白雪姫は林檎飴がお好き②
女としては長身な部類であるアルトゥールにとって、その石造りの部屋はあまりに天井が低かった。
否、『部屋』と呼ぶのは間違いかもしれない。アルトゥールが座り込むその空間は、三方と上下を石の壁に囲われ、残り一方は全面に鉄格子がはめられていた。暗く湿っていて、息がつまりそうだ。鉄格子の一部は出入りできるようになってはいたが、大きな錠前がついていて、鍵は例の大男が持っている。
(これが世にいう『地下牢』というやつですわね)
アルトゥールはため息をついた。
散々『出せ』と騒いだが、その声は石の牢獄に響くだけで地上に続く扉の向こうにいるだろう大男には届いていないようだ。
届いていたとしても、大男がアルトゥールを解放してくれるとは思えないが。
(スピーゲル……)
動くな、という彼の言いつけを守らなかった罰があたったのかもしれない。
ぐう、と体が空腹を訴えた。
あれだけ食べたというのに、アルトゥールの胃袋は正確に夕食の時間を把握している。 我ながらさすがだ。
(……夕飯、もらえますかしら?)
まさか空腹のまま夜を明かすことになるのではないかと、アルトゥールは不安になり膝を抱いた。
「……お腹がすいてるの?」
響いた声に、アルトゥールは驚いて肩を揺らす。
「誰かいますの?どこに……」
「ここよ」
声を頼りに暗闇に目をこらすと、牢獄の奥にかすかに動く影が幾つか見える。
「あなた方……っ!」
アルトゥールは思わず立ち上がり―――頭を強打してその場に踞った。
「…………いっっっ」
「やだ、大丈夫?」
「凄い音がしたわ」
影達は身を屈ませて近づいてくると、アルトゥールを囲むようにして座り込む。
暗闇の中に、ボンヤリと女達の白い顔が浮かぶ。皆アルトゥールと同じ年頃の娘であるらしい。
アルトゥールは痛む頭をさすりながら彼女達を見回した。
「あ、あなた方……」
「パンがあるけれど、食べる?」
娘達が差し出してくれたパンに、アルトゥールは目を落す。端が欠けた皿にのせられたパン切れは、掌よりも小さくカラカラに乾燥していた。
アルトゥールは顔を上げ、娘達を見返した。
「……でも、これはあなたのものではありませんの?」
いくら空腹とは言え、他の人間の食べ物を横取りするほど堕ちてはいない……つもりだ。
娘達は力なく首を振る。
「いいの。食欲がないし」
「私達、皆あの娘に騙されて連れてこられたのよ」
アルトゥールは眉を寄せた。
「あの娘って……あの娘さん?」
「あの娘、ここら辺じゃ有名な悪党の孫娘なんですって。見た目に騙されて何人も売り飛ばされてるらしいの」
「そんな……」
つまり、アルトゥールもまんまと騙されたらしい。
(人攫いに気をつけろと言われたばっかりでしたのに……)
良く考えれば見ず知らずの相手について行くなんて、何て迂闊なことをしてしまったのだろう。後悔しても、もう遅い
察するに、頻発する人攫いは、あの娘が犯人だったのだ。
まさか若い娘が人攫いの犯人だとは誰も考えまい。仮に被害者と連れだって歩く犯人と擦れ違ったとしても、二人連れの娘が歩いているだけにしか見えないだろう。攫われる側も建物に連れ込まれるまで自分がまさか攫われる最中だとは気付かないので、悲鳴をあげるはずもない。
かくして、誰も犯人を見ておらず、攫われた娘の悲鳴すら聞いた者もいない、説明がつかないので『魔族の仕業』と恐れられ、自警団も及び腰の人攫い事件の出来上がりである。
「どこが『魔族の仕業』ですの……」
正真正銘、単なる人間による卑劣な犯罪行為ではないか。
アルトゥールは脱力して項垂れた。
そんなアルトゥールの姿を、娘達は売り飛ばされる恐怖と絶望にうちひしがれていると思ったらしい。
「気持ちはわかるわ。私も家に帰りたい……」
