笑わず姫と魔法使いーアルトゥール①ー
アルトゥールは必死にエメリッヒを追いかけた。
死んだ母親からもらった大切な大切な守り袋を、エメリッヒにとられてしまったのだ。
以前はあんなに仲がよかったのに、エメリッヒは近頃アルトゥールに意地悪ばかりする。
お菓子をとったり、泥を投げてきたり。やめてと言っても、彼は一向にきいてくれない。
「エメリッヒ!」
前を走るエメリッヒに、アルトゥールは懇願した。
「それを返しなさいですわ!」
「返して欲しければここまでおいで!」
エメリッヒは笑いながら守り袋の紐を振り回す。
「やめなさいですわ!」
アルトゥールは悲鳴をあげた。
「乱暴にしないで!」
守り袋の中に何がはいっているのか、アルトゥールは知らない。中を見たら効果がなくなると母から言われたからだ。だが、もし壊れ物だったら大変だ。壊されてしまう前に取り返さなければ。
けれど、アルトゥールはなかなかエメリッヒに追い付けなかった。以前はアルトゥールより小さかったエメリッヒは、近頃ぐんと背が伸びた。足も速くなり、もう彼には追い付くのは容易なことではない。
階段を駆け上がるエメリッヒの上着に、アルトゥールは手を伸ばした。
指先に僅かに上着の裾が触れる。 アルトゥールは、夢中でそれを引っ張った。
すると、アルトゥールに引っ張られたことで体の均衡を欠いたエメリッヒは、まっ逆さまに階段から転がり落ちた。
幸いエメリッヒは打ち身程度ですんだのだが、アルトゥールの父親である国王は怒り狂った。
「何ということをしたのだ!」
大きな手で、彼はアルトゥールの頬を打った。
「エメリッヒは余の跡継ぎになるのだぞ!万が一のことがあったらどうしてくれる!」
「……」
打たれた頬に手をあて、アルトゥールは唇を噛み締める。
ただ守り袋を返して欲しかっただけだ。怪我をさせるつもりなんてなかったのに。
罪悪感と後悔と自己弁護がない交ぜになり、アルトゥールの胸の内は張り裂けそうだった。
けれどそのやるせない感情は、ちらりとも表情に出ることはない。
その頃には、既にアルトゥールの感情と表情を繋ぐ糸はひどく絡まっていて、完全に機能しなくなっていた。泣くことも笑うことも、アルトゥールにはすでに出来なかったのだ。
けれどアルトゥールの父親は無表情で佇むアルトゥールを見て、叱られたことで不貞腐れていると感じたらしい。
「何だその態度は!」
父親は、またアルトゥールの頬を打つ。
「素直に謝ることも出来ないのか!この傲慢な娘め!少しは思い知るがいい!!」
アルトゥールは何度も叩かれた。
頬は腫れて唇は切れ、謝ろうにも上手く話すことすらもう出来ない。
それでも父親はアルトゥールを許さなかった。
彼はアルトゥールをひきずるようにして王宮の端にある塔に連れて行った。
本来なら下級の侍女達が寝起きする粗末な場所だ。
そこの最上階の部屋にアルトゥールを放り込み、彼は猛獣のように吼えた。
「そこで少しは反省するがいい!」
―――それ以来、アルトゥールはその部屋で寝起きするようになった。
古く雨漏りがする部屋は、夏は暑く冬は寒い。
食事は日に二度、侍女が運んで来てくれる。父王から命じられているのか、侍女はアルトゥール相手には一言も口を開いてはくれなかった。
日々成長する体に着衣や靴が小さくなっても新しい物が与えられることは滅多にない。
王女とは名ばかりの囚人のような生活。
だが、慣れてしまえば塔での暮らしも必ずしも悪いものでもなかった。
部屋の露台からは、堀の向こうにある城門を見下ろすことができたからだ。
城に出入りする貴族達や商人、騎士や侍女、農作物を納めに来た平民など、行き来する様々な人を眺めるのは、意外にも楽しいものだったし、露台にいると下の階にある侍女達の部屋から漏れ聞こえるお喋りを盗み聞きすることも出来る。彼女達のお喋りを聞いているとまるで自分もお喋りの仲間の輪にはいれたような気がした。
アルトゥールが何より楽しみにしていたのは、ある下女が部屋の前の廊下を磨くときに口ずさむ歌を聞くことだった。
扉を少しだけ開けて、その隙間から聞こえる彼女の歌に、アルトゥールはいつも耳をすましていた。
下女の歌は明るくて楽しくて、心が踊るような恋の歌だった。
その日も、アルトゥールはいつものように下女の歌が聞こえるのを待っていた。
窓の向こうでは、この冬初めての雪がひらひらと空から舞い降りる。
小さく儚い一片が、やがて一面に降り積もって根雪となり、春までこの国を雪に閉じ込めてしまうのだろう。
『辞める?』
歌の代わりに聞こえてきた声に、アルトゥールは耳をすます。
すると、下女の声も聞こえてきた。
『ええ、行商に行っていた恋人が帰ってきたの!やっと結納金が用意できたって!私もここで働けて持参金を貯められたし』
『でも雪が降ってきたのに……』
『だから、すぐ行くわ!春を待ってたら折角貯めたお金があいつの酒代に消えちゃうから!』
下女は、馴染みの侍女達に別れを言って階段を駆け下りていったようだ。
アルトゥールは慌てて扉をしめると部屋を横切り、硝子扉を開けて露台に出た。
城門につづく通路は、寒いせいで人影が少なかった。広い通路の端はうっすら白くなっていて、見張りの衛兵が歩いた黒い足跡がいくつか交差している。
しばらくすると、外套をかぶった旅姿の下女が城から駆け出してきた。
城門の陰から男が出てきて、下女にむかって両手を広げる。
その腕の中に、下女は迷わず飛び込んだ。
二人は笑って見つめあい、そしてくちづけを交わした。
わあっ、と、侍女達の歓声があがる。
あまりに美しい光景に、アルトゥールは呼吸を忘れた。
凍えるような寒さの中、自然に寄り添い、くちづけを交わす恋人達。
幸せそうだった。
そのまま雪に凍えて命が絶たれても悔いはないと言い切れるだろうほどに、二人は幸せそうだった。
(あんな……)
あんなキスがしてみたい。
寂しさも、悲しみも、すべて溶かしてしまうような熱いキスがしてみたい。
あんなふうに、誰かと恋をしたい。
誰かに――――………愛されたい。
そして、月日は流れる。