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笑わず姫の笑顔






『いい子にしているんですよ』






頭に置かれた手の重み。



『大丈夫ですか?』


心配そうに覗きこんでくる眼差し。



『もっと自分を大事にしてください』


叱ってくれる声。



『あなたのせいじゃありませんよ』


寄り添ってくれる温もり。




『……姫。涎』

『どれだけ探したと思ってるんですか!』

『怒ってません!』

『気をつけてください』

『甘やかしてなんていません』

『怪我でもしたらどうするんですか』

『姫――――』

 



『姫』



―――――向けられる、滲むような微笑み。




それらは、雪のように降り積もった。


次から次へと降り積もったそれらは、夜の闇のなかで仄かに明るい雪明かりのように、アルトゥールが立ち尽くしていた暗闇を優しく照らしてくれた。

その灯りを頼りに、アルトゥールは粉々になって捨て置かれた心の欠片を拾い集める。

少しずつ、少しずつ。

――――アルトゥール本人すらも気づかぬうちに、欠片はいつのまにかアルトゥールの胸のなかに元通りに収まった。



傷痕は、まだ色濃い。

時折痛むこともあるだろう。

けれど、だからなんだというのだ。


どんなに無惨に踏み乱されようとも、大地は雪に抱かれることで癒され、強くなり、やがて爛漫の春を咲き誇るのだから――――……。













石灰と水を練ってかためた鉄格子の枠は、混ぜ物が多い粗悪品なのか古いせいなのか、時間をかければ木の匙でも削ることが可能だった。

とはいえ、爪先立った不安定な体勢で匙をもつ指先に力をこめるのは、簡単な作業ではない。

体重を支える足は疲れて細かく震え、匙を持つ手には肉刺(たこ)と擦り傷ができて、力をいれるだけで痛む。

作業を始めた時には見えなかった三日月が、いつのまにかあらわれ、そして今は西に傾いている。

少しずつ少しずつ窓枠を削り、ある程度のところで鉄格子を掴んで全体重をかけて引っ張る。

この作業をどれほど繰り返しただろうか。窓枠はまだびくともしない。

血が滲む掌を見下ろし、アルトゥールは溜め息をついた。

「……だからって諦めたら火炙りですわ」

アルトゥールは自らを励まして、また爪先立つ。

すると、暗闇の向こうから足音が聞こえてきた。

(見回りですわ!)

牢獄なので仕形がないが、一定の時間で騎士が見回りに来る。これも、アルトゥールの作業が思うように進まない理由の一つだった。

アルトゥールは慌てて作業を中断し、隅に踞って寝ているふりをしようとする。

ところが、あまりに慌てたせいか匙を落としてしまった。

匙は石の床の上で一度跳ねると、クルクルと回りながら牢の外側の通路まですべって行ってしまう。

「……っ!」

見回りの騎士に匙を拾われて没収されては、作業は続けられない。

すぐに匙を拾いたいが、見回りの足音はもうすぐそこだ。もし匙を拾う姿を見られたら、アルトゥールの脱獄計画が露見しないとも限らない。

一瞬の間に色々な迷いが頭をよぎったが、結局アルトゥールは鉄格子に走り寄った。

鉄格子の隙間から匙へと手を伸ばす。

(届か……ない)

必死に腕を伸ばし、指を伸ばす。

(……スピーゲル!)

中指の爪の先が、匙に触れた。

その時。

人の気配に、アルトゥールは顔を上げた。

粥をくれたあの老人が、匙を手にしたアルトゥールを暗闇の中からぼんやりと眺めている。

「……っ」

咄嗟に、アルトゥールは匙を掴むと、その手を背中へと回し隠した。

そんなことをしても無駄だと、すぐにアルトゥールは思った。きっと老人はアルトゥールの不審な行動を疑うだろう。牢のなかを調べられて、窓枠が削れていることに気がつかれたら……。

いや、牢のなかを調べるために老人が戸口の鍵をあけたら、彼を突き飛ばして牢から逃げると言うのはどうだろう。

(……っでも)

年寄りを突き飛ばすという手段にでることを、アルトゥールは躊躇った。

綺麗事を言っている場合ではないが、褒められた行為ではない。

(どう……したら……)

緊張に、アルトゥールは唾を飲み込んだ。

闇が落ちる通路。

老人が一歩を踏み出す。

けれどその一歩は、アルトゥールの牢に入るための一歩ではなく、今来た道を引き返す一歩だった。

「……え」

面食らったアルトゥールは、目を瞬いた。

(見逃して……くれましたの?)

