笑わず姫が辿りつく場所
目を閉じ、アルトゥールはかつて耳元で囁かれた声を、胸の内でだきしめる。
『あなたは好きなようにして僕を振り回せば……』
本当に、最後の最後まで彼を振り回してしまった。
願わくば、アルトゥールの死に様を人々が覚えていてくれますように。
時折その死を思い出し、アルトゥールが言った言葉を胸のうちで繰り返してくれますように。
(そうしたら、いつか……)
スピーゲルが、外套を脱いで街を歩ける日が来るかもしれない。
石を投げられる彼を、庇ってくれる人があらわれるかもしれない。
こんなささやかな形でしかスピーゲルを守れない自分が情けなかったが、アルトゥールに出来るのはこれくらいが関の山だ。
「お、おい。いいのか?」
集まった群衆のなかで、アルトゥールに石を投げつけた若者が迷いの声をあげる。
「このままじゃあの女、本当に火炙りにされちまうぞ?」
「だ、だって……魔族の仲間なんだろう……?」
「でも違うと言っているじゃないか」
迷いは、周囲に伝染し、広がり始める。
「髪が黒い」
「魔族じゃない?」
「いや、だが魔法で変えているとしたら……」
「そんなこと言ったら……」
若者が言った。
「『魔法で変えているんだろう』と決めつけられたら、『違う』と証明する方法なんてない」
「……」
まさに投げた石が、投げ返されたような感覚に彼らは陥った。
「騙されるな!!」
コンラーディンの必死な声が、辺りに響く。
「穢らわしい魔族の言うことに惑わされるんじゃない!我々は正義だ!魔族は悪だ!」
彼は傍らにいた松明を掲げる聖騎士を振り返る。
「早く火をつけろ!」
「で、ですが……」
「お前がやらんなら私がやる!!」
部下の手から松明をひったくり、コンラーディンは櫓に投げつけた。
火は瞬く間に櫓に燃え移り、煙があがり始める。
「は、ははは!」
コンラーディンが高笑いする
「あひははは!!燃えろ!燃えてしまえー!!」
煙をたどるように、炎が櫓をのぼりはじめる。
勢いを増す炎と煙にまかれ、縛り付けられたアルトゥールは咳き込んだ。
「……思ったより……苦しいんですの……ね。ゴホ!ゲホ!!」
煙い。熱い。暑い。
苦しさに、アルトゥールの目に涙が浮かぶ。
(……スピーゲルの家族は……)
こんな苦しみのなかで、死んでいったのかもしれない。
意識が、ユラリと揺れる。
そろそろ死ねるらしい。
視界がぼやけていくなか、狭い足場を踏み締める革靴の音がした。
***
炎が空に向かって手を上げ、広場のあちこちから悲鳴があがり始めた。
「……火を……」
呆然と炎を仰いでいた聖騎士の一人が、夢中で叫ぶ。
「火を消せ!!消すんだ!!」
「だ、だが……」
仲間達が顔を見合わせる。
「魔族が俺達を惑わそうとしていたとしたら……」
「執行許可は一応出ているし……」
「俺は……っ」
若い聖騎士は、手を握りしめる。
「聖騎士になるときに『寛容なれ』と誓った!!」
「……っ!」
聖騎士達が、一斉に井戸に向かって走り始めた。
「な、何をしている!?」
コンラーディンが、血走った目を見開く。
「そんなことしたら、火が消えてしまう!!」
「消すんだよ!」
敬語などかなぐりすてて、聖騎士が叫んだ。
「そもそも!エメリッヒ様がいないからって好き勝手するんじゃねえよ!この腸詰め狸!!」
そうこうするうちにも、櫓を包む炎は大きくなっていく。
「だ、ダメだ……っ」
「くそ……!」
悔しげに炎を睨む聖騎士達の横で、かつて聖騎士団から逃げ出した例の老人が、燃える櫓を震えながら見上げる。
「ああ……」
その目には、二十二年前の悪夢が蘇っていた。
燃える家々。
逃げる人々。
銀髪を三つ編みにした若い娘が背後から槍に突かれ、胸を剣で貫かれた少年の上に重なるように倒れる。
動かぬ母親の隣で泣き叫んでいた子供は、矢に射抜かれ、赤い目から涙を流したまま事切れた。
風すらも赤く熱く、地獄のような光景。
『助けてください』
その若者は、赤ん坊を抱えた妻を背に庇って懇願した。