「こんなことになるなんて……」
「母さんに会いたい……」
娘達はすすり泣き始めた。その姿は可憐で、さぞ男達の庇護欲を掻き立てるだろう。
だが、残念ながらアルトゥールの目は乾季のひび割れた沼地さながらに乾いていた。
自慢ではないが、物心ついた以降に泣いた覚えがアルトゥールにはない。
そもそも、泣く必要などないのだ。
(だって……来てくれますもの)
絶対に、彼は来てくれる。
階段の上にある地上へつづく扉が、軋みながら開き、眩しい光が差し込んだ。
久しぶりに見る光は、暗闇に慣れたアルトゥール達の目には刺激以外の何者でもない。アルトゥール達は手をかざし、顔を背ける。
「何人だ?」
「七人です」
「七人!?」
階段を降りてくる足音が止まった。
「十人調達するという話だったぞ!」
「すいません。でも一人飛び抜けた上玉がいますから」
「何?」
足音はまた階段を降り始め、やがて二人の男がアルトゥール達が閉じ込められている牢の前までやって来た。
アルトゥールの周囲の娘達が、小さい悲鳴をあげて身体を寄せ合う。
「ゲーアノート様。この娘ですよ」
大男が手燭を掲げて、牢の中のアルトゥールの顔を照らした。
眩しさに、アルトゥールは目を細める。
「ほお?」
ゲーアノートと呼ばれた男が、嬉しそうに口元を綻ばせた。どうやら大男の上役らしい。
「お前にしては随分といい商品を仕入れたなヘルマン」
「ありがとうございます」
大男―――ヘルマンが媚びへつらうように頭を下げた。
「いいだろう。この娘なら都でもいい値がつく」
「では早々に運び出して……」
ゲーアノートとヘルマンはアルトゥールを売り飛ばす算段を始めた。
まるで壺か絨毯の商談であるかのような様子に、アルトゥールは怒りを覚えて拳を握り締める。
「すぐに助けが来ますわ」
アルトゥールが言うと、ヘルマンは鼻で笑った。
「誰が助けに来るって言うんだ?自警団は魔族の仕業だとすっかり縮み上がってるぞ」
「魔族の仕業なら仕方ないと、皆あっさり諦めるからな」
ははは、とゲーアノートは楽しげに笑う。その様子に、アルトゥールは引っ掛かりを覚えた。
(まさか……)
「それを狙って魔族の仕業だなんて言って回ったんじゃ……」
「おや?存外賢い娘だな」
ゲーアノートは鉄格子の間から腕を伸ばし、アルトゥールの顎を掴んだ。
「そうさ。お前の言うとおりだ。おかげでわたしの商売も順調そのもの。魔族様々だな」
アルトゥールはゲーアノートを睨みつけた。立ち上がれないのが悔しい。こんな男に見下されているなんて。
「……小さな男ですわね」
吐き捨てるように、アルトゥールは罵った。
ゲーアノートが目を細める。
「……何?」
「人を騙して売り飛ばすばかりか、更には悪事を他人になすりつけるなんて、小さな男としか言いようがないですわ」
「……小娘が賢しげにペラペラと……!」
ゲーアノートはアルトゥールの胸元を掴むと、もう一方の手でアルトゥールの頬を打った。
痛々しい音が牢獄に響き、アルトゥールの背後で娘達が震え上がる。
「商品が無駄口を叩くな。世の中には美しい娘を痛め付けて殺す、いい趣味を持つ金持ちが大勢いるんだ。お前をそういう金持ちに売り付けてやってもいいんだぞ?」
「あら、ごめんなさい」
アルトゥールは鉄格子の中から、真っ直ぐゲーアノートを見据えた。
こんな男、少しも怖くない。
「わたくし、自分の死に方はもう決めてますの」
その言葉が終わるか終わらないうちに、地上へつづく階段を数人の男が派手に転がり落ちてきた。
「きゃああ!」
娘達が悲鳴をあげ、ゲーアノートとヘルマンが後ろずさる。
「な、何事だ!?」
「どうした!?」
呻き声をあげて踞っている男達に、ヘルマンが駆け寄った。
「お前達どうしたんだ!?何があった!」
