笑わず姫と魔法使いーアルトゥール③ー
大広間から出たアルトゥールは、月明かりに照らされた夜の庭に一人出た。
塔から出たのは随分と久しぶりだ。だが、城の造りも庭も以前と何も変わっていなかったので、迷うことなく歩くことが出来た。
リリリ、と鈴の音のような虫の声が聞こえる。
「…………はぁ」
アルトゥールは立ち止まると、ずっと我慢していた重い溜め息を庭に落とした。
お腹が、ぐううう、と情けなく鳴く。
「……美味しそうでしたわね……」
目を閉じ、大広間に並べられていた数々の豪華な料理を思い浮かべる。刻んだ野菜と豚肉を包んで焼き上げたパイ。鶏の香草焼き。宝石のような果物。どれもこれも美味しそうなものばかりだった。
それらの匂いを思い出すと、父親に叩かれた頬の痛みが引いていくような気がする。
「……一口くらい食べてくればよかったですわ……」
もう一度、アルトゥールは深く溜め息をついた。
(ああ……でも、良かったですわ)
アルトゥールは、自分はてっきり修道院にいれられるのだろうと思い込んでいた。愛想笑いも出来なければ、何の教養もない。政略結婚にすら使えない、役立たずの王女。修道院くらいしか行く場所はない。
そこへ降って沸いたメッサリアの王弟との縁談。この縁談を、実はアルトゥールは心の底から喜んでいた。
相手が祖父ほどに年上だろうが、後妻だろうが、側女が沢山いて年上の継子がウジャウジャいようが関係ない。これでジャガイモの塩ゆでと水しか食事にでないと噂の修道院に行かずにすむ。
ジャガイモは美味しいが、さすがのアルトゥールもそれだけ食べ続けるのでは飽きてしまう。せめて塩以外の味付けが欲しい。
(それに……)
これでようやく、父親から離れることが出来る。
アルトゥールの存在を捩じ伏せる、父親の冷たい声から解放されるーーー。
(……でも……)
アルトゥールは、石像の獅子の口から水が注がれる泉を覗きこんだ。
水面は月明かりを反射して、鏡のようにアルトゥールの美しくも冷たい印象の顔をぼんやり映し出した。
アルトゥールは、堅い口角を無理矢理引き上げてみる。
まるで債務者を脅迫する、債権者のような歪な笑顔。
口元は弧を描いていても、目元は氷のように冷めている。
これでも毎日毎日笑う練習をして、何とか形作れるようになった『笑顔』なのだ。
「……我ながら怖いですわ」
アルトゥールは口元から力を抜いた。途端に頬から歪な笑顔が消え失せる。
父親が言うように、嫁ぐまでに愛想笑いくらい出来るようにならなければ。
夫に嫌われてこの国に追い返されでもすれば、今度こそ修道院に送られるに違いない。つまりジャガイモ地獄だ。
風が、泉の水面を撫でた。
木々の葉擦れに紛れ、闇の奥から何かが聞こえる。
「…………?」
アルトゥールは耳をすました。
「………て」
微かだが、やはり人の声が聞こえる。
(……誰かいますわ)
アルトゥールは足音を忍ばせ、人の気配がする方へ近付いた。
緑の葉が生い茂る山茶花の木の向こうから、話し声がする。
「………っすけて!誰か!」
悲鳴に、アルトゥールは身をすくませた。
風が強く吹き、それまで響いていた鈴虫の声がぴたりと止む。
「いやよ!来ないで!」
山茶花の濃い緑の葉と葉の間に、若い侍女の姿が見えた。
(あれは……)
大広間で擦れ違った侍女だ。
侍女は腰を抜かしているのか、地べたを這いずるようにして、何かから逃げていた。
そして、その『何か』が―――……男が、砂利を踏みしめて彼女を追い詰める。
背が高い男だった。
擦りきれた煤色の外套をすっぽりかぶっているので顔は見えない。けれど背の高さと肩幅の広さから、彼が男だということは一目瞭然だった。
その男は、革手袋をはめた左手で、右手から革手袋をスルリと外す。
あらわれた手は、驚くほどに白い。
きっと普段から手袋をつけているので、日に焼けないのだろう。
その白い手を、男は侍女に向けて伸ばした。
「『エラ』」
「いやあ!!」
エラの悲鳴に、アルトゥールは怯えた。
(助けなければ……)
彼女は得体の知れない男に襲われている。早く助けなければならないとわかっているのに、アルトゥールの体は恐怖で動かない。助けを呼ぶための声さえあげられなかった。
男の手がエラの肩を掴み、自らの方へエラを向き直させる。
男が呟く。
何と言っているかは分からない。
(……異国の言葉?)