『見逃してください。お願いです』
背が高い男だった。
切れ長の赤い目に、精悍な顔立ち。
かつての老人に―――従騎士に槍を突きつけられて尚も、彼は妻と生まれたばかりだろう小さな赤ん坊を守ろうと必死だった。
『……行け』
従騎士は、言った。
そして、叫んだ。
『早く……っ早く逃げろ!!』
魔族を皆殺しにせよ―――――それが、国王の勅命だ。
けれど、そんな命令クソ食らえだ。人殺しになりたくて、騎士団にはいったわけではない。
従騎士は自らの槍を、その場で叩き折った。
『早く逃げろ!!』
『……っ』
魔族の若者は驚いた様子だったが、唇を引き結び、すぐに妻子を抱えて走り去った。
その背中を、従騎士は泣きながら見送る。
『……逃げろ』
逃げろ。
逃げろ。
燃えてしまう。
死んでしまう。
―――――目の前を横切る影に、老人は悪夢から現実に引き戻される。
煤色の外套を纏ったその影は近くに積まれた薪を足場にして燃え盛る櫓へと飛び移り、くくりつけられていた黒髪の娘を抱き抱えて、また炎から飛び出した。
煤色の外套が揺れ、束ねていない白銀の髪が風に靡く。
切れ長の赤い目と老人の視線が刹那ぶつかり、老人は瞠目した。
「……あ」
その切れ長の目。
精悍な顔立ち。
「あ、あんた……」
老人は駆け寄ろうとしたが、酒に病んだ体は昔のように機敏に動いてはくれない。
老人はよろけ、石畳に膝をつく。
「魔族だ―――――!!」
聖騎士達が叫ぶ。
「追え!!」
「やっぱり仲間だったのか!!」
追い掛けようと走り出す騎士達の足元を、小動物が素早く横切った。
「うわ!?」
「ね、鼠!?」
石畳を覆うほどの無数の鼠が、聖騎士達の行く手を阻む。
その上、鳥という鳥が広場に集まってきた。
「何だ!?鳥が急に……っ!」
極端に低空を羽ばたく鳥達の羽毛が舞い散り、足元には鼠の大群。
櫓はまだ激しく燃えており、広場に集まった人々の間からは次々と悲鳴が上がる。
その騒乱のなかを、煤色の外套を纏った魔族の男は走り抜けて行った。
二十二年前と同じように、腕に大切そうに愛しい女を抱えながら―――……。
老人は、遠ざかる背中を信じられない思いで見送った。
「い、生きて……?いや、そんなはず……」
あれから流れた歳月を思えば、あの時の若者であるはずはない。
老人の目から、涙がこぼれ落ちる。
「ああ……そうか。あの赤ん坊……」
生きのびたのか。
あの地獄を。
「……よかった……よかったなぁ……」
老人はその場に踞り、咽び泣いた。
***
鼠と鳥のおかげで広場から脱出できたアルトゥールとスピーゲルは、橋の下から地下水路に逃げ込んだ。
薄暗い水路の歩道にアルトゥールを下ろし、スピーゲルは血が滲む端切れが巻かれた腕を押さえて踞る。
「……っ」
「スピーゲル!?」
矢で射たれた傷が痛むのだろう。
身を屈めて覗き込むと、銀髪の隙間から歯を食い縛るスピーゲルの口元が見えた。
「スピーゲル!?痛みますの!?」
どうにかしなければとアルトゥールは狼狽えるが、どうにもならない。
「スピーゲル!」
「……っどうして!」
スピーゲルの背に添えたアルトゥールの手を、彼は乱暴に振り払って身を起こした。
「どうして大人しく死のうとしてるんですか!!」
その赤い目は怒りにつり上がっている。
眉間に皺を寄せアルトゥールを睨み付け、スピーゲルは分かりやすいほどに激怒していた。
「あんなご立派な演説ぶちかます余裕があるなら少しくらい抵抗したらどうです!?何で逃げようとしないんですか!?どうして簡単に自分を投げ出してしまうんです!?」
矢継ぎ早に責め立てられて、アルトゥールはだんだん腹がたってきた。
せっかく再会できたというのに、無事を喜びあうどころか、何故こんなに怒鳴りつけられなければならないのだ。
「スピーゲルこそ……!スピーゲルこそ余計なことをしないで欲しかったですわ!!」
着火した怒りのままに、アルトゥールは声を荒げる。
スピーゲルは眉間の皺を更に深くした。
「はあ!?余計なこと!?」
