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笑わず姫と魔法使いーアルトゥール⑥ー

目を覚ますと、すぐそこに粗末な土の壁があった。

「……ここは……」

アルトゥールは肘をついて半身を起こし、あたりを見回す。

壁を半円にくりぬいたような変わった寝台に、アルトゥールは横になっていた。

木製の鎧戸の隙間から太陽の光が差し込んでいる。

柱には乾燥させた花輪や、飾り紐と花を編んだ素朴な装飾品が飾られていた。

アルトゥールはぼんやりする頭で、記憶の糸を辿る。

(確か……)

塔に、魔法使いが現れたのだ。

殺されると覚悟したものの、アルトゥールが魔法を無効化する特異体質であったことで生き延びて、けれど殺される約束をして、そうして魔法使いに抱き上げられ巨大化した羽蜥蜴の背に乗り、それから……。

(……確か、名前は『スピーゲル』でしたわね)

それ以上思い出せない。

状況から察するに、アルトゥールは羽蜥蜴の背でぐうすか眠りこけてしまったようだ。我ながら、よく羽蜥蜴の背から落ちなかったものだ。

「……つまり、ここはスピーゲルの家ということかしら……?」

扉の向こうから、誰かが食器を扱う音がする。

「……」

アルトゥールは寝台から降りると、そっと扉に近付いた。

部屋に一つだけの扉は木製で、花の紋様が掘られている。

鍵がかけられているかもしれないと思ったが、扉は少し押しただけで簡単に開いた。

鍵がかけられていないということは、きっと出歩いてもかまわないはずだ。

扉と壁の隙間からアルトゥールはそっと向こう側を伺う。

「……」

扉の向こうはすぐ階段になっていて、そこから見渡せた階下はアルトゥールが眠っていた部屋とは随分と様相が違う、一言で言うなら生活感に溢れた様子だった。

梁が剥き出しの天井からは干した花や草・肉がずらりと吊るされ、板を壁に打ち付けたような棚には色々な物が入った大小色とりどりの瓶が乱雑に並んでいる。瓶の中には、色々なものが入っていた。乾燥し干物と化した小動物や虫、木の実、正体不明の何か。

暖炉と向かい合うように大きな窓があったが、両開きの鎧戸は閉まっていて、昼間であるはずなのに家の中は薄暗かった。

暖炉では墨が燻り、時折小さな火花を吹く。

人が息づく空間だ。衣を繕い、煮炊きをし、日々の生活を営む温もりがある。

「……スピーゲル?」

呼び掛けてみるが、返事はない。

先ほどまで誰かがいた気配がしたはずなのに、そこには誰も見あたらなかった。

迷いながらも、アルトゥールは足を踏み出した。

一段一段踏みしめるようにして階段を降りる。

木を切り出して作ったらしい大きな長方形の木製のテーブルの上には、食器が重ねて置いてあった。

「スピーゲル……?いませんの?」

もう一度呼んでみたが、やはり返事はない。

(誰かがいた気がしたのだけれど……)

気のせいだったのだろうかと、アルトゥールは首を傾げる。

カタカタ、と小さく鎧戸が鳴った。

隙間から風が吹き込んできて、ふわりと甘い香りがアルトゥールの鼻をくすぐる。

「……何?」

この香りは何の香りだろう。

関貫を引き抜き、アルトゥールは勢いよく鎧戸を押し開いた。

「………―――っっっ!!」

一面の雪野原―――そう錯覚してしまいそうになる光景が、そこには広がっていた。

零れんばかりに咲き乱れる白い花を枝にいっぱい抱えた木が、見渡す限り広がっている。

「……綺麗……」

眩しさに、アルトゥールは目を細める。

何の花だろう。

明るい太陽と青い空を背景に、春の微風に白い花弁が舞う。

それが舞い散る雪のようにも見えた。

「お目覚めですか?」

声に驚いてアルトゥールが振り返ると、テーブルの向こうに女が一人立っていた。

年の頃は四十路にはいったころだろうか。にこやかに笑うその女は焦げ茶色の衣服に白い前掛けを身に付けて、城で下女がしているように頭に木綿の布を巻いて髪を隠していた。

(そこには誰も……)

