笑わず姫と魔法使いーアルトゥール⑧ー
若採りの豆の莢は、瑞々しい緑色だった。
アルトゥールは豆の莢を手に取り、筋に沿って指に力をこめる。すると、莢は口を開くようにパカリと開いて、中から莢と同じ緑色の豆が二粒顔をのぞかせた。
本来は莢が乾燥し茶色くなるまで待つらしい。そうすると長く保存することが出来るので、冬などに重宝するそうだ。
アルトゥールの手元を覗きこみ、ベーゼンがニッコリと微笑む。
「そうそう。お上手です。今日はこれをトマトと一緒に煮込みますからね」
「豆のトマト煮込み……」
アルトゥールは料理の完成図を瞼に描いた。それだけで唾が咥内に滲み、あやうく口の端から溢れかける。
「あら。わたくしったら……」
慌てて口元を手で押さえて唾を飲み込むと、アルトゥールは莢と豆を別々の籠に分けて入れた。
家の前の木陰で、アルトゥールとベーゼンは豆の莢を剥いていた。
初めての経験である上に不器用なアルトゥールは、一つ莢を剥くのにも四苦八苦。勢い余って豆を飛ばしたてばかりいるので、辺りにはこぼれた豆狙いで小鳥が無数に集まっていた。
今のところ、籠にはいった豆より小鳥の胃に入った豆の方が多い。
「おい。ちょっとつめろよ!」
「やめてよ!押さないでったら!」
「……狭い」
ツヴァイク、ライス、アストは、先程から日向ぼっこをする場所を巡って争っているらしい。
騒がしくもどこか楽しげな声が、辺りには響いていた。
そよそよと、風が林檎の花を撫で、白い花弁が雪のように舞い散る。
温かな日差しに、アルトゥールは眩しげに目を細めた。
こんなふうに、穏やかな気持ちになれたのはいつぶりだろう。
誰もアルトゥールを叩かないし、怒鳴り声も、蔑む囁きも聞こえない。
清潔な服を着て、足にあった靴を履き、美味しい食事をお腹いっぱいになるまで食べられる。
自分の人生の最後としては上出来すぎる数日を、アルトゥールはこの小さな家で送っていた。
「……ベーゼン」
「はい?」
穏やかな微笑みを向けてくれたベーゼンに、アルトゥールはちょっとした疑問を投げかけてみた。
「この林檎の木は、元からここに生えていましたの?」
「いいえ。スピーゲル様が一本一本お植えになりました」
ベーゼンの答えは、アルトゥールの予想通りだった。
『植えた時は普通の林檎の苗だった』とスピーゲルはツヴァイク達のことを言っていた。ツヴァイク達を植えたのがスピーゲルなら、他の木々もスピーゲルが植えたと考えるのが自然だ。
アルトゥールの疑問は、ここからが本題だった。
「どうしてこんなに沢山スピーゲルは林檎の木を植えたんですの?」
一本二本ならともかく、この量は何かしらの意図を感じる。
「それは……」
ベーゼンは、家の屋根を見上げた。
「……もともと、この家はアーベル様がお建てになったんです」
「アーベル様?」
「スピーゲル様の大叔父にあたられる方です。スピーゲル様は『師匠』と呼んでいらっしゃいました。アーベル様はある事情でお若い頃に一族の方々が住んでいた谷からこちらに移られて……スピーゲル様がこちらにいらっしゃったのは、生まれてすぐのことです。魔族狩りで谷が焼き払われてしまいましたので」
ベーゼンは豆の籠に目を戻し、また莢を剥き始めた。
「スピーゲル様は素直で聞き分けがよくて……手がかからないお子様でした。林檎の木を植え始めたのは6才になった頃でしたかしら。アーベル様に相談して最初の一本を植えました。それがツヴァイクです」
「……」
アルトゥールは視線を巡らせ、ツヴァイクを見た。
彼はまだライスとアストと、日向の争奪戦をしている。
「それからライス、アストを植えて……このあたりは土地が硬くて小石が多く、農作物を育てるにはあまり適さない土地でしたが、少しずつ少しずつ石や枯れ木を取り除き土地を耕して……子供には大変で楽しくもない作業でしょうに、飽きもせず毎日毎日……」
幼いスピーゲルが石を拾い集めて回る姿を見守るように、ベーゼンは優しく庭を眺める。
その横顔に、アルトゥールは更に尋ねた。
「どうしてスピーゲルはそこまでして……」
「何してるんですか?」