「どうして助けたりしたんですの!?」
「助けないと死んでたじゃないですか!」
「死のうとしたんですわ!」
アルトゥールは立ち上がり、スピーゲルを見下ろす。
「それなのに!スピーゲルが助けたりするから、わたくしの必死の訴えがただの自己弁護か仲間が助けにくるまでの時間稼ぎだと思われたに違いありませんわ!あなたが悪くないって分かってもらうにはどうすればいいか、一生懸命考えてああしましたのに!」
「それこそ余計な御世話だ!」
スピーゲルも、アルトゥールを追いかけて勢いよく立ち上がる。
「僕は自分のしていることが許されることだとは思っていないし、理解して貰えるとも、貰おうとも思っていません!」
声が地下水路の壁に反響し、耳障りこの上ない。聖騎士団に見つかる危険性がないわけではないのに、頭に血が昇った二人の言い争いは加速する一方だ。
アルトゥールはスピーゲルに食って掛かる。
「わたくし、スピーゲルのそういうところが凄く凄く凄く腹立たしいですわ!スピーゲルは結局端から全部諦めて、理解して貰う努力を怠ってるだけですわ!わかってもらえるはずないって、あなたはいじけてきめつけてるだけなんですわ!」
アルトゥールは捲し立てたが、スピーゲルも負けてはいなかった。
「あなたこそ人の内情に首をつっこむのをやめたらどうですか!?親切でやってるつもりかどうか知りませんが、他人の世話をやける立場じゃないでしょう!?満身創痍じゃないですか!!どうしてそうまでするんですか!!もっと自分を大事にしてください!!」
普段の物腰の柔らかさなど見る影もない。哮けるスピーゲルは、けれどどこか痛々しかった。
その様子に、アルトゥールは彼が怒っているのではなく、度を越してアルトゥールを心配してくれたのだとようやく気が付く。
(……満身創痍は……スピーゲルの方じゃありませんの)
怪我をして運河に落ち、聖騎士団の追跡を逃れるだけでも骨が折れたろうに、傷の手当てもそこそこにアルトゥールを助けに来てくれた。
自分が捕まる危険を承知の上で、駆け付けてくれた。
す、とアルトゥールの頭に昇っていた血が引いていく。
荒ぶっていた感情が、夕凪のように静まった。
けれど、スピーゲルは荒ぶる感情を持て余したままだ。
「だいたい!どうしてあそこで笑うんですか!?」
「……え?」
アルトゥールはスピーゲルの発言に首をひねる。
それまでの言い争いの流れから微妙に……いや、かなりずれていやしないか。
スピーゲル自身は、自身の発言の論点がぶれまくっていることには気づいていないらしい。いや、気づいていてもあまりに勢いがつき過ぎて、もはや止まれないのかもしれない。
「今まで一度だって僕にあんなふうに笑ってくれたことないじゃないですか!それなのに何であなたを魔族だと罵って石を投げて殺そうとしてる人達に笑いかけるんですか!?」
濁流のような勢いのまま自身の不満をぶちまけたスピーゲルは、疲れたのか膝に手をついて俯いた。
暗い水路に静寂が訪れる。
さらさらと流れる水の音だけが聞こえた。
「…………わたくし……笑ってまして?」
肩で息をするスピーゲルを見下ろし、アルトゥールは尋ねた。
笑った自覚はない。本当に自分は笑ったのだろうか。
下をむいたまま、スピーゲルがまた怒鳴る。
「笑ってたじゃないですか!すごく綺麗に!どうやったらそんなに綺麗に笑えるのかって不思議なくらい綺麗で……っ」
「…………ですわ」
アルトゥールの答えが聞き取りづらかったのだろう。スピーゲルは身を起こすと怪訝そうに瞬いた。
「……はい?」
「わたくしが笑えたのだとしたら、あなたのおかげですわ。スピーゲル」
そう言うアルトゥールの頬は、自然と緩んでいた。
柔らかに上がる口角。
長い睫毛が縁取る青い瞳は、晴れた日の泉のように輝いている。
春が訪れたかのようなその微笑みは、スピーゲルの顔を一瞬で赤く染め上げた。
「……っ!」
耳まで赤くなった顔を、スピーゲルは全力でアルトゥールから逸らす。
「い、いきなり笑わないでください!!」