でも、何故。

「あ……あの!」

思わず、アルトゥールは老人に声をかけた。

老人が、ぴたりと止まる。

その背中に、アルトゥールはおずおずと尋ねた。

「あの……見ましたわよね?いいんですの?」

「……」

老人は腰に下げていた酒瓶を手に取りおもむろに煽ると、ゆっくり振り返った。

「いいって、何がだい?」

「何って……」

「俺は見張りの給金をもらってるし己の身も可愛い。だから手助けはできないが……」

老人はまた酒瓶を煽ると、口の端から溢れた酒を腕で拭った。

「うまく逃げな(やりな)

「……」

アルトゥールは戸惑って頷くことも出来ない。

そんなアルトゥールに、老人は尚も言った。

「そもそも、あんた魔族じゃないだろう?」

「え?」

「何となくだがね、わかるのさ。これでも大昔、聖騎士団にいたからな」

意外である。

アルトゥールは鉄格子ににじりよった。

「聖騎士でしたの?」

「いいや、従騎士さ。馬の世話から始めて、ようやく従騎士になった」

老人はふらつく体を支えようとアルトゥールのいる牢の鉄格子につかまり、そしてそのままズルズルとそこへ座り込んだ。

胡座をかき、また酒を一口飲む。

「……けれど結局……脱走しちまったよ。馬鹿馬鹿しくなってな」

作戦中の任務放棄と逃走行為は重罪だ。聖騎士団からは除籍され、罪人として国中に手配される。

「脱走って……大丈夫ですの?外には聖騎士団が……」

人のことを言える立場ではないが、老人こそ逃げた方がよいのではないか。

けれど老人はのんびり首を振った。

「手配されたのは二十二年も前だからな。聖騎士団に俺の顔を知ってる人間は残っていないし、俺も随分様相が変わった」

疲れたようなその横顔を見て、アルトゥールは思った。

(……この、人……)

髪は真っ白で皺も深いが、見た目より年をとっているわけではないのかもしれない。

聖騎士団から脱走し、顔を隠して人目を避けるようにして生きてきた苦労が、彼の容姿を老いさせたのかもしれない。

アルトゥールは、鉄格子をはさんで老人のすぐ傍にしゃがみこんだ。

「……馬鹿馬鹿しいって、どういうことですの?」

老人はアルトゥールを見ることなく、瓶の中を覗きこむ。酒の残りが少ないらしい。

「『清貧であれ』」

「え?」

「『寛容であれ』『弱き者を助けよ』……聖騎士団が掲げる騎士道大原則だ。聞いて呆れる。あんな虐殺を見た後だとな」

「……虐殺?」

「知ってるだろう?魔族狩りさ」

「……」

遠くを見るように、老人は目を細めた。

「あれは本当に酷い夜だった……谷中が炎に包まれて、空まで燃えるような勢いだった。聖騎士達は足の悪い年寄りまで……」

老人の暗い瞳が、涙に潤む。

彼は今も、あの日の悪夢に苛まれているのだろう。

「……何のために騎士団にはいったのか……少なくとも俺は逃げる女子供を背中から串刺しにするために騎士を目指したんじゃない」

ぐすりと、老人は鼻を鳴らした。そして酒瓶を口に運ぶ。

「魔族狩りは、魔族が魔法で洪水をおこした報いだと言う奴もいるがな……今となってはあの洪水も本当に魔族の仕業だったのかどうか……」

老人の言葉に、アルトゥールは目を見開いた。

「どういうことですの?」

魔族が魔法で大雨をふらせ、洪水を引き起こした。それが歴史の定説だ。

伝説じみたその定説をアルトゥールは頭から信じていたわけではないが、洪水が魔族のせいではないなら、国王が――――アルトゥールの父親が魔族狩りを断行した理由は一体何だ。