声をかけられ、アルトゥールは軽く驚き振り仰ぐ。
「スピーゲル」
逆光のもと、スピーゲルがアルトゥールとベーゼンを見下ろしていた。
着ている薄い煤色の上衣は、汗を吸って所々色が濃くなっている。
長い袖を腕捲りして首元に布を巻くスピーゲルのその姿は、王城で草木の管理をしていた庭師そっくりだ。
(……魔法使いには見えませんわね)
実際、ここ数日観察した彼の日常は、魔法使いと言うより農夫に近いように思われる。
彼は日がな一日、ずっと庭の手入れをしているのだ。
林檎の木々が病気になっていないか点検したり害虫を駆除したり、裏庭で作っている野菜に水やりをしたり。
「後はスピーゲル様にお尋ねくださいまし」
ベーゼンはニッコリ笑うと立ち上がり、家のなかに行ってしまった。
それを見送り、スピーゲルは再びアルトゥールを見下ろす。
「……尋ねるって……何ですか?」
「えっと……」
何となく、本人に聞くのは気が引ける。
アルトゥールが迷って黙りこむと、スピーゲルは自分の疑問を優先することにしたらしい。
「何してるんです?」
「え?あ……」
アルトゥールは緑色の莢が山盛りの籠を、両手で捧げるようにしてスピーゲルに示して見せた。
「豆の莢剥きですわ」
「……いや、それは見れば分かりますけど」
困惑したのかスピーゲルは眉尻を下げ、アルトゥールの前に屈み込む。
「何で莢剥きなんてしてるんですか?」
「不器用なわたくしでも出来そうだったからですわ」
アルトゥールはそう答えると、莢を一つ摘み上げた。指先に力を込め、莢を破ろうとする。だが少し力を入れすぎたようだ。豆が莢から弾かれたように飛び出し、スピーゲルの額にコツンとぶつかった。
「……ほら、不器用でしょう?」
「……ですから、そういう意味でもなくて……ベーゼンが貴女にやれと言ったんですか?」
アルトゥールはいいえ、と首を振る。
「わたくしが、何か手伝いたいと言ったんですわ」
「手伝いって……そんなことする必要ありませんよ」
「何もせずに三食昼寝付きは心苦しいですもの」
ピョン、とアルトゥールの手元からまた豆が飛び出し、スピーゲルの頬にぶつかって地面に落ちた。その豆に子鳥達が我先にと群がり、細かな羽毛が飛び交う。
「……」
「……かしてください」
スピーゲルが、手袋を外した。
白い手があらわれ、豆の鞘を摘み上げる。
「こうするんです」
節にそって莢を潰すように、スピーゲルは豆を器用に取り出して見せてくれた。
大きな手だ、とアルトゥールは思った。アルトゥールの手より一関節分は大きい。
そのまま、二人はしばらく黙って莢を剥いた。
相変わらず飛んでいく豆を横目に、アルトゥールは肩身を狭くする。
手伝えているのか、甚だ疑問である。何もしないほうがよっぽど手伝いになるのではないか。
沈黙が気まずくて、アルトゥールはスピーゲルに話しかけた。
「……草取りは終わりましたの?」
すると、スピーゲルはアルトゥールに視線をあわせて首を振る。
「いいえ。この時期の植物達はやたらやる気なので、抜いても抜いてもきりがないんです」
スピーゲルは背後の庭を振り返り、うんざりした様子で言った。
生い茂る雑草は、スピーゲルを嘲笑うようにサワサワと風に揺れる。
「魔法で雑草を枯らせばいいのに」
そうすれば簡単かつすぐ終わる。
けれどスピーゲルは顔をしかめた。
「そんなやたらな魔法つかえませんよ。下手してここら辺の動植物の生態系が狂ったら取り返しがつかない。それに……」
スピーゲルは蔓延る雑草に目を落とした。
「彼らは名前を教えてくれないので魔法のかけようがないんです」
アルトゥールは目を瞬かせた。
そして、脇に生えていた雑草を指差す。
「エノコログサ、ですわよね?」
アルトゥールは植物の名前に詳しいわけではないが、この草については母親から名前を聞いたことがある。別名『ねこじゃらし』。
スピーゲルは、肩を少しすくめてみせた。
「それは僕らが勝手にそう呼んでいるだけで、彼らの名前じゃありません。植物も、動物も、生きとし生けるものすべては、個々の名前をもっています。親がつけたのか自分でつけたのか……『神』と呼ぶ存在に与えられたのかはわかりませんが……とにかく、僕はその名前を教えてもらって、魔法をかけるんです」