「あ、あいつが……」
「外の見張りもやられて……」
ヘルマンが、階段を振り仰ぐ。
土埃が白い煙のように立ち上るなか、煤色の外套を纏った長身の男が、ゆっくり階段を降りてきた。
「な、何だ!?てめぇ!!」
突然の事態に場が騒然とする中、アルトゥール一人だけは冷静だった。
(ほら。やっぱり来てくれましたわ)
鉄格子越しに、アルトゥールは彼を出迎える。
「スピーゲル。林檎飴はどうしましたの?」
「……この状況で開口一番にそれですか」
埃が舞い上がる中、階段を降りきったスピーゲルが盛大にため息をつく。
そのスピーゲルの背中にめがけて、階段の上からヘルマンの手下が槍斧を投げつけた。
スピーゲルは背中に目でもあるかのように槍斧をかわし、更に飛びかかってきたヘルマンの手下を足を高く上げて蹴り飛ばす。槍斧が突き刺さった壁に叩きつけられるようにヘルマンの手下は倒れ、白い埃がまた舞い上がった。
「まったく……随分と探しましたよ、姫」
スピーゲルが鉄格子の中のアルトゥールに向き直る。
「動くな、と言ったじゃないですか。それがどうして人買いについて行くんですか」
アルトゥールは飄々と答えた。
「騙されたんですわ。ほら、市場で聞いた『魔族の仕業』と言われてた人攫い」
「ああ」
スピーゲルは首を回して壁際でびくついているゲーアノートや、アルトゥールの後ろの娘達を見やる。
「なるほど。そういうことですか」
事態を把握したスピーゲルは、ため息をついて、腰に手をあてた。
「とにかく、姫。自覚してくださいと言ったでしょう?あなたは魔法無効化体質で、何かあっても魔法ではどうしてあげることもできないんですから、気を付けてくださいって」
煤色の外套の下でスピーゲルは呆れ返っているようだ。
その背後で、ヘルマンが手燭をそっと床に置き、持っていた短剣を鞘から抜いた。
「ここまで来たことは褒めてやるよ!」
スピーゲルに向けて、ヘルマンは大きな体を突進させる。
娘達の悲鳴が上がるなか、短剣がスピーゲルの背中に突き刺さった―――かのように見えたが、スピーゲルは鉄格子を駆け上がるようにしてヘルマンの刃から身をかわす。
「な……っ!?」
驚くヘルマンの背後に音もなく着地したスピーゲルのフードが、背中に落ちた。
頭の後ろで一つに括ったスピーゲルの長い髪が、あらわになる。
仄かな灯りに照らされた、その髪の色―――。
「……え?」
「ま、まさか……そんな」
ゲーアノートもヘルマンも、牢に囚われている娘達も、一様に息を飲む。
「――……っ魔族!?」
事も無げに振り返ったスピーゲルの背中で、白銀の髪が光を纏って月色に揺れる。
同じ色の睫毛の奥に光る瞳は、まるで血溜まりからとりあげた紅玉のように赤かった。
降り積もった雪を思わせる白銀の髪。
煌めく紅玉のような瞳。
若者らしい精悍な顔立ちとは対照的な、老成した落ち着き。
スピーゲルが立つそこだけが、まるで異次元であるかのように特別な空間に見えた。
「魔族!?」
「そんな馬鹿な……っ!」
ゲーアノートもヘルマンも、真っ青な顔だ。
そんな彼らを見渡すようにゆっくりと一度瞬きをして、スピーゲルが一歩を踏み出す。すると、ゲーアノートは情けない悲鳴をあげた。
「く、来るな!汚らわしい魔族め!ヘルマン!どうにかしろ!」
「う、うわあああ!」
ゲーアノート同様に怖じ気づいた様子だったヘルマンは、けれど己を鼓舞するに為に大声をあげ、短剣をスピーゲルに向けて無茶苦茶に振り回した。
読むことが難しいであろうその剣筋を、スピーゲルは最小限の動きで無駄なく避ける。まるで子供の相手でもするかのようだ。
やがてヘルマンが疲れ果てて動きが鈍くなったところで、スピーゲルは短剣を握るヘルマンの手首を掴み、一気に捻り上げた。
「いっいててて!」