「え……あ」
自らの顔の変化に気がついたアルトゥールは、両手の指で確かめるように頬に触れる。だが、それだけでは満足出来ずに、膝をついて水路を覗き込んだ。
ゆったりした水路の流れ。暗い水面は、鏡の役割を果たしてくれた。
そこにぼんやり映る自らの微笑みを見て、アルトゥールは嬉しくなり、笑みを深める。
「……本当……笑って、ますわね」
笑えている。
どんなに笑おうとしても笑えなかったのに。
けれど、その微笑みはすぐに翳った。
不安な面持ちで、アルトゥールはスピーゲルを振り仰いだ。
「……笑っては、ダメ?」
「……は?」
アルトゥールの意図を汲みかねたスピーゲルが、首を傾げながらアルトゥールに向き直る。
彼に、アルトゥールは尚も問い掛けた。
「不快?わたくしが、笑うと」
「……何でそうなるんです」
逆に訊き返され、アルトゥールは目を伏せた。
「……媚を……」
先程まで笑っていた頬を、アルトゥールは手でつまむ。
「媚を……売っているように、見えないかしら?」
「……媚?」
スピーゲルが首を傾げる。
アルトゥールは目だけではなく顔も伏せた。
「……い、言われたことが、あって……」
悪事の言い訳をするような気分で、アルトゥールは唇を震わせる。
「わたくしが笑うと……媚を売るなって……泣くと煩わしいって……だからわたくし……わたくし……」
笑えなくなった。
泣けなくなった。
心はひび割れ、粉々に碎け散った。
ぎゅ、とアルトゥールは指先に力を込める。
すると、頬は痛みを訴え熱くなった。
(……媚を売っているように見えたなら……)
スピーゲルに不快な思いをさせたくはない。
彼に嫌われたくなかった。
それなら、笑えなくていい。
泣けなくていい。
人形のように凍りついた顔で―――心でかまわない。
自らの頬をつねるアルトゥールの手を、静かに跪いたスピーゲルの手が包む。
「……痛いでしょう?」
痛ましげに、スピーゲルはアルトゥールを見つめた。
眼差しに込められた優しさとスピーゲルの指に促され、アルトゥールは頬をつねっていた指から力を抜く。
「……スピーゲル……」
「いいじゃないですか。誰が何と言おうが」
スピーゲルは、笑ってくれた。
久しぶりに見たその穏やかな微笑みに、アルトゥールは目を見開く。
「あなたは、笑いたいときに笑えばいい。泣きたいときに泣けばいいんです」
そして彼は少し躊躇いがちに、アルトゥールに懇願した。
「……笑ってください。姫」
「……」
「笑って?」
アルトゥールの頬に、涙が一筋流れた。
(笑って、て……)
そう言われたのに、何故涙がでるのだろう。
無茶苦茶だ。
でも、いい。
スピーゲルは、好きな時に笑って泣けばいいと言ってくれたのだから。
我が儘を言って振り回せばいいと、言ってくれたのだから。
「……姫?」
「こ……怖かっ……」
嗚咽が、喉の奥から込み上げる。
それを押し止める術を、アルトゥールは知らない。
「ずっと……あなたが……スピーゲルが、死んでしまったのではないかって……怖くて、怖くて……っ」
アルトゥールはくしゃりと顔を歪めた。
瞳は洪水をおこしたかのように次から次へと涙を押し出す。
スピーゲルは、そんなアルトゥールに驚いた様子だ。
「……姫……」
「よかった……っ」
アルトゥールは、しゃくりあげる。
「スピーゲルが死ななくて、生きてて……よかったあ……っ」
子供のように手放しで、アルトゥールは泣いた。
涙が止まらない。
昨日もそうだった。泣き止みかたがわからない。
このままでは干からびてしまうのではと心配になったが、それでもいいような気がした。
スピーゲルがいるから。
生きていてくれたから。
だから、もう他のことはどうでもいい。
「……」
涙するアルトゥールをしばらく黙って見守っていたスピーゲルが、絡ませた指先に力が込め、アルトゥールを引き寄せる。
それに、アルトゥールは素直に従った。抵抗する理由などない。
「……スピー……ゲル?」
「……」
こん、と額が軽くぶつかった。
