笑わず姫と魔法使いーアルトゥール⑦ー
振り下ろした斧が薪を真っ二つに割り裂いた。
小気味良い音を響かせて弾け飛んだ薪を、スピーゲルは腰を屈めて拾い上げる。
「おい、スピーゲル」
振り返ると、ツヴァイク達が家の表を枝差した。
「お姫様寝ちまったぞ」
「あれじゃ風邪ひいちゃうわ」
「……ひけばいい」
ボソリと悪態をつくアストを、スピーゲルは軽く睨んだ。
「こら。アスト」
すると、アストはプイッと横を向く。近頃、彼は反抗期なのだ。
ため息と共に斧を置くと、スピーゲルは滲んだ汗を袖で拭って家の表に回った。
春の微風が優しく若草を撫でる。
林檎の花の白い花弁が敷き積った様は、春だというのに冬の雪原を思わせた。
そんな芳しい花の寝床で、アルトゥールは猫のように丸まって寝息をたてている。
まるで物語の一場面のように美しい光景だ。
あの山のような料理をペロリと平らげた人物とは思えない。
遅い朝食の後、アルトゥールはしばらくスピーゲルの薪割りを眺めていたが、やがてジギスヴァルトをお供に庭を散策し始めた。彼女がツヴァイク達を相手にお喋りする声が風にのって聞こえてきていたのだが、そういえばそれもいつの間にか聞こえなくなっていた。
スピーゲルは指先で頬を掻く。
(……警戒心ってものがないのかな。この人)
昨夜も、夜空を飛ぶジギスヴァルトの背で彼女は眠りに落ちた。危うく落ちかけたアルトゥールを抱えて、スピーゲルこそが青くなった。落ちれば死は免れられない。
確かに突き落とすような真似はしないと言ったが、寝るまでスピーゲルを信用するのもどうなのだろう。
起きている時より幾分あどけなく見える寝顔を見下ろし、スピーゲルは困惑にため息をこぼした。
昨日からため息ばかりだ。
(……何でこんなことになったのかな……)
まさか『笑わず姫』を自分の家に招きいれる羽目になるなんて。
この状況に、スピーゲルは控え目に言って困り果てていた。
「……姫君。起きてください」
スピーゲルは片膝をついて、アルトゥールに声をかけた。
暖かくなってきとはいえ、木陰は日向より気温が低い。こんなところで寝ていてはライスが言ったように風邪をひいてしまう。
「姫君」
ぐっすりと眠り込んでいるアルトゥールを揺り起こそうと、スピーゲルは手を伸ばした。
するとアルトゥールの波打つ黒髪からジギスヴァルトが顔を覗かせ、口を開けてスピーゲルを威嚇する。どうやらアルトゥールの安眠を守ろうとしているらしい。
小さな羽蜥蜴がそうしたところで大した威嚇効果はないのだが、スピーゲルは手を止めた。
「ジギス……別に僕は意地悪で起こそうとしているんじゃなくて……」
「寝かせてさしあげましょう。気持ち良さそうに眠ってらっしゃるんですから」
家の中から出てきたベーゼンが、腕に抱えていた上掛けを広げ、横たわるアルトゥールの体に優しくかけた。
かすかに身動いだものの、アルトゥールが目を覚ます様子はない。
「『笑わず姫』というから、どれほど傲慢な小娘が来たのかと思いましたが……」
スピーゲルに、ベーゼンは微笑んだ。
「いい娘さんですね。たくさん食べてくれますし。料理のしがいがありますわ」
ベーゼンの言葉に、スピーゲルは疑問を抱いて眉をしかめる。
「……たくさん食べるというのはともかく……どうして『いい娘さん』だと?」
「見ればわかります」
当然だと言わんばかりのベーゼンの返事に、スピーゲルは戸惑うしかない。
「見ればって……」
何の喜怒哀楽も示さないアルトゥールの何をどの角度から見れば、彼女が『いい娘さん』だという結論に達するのだ。スピーゲルにはまったく分からない。アルトゥールが機嫌がいいのか悪いのか、それすらスピーゲルには判別がつかないのだ。
ベーゼンは、クスクスと笑った。
「わからないなら、スピーゲル様もまだまだですわね」
「……」
返す言葉を見つけられず、スピーゲルは逃げるように立ち上がった。
ベーゼンは立場としては召し使いだが、師のアーベルと共にスピーゲルを育て守ってくれた親代わりだ。
少食なスピーゲルに根気よく食事をとらせ、日々懸命に世話して育ててくれた彼女に、スピーゲルは基本的に頭が上がらない。