老人は、酒瓶を逆さにして口にむけて振っている。とうとう酒がなくなったようだ。

「当時の団長が言っていたのさ。地方から上がってきていた治水の嘆願を国王陛下が後回しになさっていると」

「え……」

未練がましく酒瓶の中を覗きこみながら、老人は言った。

「嘆願をきいて治水に力をいれていれば、いくら大雨でもあれほど酷い洪水も、それによる飢饉も起きなかっただろうよ」

「……」

アルトゥールは、膝の上に置いた手を隠し持っていた匙ごと握り締めた。

肉刺(たこ)が痛んだが、心の痛みほどではない。

(治水が後回しになったせいで、洪水がおきた……)

そして飢饉。

民の不満は爆発寸前だっただろう。もしかしたら、食料を求めた民衆による暴動が起こる寸前だったのかもしれない。

(……その、暴動を押さえるために……?)

民衆の怒りの捌け口として、魔族狩りが行われたのだとしかアルトゥールには思えなかった。

(だとしたら……)

スピーゲルの後ろ姿が、目の前をちらついた。

ただ一族を滅ぼされただけでも、その怒りは、悲しみは、どれほどのものだろう。

その上、失策の目眩ましとして利用され、何の罪もなく滅ぼされたのだとしたら――――。

あの優しいスピーゲルが復讐を決意するには、十分すぎる理由に思われた。

「赤ん坊を抱いた若い娘がいてな……夫らしい男が必死に守っていた……」

老人が、過去をそこに見るように呟いた。

「……あの赤ん坊も死んだんだろうなあ……可哀想になあ……」

酒瓶が、通路にコロリと転がった。

鉄格子を背に、老人は高鼾をかきはじめる。

「……」

月に照らされた鉄格子の影が、石の床に映っている。

アルトゥールは、鉄格子ごしに月を見上げた。

「……スピーゲル」

彼のために、自分にできることは殺されることだけだと、アルトゥールは思ってきた。

殺されることによって、一族を滅ぼされたスピーゲルの怒りが、悲しみが、少しでも晴れて欲しいと、ずっとそう願ってきた。

そうしたら、優しい彼が復讐なんて悲しい目的で、誰かを殺めなくてすむようになる。

アルトゥールには、スピーゲル復讐をやめろなんて言う権利なんてない。だけど、だからこそ、彼が復讐をやめることを密かに祈ってきた。

でも――――。

彼の苦しみが晴れる日なんて、来るのだろうか。

彼に復讐をやめさせるのは、彼の優しさに甘えるということではないのか。

それは、魔族として迫害され、この国での立場が弱かったスピーゲルの一族を(ほふ)った国王と、何が違うのだ。

「……」

謝る、だけでは足りない。

失われた命は戻らない。()の一族は甦らない。

では、何ができるだろう。

スピーゲルのために、一体、アルトゥールに何が出来るのだろうか。


白く滲む東の空に、三ツ星が薄く瞬いた。




***




朝の気配に、牢番は目を覚ました。

「……いてて……」

座ったまま鉄格子に寄りかかる無理な体勢で眠った為、あちこちが痛くて敵わない。

両手を伸ばすついでに腰も伸ばすと、体のいたるところがパキポキと小気味良い音がした。

老人は石の床に転がる酒瓶を拾い上げる。それを口にあてがって逆さにしたが、望むものは一滴すらも口に入ってこなかった。

「くそ……」

そういえば、昨夜飲みきってしまったのだったか。

新しい酒を買おうにも、日当が出るのは昼過ぎだ。それまでこの渇きをどうやってやりすごそうか。

老人はそんなことを考えながら、ふと背後を振り返る。