立っていなかったはずだとアルトゥールは思い、けれどすぐ思い直す。きっと屈んでいたか何かで、見逃してしまったのだろう。そうにきまっている

「あなたは……」

「召し使いでございます。ベーゼンとお呼びください」

「ベーゼン……」

(ベーゼン)』とは、変わった名前だ。彼女もスピーゲルと同じように偽名なのだろうか。

「姫君様のお世話をするように、主人から言いつかっております。まず―――……」

「おい!ベーゼン!そいつ『笑わず姫』なんだろ?」

アルトゥールの背後、つまり窓の外から明るい声が響いた。

他にも人がいたのかとアルトゥールは振り向き、そして固まる。

「おおお!すっげ美人!」

「見てよこの睫毛!ばっさばさよ!ばっさばさ!」


木が―――――喋っている。


幹の凹凸がちょうど顔のようになっていて、彼らはアルトゥールよりよほど表情豊かに話してみせる。

スピーゲル(あいつ)に女連れ込む甲斐性があるとはなあ!俺はツヴァイク!よろしくな!笑わず姫!」

ツヴァイクは枝を伸ばすと、固まるアルトゥールの手を勝手にとって握手する。

「ど、どうも……ですわ」

アルトゥールがぎこちなく頷くと、ツヴァイクを押し退けるように隣にいた木が割り込んでくる。

「私はライス!よろしくね!ねえねえ!笑わないって本当!?」

「待てよライス!試してみようぜ!せーの、『布団がふっとんだ』!!」

ツヴァイクが叫んだ次の瞬間、先程までの暖かな微風が嘘のような極寒の風が吹きすさんだ。

空白の時間が数拍通り過ぎた後、二本の木は驚愕に顔を歪める。

「わ、笑わねえ!?俺の渾身の『布団がふっとんだ』で!?」

「すごいわ!『笑いも泣きもしない』て噂は本当だったのね!」

「……」

世の中の人がこれで笑うならやはり自分は筋金入りの変わり者なのだろう、とアルトゥールは心密かに思う。

「……僕、お前嫌い」

ボソリと聞こえた呟きに、アルトゥールは瞳を揺らした。

「おいおいアスト。いきなり何だよ」

「お姫様に失礼でしょう?」

ツヴァイクとライスが、後ろを振り返る。

そこにいたのは、ツヴァイクとライスよりも小さめの木だった。

アスト、と呼ばれたその木は目―――に見える窪み―――を吊り上げて、アルトゥールを睨む。

「……お前、悪い王様の子供。スピーゲル、家族殺した」

「―――――アスト!!」

突如響いた声にアルトゥールが驚いて顔をあげると、いつからそこにいたのか、庭先にスピーゲルが立っていた。昨日と同じ煤色の外套を頭からかぶり、腕に麻袋を抱えている。

どこかへ行って帰ってきたらしい様子だ。

スピーゲルは、静かな口調でアストを叱った。

「姫君に謝りなさい」

「……やだ」

アストは頬を膨らませると、地中から剥き出しになっていた根を足のように器用に動かして行ってしまった。

「あ、待てよアストー」

「アストー」

ツヴァイクとライスも、アストを追いかけて走り去る。

それを見送り、スピーゲルは小さくため息をこぼす。

「……すみません。アストは最近喋り始めたばかりで……深く考えずに物を言っているので気にしないでください」

「……喋り、始める?」

ということは、元は普通の木のように喋らなかったのだろうか。

アルトゥールの疑問を察したらしい。スピーゲルは頷いた。

「ツヴァイクもライスもアストも、植えた時は普通の林檎の苗だったんです」

そこまで言うと、彼はやや項垂れるように顔をそらした。

