笑わず姫と魔法使いーアルトゥール④ー
寝台に横になったものの、なかなか寝付けなかったアルトゥールは、目を閉じて瞼の裏の草原を駆ける羊を数えていた。
その甲斐あって、ようやく睡魔が訪れたところに硝子扉が軋んだ。
寝台の中で瞼を上げる。あたりは既に闇に支配されていた。
(……風?)
鍵は、そもそも備わっていない扉だ。古びていて、強い風で開いてしまってもおかしくない。
垂れ下がる天幕が夜風に揺れて、暗い天蓋の中が月の青い光に照らされる。アルトゥールの頬を、冷たい風が撫でた。
揺れる天幕の隙間から、床の上をすべるように動く黒い影が見える。
――――――風ではない。人がいる。
硝子扉の外は人が一人立つのがやっとの狭い露台で、その露台は目が眩むような高さにある。そしてその下は内堀だ。堀は泳いで渡るには幅が広く、水深が深い。よしんばそれを泳ぎきっても、垂直にそびえ立つ城の壁をよじ登って露台に辿り着くのは、ほぼ不可能と言っていい。
その不可能とも言える行為を、誰かがやってのけたということだろうか。
アルトゥールは、息をつめて起き上がった。
どうやってあの絶壁を登り、この部屋に入ってきたのだろう。
影は人間の―――男性のものに見えた。
(盗賊?……いいえ、もしかしたら)
アルトゥールはその可能性に行き着き、少しばかりの恐怖と緊張に身を凍らせた。
(……魔族……?)
来るかもしれない、とは思っていた。来ればいい、とも。
だが、まさか本当に来るとは思っていなかったのが正直なところだ。
本当に魔族が来たのだろうか。
国王への復讐のため、アルトゥールを殺しに―――。
月が雲に飲み込まれ、部屋の中が急に暗くなる。アルトゥールは息を殺した。
「………」
足音が近づいて来る。
逃げなければと、アルトゥールはようやく思い至るものの、もう間に合わない。侵入者は既にすぐそこにいる。
天幕がゆっくり追いやられ、隙間から男が姿をあらわした。
夜の黒い雲から、ちょうど月が顔を出す。
月明かりに浮かび上がった、男の精悍な顔立ち。切れ長の赤い目。
頭の後ろで一つに束ねてある白銀の髪は、肩から垂れて揺れていた。
アルトゥールは息を飲む。
間違いない。昨日の、あの男だ。
「あなたが……『アルトゥール』姫ですか?」
鋭い印象の目からは想像しがたい、優しい声だ。
まるで日だまりのように温かく、心地よい―――……。
何故なのか懐かしさを感じて、アルトゥールの心は疼く。
「『アルトゥール』姫?」
「……あなたは……」
口をついて出たのは、彼に対する答えとしては相応しくないものだった。
「あなたは、昨日の魔族ですわね?」
アルトゥールが逆に問いかけると、男は双つの紅玉のような瞳を迷惑げに細めた。
「……その『魔族』というのは止めてください。魔物と一括りにされてるようで気分が悪い」
刺々しい言葉に、アルトゥールはやや臆す。
だか、確かに自分の一族を『魔族』などと呼ばれて平気な人間はいないだろう。
アルトゥールは小さな声で謝った。
「……ごめんなさいですわ。失礼なことを言いましたわね」
「……」
アルトゥールの謝罪に、男は少し戸惑った様子を見せる。謝られるとは思っていなかったようだ。
「……わたくしを殺しに来たんですの?」
アルトゥールが尋ねると、男の頬が少しばかり強張った。
男は口を開かない。そしてその場に膝をついた。
「……そうです」
俯き、彼はアルトゥールの想像通りの答えを口にした。
けれどアルトゥールは、何故かまったく恐怖を感じていなかった。
何故だろう。もう逃げたいとは思わない。