そこは昨日『魔族』だといわれて捕まった若い娘が閉じ込められている牢だった。

だが、娘が逃げ出した今。そこには誰もいない―――……。

「……え?」

老人は自らの目を疑った。

半地下の牢屋は、朝でも薄暗い。

明かりとりの小さな窓から差す朝日の光は、まるでそこが何か神聖な場所であるかのように目に錯覚をおこさせる。

その一筋の光の下。

その娘は俯いて座り込んでいた。

「あ、あんた。逃げなかったのかい!?」

老人はにわかに狼狽えた。

てっきり、早々に牢から脱出したとばかり思っていたのに。何故なら、そうしなければ娘は昼過ぎには火炙りになるからだ。

本人が、それをわかっていないはずはなかった。実際に、彼女は夜のうちに小窓の鉄格子をどうにかして逃げようと、こそこそと何かしていたのだから。

それなのに、何故娘は座っているのだろう。まるで、何もかもを受け入れるかのように……。

まだ酔いがさめないは老人は、よろめきながら鉄格子に掴まった。

「どうして……」

「……」

娘は答えず、ゆっくりと顔を上げる。

泣き腫らした顔からはすでに浮腫(むくみ)は消え、目からも充血はひいている。

朝日を浴びて輝く泉のように、その青い目は美しく、そして凪いでいた。

強い決意を秘めた眼差しに、老人は呆然とする。

「……あんた……」

この娘はこれほど美しかっただろうか。

姿形のことではない。

勿論、娘は『絶世の美女』と呼ばれてもおかしくないほどに整った顔立ちをしていたが、けれど老人が思わず見とれたのは、そんな分かりやすい美しさではなかった。

―――雰囲気、と言うべきなのだろうか。それとも佇まい、か。何と説明すればよいのやら、老人には分からない。

とにかく、火炙りという残酷な死を目前にしながら、牢獄のなかで静かに座す娘の姿はあまりに静かで、いっそ聖らかですらあった。





***





鉄の錠前がガチリと鳴くと、聖騎士団の従騎士は鉄格子の扉を引き開ける。

「出ろ」

「……」

アルトゥールは黙って立ち上がり、従騎士の言葉に従った。

「歩け」

この命令にも、アルトゥールは逆らわなかった。

従騎士の後ろについて牢獄の通路を歩き階段を登る。

その先に、広場へとつづく出口が見えた。

古い石造りの出口をくぐり、アルトゥールは光の中に進み出る。

「……っ」

眩しさに目をしかめ、アルトゥールは立ち止まった。暗闇に慣れていた目と体が、光に拒絶反応を示したのだ。

「魔族だ!」

声が上がった。

「竜を呼んだ魔女だ!」

「早く火炙りにしろ!また竜を呼ぶぞ!!」

「穢らわしい魔族め!!」

浴びせられる罵声を睨むように、アルトゥールは顔を上げる。

その頬に、石があたった。

「地獄に落ちろ!!」

若い男が叫ぶ。彼が石を投げたらしい。

「……」

アルトゥールは、彼を静かに見据えた。

「な、何だよ……っ!魔族め!」

アルトゥールのあまりに真っ直ぐで静かな眼差しに怖じ気づいたのか、若者は顔をひきつらせる。

アルトゥールは口を開いた。

「人に石を投げるなら、投げられる覚悟をしてから投げることですわ」

「……っな」

何か反論しようとした若者の前を、アルトゥールは通り過ぎた。

「穢らわしい!」

「魔族め!」

押し寄せる群衆を、聖騎士団の騎士達が押し止める。そうやってできた通り道を、アルトゥールは迷うことなく歩いた。その先に見えるのは、アルトゥールを火炙りにするために組まれた櫓だ。