「……それなのに……いつの間にか動くようになって……遂には寒いダジャレまで……」

「スピーゲル様は魔力が強うございますから、知らず知らず影響したのでございましょう。他の木も片言ながら話しますし」

ニコニコしながら、ベーゼンが横から捕捉する。

「林檎の木……」

アルトゥールはもう一度、白い花を咲かせる林檎の木々を眺めた。

「これは林檎の花ですのね……」

林檎の花を見るのは初めてだ。

真っ赤な果実を実らせるのに、花は雪のように白いなんて不思議な気がする。

スピーゲルは一度窓の前を通り過ぎると、明るい木目調の扉を開けて家のなかに入ってきた。

「おかえりなさいませ、スピーゲル様」

「ただいま」

出迎えたベーゼンに短く返事をして、スピーゲルは外套のフードをとる。

すると淡い光を放つように白銀の髪があらわれた。

春にしてはやや暑い日和のせいか、スピーゲルの額には汗が滲み、銀髪が張り付いている。それが不快なのか彼は軽く頭を振った。

「……あ…」

スピーゲルの頬に血が滲んでいることに気が付き、アルトゥールは声を零す。

「血が……」

「……木枝に引っかけたんです」

スピーゲルはそっけなくそう言うと、革手袋をした手の甲で頬の血を拭った。

(……木の枝?)

ほぼ等感覚に細い引っ掻き傷が三本。まるで人の爪に引っ掻かれたようにアルトゥールの目には見える。

ベーゼンが眉を寄せた。

「スピーゲル様。また……?」

「大丈夫」

スピーゲルが、片手を軽く上げてベーゼンを制す。

「ただの引っ掻き傷だ。大丈夫。すぐ治るから」

「ですが……」

二人のやり取りに、アルトゥールは口を挟んだ。

「魔法で治せばいいのではなくて?」

魔法使いなのだから、そのくらい簡単に出来るはずだ。

けれどスピーゲルは首を振った。

「出来ません」

「出来ない?」

「自分で自分に魔法はかけられないんです。それより、これ」

スピーゲルはそういうと、抱えていた麻袋をアルトゥールに差し出す。

「……何ですの?」

受け取っていいものなのかアルトゥールが戸惑っていると、スピーゲルはアルトゥールを促すように荷物を軽く揺らした。

「服です。他にも必要な物があったら言ってください」

「……服?」

麻袋の紐を緩めて中をのぞくと、鮮やかな赤い上着と、同じ色の靴が見えた。それぞれ小さな花の刺繍が施してあるそれらは、貴族の令嬢達が美を競って身に付ける豪華な絹の衣装ではなく、動きやすさを重視しながらも装いを楽しみたい平民の娘達が好む服だった。

「……わたくしが……これを着るんですの?」

上着を、アルトゥールは袋から取りだし両手で広げ持つ。

アルトゥールのそれらの言動を、スピーゲルは衣装への不満故だととったらしい。

王女(あなた)がお城で着ていただろうものと同じような品は手にいれるのが難しくて……申し訳ありませんがそれで我慢してください」

「……え」

アルトゥールはスピーゲルが誤解していることに気がついた。

(我慢だなんて……)

鮮やかな赤い上着に、アルトゥールはむしろ気後れしていたのだ。ずっと擦りきれたドレスを身に付け裸足で過ごしてきたアルトゥールにとって、スピーゲルが用意してくれた服と靴は立派に過ぎて、まさに身に余るほどだ。

それなのにアルトゥールの硬い表情のせいで、スピーゲルはアルトゥールが服を気に入らないのだと思い込んでいる。

(そうではなくて……)

