笑わず姫と盗まれた林檎飴ーザシャ②ー
水路沿いにあった壊れかけの古い水車小屋に、アルトゥール達は逃げ込んだ。
肩で息をするアルトゥールの背を、スピーゲルがさすってくれる。
「姫?大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、です、わ……」
喉がカラカラに乾いて痛いほどだったが、アルトゥールは強がった。スピーゲルに心配をかけたくない。もっとも、アルトゥールの強がりなどスピーゲルはお見通しなのだろうが。
「あぶなかったー!!捕まるかと思ったよ!!」
『彼』は廃材の上に腰をおろして明るく言うと、頭を振ってフードを肩に落とす。
肩まで伸びた白銀の髪。
暗がりでも、その髪は星の光を集めたように鈍く輝いた。
ニカリ、と『彼』は人懐っこく笑う。十四、五才だろうか。まだ線も細く、声も高い。
「俺、ザシャ!助けてくれてどうもね!お兄さん見かけによらず強いねー」
「……ザシャ?」
頭上から聞こえた子供の声に驚いて、アルトゥールは上を見上げた。
物置になっているらしい半二階から、銀髪の子供が二人、こちらを覗いている。
「誰?それ」
「お客さん?」
アルトゥールとスピーゲルへの警戒心をあらわにする彼らは、手負いの山猫のようだった。
ザシャは、彼らに向かって手を上げた。
「ヨナタン!エルゼ!心配しなくてもこの人達は大丈夫!助けてくれたんだ!それよりホラ!」
ザシャが自らの着衣をバサバサと揺らすと、どこにそんなに入っていたのかというほどの量の菓子やパンが床に転がった。
アルトゥールの靴の先に、コロリと林檎飴がはいった油紙があたる。
「あ……」
目が林檎飴を追いかけてしまうのはもはや一種の本能だ。
ザシャがそれを拾い上げた。
「いる?あげるよ助けてくれたお礼に」
「盗品でしょう?」
横から、スピーゲルが言った。
林檎飴を受け取りかけていたアルトゥールは驚いて動きを止める。
「え?」
「せいかーい。お兄さんするどいねー」
ザシャはケラケラ笑う。
その後ろでは急いで梯子を降りてきたヨナタンとエルゼが、我先にとパンと菓子に飛び付く。
「ザシャ!これ食べていい!?」
「いいよ」
「これもいい!?」
「よく咬めよ」
ヨナタンとエルゼはよほどお腹がすいていたのか、息つく間もなく食べ物を口に詰め込んでいく。
「昨日は何も食べられなかったからな」
ザシャは二人の頭を撫でながら、目を細めた。
――――――その目は若葉のような緑色だ。
ヨナタンもエルゼも、髪はスピーゲルそっくりな銀髪だが、目はそれぞれ青と深緑だった。
(……スピーゲルの一族じゃありませんわ……)
てっきりそうだと思ったのに。
「……兄弟、仲がいいんですのね」
アルトゥールが言うと、ザシャは首を振る。
「俺達三人とも血は繋がってないよ。……と言っても親がどこのどいつか知らないから、兄弟じゃないとは言いきれないけど」
「え……」
「俺達捨て子なんだ」
あっさりとザシャは言い放つ。
「――――――捨て子?」
「こんな髪だからね」
「……」
アルトゥールは絶句した。
忌み嫌う魔族と同じ銀髪というだけの理由で親から捨てられたと言うのか。
「ヨナタンとエルゼとは同じ孤児院にいたんだ。でも三人とも院長に殴られるわ飯もらえないわで我慢出来ずに飛び出してきた」
傷ついたふうもなく、ザシャは淡々と言って自らもパンにかじりついた。
「とは言え、こんな髪じゃ働こうにも雇ってもらえないし、物乞いしても蹴られるだけだし。食い繋ぐには盗みしかないってわけ」
「明日は僕が盗ってくる!」
「エルゼも盗ってくるよ?」
菓子の食べかすを口の回りにつけたまま、ヨナタンとエルゼがザシャを見上げた。
ザシャは二人の額を小突いて笑う。