「随分気に入ったみたいだけと、あまり情を移さないほうがいい」
視線を遠くにやり、スピーゲルは首から下げた小袋を握り締めたる。折々にそうするのが、スピーゲルの無意識の癖だった。
「とりあえず連れては来たけれど、そう長くここにいるわけじゃない」
ベーゼンが不安げに顔を歪めた。
「……姫君様をどうなさるおつもりです?」
「……彼女次第だ」
スピーゲルは、眠るアルトゥールを見下ろした。
(まさか魔法無効化体質だなんて……)
そういう存在がいるとアーベルから聞いたことはあるが、実在するとは思ってもみなかった。
けれどスピーゲルがアーベルから聞き、想像していた『魔法無効化体質』とはアルトゥールは少し違う。
無効化体質は体内で魔法を分解してし無効化する体質だ。どうしてそうなるのかは分からない。体質、あるいは一種の才能としか言いようがない。
ともかく、無効化するにせよ一度は魔法にかかるはずなのだ。 けれどアルトゥールには、そもそもまったく魔法がかからない。
彼女は魔法を『体内で分解』というより、かかる前に跳ね返しているように見える。例えるなら壁に投げた鞠が、跳ね返ってくるような。
手順を『間違えた』せいで魔法が失敗する感覚に似ている気もするが、手順は間違いなくあっている。
名前を呼び、手を繋ぐ。集中し、魔力の方向を定める。呪文の詠唱。
何十、何百と繰り返してきた手順だ。今更間違えるはずがない。
(……納得出来ないこともあるけど……無効化体質ってことなんだろうな)
魔除けの魔法や反射の魔法が事前にかけられているわけでもなさそうだし、結論としてアルトゥールはやはり魔法無効化体質であるというより他ない。
「姫君様次第とは……どういう意味です?」
ベーゼンが首を傾げた横から、ツヴァイクが口を出した。
「スピーゲル。お前、このお姫様があの女の回し者だと疑ってるんだろ?」
ライスとアストは訳が分からない様子で互いに顔を見合わせる。
「あの女って……あの女?」
「……どゆこと?」
ベーゼンが立ち上がった。
「そうなのですか?スピーゲル様」
「……どうして彼女が僕についてきたのかがわからない」
昨夜のアルトゥールとのやり取りが、スピーゲルの脳裏に蘇る。
『あなたに殺されてさしあげますわ。だから、わたくしを連れて行って』
命を捨てる約束をしてまでスピーゲルについてきた目的は何なのだろう。
彼女とメッサリアの王族との婚約が内定したと話には聞いてはいるが、それが嫌だったから、というのは命を捨てる理由としては弱すぎる気がする。
「あの人が僕の行動を監視するために送り込んだ―――――と考えるのは考えすぎかな?」
同意を求めるように視線を巡らせると、ベーゼンも、ツヴァイクも、ライスもアストも、黙りこんだ。
ないとは決して言い切れない。例え『有り得ない』に近い可能性だったとしても、スピーゲルにはそれを看過することができない理由があった。
もう一度ベーゼン達を見つめ、スピーゲルは念を押す。
「姫君に例の村を絶対に気取られないようにしてくれ。いいね?」
もしアルトゥールを通して秘密があの人に伝われば、まさに文字どおり命とりになる。
失われるのはスピーゲルの命ではない。多くの人の命が、また失われる。
ベーゼンが固い表情で頷いた。
「かしこまりました……」
「りょーかい」
「はーい」
「……わかった」
真剣な面持ちで同意してくれた面々に、スピーゲルも気を引き締める。
(警戒するにこしたことはない)
とにかく、アルトゥールがどんなつもりでここに来たのかを探らなければ。
(……でも、まさかあんなことを言い出すなんて……)
スピーゲルは紅玉にも例えられる目を伏せた。
アルトゥールの目的を突き止めるために、スピーゲルは先程こう言った。
『今のうちにやり残したことでもやっておいてください』
そう言って泳がせれば、案外簡単に尻尾を出すかもしれないと考えたのだ。
はっきり言って、魔法無効化体質を改変する方法などまったく思い付かない。多分、ない。ないものを探す気はない。
『体質を改変する方法が見つかるまで』としたのは、アルトゥールの出方を見るための、とりあえずのでまかせだ。