訂正しようと口を開こうとしたところで、ベーゼンに声をかけられた。

「お召しかえをお手伝いします。きっとお似合いになりますよ」

「あ……」

「さあ、どうぞ」

二階に促す優しい笑顔に、アルトゥールは抗えない。

肩越しに振り返ると、スピーゲルは脱いだ外套を壁に掛けていた。

彼は『笑わず姫』(アルトゥール)のことを『傲慢』で『高飛車』なのだと思っているのかもしれない。美しさに驕る、鼻持ちならない小娘だと。

自分の容姿が多少他より優れていることはアルトゥールも自覚していたが、だからと言って人に偉ぶったつもりはない。

それでも『傲慢だ』『高飛車』だと言われるのは自分に何かしら非があるのだろうと諦めていたのだが、スピーゲルにもそう思われていると思うと妙に気分が沈んだ。

けれど勿論、そんな気分の落ち込みも表情(かお)には出ない。

密かに肩を落としながら、アルトゥールは着替えのために階段を登った。






夜着を脱いだアルトゥールは、ベーゼンに手伝ってもらいながら白い踝丈のドレスをかぶる。その上に赤い上着を重ね、胸元を紐で編み上げた。

「よくお似合いですよ」

ベーゼンに褒められて姿見の中を覗き込んだアルトゥールは、自らの姿に心を弾ませた。我ながら、なかなか似合っているではないか。

付け袖の紐を結ってから、ベーゼンはアルトゥールの髪を櫛ですいて、耳の上の髪だけを後ろでゆったり束ねてくれた。

「ありがとうですわ。ベーゼン」

お礼を言うと、ベーゼンは嬉しそうに目を細める。

「とんでもございません。さぁ、スピーゲル様がお待ちですよ」

上着と同じ赤い靴を履いてアルトゥールが階下に戻ると、暖炉の薪を火掻き棒でいじっていたスピーゲルは立ち上がって椅子を引いた。

「どうぞ」

そこに座れという意味らしい。

「……」

「……姫?」

アルトゥールはその場でクルリと回って見せた。

その意図を、スピーゲルは図りかねて眉を寄せる。

「……何してるんです?」

「……もういいですわ」

アルトゥールは渋々椅子に座った。

背後で、ベーゼンが額に手をあてて嘆息する

「スピーゲル様……」

「え?何?」

スピーゲルはまだ分からないらしい。

(……ベーゼンは似合っていると言ってくれましたのに……)

スピーゲルにそれを期待してはいけなかったらしい。

ふとアルトゥールが視線を落とすと、尻尾が二股に分かれた羽蜥蜴が机の下で自分より大きなチーズの塊を両手に持ちかぶりついていた。

「……『ジギスヴァルト』……?」

魔法で竜のような巨体になっていた、あの羽蜥蜴だろうか。

ジギスヴァルトは返事をするように大きな目をギョロリと動かす。

「昨日はありがとうですわ」

アルトゥールが礼を言うと、ジギスヴァルトは口の中で咀嚼していたチーズを一飲みし、右前足を軽く持ち上げた。『いいってことよ』とでも言っているのかもしれない。

「えっと……」

スピーゲルは耳の下を掌でなでつけながら、アルトゥールの向かい側に座った。

「王城の様子を見てきました」

「王城の?」

先程彼がどこかから帰ってきた様子だったのを思い出す。アルトゥールの衣類を用意しに行っただけではなく、王都まで足を伸ばしていたらしい。

ということは、夜のうちに王都とここを二度も往復したことになる。

(スピーゲルもジギスヴァルトも、昨夜は大して休めなかったのではないかしら)

アルトゥールは少し心配になったが、スピーゲルは眠そうな素振りはまったく見せなかった。

「王女がいないと大騒ぎでした。夜盗に誘拐されたとか、秘密の恋人と駆け落ちしたとか。国王が命令して捜索隊が組まれたそうです」

「あら……」

娘を疎んじている父親が、アルトゥールを探してくれるとは予想外だ。

けれどアルトゥールは父親が(じぶん)を心配しているかもしれないなんて淡い期待は持たなかった。

(お父様はきっとメッサリアの王弟殿下との縁談を破談にしたくないのでしょうね)

そうでないなら、娘がいなくなったのに探しもしない薄情者と思われたくないのだろう。

「どうぞ」

ベーゼンが横からお茶を差し出してくれた。仄かないい匂いがする。

「ありがとうですわ」

お礼を言うと、ベーゼンはニッコリ笑ってくれた。

「スピーゲル様も。どうぞ」

「ありがとう」

スピーゲルはベーゼンから受け取ったお茶をゆっくり一口飲み、話を続けた。

「王都のはずれにある川原に、獣の血肉をまいておきました」

「……獣の血肉?」

「市場の肉屋に頼んで、新鮮なものを売ってもらったんです」

アルトゥールはぼんやりと思考を巡らせる。川原に血肉をまいて、一体何になるのか。

「どうして、そんなことをするんですの?」

「そうしておけば、捜索隊は貴女が魔族(ぼく)に殺されたと思うはずです。貴女が着ていた夜着によく似た物も裂いて木にかけておきました」

アルトゥールは感心した。

(なるほど、ですわ)