「わたくしも……エラのように殺すんですの?」
「……」
男は答えない。アルトゥールはかまわず重ねて話しかけた。
「エラだけではないわね?何人も殺しましたわね?何故?一族の復讐のためですの?」
男は、やはり顔を上げない。許しを乞うように頭を垂れたまま、やがて彼は頷いた。
「……ええ、そうです」
痛みをこらえるような声。
既に絶命したエラを腕に抱き、見下ろしていた彼の姿を思い出す。
懺悔するように、絶望しているかのように―――……。
(……この人は……)
本来なら、彼は人を殺すようなことは好まない優しい男なのかもしれない。そんな男に復讐をさせるようなことをしたのは、アルトゥールの父親だ。
アルトゥールは肩を落とした。
「……ごめんなさいですわ……」
アルトゥールの謝罪を、男は冷たい声で拒絶する。
「無駄です。今更謝られたところで、火炙りになった僕の一族は帰ってこない」
アルトゥールは首を横に振った。
「わかっていますわ。わたくしが謝ったのは……わたくしを殺したとことで大した復讐にはならないからですわ」
きっとこの男は、アルトゥールを殺すことでアルトゥールの父を苦しめることが出来ると思っている。だがアルトゥールの父は、アルトゥールが死んだところで、ただ一粒の涙すら追悼の為には流してくれはしないだろう。墓を作ってくれるかも怪しい。
「お父様はわたくしが死んでも悲しんだりしませんわ」
男の肩が揺れる。
男は顔を上げ、アルトゥールを睨みつけてきた。
そうすると彼の切れ長の瞳は酷く冷たく見える。
だが、やはりアルトゥールは彼を怖いとは微塵も思えない。男がアルトゥールに同情しまいと、自らを戒めるているように見えたからだ。
アルトゥールを睨んだまま、男は唸るように言った。
「……そう言えば、僕が貴女を殺すのをやめるとでも?」
「いいえ、わたくしが死んでも平然としているであろう父を見て、貴方ががっかりするのではないかと思うと申し訳なくて」
アルトゥールは至極真面目に答えたのだが、男は馬鹿にされたと感じたらしい。眉間の皺を深くした。
「……からかってるんですか?」
警戒感を前面に出して、彼は更にアルトゥールを睨む。
アルトゥールは首を振った。
「そんなつもりはありませんわ。ああ、けれど心配しなくてもよくてよ?わたくしが死んで縁談が破談になれば、父は結納金がもらえないと気落ちするでしょうから、貴方がここへ来たことはまったくの無駄にはなりませんわ」
アルトゥールの物言いに、男の警戒心の中に困惑が滲み始める。
「……僕は……僕は貴女を殺そうとしているんですよ?」
「ええ、わかっていますわ。邪魔はしませんわよ?」
頷くアルトゥールに、男の頬からとうとう警戒心が完全に削げる。そして困惑の色が全面に浮かんだ。
「貴女は……何なんですか。普通、怖がるでしょう?怯えて叫んで助けを呼んで、命乞いするでしょう?」
「そういうものですの?ごめんなさいですわ。わたくし世間知らずですの」
「そこで謝っちゃうあたりが、すでに世間知らずですむ領域を逸脱していますよ」
「あら……」
アルトゥールは少し感心したように言った。
「それなら、わたくしは筋金入りの世間知らずなのだわ」
「……」
男は頭を抱え小声で唸る。
「……もう、さっさとすませよう…」
「何?何か言いまして?」
アルトゥールが訊き返すと、男はアルトゥールに向き直った。
紅玉の双眸に見つめられ、アルトゥールの全身の血が大きく脈打つ。
禍々しい色だと、人々は魔族のその目を嫌悪した。血塗られた一族だと。
(……禍々しい?)