自分より遥かに体格が良いヘルマンの動きを、スピーゲルは涼しい顔で完全に封じてしまった。
「う、腕が……!腕が折れる!」
「ヘルマン、と呼ばれていましたね」
スピーゲルの赤い目に見据えられて、ヘルマンがビクリと肩を揺らした。
「返事をするな!」
ゲーアノートが、壁際からヘルマンに叫ぶ。
「名前を呼ばれても返事をしなければ魔族の魔法にはかからない!」
―――『魔族に名前を呼ばれても、 けっして返事をしてはいけない。けっしてその手をとってはいけない』。
そうすれば魔族の魔法にはかからないのだと、人々は信じていた。
信じる根拠など何もない。けれど、黒猫を見たら縁起が悪いとか、白詰草の四つ葉を見つけると幸運が訪れるとか、そんな言い伝えと同じようにそれは人々の生活に『当たり前』として溶け込んだ伝承だった。
恐怖でひきつっていたヘルマンの口元に微かに笑みが浮かぶ。
「は、ははは。そうか、返事をしなければいいんだな!ははは!」
勝ち誇ったと言うにはあまりに弱々しく、ヘルマンは笑った。対してスピーゲルは、気の毒そうに眉尻を下げただけだ。
「『名前を呼ばれても答えるな、手を差し出されても手をとるな』……そうですね。まあ、間違いではないですよ。確かに僕の一族は相手の名前がわからなければ魔法をかけることが出来ない」
床に置かれた手燭の火が揺れ、その火に照らし出される世界が同時に揺れる。
厳粛ささえ感じるその空間で、微かに反響するスピーゲルの声は神秘的ですらあった。
「名前は、命そのもの。名前を呼ぶ行為は『支配』であり『束縛』だ。はっきり言ってしまえば……返事があろうがなかろうがかまわないんです。名前を呼ばれた時点で―――……」
スピーゲルの声が、低くなる。
「既に貴方は僕の支配下にある」
室内の気温が一気に下がったように感じられた。
ヘルマンの額から、水を頭からかぶったかのように冷や汗が流れる。
「……っな、なら!さ、触ってさえなければ……」
必死の形相で、ヘルマンはスピーゲルの手を振り払った。振り払われたその手から、スピーゲルは革手袋をするりとはずす。
「触るのは、ただの保険です」
「え?」
「僕の声が届く範囲に何の罪もない可愛い男の子がいるとします。名前はヘルマン」
「な、に?」
話の展開についていくことが出来ずに、ヘルマンは顔をしかめた。だが、スピーゲルはかまわず続ける。
「貴方に触れることなく魔法を発動させれば、何の罪もない男の子も同じ名前だというだけで巻き添えをくう。そういった事態を防ぐために、触れることで対象を限定するんです。つまり……」
スピーゲルの口調は穏やかだったが、逆らえない風圧のような力をもってヘルマンを圧倒する。
壁際のゲーアノートも、娘達も、震えることすら出来ずに凍りついたように動けない。
日に焼けていない白い素手を、スピーゲルは顔の横まで上げて示してみせた。
「―――必ずしも対象に触る必要はない」
「……っ!」
処刑の執行を告げるようなスピーゲルの静かな声に、ヘルマンは弾かれたように逃げ出した。
「……とはいえ、保険は大事です。魔力の無駄遣いを防ぐためにも、魔法をかける際には対象に必ず触るように、僕は師から厳命されています」
スピーゲルは慌てる様子もなくそう言うと、微かに屈んで跳躍した。地上へと続く階段へ走るヘルマンの肩に手をつき、そこを軸として宙で体を回転させる。
「そのために、相手と間合いをつめるための体術も僕は師から教え込まれました―――『ヘルマン』」
ヘルマンの肩を掴んだまま、その巨体の前へ降り立ったスピーゲルは、底冷えがするほど鋭い眼光でヘルマンを見上げた。
「『少し、反省しなさい』」
青白い光が、ヘルマンの巨体を包み込んだ。