鮮血に、裂かれた夜着。

きっと誰もがアルトゥールは魔族に攫われ、そして殺されたものと思うだろう。

「スピーゲルは賢いんですのね」

アルトゥールは心の底から賞賛したのだが、スピーゲルは難しい顔をしたままだ。

「……これであなたは世間的に死にました。捜索は打ち切られるでしょうから、誰も探しに来ませんし助けに来ない」

彼はアルトゥールを刺すように見る。

「本当に殺されてくれるんですね?」

「ええ、約束ですもの」

紅い目を、アルトゥールは憶さず見つめ返した。

「…………」

スピーゲルは何かを探るようにアルトゥールをしばらく見ていたが、何も見つからないと諦めたのか、ため息をつき、そして立ち上がった。

暖炉の上に置いてあった本のような物を手にとると彼はアルトゥールを手招いた。

「ちょっといいですか?」

暖炉の前に敷かれた毛皮の上に、スピーゲルは改めて腰を下ろした。

「何ですの?」

アルトゥールも椅子から立ち上がり、スピーゲルの向かい側に座り込む。

「ちょっと試させてください」

スピーゲルが差し出した手に、アルトゥールは躊躇なく手を重ねた。

「魔法をかけるんですのね?」

「……それがわかっていてどうして何の躊躇いもなく手を出すかな……」

スピーゲルがボソリと何か呟いたが、アルトゥールにはよく聞こえない。

「え?何て?」

「いえ」

少しばかり呆れたような様子で、スピーゲルはアルトゥールの手を握り締めた。

白くて大きな手。

それを意識した途端、アルトゥールの胸の奥で何かが熱く脈打ったような気がした。

「……?」

何だろう。

戸惑うアルトゥールに、スピーゲルが呼び掛ける。

「『アルトゥール』」

「あ……『はい』ですわ」

アルトゥールが返事をすると、彼は目を閉じ、薄い唇で呪文を紡ぎ始めた。

やがて小さな光がポツポツと現れる。

けれど……。


パンッ!!


―――……光は、弾けるように霧散した。

昨夜と一緒だ。

スピーゲルが、重く唸る。

「やっぱりダメか……」

「死にませんでしたわね」

アルトゥールの発言に、スピーゲルが顔をしかめた。

「……今の魔法は命を奪う魔法ではないので」

「じゃあどんな魔法をかけましたの?」

「……声が蟇になる魔法です」

「あら、楽しそう」

「……」

アルトゥールの反応に、スピーゲルは妙に疲れた様子で項垂れる。

平気に見えたが、やはり昨夜ろくに休んでいないせいで、疲れがたまっているのだろう。

「疲れているなら少し休んだらどうですの?逃げたりしませんわよ?」

「……大丈夫です」

スピーゲルは先程暖炉の上からとってきた本のようなものの頁をペラペラとめくり始めた。

それは、本と呼ぶにはお粗末な、かび臭い紙束だった。

覗くと細かな字がびっしり書き込まれている。何と書いてあるか、アルトゥールには分からなかった。アルトゥールが知る文字とは違う形の文字が羅列していたからだ。そもそも、アルトゥールは読み書きが殆ど出来ないので、知っている文字が並んでいたとしても読めたかどうかは怪しいところではあるが。

「……僕の一族の魔法使いに代々引き継がれてきた書き付けです」

覗き込むアルトゥールの様子に気付き、スピーゲルが教えてくれた。

アルトゥールは書き付けから目を上げ、スピーゲルを見た。

「何が書いてありますの?」

「魔法や呪文や……まぁ、色々と」 

スピーゲルは書き付けに目をおとしたまま、長い指で頁をめくる。

「……『魔法無効化体質』について何か師匠が書き残していないかと思ったんですが……見当たりませんね」

スピーゲルは嘆息し、首から下げた紐を手繰り寄せた。

紐の先に下がっていた小袋を握り締め、彼はブツブツと独り言をこぼし始める。

「……手順はあってるはずだ……名前を呼ぶ。手を繋ぐ。集中。魔力の方向(ベクトル)。呪文も間違いない……魔除けの魔法や反射の魔法が事前にかけられているわけでもないし……」