「お前らみたいなチビにできるわけないじゃん。チビは大人しく隠れてな」
「できるよー」
「できるー」
その睦まじい様子に、アルトゥールは少しだけ慰められた気がした。
同時にやるせない思いが胸を覆う。
何か、ザシャ達のために出来ることはないか。
考えた末に、アルトゥールは靴を脱いだ。そしてそれをザシャに差し出す。
「……これ」
「……え?」
ザシャが目を瞬かせた。
「売れば、少しはお金になりますわ」
ずっと明るく笑っていたザシャの顔が歪む。
「…………憐れみ?」
まるで自身を虐げてきた誰かを睨むようなザシャのその目から、アルトゥールは逃げなかった。
「そうですわね。わたくしがこの靴をあなたへ渡せば施しですわね」
靴から、アルトゥールは手を離す。
革と布でできた靴は、地面に落ちて転がった。
「でもこれは、わたくしが落としたんですの。探しても探しても見つからなくて、もう諦めましたわ。……持ち主がもう要らないものを、拾った誰かがどうしようが勝手ではなくて?」
ザシャは顔を曇らせたまま、靴を見下ろした。
「……あんた、傲慢だね」
「……よく言われますわ」
『傲慢で高飛車な笑わず姫』。
そう言われていた頃は、それは事実ではないとアルトゥールは思っていた。
(けれど……)
人々は正しかった。
自分はなんて傲慢で、高飛車なのだろう。
ザシャはしばらく黙っていたが、やがて持っていた林檎飴をアルトゥールへ突き出した。
「……お礼」
「……」
アルトゥールは、手を伸ばして林檎飴を受けとる。
小さな林檎飴が、何だか妙に重く感じられた。
「……ありがとう、ですわ」
アルトゥールが謝意を伝えると、ザシャは笑った。
「何であんたがそれを言うのさ」
そのはにかむような顔を見て、ザシャが本来は女の子であることに、アルトゥールはようやく気が付いた。
小さな砂利が足の裏を刺すように痛めつける。なかなかいつものように歩けない。
(……前は、裸足なんて平気でしたのに……)
王城にいたころをアルトゥールは思い出した。
履いていた靴が小さくなって、アルトゥールは仕方がなく靴を脱いで裸足で生活するようになった。
部屋から滅多に出ることがなかったアルトゥールにとっては、靴があろうがなかろうが、歩くことに関しては支障はなかったのだが、冬はつらかったのを覚えている。
石の床はひどく冷たくて、アルトゥールの足は霜焼けで赤く腫れ上がった。足同様に霜焼けだらけだった手で爪先を擦り、寒さを凌いだあの頃。
つらいとは、思わなかった。
ひもじさも、寒さも、惨めも、寂しさも、すべて日常だった。
(……忘れてましたわ……)
スピーゲルに出会って、アルトゥールの日常は変わった。
足の大きさにあった靴を与えられ、温かい食事をお腹いっぱいに食べて清潔な布が敷かれた寝台で眠る。
いつのまにか、それが当たり前になっていた。
(……ザシャは……あの頃のわたくしですわ)
裸足でかけぬける少女。
足が痛まないはずはない。ただ、それが彼女の日常なのだ。
痛みが、日常なのだ。
「……やっぱり、靴を買ってきます」
隣を歩いていたスピーゲルが立ち止まる。
「ここで待っていてください。すぐに帰ってきますから」
「いりませんわ」
アルトゥールは首を振った。
けれどスピーゲルも引き下がらない。
「でも、怪我をしたら……」
「わたくしを甘やかさないでスピーゲル」
頑なに拒否するアルトゥールの横顔に、スピーゲルが口を閉ざす。
こんなやりとりを、ザシャ達が根城にしていた水車小屋を後にしてから、アルトゥールとスピーゲルは何度も繰り返している。
痛みを堪えて、アルトゥールは足を踏み出した。
(……わたくしは、傲慢ですわ)
ザシャに施しを与えられるほど、いつ偉くなったのだろう。