「ごめんなさい、もうしません。 ごめんなさい、もうしません。ごめんなさい、もうしません。ごめんなさい、もうしません……」
ゲーアノートとヘルマンをはじめとする人攫いの一味は、全員が壁に向けて正座し、ブツブツと謝罪と反省を繰り返している。
「自警団が来るまでそうしていてくださいね」
そう言うと、スピーゲルはヘルマンが腰から下げていた鍵束を引きちぎるように奪い、アルトゥール達が閉じ込められている牢の錠前の鍵穴に突っ込んだ。
「それにしてもよくここがわかりましたわね。スピーゲル」
鉄格子ごしにアルトゥールが尋ねると、スピーゲルが疲れた様子で眉を寄せた。
「骨が折れましたよ。そこらじゅうの鼠に声をかけて探してもらいました」
錠前は錆び付いているらしく、なかなか開かない。スピーゲルが力任せに鍵を押し回すと、ようやく錠前ははずれ、牢の扉が開いた。スピーゲルは身を屈めて、アルトゥールに革手袋をはめ直した手を差し出す。そして視線を階段下にやった。
「彼らが見つけてくれたんです」
階段の陰では、小さな鼠が数匹、鼻をひくつかせて此方を窺っている。
スピーゲルの一族は『耳』がいい。声なき声に耳を傾けることで名前を教えてもらい、その名前を使って魔法をかける。
植物は――種類にもよるが――基本的に此方の呼び掛けに答えてくれないので魔法をかけることは難しいそうだ。だが動物は、大抵すんなりと名前を明かしてくれるのだそうだ。
ちなみに、人間の意識下の声、つまり心の内で思っていることは、どんなに耳をすませても分からないのだと言う。人間の心は雑音が酷くて聞き分けられないのだ、と以前スピーゲルが言っていた。
「手伝ってもらったお礼に貴女の林檎飴をあげました」
「……え」
スピーゲルの手につかまったまま、アルトゥールは固まる。今、もしかしなくても林檎飴を鼠にやったと言わなかったか。
「彼らのお陰で売り飛ばされずにすんだんですから、林檎飴一つくらい安いものでしょう?」
スピーゲルは呆れた様子でアルトゥールを牢から引っ張り出してくれた。
「……でも……」
アルトゥールが恨みがましい目で睨むと、鼠達は怯えたように後ずさる。
「コラ。睨まない」
「林檎飴え……」
「また買ってあげますから」
スピーゲルはまた身を屈め、牢の中を覗き込む。
「出て来ても大丈夫ですよ」
その穏やかな笑みと優しい口調は、いまだ牢の奥で身を強張らせている娘達を安心させるためではない。
我が道を闊歩するアルトゥールに振り回され、感情的に喚く機会が多々あるスピーゲルだが、基本的に彼は物腰柔らかな青年なのだ。
だが娘達は一斉に悲鳴をあげ、身を寄せあった。
「こ、こないで!汚らわしい魔族!」
彼女達の目は怯え、そしてスピーゲルへの侮蔑に満ちていた。
スピーゲルはその様子に傷つくでもなく、仕方ないとでも言うようにまた小さく笑う。
「開けておきますから、ヘルマン達が正気に戻る前に逃げてくださいね。自警団に保護してもらうといい」
そして立ち上がると、アルトゥールに向き直った。
「行きましょうか」
「……どうして怒らないんですの?」
「え?」
スピーゲルは、眉尻を下げる。そうすると精悍な顔立ちは、まるで少年のようにあどけない印象に早変わりした。
「ちょっとどいてくださらない?」
アルトゥールはスピーゲルを押し退けると膝を折り、牢の出入り口から娘達を睨み付ける。
「スピーゲルがあなた方に何をしましたの!?あなた方をだました?売り飛ばそうとした?してないでしょう? なにもしてない相手を『汚らわしい』と罵倒しろと、あなた方は教えられましたの!?そうだとしたらあなた方の親御さんはとんでもない愚か者ですわね!」
アルトゥールの剣幕に、娘達は目を真ん丸にして固まった。
まだ言い足りないアルトゥールは、彼女達に向かって更に喚く。