とんでもない。
こんなに美しい色、他に見たことがない。
男は手から革手袋をはずし、その手をアルトゥールに差し出す。
白いその手は節張っていて、アルトゥールより一関節分は大きい。
「手を」
男が言う。手をそこにのせろと言うことらしい。
跪き片膝を立て、アルトゥールに向かって手を伸ばす様は、まるで求婚する騎士のようだ。
『魔族に名前を呼ばれても返事をしてはいけないよ。その手をとってはいけないよ。魔法に絡めとられてしまうから』
この国で、それを知らない人間はいない。
なかなか眠らない子供を懲らしめるための、怖い作り話。
でも、必ずしもそうではなかったのかもしれない。
暗示にでもかかってしまったかのように、アルトゥールは男の赤い目から、目をそらせない。
男の手をとれば、おそらく自分は命を失うだろう。
手をとってはならない。
そう分かってはいるのに、アルトゥールは右手を差し出すのをやめられなかった。
小さく震えていたアルトゥールの指先を、男はしっかりと、その掌に閉じ込める。
その瞬間、手の震えが痺れとなって、アルトゥールの全身に駆け巡った。
「……怖いですか?」
尋ねてきた男に、アルトゥールは、ゆっくり首を横に振った。
「……いいえ」
「震えています」
「……でも、怖くはありませんわ」
自分でも、変だとは思う。死を前にして、何故自分はこれほど冷静でいられるのだろうか。
「……『アルトゥール』」
その呼び掛けが、アルトゥールの返事を乞うているのだということは、彼の目を見ればわかった。
『魔族に名前を呼ばれても返事をしてはいけないよ』
誰にともなく聞いた言い伝え。
でも、アルトゥールはこの男の呼びかけに抗えない。
「『アルトゥール』」
もう一度、男は低くアルトゥールに呼び掛けた。
「…は……」
声が、僅かに掠れる。
「……『はい』」
しっかりと大きな声で、アルトゥールは『応えた』。
アルトゥールが、自らの『死』と『生』を強く意識したのは、この時が生まれて初めてだった。
男を前に、アルトゥールにとって『死』はこの上なく甘美な誘惑であり、『生』は眩しいほどに輝き始める。
明確な『返事』を聞いた男が、目を閉じ、言葉を紡ぐ。
昨夜、聞いた響きと同じものだ。
言葉の意味は、アルトゥールにはやはりわからない。アルトゥールや周囲の人間が意思の伝達手段として使う言葉とは、明らかに発音が違う。
不思議なその響きは、夜の空気を震わせ、やがて、繋ぐ手に鈍い光が灯る。
まるで蛍のような光が、アルトゥールを取り囲む。やがて光は渦となり、部屋の中を昼間のように明るく照らし出した。
まるで月が落ちてきたような眩しさと圧迫感に、アルトゥールは目を固く閉じる。
パンッ…!
光が、弾けた。
「………え?」
アルトゥールは自らの体を見下ろした。白い夜着を身に付けた体は、何も変わった様子はない。
(……てっきり……)
死ぬものだと思ったのだが。
石の床にひざまずいたまま、アルトゥールを見上げる男が顔を歪ませた。
「……何故?」
「……と、言われても困りますわ」
男の疑問に答える術を、アルトゥールは持ち合わせてはいない。
みるみるうちに、男の顔色が青ざめていく。
「どうして魔法が発動しないんだ……?間違えた?」
アルトゥールは遠慮がちに尋ねる。
「……魔法。失敗しましたの?」
「そんなはずは……呪文も手順もいつもどおりで……」
男は少し考え込んでから、またアルトゥールを呼んだ。
「『アルトゥール』」
どうやら、名前を呼ぶことも魔法をかける手順の一つであるらしい。
「はい」
アルトゥールが返事をすると、男はまた何かを唱え始める。
光が舞い始め、けれどその光はまた弾けるようにして霧散した。
「…………」
「…………」
信じられないというふうに、男は唇を震わせる。
「…………魔法無効化体質?」
「…………まほうむこうかたいしつ?」
アルトゥールは、男が口にした聞き慣れない言葉が何なのか分からない。
「何ですの?その……それは」
「魔法を無効化する特異体質で……いや、でもまさか……」
その時、遠く階段を駆け登る足音が聞こえた。光の破裂音を聞き付けた衛兵が、駆けつけてきたのかもしれない。
男が少し慌てた様子で立ち上がる。白い手が、アルトゥールから離れた。
「……っ待って!」
アルトゥールは手を伸ばし、逃げようと身を翻した男の頭の後ろで一つに括られた長い髪を掴み、力任せに引っ張った。
「うわ!」
男は仰け反るようにして、アルトゥールの座る寝台へ後ろ向きに勢いよく倒れ込む。
「……何を……っ」
男が起き上がろうとする。その動きを、アルトゥールは彼の胸に手をつき、のしかかることで制した。
(わたくしは……)
一体何をしているのだろう。
魔族がアルトゥールを殺すという目的を果たすことなく立ち去ろうとしている。
好都合であるはずなのに、何故引きとめようとしているのだろうか。
(何故……?)
