に炙られ赤く染まった鉄が、冷水に放りこまれて瞬く間にその熱を失い堅くなるように、アルトゥールの勢いは急激に失速した。

ローマンの激昂する姿が、父親のそれに見える。

まるでそこに父親がいるような錯覚に、体に、心に、深く刻み込まれた恐怖が、一瞬にしてアルトゥールを支配した。

ローマンはアルトゥールを指差し、詰め寄った。

「頭がおかしいのではないか!?どうせ穀潰しの厄介者で、親に売られてここにきたのだろう!?違うか!?」

ローマンが言い放った言葉に、父親の声が重なって聞こえた。

『恥さらし』『傲慢で高飛車な娘』『出来損ない』ーーー……。

言葉は刃のようにアルトゥールの心に突き刺さる。

(……ダメですわ)

何も感じてはいけない。

悲しみも怒りも痛みも、すべて知らんぷりしなければ。

形勢逆転とばかりに、ローマンは高笑いした。

「ははは!図星だな!?やっぱりな!!お前のような生意気な娘、魔族の小間使いにでもなるがいい!!あははは!」

さも愉快だと笑うローマンに、アルトゥールは身を縮ませる。

先程のように豆を投げつけてやりたかったが、手は小さく震えて言うことをきかない。

「はははは!」

ローマンは、まだアルトゥールを指差して笑っている。

(……何か……)

せめて何か言い返したくて、アルトゥールは目をさ迷わせて言葉を探した。

確かにアルトゥールは、父親に厄介者扱いされていた。愛想笑いの一つも出来ず、高額な結納金と引き換えに売られるように嫁ぐ予定だった。

けれど、この礼儀知らずな男に笑われる筋合いはないし、この男はアルトゥールを罵るようでいてスピーゲルを……スピーゲルの一族を罵っている。

(何でもいい……)

何か一言でも言い返したい。言い返さなければならない。それなのに、言葉が見つからない。

アルトゥールは口元を押さえた。

(……苦しい)

まるで鉛が詰まったように喉の奥が苦しいのだ。

そっと、優しい手が肩に置かれ、アルトゥールは振り仰いだ。

「……っスピー……ゲル」

「……」

スピーゲルはアルトゥールを自らの背後に導くと、無言でローマンに対峙した。

広い背中に匿われローマンの不躾な視線から逃れることが出来たアルトゥールは安堵で足から崩れ落ちてしまいそうだった。

そうならないように、スピーゲルの煤色の上衣にしがみつく。

瞬間、スピーゲルの背中がかすかに強張った。

(……振り払われる?)

けれど、アルトゥールには彼しかすがるものがない。

アルトゥールは祈るように、指先に力をこめる。

結局、スピーゲルは何も言わないことで、アルトゥールがそうしていることを許してくれた。

「……僕のことを何と言おうがかまいませんが、彼女を侮辱するのはやめてください」

スピーゲルの落ち着いた静かな声に、アルトゥールはそろりと顔を上げた。

藤の籠の網目ごしに、スピーゲルの横顔が見える。赤い目が、ローマンを静かに見据えていた。

「何?」

ローマンが怒りを顕に歯軋りした。

「わしを侮辱したのはその娘だぞ!!まずその娘の無礼を謝るのが筋というものだろう!?」

「彼女は謝るようなことは何もしていません」

「貴様……っ」

スピーゲルの淡々とした口調に怒りを煽られたローマンは、顔を真っ赤にさせている。

「そんな偉そうなことでいいのか!?もしわしがここのことを騎士団に密告すれば……」

不意に、スピーゲルが屈みこむ。

スピーゲルにしがみついていたアルトゥールも、引っ張られるようにしゃがみこんだ。

「スピーゲル?何を……」

彼が何をしているのか分からず、アルトゥールは戸惑った。スピーゲルは床の敷板をずらし、あらわれた穴に手を突っ込む。

「……お返しします」

スピーゲルは、穴から取り出した小さな袋をローマンに向かって放り投げた。弧を描いてローマンの足元に落ちた袋は、ジャランと一度鳴ってから、完全に沈黙する。

「な、何だ?」

ローマンが、少し臆したように半歩下がった。

「これも」

スピーゲルは、また穴から袋を出してローマンに投げた。

「これも」

そして、また袋を投げる。

「これもこれも」

ローマンに向かって投げられた幾つもの袋は、積み重なりやがて床の上に小山をつくった。そのうちの一袋の口を括っていた紐が解けて、中身が床にチャリン、と落ちる。

(……金貨?)

王城で育ったアルトゥールには金貨の価値がよくわからない。

けれどかなりの量だ。それなりの額だということは何となくわかる。

「これも、お返しします」

スピーゲルは椅子の横に落ちていた袋を最後に手に取り、それもローマンの前に放り投げた。

「貴方にこれまで頂いた代金です。毎回随分とはりこんでくださったのは、口止め料も込みだったのでしょう?」

スピーゲルは立ち上がると、一歩ローマンに近付いた。すると、ローマンが怯えたように一歩退く。

「な、何を……」

「貴方の店の発毛薬は随分と売れ行きがいいそうですね?そりゃあ、皆貴方の髪を見れば効果があると信じるでしょう。数年前まではまさに不毛地帯だったのに、今では大豊作」

ぶはっ、と吹き出す声が聞こえた方を見れば、開いた窓の向こうで林檎の木々が腹を抱えて苦しんでいた。

「ふ、不毛地帯……!ヒヒヒ」

「あはっ!お、お腹痛い、フフ」

「……ププッ」

ローマンは顔を真っ赤にして震えている。

「き、貴様……っ!」

「もし貴方の髪が、貴方が売っている発毛薬を使った結果ではないと知ったらどうなるでしょうね」

静かだが、どこか挑発するようなスピーゲルの言動に、アルトゥールは気がついた。

(……もしかして)