「言うべきは感謝の言葉ではなくて!?スピーゲルが来なかったらあなた方はまとめて……」
「姫」
スピーゲルがアルトゥールの肩を叩いた。
「もういいですから」
苦笑いしたその表情は、何かを諦めているように見える。
アルトゥールは何も言えなくなり、奥歯を噛んで立ち上がった。
スピーゲルはもう一度身を屈ませ、娘達に微笑みかける。
「出るとき、頭をぶつけないように気をつけて」
白銀の髪が、さらりと広い背に揺れる。
「行きますわよスピーゲル!」
「はいはい」
アルトゥールとスピーゲルが去った後、娘達は困惑して互いに顔を見合わせた。
すっかり暗くなった川辺で、石に座り込んだアルトゥールは頬杖をついていた。
「あんなふうに言われて、どうして腹がたちませんの?」
先程の娘達の言動が、アルトゥールはどうにも気に食わない。何もしていないのに、罵られ怯えられるなんておかしいではないか。憤って然るべきだ。
けれど、スピーゲルは困ったように笑うだけだった。
「あのくらいでいちいち怒ってられませんよ」
苛々するアルトゥールをよそに、蔑まれた本人であるスピーゲルは全く気にする様子はない。
『あのくらいでいちいち―――』……つまり、もっと酷いことを言われたことがあるのだろう。
涼やかな夜風が、スピーゲルの煤色の外套のフードを攫う。
どんなに暑かろうと不快だろうと、昼間は決して脱ぐことは出来ないフードから解放され、彼はようやく息をついたように夜を仰いだ。
白銀の髪が月の光に照らされて鈍く輝く。
その様に、アルトゥールは苛立ちも忘れて目を細める。
―――22年前。
国王は聖騎士団を『魔族』が住む谷へと差し向けた。
白銀の髪と深紅の目を持つその一族は、聖騎士団の襲撃に魔法の力で抵抗したという。
けれど魔法には『限界』と『制限』がある。
『魔族』と呼ばれたその人々は、猟犬に追われる野兎のように狩られ、焼かれた。
逃げ延びた僅かな者も褒美に目が眩んだ農民により次々と捕われ、聖騎士団に突き出された末に王城前の広場で火炙りにされたという。
赤ん坊だったスピーゲルは、暗い森の奥深くで、大叔父によってひっそりと育てられたそうだ。そしてその大叔父亡き今、彼は一族の最後の一人になった。
「やっと涼しくなりましたね」
一人言のように呟くと、白い月が映りこんだ夜色の川の流れの中に、スピーゲルは足を踏み入れた。
途端に、月の影がちりじりに霧散する。
川の中で、スピーゲルは上着の袖に歯をあて布地を強引に切り裂いた。そうして腰を折り、布地を川の水に浸す。
スピーゲルがいつも首から下げている小さな袋が、彼の胸元からこぼれおちた。
水面すれすれで振り子のように揺れるその小さな袋を、スピーゲルはまた胸元にしまいこみ、濡らした上着の切れ端を手にしてアルトゥールの元に戻ってくる。
「こっち向いて下さい」
言われるままに、アルトゥールは上を向いた。ゲーアノートに叩かれた頬は赤く腫れ、唇には血が滲んでいる。
優しく押すように血を拭いながら、スピーゲルは呆れたように溜息をついた。
「……昼間に言ったばかりですよ?あなたは魔法を無効化する特異体質だから、怪我をしても治してあげられない。だから気を付けて下さいって」
「確かに言われましたわね」
アルトゥールは素直に相槌を打つ。
自分が『魔法を無効化してしまう特異体質』だなんて、スピーゲルと出会うまでアルトゥールはまったく知りはしなかった。
けれど実際に『怪我を治す』魔法も『くしゃみを連発する』魔法も『声が蟾蜍になる』魔法も、アルトゥールにはかからないのだ。
こうなると自覚はなくとも特異体質であると認めざるを得ない。
(せっかく隣に魔法使いがいるというのに……)
『胃もたれにならない』魔法も『満腹にならない』魔法もかけてもらえない。その魔法さえかけてもらえれば、林檎飴を延々と食べていられるのに。何とも不便な体質だ。