その櫓の前に、コンラーディンがいた。大きな腹に銀色の甲冑を纏った姿は、まるで腸詰めのようだ。

彼はアルトゥールの顔を見て眉をひそめる。

「……本当に昨日の娘か?」

「……」

アルトゥールは応えず、コンラーディンを見返す。

アルトゥールとしては侮蔑の感情を目一杯視線に乗せたのだが、コンラーディンはアルトゥールの容姿に気をとられて、それに気がつかない。

「……何と美しい……」

コンラーディンは感嘆し、けれど首を傾げる。

「しかし……どこかで見た気が……?」

「……」

もしかしたら、宮廷ですれ違うくらいはしたことがあるのかもしれない。

笑わず姫(正体)』がバレては困る。

けれどアルトゥールは慌てなかった。

「あなたのような狸にそっくりなおデブさん、わたくしは知りませんわ」

見下すようにハッキリと言ってやると、コンラーディンはようやくアルトゥールの視線に込められた蔑みに気がついたらしい。

彼は顔を赤くして憤怒した。

「き、貴様……っ!」

腰に提げていた剣を、コンラーディンは鞘から抜いてアルトゥールの鼻先に突き付ける。

「穢らわしい魔族め!!魔法をつかって、私をたぶらかそうとしたな!」

ここまでくると、もはや滑稽だ。

アルトゥールは口角を持ち上げ、歪に笑って見せた。

「残念ながら、この顔は生まれつきですわ。黒髪も青い目も。―――――そんなこともわかりませんの?」

「何ぃ?」

「よくそれで誇りある聖騎士団の甲冑を身にまとっていられますわね」

アルトゥールは声を張り上げた。

「魔族かそうでないかも見分けられない愚か者!!」

「な、な……っ」

「何の為に騎士になりましたの!?名誉のため!?財のため!?」

突きつけられた剣の切っ先を怖れずに一歩を踏み出したアルトゥールの迫力に押され、コンラーディンは後ろずさる。

「弱き者を助けるために騎士になったのではないなら、さっさとその偉そうな甲冑をお脱ぎなさい!!」

その声は、雷のような衝撃をもって騒ぐ群衆を黙らせた。

怒号が上がっていた広場は嘘のように静まりかえり、聖騎士達は呼吸を忘れたように動きを止め、瞠目する。

「ひ、ひいい!」

アルトゥールの激に、コンラーディンは腰を抜かして座り込んだ。

その情けない姿を見下ろし、アルトゥールは鼻をならす。

「ふん!」

いい様だ。

アルトゥールは、コンラーディンを助け起こすことも忘れて呆然とする聖騎士達に向き直った。

「それで?わたくしはどうすればいいの?案内してくださる?」

「……え」

「……あ」

「こ、こちら……です」

聖騎士達は、彼ら自身も気づかぬおにアルトゥールに敬語を使って接した。彼らの騎士としての本能が、アルトゥールの体に流れる王族の血に無意識に反応したのかもしれない。

簡易的に組まれた櫓に登るための、やはり簡易的な梯子は不安定で、アルトゥールは苦労してそれをよじ登る。

「ど、どうぞ……」

櫓の上にいた従騎士が、思わず、といったふうに手を差し出してくれた。

その手につかまり、アルトゥールはようやく櫓の上に辿り着く。

「ありがとうですわ。助かりましたわ」

感謝の言葉を口にするアルトゥールに、騎士は戸惑いながらも首を振る。

「い、いえ」

「縛るのは少し待って頂けて?」

櫓の上に突き出た太い板に魔族を―――アルトゥールを縛り付けるのが彼の役目なのだと、アルトゥールは分かっていた。

従騎士は、コクコクと黙って頷く。そんな彼に、アルトゥールは小さく微笑んだ。――――そう。微笑んだのだ。

いまだ静まりかえる広場に、アルトゥールは目を向けた。

そこに集まった人々の目線が、すべてアルトゥールに集まっている。

驚き、訝しさ、怯え、憐れみ――――多くの感情を、アルトゥールは深呼吸することですべて受け止めた。

「……わたくしは、魔族ではありませんわ!!」

その声は、膿んだ傷口に沁みるように、広場に響き渡る。

「けれど、だから火炙りにはしないで欲しいと訴えるつもりもありませんわ!!」

さわさわと、人々が囁き始める。

「どういうこと?」

「魔族じゃないのに、火炙りになるの?」

「昨日の魔族の仲間なんだろう?」

「でも、髪が黒いわ。目も……」

「魔法で変えてるんだ。惑わされるな」

人々が迷うのも、仕方がない。彼らには真偽を判ずる術がないのだから。

けれど、真偽など、きっと意味がないのだ。