口づけ出来そうなほどに、近い距離。
彼の伏せた睫毛が、すぐそこにあった。
その銀の睫毛が、微かに震えているように見える。
「……あなたくらいですよ」
スピーゲルの声は、少し掠れていた。
まるで泣くのを我慢しているかのように。
「魔族がこの世界から消えることを、惜しんでくれるのは……」
「……スピーゲル……?」
「……あなただけだ……」
スピーゲルとの間にあった薄い壁のような見えない隔たりが、崩れて消えていくような感覚がした。
絡んだ指が、温かい。
スピーゲルがいつもつけている革手袋をしていないことに、アルトゥールはようやく思い至る。
日に焼けていない手は雪のように白く、けれど春の日差しのように温かかった。
辿り着いた――――……。
漠然と、アルトゥールはそう思った。
ずっとずっと、この場所に辿り着くために生きてきた気がする。
声を上げて笑える場所。
安心して泣ける場所。
母の死により永遠に失ったと思っていた場所に、アルトゥールはいつのまにかまた立っていた。
「……スピーゲル」
呼ぶと、スピーゲルが瞼を上げた。
アルトゥールが大好きな林檎飴のように美しい深紅が、姿をあらわす。
「……」
「……」
互いに、何を考えているのかがわかる気がした。
心臓の音が、妙にゆっくりと耳に響く。
アルトゥールは目を閉じた。
見えなくても、スピーゲルの唇が近づいてくるのが分かる。
スピーゲルの呼吸が、アルトゥールの呼吸と重な――――――……………………。
ゴンッッッ!!
「……っ」
「……っ」
それまで漂っていた甘い空気は幻と化し、二人は互いから飛び退くようにして、各々額を押さえて踞る。
「い……痛っ……!」
「……っあ、ぶねー……」
先に身を起こしたスピーゲルが、ボソリと独り言を呟く。
それを耳にして、アルトゥールは額を押さえたまま勢いよく起き上がった。
「危ないのはスピーゲルですわ!何で頭突きですの!?今のはキスの間合いでしたわよね!?キスしようとしましたわよね!?」
「いや、気のせいでしょう。気のせいに決まってます」
ははは、とスピーゲルは乾いた笑いを唇に浮かべて目を泳がせた。
「さあ。さっさと帰りますよー」
「ぬ――――ッッッ!!」
怒りのあまり奇声を発しながらも、アルトゥールは先にたって歩き始めたスピーゲルの背を追いかける。
ほどなく、アルトゥールはスピーゲルに追いついた。アルトゥールの歩調に、彼が合せてくれているからだろう。
「それで?これからどうしますの?」
「この水路は街外れまで続いているので、とりあえず歩きましょう」
「……スピーゲル」
アルトゥールは、スピーゲルの胸元をチラリと見た。
「大丈夫ですの?矢が……」
胸を貫いたように見えたのだが。
スピーゲルは「ああ」と頷いて、いつも首から下げている例の小袋を服の下から引っ張り出した。
「これにあたったんです」
引きつれたように破れた小袋の中にはいっていたのは、信管の部分にひびがはいった砂時計だった。
「硝子だとばかり思っていましたが、かなり硬い鉱物で出来ていたみたいです。おかげで助かりました」
「……お父様が……」
アルトゥールは、スピーゲルの掌に転がる砂時計に微笑みかける。
「スピーゲルのお父様が、守ってくれたんですのね」
「……ええ」
スピーゲルは頷き、砂時計をまた小袋に戻す。
「行きましょうか」
「そうですわね」
二人は並んで暗い歩道を歩いた。
先に行けば行くほど、闇は深くなる。
その闇を見つめ、アルトゥールとスピーゲルは恐れるように立ち止まった。
「……」
「……」
背後から差す僅かな日の光に照らされ、二人の影が石が敷き詰められた通路に細長く映し出される。
どちらともなく、二人は手を繋いだ。
しっかり指を絡め、互いの目を見つめる。
今はそれで十分だった。
言葉も、お互いの立ち位置も、明確なものは何もない。
けれど繋いだ手の温もりさえあれば、どんな暗闇でも歩いて行ける。少なくとも、アルトゥールはそう思った。
同時に、二人は足を踏み出した。
〈第一部終了〉