聞いたことがない発音。
低い声。
低くて、落ち着いて……悲しい声。
その声が空気に溶ける。
やがて、闇の中を蛍が舞い始めた。
(違うわ。あれは……)
蛍ではない。
蛍によく似た小さな無数の光が、エラの周囲を取り囲む。
男が、何かをまた呟いた。
すると途端に光が消え失せ、ガクリと傾いだエラの体を男が抱きとめる。
エラの細い腕はダラリとしたまま動かない。
アルトゥールは両手で口を押さえた。
(……死んで……る?)
男の腕のなかで、エラはただ眠っているだけにも見える。
(そんな……まさか……)
エラの体を腕で支え、男は跪いたままだ。
その姿はまるで司祭に懺悔する罪人のようだった。
「……」
パキリ、とアルトゥールの足元で小枝が折れる。
昼間なら気にもしないような小さな音は、けれど闇夜ではまるで太鼓のように大きく響いた。
「……っ」
アルトゥールは目を見開いて枝を踏んだ自らの足を見下ろし、そして恐る恐る、顔を上げた。
風が夜色の雲を押し流し、顔を出した月が地上を照らし出す。
山茶花の枝ごしに、男がこちらを……アルトゥールを見ていた。
夜風に外套が大きく揺れ、フードに隠れていた男の顔があらわになる。
アルトゥールは息を飲んだ。
男の首もとから、雪の塊が零れたからだ。―――そう見えたのだ。
雪に見えたのは、白銀の髪だった。
月の光をうけて輝く白銀の長い髪が、闇色の夜風に流れる。
そしてその髪の下で煌めく瞳は、紅玉のように明かった。
「……魔族……」
呆然と、アルトゥールは呟く。
赤い瞳と白銀の髪は、魔族の証。
魔族は魔法をあやつり災厄をもたらす。
けれどアルトゥールは恐ろしいとは思わなかった。
彼が魔法を使うのを見たのに。
人を殺したのを見たのに。
血のように赤いその瞳を見たのに。
怖いとは、思わなかった。
紅玉のような彼の双眸が、アルトゥールを見つめる。
睨む、と言った方が正しいかもしれない。彼は眉間に険しい皺を寄せ、アルトゥールを睨み付ける。
切れ長の鋭い目。引き締まった口元。
精悍な顔立ちの男だ。アルトゥールより幾つか年上のようだ。
彼は自らの行為の目撃者の存在に驚き、そしてその目撃者をどうすべきか考えているようだった。
人を殺せば縛り首だ。いや、それ以前の問題として、魔族は見つけ次第火炙りにするのが慣例になって久しい。今アルトゥールが叫んで騎士達が駆けつければ、彼の命はない。
生き延びるために、彼はアルトゥールの口を封じるべきだ。
(……殺されるかもしれませんわ)
アルトゥールは、自らの置かれた状況を冷静に受け止めていた。逃げるべきだということはわかっているが、指先一本動かせない。その場所に、目には見えない鋼の糸で縫いとめられてしまったかのようだった。
男も、アルトゥール同様に動かない。絶命したエラを腕に抱え、首だけをアルトゥールに向けた姿勢のまま身動ぎもしない。
ただ、彼の長い白銀の髪だけが、風に揺れている。
不思議と、心が落ち着く静けさだった。
月だけが、その静寂を見守っている。
「……それで、うちの女房がさ」
「はは、馬鹿だなぁ」
衛兵だろうか。話し声が近づいてくる。
突然、男は物言わぬエラを抱え上げたまま、飛び退くように立ち上がった。彼が首から下げた紐の先で、小さな袋が揺れる。
男は木々の狭間の闇に飛び込み、音もなく走り去った。
アルトゥールは男が去った闇を瞬きも忘れて見つめる。
(……まぼろ……し?)