屁理屈をこねて無理矢理ザシャに靴を受け取らせたのも、結局は自己満足に過ぎない。ザシャの自尊心を傷つけただけである気もする。
そもそも、施しですらない。アルトゥールはザシャの姿にかつての自分を重ねていた。自分を助けたかった――――単なる自己憐憫だ。
渡したあの靴も、スピーゲルがアルトゥールの為に買い求めた物で、本当にはアルトゥールの物ではない。そして靴を失ったアルトゥールを、スピーゲルがそのままにしておくはずもないことを、アルトゥールは分かっていた。
優しい彼はきっと、新しい靴をアルトゥールのために用意しようとするだろう。
(でも、せめて……)
今日一日くらいは、裸足で歩く痛みに耐えたいのだ。
このくらいしか出来ないけれど、だからこそせめて……。
ぼそ、とスピーゲルが呟いた。
「……限界です」
「……え?」
何が、と顔をあげたアルトゥールの視界が、突然浮き上がる。
アルトゥールが気づいた時には、その体はスピーゲルの両腕に抱えられて水路沿いの道を移動していた。
「スピーゲル!?」
「我慢の限界です。これ以上裸足で歩かせられません」
「ダメですわ!下ろして!」
アルトゥールは体を捻るようにして無理矢理彼の腕から逃れようとしたが、上手くいかない。
(前はうまくいきましたのに!!)
スピーゲルに行動パターンが読まれている。彼もただアルトゥールのお守りをしているわけではないようだ。
「スピーゲル!」
「いいから!!」
一瞬の雷鳴のように、スピーゲルは声を荒げた。
驚いて肩を震わせたアルトゥールに、スピーゲルは今度は春風のように優しく言い聞かせる。
「―――――……いいから、いい子にしていてください」
「……」
何も言えなくなって、アルトゥールは俯いた。
「わたくしを……甘やかしすぎですわスピーゲル」
スピーゲルは前を向いたまま否定する。
「甘やかしてなんていません」
「甘やかしてますわ」
「してません」
堂々巡りである。
「……わたくし、裸足で歩く痛みすら耐えられないくせに……ザシャに施しをする権利なんてありませんわね」
手のなかの林檎飴の串を、アルトゥールは握り締める。油紙をとると、鮮やかな赤が姿をあらわした。
盗品と知りながら食べれば、アルトゥールもザシャ達の同罪だ。
罪の片棒を密かに担ぐことを、彼女達は許してくれるだろうか。
(……また『傲慢だ』と言われそうですわね)
そうだとしても、かまわない。
アルトゥールは林檎飴を口に運んだ。
そして噛みとるために果実に歯を立てた瞬間―――。
「……―――っ!?」
アルトゥールが噛みついた果実の反対側に、スピーゲルが噛みついた。
スピーゲルの鼻先がアルトゥールの鼻先をかすめるほどの至近距離。
スピーゲルの白い歯が、果実を噛みとる。
アルトゥールは林檎飴に噛みついたまま、スピーゲルが林檎飴を咀嚼する始終を目を見開いたまま凝視した。
(いくら、なんでも……)
飢え死にするほど空腹だったとしても、小さな林檎飴を対極から食べ合うなんて……。
林檎飴を飲み込んだスピーゲルは、独り言のように言う。
「……これで同罪」
「……スピーゲル?」
「傲慢だろうと偽善だろうと、それであの子達が一日を生き延びられるなら、それでいいじゃないですか」
「……」
アルトゥールの胸の奥で処理しきれずに渦巻いていた感情が、溶けるように消えていく。
彼の優しさが染みて目の奥が熱くなる気がしたが、涙は出ない。
(……スピーゲル)
彼は優しい。
けれどこの優しさは、アルトゥールだけが独占していいものではないのだ。
この腕も、横顔も、アルトゥールのものではない。
「……」
スピーゲルの上着を指先で掴み、目を閉じる。
甘いはずの林檎飴の味が、妙に酸っぱく感じられた。