実は、彼は怒っているのかもしれない。しかも、かなり。

けれどローマンがそんなことに気がつくはずもない。スピーゲルの言葉にローマンは怒鳴り声をあげて詰め寄ってきた。

「卑しい魔族の分際でわしを脅すつもりか!?」

「僕が今まで黙っていたのは……」

スピーゲルの声が、ひやりと冷気を帯びる。

「わざわざ街まで出掛けて行って、貴方の髪が生えたのは発毛薬のおかげではなく魔法によるもので、一瓶が銀貨一袋もする発毛薬が実は香水草の香りをつけただけのただの井戸水だと言いふらすほど暇ではなかっただけです。お金で丸め込まれたわけじゃない」

怒りで赤かったローマンの顔が、一転して真っ青になった。

「な、何故発毛薬のことを知って……」

「体に害があるものを売っていたならさすがに止めようと一瓶買わせてもらいました」

ローマンが、息を飲む。その頬を流れる汗は、暑いから流れるものではないだろう。

「貴様……っ」

「それから。貴方は騎士団への密告をちらつかせれば僕の優位に立てると勘違いしているようですが……」

スピーゲルが、また一歩を踏み込むと、頭の後ろで纏めてあるスピーゲルの白銀髪がさらりと揺れた。

「貴方の口を塞ぐくらい、僕には造作もないことです」

スピーゲルの顔は涼しげだった。あまりに涼しげで、見ているこちらが寒気を感じるほどだ。

「ひいっ!」

ローマンは腰をぬかしたのか、その場にまた尻餅をつく。

アルトゥールは息を飲んだ。

(ローマンを殺す気ですの?)

ローマンは礼儀知らずで恥知らずだ。けれど死ねばいいと突き放すほど、アルトゥールは非情にはなれなかった。

「……っスピーゲル」

アルトゥールは、スピーゲルの着衣を引っ張った。

スピーゲルは振り向かない。

「……離してもらっていいですか?」

「……」

迷いつつも、アルトゥールはスピーゲルの上衣を握り締めていた手をゆっくり開く。

自由になったスピーゲルは、屈みこむと床に小山になっていた金貨の袋をかき集め、それらを無理矢理ローマンに持たせた。

「……家に帰ったら、命があることを彼女に感謝してください『ローマン』」

そう言うと、スピーゲルはローマンの肩に手を置き、何やら呪文を唱え始めた。

「ま、待て!薬のことは……」

ローマンが焦ったように身を乗り出したが、言い終わらないうちに、その姿は掻き消えた。

「……え?」

まさか、とアルトゥールが懸念すると、スピーゲルが立ち上がる。

「……殺してません。森の外までぶっ飛ばしただけです」

窓の向こうで林檎の木々がケタケタと笑った。

「オッサン最後の最後まで商売の心配してたぜ」

「さすがにもう来ないでしょうねー」

「……不毛地帯……ププ」

「もっと早くこうすればよろしかったんです」

いつの間にか横にベーゼンが立っていて、アルトゥールはギョッとして身を引いた。

「……ベーゼン?今までどこに……」

「それより、籠」

スピーゲルがアルトゥールに近づいてくると、頭にかぶった籠を持ち上げた。

「何て格好するんですか。びっくりしましたよ」

眉尻を下げたスピーゲルは、もういつもの彼だった。

痛いほどに冷たかった空気は跡形もない。

「顔を隠すには他にやりようがなかったんですわ」

アルトゥールが答えると、スピーゲルは少し怒ったように眉をひそめる。

「大人しくしててくださいって言ったはずです」

「でも、あまりにあの方が無礼なんですもの。黙っていられなかったんですの」

スピーゲルが困ったように眉尻を下げる、

「……だから、どうしてあなたが怒るんですか……」

「どうしてって……」

アルトゥールはスピーゲルの家族でも友人でも恋人ですらない。腹を立てる立場にはないのだが、それでも苛立って仕方がなかった。黙ってはいられなかった。

けれどよく考えてみれば、いらぬお節介だったような気もする。

ローマンにお金を返す結果になってしまったし、『客』というからには商売だったはずだ。商売の邪魔をしてしまったのではないだろうか。

「……その……迷惑、でしたかしら?」

心配になり、おそるおそる窺うアルトゥールに、スピーゲルの赤い目が揺れた。

それから、数回瞬く。

「……いいえ」

精悍な顔立ちが、戸惑いながらも緩やかに綻んだ。

「正直、胸がスッキリしました」

彼が、そんな風に笑ってくれたのは初めてだった。

その穏やかな笑みに、アルトゥールの胸の奥で何かが溶ける。

溶けたそれは、じわじわと体中に広がって手足を温めていく。

「『この無礼者!』」

庭で、ツヴァイクが小石をばら蒔いた。

どうやら小石を豆に見立ててアルトゥールの真似をしているらしい。

その姿にライスとアストが掛け声をかける。

「痺れるわ!」

「……格好いいー」

ワイワイと庭で小芝居を楽しむ木々に、ベーゼンも笑顔を見せる。

「姫君のおかげで、本当に胸がスッとしました!さあ、皆でお茶にいたしましょう。」


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