アルトゥールは戸惑いながらも、重ねて尋ねた。
「……教えてくれるって……話でもするような言い方ですわね」
「しますよ。しないと名前がわからないでしょう?」
事も無げに言うスピーゲルに、アルトゥールは絶句する。
そうだ。この男は魔法使いなのだ。アルトゥールの常識と彼の常識は、微妙にずれている。
「話をするんですの?草や……動物と?」
「種にもよりますが、植物とは基本的に会話は成立しませんね。声が聞こえるだけです。『雨だ』とか『晴れだ』とか、あとは『朝だ』『夜だ』とか」
「……引っこ抜かれると?」
「『抜きやがったなコラー』とか」
「…………」
アルトゥールは、無言で庭の隅を見た。そこには、スピーゲルが抜いて積み上げた雑草の山がある。それを見つめるうちに、悲哀にも似た感情がアルトゥールを襲う。仕方がないとはいえ、抜かれた雑草達の無念の思いが伝わってくる気がして、ちょっと切ない。
「……可哀想ですけど……抜かないでいると収拾がつかなくなるので……」
まるで言い訳をするように、スピーゲルは俯く。
除草するにも心を痛めなければいけないとは、魔法使いも大変である。
「植物は他の生き物には無関心なので、こちらが名前を訊いても答えてくれません。動物なんかだと、案外あっさり教えてくれます。多分『教えない』という選択肢を持つほどの思考力がないんでしょうが」
「人は?」
アルトゥールは不意に生まれた疑問を口にした。
「人の声は……心の声は聞こえますの?」
アルトゥールの質問に、スピーゲルは首を振る。
「聞こえません。人の心は雑音がひどくて」
「そう……」
何となく、納得できる気がした。
人間の心は複雑だ。愛する一方で憎んだり、相反する想いが絡み合う。単純に割り切れるものではない。
そよそよと風が吹く。
顎から滴る汗を拭って、スピーゲルは空を仰いだ。
「魔法をかけるには、名前が必要です。その名前を得るために僕らの一族は声なき声に耳を傾ける。僕には出来ませんが、大昔は風や水と会話して名前を教えてもらった魔法使いもいたそうです。……まあ、そんな凄いことが出来たのに、人間との対話が出来なかったから迫害されるに至ったわけですが」
空の果てを眺めながら、スピーゲルは呟いた。
「人間との会話が……一番難しい」
「……」
アルトゥールも、スピーゲルと同じように空を仰ぐ。
一番大切なことだけを真っ直ぐ相手に伝えるすべがあればいいのだ。
「……珍しい」
少し嗄れた低い声に、アルトゥールは思わず振り返ろうとした。
けれど延びてきたスピーゲルの手に二の腕をとられ、豆がはいった籠ごと引き寄せられた。
「……っ」
スピーゲルの片腕に頭を抱え込まれ、顔を彼の胸に埋める。
(……心臓が……)
苦しいなんてものではない。いつ止まってもおかしくないほど、アルトゥールの心臓はこの事態に動転していた。
「客人です。顔を見られないようにしてください」
スピーゲルがアルトゥールの耳元で早口で囁く。だが、アルトゥールに頷く余裕はない。
アルトゥールの顔を客人から隠すため、スピーゲルがそうしたことだけはわかった。わかったが、他にやりようがあるのではないか。
「ここで女を見るのは初めてだ」
嗄れたその声が、近づいて来る。
スピーゲルの腕で狭められた視界の端に、ジャリ、と小石を踏みしめる上等な茶色の革靴が見え、アルトゥールは深く俯いた。
結い上げていない黒い巻き髪が、肩からこぼれてアルトゥールの顔を隠してくれる。
「しかも若い娘ではないか。どこから攫って来たのだ」
嘲るようなその声に、スピーゲルへの悪意を感じてアルトゥールは眉をひそめた。
(どうして……)
『攫って来た』と断定するのだ。
親交が深いがゆえの冗談にしても、質が悪いのではないか。
「……攫ってきたわけではありません」
「ふん。大方、魔法の報酬代わりに寄越せとでも言って連れてきたのだろう?これだから魔族は……」
その言いように、アルトゥールは頭の中でその男を蹴り倒した。