考え込むスピーゲルの腕に、ジギスヴァルトが甘えるようによじ登る。

アルトゥールは手を出してみた。

「ジギス」

呼び掛けると、羽蜥蜴は丸い目をギョロりとさせた。

怯えさせてしまっただろうかとアルトゥールは心配したが、ジギスヴァルトは小さな羽をパタパタとばたつかせてアルトゥールの手に飛び乗ってくれた。

それが嬉しくて、アルトゥールは空いていた方の手の指先で、ジギスヴァルトの頭をそっと撫でる。

「いい子ですわね」

すると、ジギスヴァルトは気持ちが良かったのか、アルトゥールの掌で腹を天に向けて転がった。

油断しきったその姿。野生の本能はどうしたのだ。野生の本能は。

チーズがつまっているだろうジギスヴァルトの腹をつつきながら、アルトゥールはスピーゲルに尋ねた。

「名前を呼ぶのも、やっぱり手順のひとつですの?」

その質問に、スピーゲルは目を上げて頷いてくれた。

「ええ。魔法をかける時は必ず対象の名前を呼びます」

「それなら」とアルトゥールはついでに尋ねてみる。

「返事も絶対に必要ですの?」

『はい』と答えなければ、魔法にはかからないのだろうか。

これには、スピーゲルは首を振った。

「あるにこしたことはありませんが必ずしも必要ではありません。名前を呼ばれれば誰でも意識がそちらに向きます。拒絶しようとしても、無視しようとしても、心が動く。例えば『違う』と嘘をついたとしても、それはそれで返事と同義です。名前を呼ばれた時点……いや、名前を知られたその時点で既に魔法に抗うことは出来ない。不可能です」

「それでしたら……」

アルトゥールはジギスヴァルトの小さな手を指先で持ち上げた。

「手を握るのは?」

「保険です」

アルトゥールは首を傾げる。

「保険?」

「例えば僕の声が聞こえる範囲に『アルトゥール』というの人が複数いた場合、全員が魔法にかかってしまいます。体に触れることで、魔法をかける『対象(アルトゥール)』を限定するんです。手でも肩でも、とにかく体の一部に触ればいい。周りに誰もいないなら必ずしも体に触れる必要はないんですが、魔力の無駄使いを避けるためにも必要な手順の一つです」

そう言ってスピーゲルは手を伸ばし、テーブルの上のお茶がはいった器を掴んだ。

既に湯気は薄れている。

(つまり……)

相手の『名前』さえ分かれば、他の手順は無視出来ないわけではない。逆に言えば魔法をかけたい対象の『名前』が分からなければ、どうしようもないのだ。

「……色々と不自由ですのね」

死んだ母親が寝る前に聞かせてくれたお話のなかでは『魔法使い』はどんな不可能も可能に変える存在だったのに。現実にはそうではないらしい。

「―――魔法は万能ではありません」

スピーゲルはお茶を一口飲み、呟いた。

「決められた手順があり、制約があり、限界がある」

枯茶色のお茶を見つめる赤い瞳が、どこか痛々しげだ。

その様子に、アルトゥールは昨夜彼が言っていたことを思い出した。

『魔法が使えるからって、本当に欲しいものが手にはいるわけじゃない』

「……」

魔法の力をもってしても、滅びてしまったスピーゲルの一族は蘇らない。それは『魔法』の『限界』なのだろう。

だから、彼は『復讐』することを選んだに違いない。

「……とにかく。あなたの魔法無効化体質を変える方法を探します。すぐどうこうってわけにはならないので、あなたは今のうちにやり残したことでもやっておいてください」

アルトゥールと目をあわせずに、スピーゲルは言った。

アルトゥールはぼんやりと訊き返す。

「やりのこしたこと?」

スピーゲルは重くため息をついて、書き付けを閉じた。

「あるでしょう?やりのこしたこと。食べてみたいものとか、見てみたいものとか……何でもいいです。とんでもなく無理なことでなければ協力しますから」

「……やりのこした……こと」

アルトゥールは呟き、目を伏せる。

(……何か……)