混乱する頭の中で、何かが叫んでいる。
声の限りに、生きるためにそれが必要なのだと、必死にアルトゥールに訴えてくる。
本能、だろうか。
わからない。わからなかったが、アルトゥールは、その命令に従った。
コクリと唾を飲みこむ。
「……わたくしを連れて行って」
アルトゥールの言葉に、男は目を見開いた。
「何ですって?」
「わたくしを連れて行って欲しいんですわ」
男の赤い目を、アルトゥールは食い入るように見つめる。男も、アルトゥールから目を逸らさない。
「僕は……あなたを殺そうとしたんですよ?」
「ええ、そうですわね。でも、殺せなかった」
男の胸に置いた手に、彼の鼓動を感じる。いや、もしかしたら自分の鼓動なのかもしれない。
「……だから、わたくしを連れて行って。そして―――」
月が、雲に隠れて辺りが暗くなる。
風が吹き、天幕が揺れた。
「―――殺せばいいですわ」
雲から逃れた月が、再び寝台の上を照らし出す。
止まってしまったかのようにゆっくりと流れていた時間が、迫る足音に驚いたように急に走り始めた。
「……本気ですか?」
男の声は、微かに震えていた。まるで怯えるように。
「本気ですわ」
アルトゥールは、もう一度はっきりと言った。
「あなたに殺されてさしあげますわ。だから、わたくしを連れて行って」
「…………」
男は、打ちのめされたような表情でアルトゥールを見上げてくる。
迷っているのだろうか。けれどそうしているうちにも、足音はどんどん近付いてくる。
アルトゥールは男を急かした。
「わたくしを殺したいのでしょう!?」
「……っ」
唇を噛み締め、男はアルトゥールの腕を掴む。
次の瞬間。アルトゥールの視界が反転した。
男が首から下げた紐の先で、小さな袋がまるで振り子のように左右に揺れる。
さっきまで寝台に張り付けにされていた男が、今はアルトゥールを組み敷いていた。
雪のような銀の髪が彼の背からさらりと流れ、月の光をまとった双つの紅玉が、松明の灯りのように煌めいてアルトゥールの心を鷲掴みにする。
どこか野蛮で、恐ろしくて、けれど力強く美しい。
これが『男』という生き物なのだと、アルトゥールは思い知らされた。
「……本当にいいんですね?」
アルトゥールの腕を掴む男の指に、力がこもる。
「本当に、殺されてくれるんですね?」
男の、痛みを堪えるような表情に、アルトゥールの心は震えた。
手を、伸ばす。
指で包んだ彼の頬は柔らかく、そして冷たかった。
「……約束しますわ」
自らの命を、アルトゥールは捧げた。
死に方を選んだのではない。
アルトゥールにとってそれは、生き方の選択だった。
「……行きますよ」
男は、アルトゥールを引っ張り起こす。そしてその身を屈め、アルトゥールを軽々と横抱きにした。
「しっかり掴まっていてください」
アルトゥールの耳元でそう囁くと、男は寝台から飛び下り、硝子扉を肩で押すようにして露台へ出た。
男の意図に気付いて、アルトゥールは動かぬ表情の下で戦慄する。
「……まさか……」
「口を閉じていないと舌を噛みますよ」
宝物をそうするように、男はアルトゥールの体を一度抱え直す。
そして露台の手摺に長い足をかけ、一息にそれを飛び越えた。