どうでるか―――……固唾を飲んで待ったスピーゲルにアルトゥールが告げたのは、とんでもない『やり残した事』だった。
曰く『キスがしたいですわ』。
「……はぁ……」
頭を抱え、スピーゲルは重くため息をつく。
心なしか頭痛がする。
(何を考えているんだ……このお姫様は)
完全に意表を突かれた。
これもスピーゲルを油断させてこちらの何かしらの目的を達成しようという策なのだろうか。
そうだとしたら、こちらは油断したと見せかけて彼女の策にのり、その目的を探るまでだ。
「……ねぇ、お姫様がスピーゲルについてきた理由だけどぉ」
ライスが、遠慮がちに口を開く。
「単純にスピーゲルに一目惚れした……てのは?」
その発言に、スピーゲルは呆れ果てて、軽く笑った。
「はは。何言ってるんだ」
無意識に、首から下げた紐の先を指先で探る。
「魔族に恋なんてする人間が、この世界にいるわけないだろう?」
その日の深夜。
スピーゲルはその気配にすぐに目を覚ました。
寝台に横になったまま様子を窺っていると、鎧戸がコンコンと叩かれる。
「……」
スピーゲルは起き上がるとブーツを履いて窓に近寄り、掛け金を引いた。そっと鎧戸を押し開けると、闇から溶け出たような黒い烏が一羽、跳ねながら室内に入ってくる。
「……エルメンヒルデ」
スピーゲルが小さく微笑むと、エルメンヒルデは返事をするかのように翼を広げて頭を下げる。その仕草はどこか優雅で、宮廷式のお辞儀をする貴婦人のようだった。
「ご苦労様」
しょっちゅう王城とこの家を行き来させられて、さぞ疲れているだろう。
スピーゲルは美しい紫の風切羽を優しく撫で、忠実な使い魔を労った。エルメンヒルデはまるで猫のように喉を鳴らす。甘える時の、彼女特有の癖だ。
スピーゲルは手早く着替えると、壁掛けに掛けてある帯革を手に取った。小さな革製の鞄がついたその帯革を腰に回し、次いで帯革の隣に掛けてあった外套を羽織る。
「……エルメンヒルデ」
声をかけると、エルメンヒルデは漆黒の翼を羽ばたかせてスピーゲルの肩にとまった。彼女を肩にのせたまま、スピーゲルは自室の扉を開ける。そうして、暖炉の前を横切り、戸口の脇にある水瓶の陰を覗いた。
「……ジギス?」
呼ぶと、水瓶に張り付いていたジギスヴァルトが身動ぎする。
眠っていたのだろう。ジギスヴァルトは少し不機嫌そうに丸い目をギョロつかせた。
「ごめん」
連日申し訳ないが、王城に行って朝までに帰ってくるには彼に頼むより他ない。
他の羽蜥蜴に魔法をかけるのは可能だが、魔法に対する耐性が弱い個体は魔法をかけただけで寿命を縮めてしまう。その点、ジギスヴァルトは魔法への耐性が強い。生来そうなのか、繰り返し魔法をかけられる過程で耐性がついたのかは分からないが、とにかく彼は『普通の羽蜥蜴』ではないのだ。
「……」
階段の上を、スピーゲルは見上げた。
そこでは、アルトゥールが眠っている。
庭での午睡のせいか、夕食を山のように食べた後もアルトゥールはなかなか眠れず、ジギスヴァルトを相手に暇を潰していた。
先程ようやくウトウトし始めたと思ったら、あっという間に眠り込んでしまい、仕方なくスピーゲルは彼女を寝室まで抱えて運んだのだ。
昨夜王城から連れてくる時も思ったが、ビックリするくらい彼女は軽かった。食べたはずのあの料理の山はいったいどこにいったのか、不思議でならない。
アルトゥールに声をかけるかどうかスピーゲルは迷ったが、そのまま行くことにした。
(眠り端を起こすのは悪いしな……)
それに朝までに帰ってくれば、きっと彼女はスピーゲルが出掛けていたことにも気づかないだろう。
「……行こう」
戸口の扉をそっと開けると、エルメンヒルデは夜の闇へ飛び立っていった。
彼女に替わって肩に陣取ったジギスヴァルトは、まだ眠いのか大あくびをしている。
スピーゲルは外へ出て、後ろ手に扉を閉めた。
雪解けを迎えても、夜はまだ寒い。
冷たい夜風に頬を撫でられ、スピーゲルの心はみるみる凍りついていく。
自らの心を踏み潰すように、スピーゲルは夜の闇の中へ足を踏み出した。