二十二年前の洪水がスピーゲルの一族によるものだったのかどうか、本当のところはもはや分からない。

アルトゥールの父親である国王が命じた『魔族狩り』に大義があったのかなかったのかも、分からない。

分かったところで、失われた命は戻らない。

取り返しがつかない。

――――――取り返しはつかないけれど、けれど、()()()なら変えられるかもしれない。

「あなた方に、わたくしの姿はどう見えますの?魔族?それとも、戯言をほざくただの小娘?」

アルトゥールの問い掛けに、答える声はない。

食い入るように、人々はアルトゥールを見つめる。

その一つ一つの目を、アルトゥールは見つめ返した。

「――――昨日の彼は?どう見えまして?わたくしには……」

『彼』が誰を指すのか、分からない者はいないだろう。

昨日、あれほどの騒ぎをおこしたのにも関わらず、街の人々にも、騎士団にも、死者はでなかった。

牢を見回りに来た騎士達は『不幸中の幸い』と話していたけれど、それが偶然の奇跡ではないことを、アルトゥールは知っている。

「……わたくしには」

優しすぎるほどに優しい魔法使いの面影を思い、アルトゥールの頬が、柔らかく綻んだ。

「髪が銀色というだけで迫害される子供を、危険も省みずに助けた英雄に見えましたわ」

雪が溶けて、その下から花が覗いたような温かな微笑み。

広場にいた誰もが息を飲んだ。

アルトゥールを訝しみ、恐れていた人々も、それが穢らわしい――……邪悪だと言われる魔族の微笑み(もの)ではないことだけは、確信する。

では、我々は誰に罵声を浴びせたのか。

誰に石を投げたのか。

「……自分の目で見て欲しいんですの」

アルトゥールは、言葉を重ねた。

「人の言葉を信じるなとは言いませんわ。けれど、自分の目も……耳も信じて欲しいんですわ。迷ったら、分からなかったら、他人ではなくて自分が見て聞いたものを信じて、そして……」

もう一度、アルトゥールは噛み締めるように微笑んだ。

「そして、自分の心に従って欲しいんですわ。誰かではなく、自分の心に」

誰一人、口を開かなかった。

けれど、目もそらさなかった。

水をうったように静まりかえる広場に向かい、アルトゥールは着衣の裾を持ち上げ、膝を軽く折る。

「……話を聞いてくださって、深く感謝いたしますわ」

そして、深く頭を垂れる。

それは、アルトゥールが母親から教わったら最上級の敬意をあらわす礼だった。

優雅に、気品に満ちた礼―――。

読み書きも満足に出来ず、ヴェラーも踊れない。まともに教育を与えられなかったアルトゥールが知っている、唯一ともいえる礼儀。

アルトゥールは顔を上げてもう一度群衆を見渡すと、体を反転させた。

そこにいた従騎士に、アルトゥールは両手を差し出す。

「さ、縛ってくださる?」

「え、あ……でも」

「かまいませんわ」

アルトゥールは、尚も従騎士に両手を差し出す。

ここでアルトゥールが逃げては、意味がないのだ。

牢獄のなかで、アルトゥールは考えた。ただアルトゥールが訴えたところで、きっと人は耳を傾けてはくれない。けれど死に際なら――――死に瀕した人の言葉なら、耳を傾けてくれるはず。

だから、アルトゥールは逃げるのをやめた。

人々に、思いを伝えたい一心で。

それが、いつかスピーゲルを守ることに繋がると信じるがゆえに。

(ごめんなさいですわ。スピーゲル)

彼に殺されると約束したのに、それを反故にしてしまう。

けれど、アルトゥールはどうしてもどうしてもどうしても、こうしたかったのだ。

「し、縛り上げろ!」

櫓の下で、コンラーディンが唾を飛ばしながら喚く。

「火炙りだ!即刻火炙りだ!!」

「で、ですが……」

狼狽える従騎士を、コンラーディンは怒鳴り付ける。

「さっさと縛り上げろ!お前も火炙りにされたいか!!」

「……っ」

従騎士は、泣きそうな目でアルトゥールを見た。

「……す、すいません……」

「いいえ」

アルトゥールは首を振る。

「気になさらないで。縛ってくださる?」

アルトゥールの頼みに、従騎士は目に涙を浮かべながら頷く。

太い板を背に縄で縛り付けられながら、アルトゥールは目を閉じた。


次回で第一部終了です。

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