今見たのは、果して本当に現実に起きたことだったのだろうか―――。
月が、流れる雲に顔を隠した。
石を重ねた露台の無骨な縁に頬杖をつき、アルトゥールは青空を見上げた。
結っていない黒い巻き髪が、そよ風にフワフワ揺れる。
(いい天気ですわね……)
アルトゥールは目を閉じた。
羊のような雲が穏やかに空を移動し、日の光が暖かく降り注ぐ。
アルトゥールの父親が治めるこの国は、小さいわけではないが大国というほどの国土もない。冬になれば雪が深く出歩くこともままならない寒冷地で、春が訪れるのも遅かった。
先頃ようやく花が綻び始め、一年のなかで一番穏やかで美しい季節が到来したところである。
アルトゥールは、顔にまとわりつく黒髪を手で抑え、露台から下を見下ろした。
内堀のその向こうにある広い通路は、城門に続いている。その通路や内堀にかかる大きな橋を、侍女や衛兵が忙しそうに行き来していた。磨きあげられた鎧を誇らしげに纏う騎士や、荷車を押して城に穀物を届けにきた農夫達もいる。
彼らが行き交うこの景色を眺めるのが、アルトゥールの大のお気に入りだった。
「ねえ、聞いた?また魔族が出たらしいよ」
「魔族が?」
「あ、ねえ。それ食べてもいい?」
「食べて食べてー」
陽気がいいからか、階下の部屋は窓を開け放っているらしい。おかげで侍女達のお喋りがハッキリ聞こえる。
自分達のお喋りが盗み聞きされているなど考えもしない彼女達は、お菓子を勧め合いながらお喋りを続けた。
「これ美味しー」
「死んだのってお妃様の髪結い係の侍女でしょう?エラって名前の、最近入ったばっかりの」
「そうそう、その娘。父親が昔聖騎士だったんだって」
「やだ。怖ーい」
怯える声はどこか楽しげで、本当に怖がっているのかどうか怪しいものだ。
耳をすましていたアルトゥールは、頬杖をついたまま目を細めた。
(幻じゃありませんでしたわね……)
今朝のこと。
王妃イザベラの侍女エラの遺体が、王城のすぐ外で見つかったらしい。
昨夜から姿が見えないエラを探していた同僚が、その遺体を見つけたのだそうだ。エラの遺体はそれは酷い有り様で、血だまりのなかにエラが大事にしていた髪飾りが落ちていたことから、それがエラだと確認されたらしい。
アルトゥールは頭の中で昨夜の出来事を反芻した。
白銀の髪と赤い瞳の男。
彼が何か―――きっと、あれは魔法の呪文だったのだ―――を呟き、蛍のような光がエラを包んだかと思えば、彼女は倒れた。
(本当に魔族の仕業だったなんて……)
魔族狩りに関わった者が相次いで惨殺される事件は、侍女達のお喋りからアルトゥールも知っていた。
てっきり魔族の仕業に見せかけて、誰かが悪さをしているのだとばかり思っていたのに。
「ただ殺すだけじゃなくて埋葬もまともにさせないなんて」
「魔族って本当に最低……」
「聖騎士団が早く捕まえてくれたらいいのに」
侍女達のお喋りに、大塔の荘厳な鐘の音が重なった。
城の門が閉じる時間だ。
いつの間にか、空が夕焼けに染まっている。頬を撫でる風も、既に冷たくなっていた。
「……」
閉門を知らせる衛兵の声に、急いで中に入ってくる者と、反対に門を出ようと走りだす者がいる。一度閉まると、朝まで門は開かない。今、門を出損なえば、明日まで家には帰れなくなってしまう。
橋を渡ろうとした子供が転び、父親らしき男が慌てて駆け戻った。城の下働き相手の商売人だろう。男は大きな荷物を背負っているにも関わらず、子供を軽々抱き上げた。子供が楽しそうに笑う声が響く。
(……あの、魔族の男……)
彼が本当に復讐のために聖騎士団の関係者を殺しているのなら。
(わたくしのことも殺しに来るかしら……?)
魔族の住んでいた谷に火を放つよう命じたのは、アルトゥールの父親だ。復讐の為の標的として、アルトゥールはもっとも相応しい人間のはずである。
(ああ……でも、ダメですわね。わたくしには殺す価値もないのだから)
アルトゥールが殺されたところで、あの父親は露ほどの涙も流すまい。
きっとその日のうちにアルトゥールの存在などなかったことのように忘れるだろう。
アルトゥールは赤く染まる空を眺めた。
太陽が燃えつきる赤い光に、月明かりに輝く松明のようだった瞳を思い出す。
白い手。
雪のように輝いた白銀の髪。
低い声。
何故だろう。それらを思うと、胸がざわつく。
(……この世界のどこかに)
彼がいるのだ。
息をし、瞬きをし、生きている。
それを思うと、見慣れたはずの景色が、いつもとはまるで別の景色に見えた。
(わたくしを……殺しにくればいいのだわ)
そうしたら、また会える。
彼に会える。
地平線に日が落ち、重く軋みながら、城門が閉じた。