「本当に分かってますか?」
「分かってますわ。わたくしには魔法がかからないんですわよね」
他人事と言わんばかりなアルトゥールに、スピーゲルは困ったように瞳を揺らす。
「そうじゃなくて……もっと自分を大事にしてくださいと、僕は言っているんです」
「自分を大事に?」
アルトゥールは首を傾げた。スピーゲルは、時々おかしなことを言う。
「わたくしが怪我をしようが病気になろうが、放っておけばいいのだわ。だって……」
夜風が吹いて、草木を揺らす。
黒い雲が流れて、月を隠す。
アルトゥールは一切躊躇わずにそれを口にした。
「どうせわたくしはスピーゲルに殺されるのだもの」
アルトゥールは事も無げに言い放つ。太古の昔から定められた理を口にするかのように。
月が、また顔を覗かせた。
淡い月明かりの中、スピーゲルの目が燠火のように揺れる。赤く光るその目を、アルトゥールは真っ直ぐ見つめる。
「そういう約束ですわよね?」
数ヵ月前の春霞の月夜。
アルトゥールの前に、スピーゲルはあらわれた。アルトゥールを殺すために。
けれど、スピーゲルはアルトゥールを殺せなかった。いや、アルトゥールが死ななかったのだ。スピーゲルがかけた魔法を、アルトゥールの特異体質が無効化してしまった。
『あなたに殺されてさしあげますわ。だから、わたくしを連れて行って』。
目的を達成できず狼狽えるスピーゲルに、アルトゥールはそう提案した。
それが、二人が交わした約束だ。
約束、というよりは、取り引きと言った方が正しいかもしれない。
とにもかくにも、かくして二人は行動を共にするに至った。
「…………」
スピーゲルは、痛みに耐えるかのようにアルトゥールの眼差しから目を逸らす。
「……殺そうにも、あなた死なないじゃないですか」
言い訳をするかのように、スピーゲルは言った。
アルトゥールは立ち上がり、スピーゲルに一歩近づく。
「魔法使いだからって、必ずしも魔法で人を殺さなければならないことはありませんわよ?」
「あなたの心臓を剣で一突きにしろと?」
「毒でもよくてよ?」
「……嫌ですよ」
大きく息を吐いて、スピーゲルは顔を上げた。
その精悍な顔には、困ったような、どこか悲しそうな、彼特有の微笑みが浮かんでいた。
アルトゥールの心臓が、痺れるように震える。
(この顔を見ると……)
何故かいつも、心臓が痺れるのだ。
その痺れは堪らなく切なくて、寂しくて―――熱い。
「僕にだって魔法使いとしての矜持があります。矜持にかけて貴女の体質は改変してみせます」
アルトゥールに背を向けて、スピーゲルは夜道を歩き始めた。
魔法を無効化するアルトゥールを殺すため、スピーゲルはその体質を改変する方法を探している。
けれど、それはなかなかに難しい試みであるらしい。
小走りでスピーゲルに追いついたアルトゥールは、彼と並んで歩いた。
「体質の改変と言っても……最初にそう言われてから数ヵ月たちましたわよ」
「痩身や健康増進のための体質改変とはわけが違うんです。一朝一夕で出来るわけないでしょう?」
「そうこうするうちにお婆ちゃんになってしまいそうですわ」
「そうしたら入れ歯をこしらえてさしあげますよ」
柔らかな月夜の闇に、虫の声がこだまする。
涼やかなその声音に、アルトゥールは耳を傾けた。スピーゲルの耳には、この虫の声はどんなふうに聞こえているのだろう。
「……キスの相手。また見つかりませんでしたわね」
アルトゥールが呟くと、スピーゲルは小さく肩を竦めた。
「……また別の街で探しましょう」
二人は並んで夜道を歩く。
その影が砂利道に細長く照らし出され、まるで手を繋いでいるように見えた。
2024.2.9 一部改稿