何かあるだろうか。

食べることは大好きだが、死ぬ前にこれだけは絶対……と言うほどのことではない気がする。

見てみたいと思うほど、何かに興味をもったこともない。

ずっと塔の上の狭い空間がすべてだったアルトゥールには、自分でも寂しくなるほど何もない。

何の感慨もなく、アルトゥールは自らの人生を振り返る。

父親の視界に入らないように、それだけを心掛けてきた。

生きながらにして、死んでいるような人生だった。

失われたところで、惜しくもなんともない。

―――けれど、アルトゥールはそこに、それを見つけた。

(……あった……)

たった一つ。

夢見たこと。

憧れたこと。

いつか、と願った未来。

「……キスがしたいですわ」

アルトゥールがそれを口にすると、スピーゲルの手から書き付けがバサリと床に落ちた。

何拍か停止した後、スピーゲルがゴホン、とわざとらしく咳払いする。

「……えっと…………何ですって?」

アルトゥールはもう一度言った。

「キスがしてみたいですわ」

「……………キ、キスって……」

スピーゲルは盛大に顔をしかめている。

そんなにおかしなことを言っただろうか。アルトゥールとしては大真面目である。

「死ぬ前に、キスがしたいですわ」

「……」

スピーゲルは眉間に皺をよせて黙りこんでいる。

どうやら彼の理解を得るのは難しいようだ。

「お話は一段落なさいましたか?」

ベーゼンが、スピーゲルを押し退けるようにして抱えていた鍋を抱えた暖炉にかけた。

「少し遅いですが朝食にいたしましょう。今スープを温めなおしますからね」

木製の大きな長い匙を取り出し、ベーゼンは鍋の中をかき混ぜる。

アルトゥールは吸い寄せられるように鍋の中を覗いた。

キノコがぷかぷかと浮いている。色からしてカボチャのスープらしい。漂う匂いを、アルトゥールは胸いっぱいに吸い込んだ。

「おいしそうですわ」

振り返ると、長細いテーブルの上にはいつの間にか様々な料理が並んでいた。

ベーコンに目玉焼き。果物が練り込まれたプディング。香ばしく焼き上げられたライ麦パン。鶏の丸焼き。キノコとジャガイモのソテー。人参の蒸しケーキ。色とりどりの野菜には角切りにしたチーズが散りばめられている。

スピーゲルが、げんなりと項垂れた。

「……ベーゼン。作りすぎだよ」

ウキウキした様子で、ベーゼンはスピーゲルを見上げる。

「お客様がいらっしゃるなんて久しぶりですから」

「だからって、こんなに食べきれるはず……」

ない、と続いただろうスピーゲルの言葉が不自然に途切れる。

スピーゲルとベーゼンの視線の先では、匙を手にとったアルトゥールが豪快にプディングを頬張っていた。

小山のようだったプディングは、既に半分以下になっている。

「……」

「……」

スピーゲルとベーゼンが唖然とするなか、アルトゥールは皿ごとプディングを持ち上げ、残りを咥内に流しこむようにしてゴクリと一息に飲み込んだ。

そしてケロリとした顔で言う。

「これベーゼンが作りましたの?とっても美味しいですわね」

「……」

信じられない光景にスピーゲルが愕然とするなか、ベーゼンは瞳をキラキラと輝かせてアルトゥールに料理を勧める。

「こちらは!?こちらはいかがです!?」

差し出された人参の蒸しケーキにかぶりつき、アルトゥールは栗鼠のように頬袋を膨らませた。

「バターたっぷりでおいひいでふわ」

「こちらは!?」

「皮がパリパリで香ばひくて」

「こちらは!?こちらは!?」

「中にチーズがはいってまふのね。あら、おいしい。これは……香りがいいでふわね。塩が効いてて……」

「どうぞこちらもお召し上がりください姫君様!!是非!!」

神に供物を捧げるかのように、ベーゼンは次から次へとアルトゥールに料理を勧める。

「おいおい。何の騒ぎだよ?」

「なーに?どうしたの?」

「……何事?」

窓から顔を覗かせたツヴァイク達が、目玉焼き六個を舐めるように平らげたアルトゥールに目を剥く。

異様な光景をよそに、スピーゲルは一人静かに器にお茶を注いだ。




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