笑わず姫と盗まれた林檎飴ーザシャ①ー
――――それは、王城から『笑わず姫』が消えた夜のこと。
「鏡です」
そう、彼は名乗った。
白銀の髪に、赤い瞳。
人は彼の一族を『魔族』と呼ぶ。
「……偽名、ですわね?」
アルトゥールがじっと見据えると、彼は精悍な顔を困ったようにしかめ、首のあたりを指先で掻いた。
「偽名というか……通り名です。僕の一族にとって真名は神聖なものなので、公に名乗ることはありません」
―――風が、冷たかった。
星が綺麗だった。
「とにかく……真名を名乗るのは、生涯をともにすると誓った相手だけです」
アルトゥールは今も、スピーゲルの本当の名前を知らない。
人々の笑い声。
楽士が奏でる音楽。
彩りと音にあふれる祭りの大通りで、スピーゲル一人だけが間違えて違う世界に入り込んでしまったようにそこにひっそり佇んでいた。
(……スピーゲル……)
何か話しかけなければと、アルトゥールは焦った。そうしなければ、スピーゲルがどこかへ行ってしまうような気がしたのだ。
けれど喉は呼吸を繰り返すのに精一杯で、まともな音を一向に発しようとしない。
「まってー!」
「はやくー!」
髪に花を挿した少女達が唄を歌いながらアルトゥールの脇を走りぬけていく。
「……そういうことですから」
ため息をつくように、スピーゲルは言った。
「相手を探すのが面倒だからって手近にいる人間で事を済まそうとしないでください」
彼はくるりとアルトゥールに背を向け、歩き始めた。
「今日はまだ日が高いですから、近くの街に寄りましょう」
どこか怒っているかのようなその背中を追い、半ば呆然としながらアルトゥールも歩き出す。
(スピーゲルに許嫁がいるなんて……)
想像したことすらなかった。
けれどスピーゲルの年齢を考えれば、許嫁がいたところでおかしいことはない。この国では20才をすぎた男性は大抵が既婚で、子供がいることも珍しくないのだ。
スピーゲル本人にしても、親切で健康で、若い娘に好まれる顔立ちをしている。ただ、残念ながら彼の姿を見た人の殆どはその髪と目の色に気をとられて気がつかないのだが。
(……そういえば……)
だからだ。
彼はアルトゥールと恋人や夫婦に間違われることを嫌がっていた。
本当の許嫁がいるから、彼女を愛しているから、だからスピーゲルはアルトゥールとの仲を周りに誤解されることを嫌がっていたのだ。
ズキリと、胸の奥が痛んだ。
おかしい。食べ過ぎたわけでもないのに、何故胃が痛むのだろう。
「い、言ってくれていれば……」
アルトゥールは、ゆっくり立ち止まる。
「そうしたら……あ、あんなこと言いませんでしたのに」
動揺を悟られまいと努めたものの、声が一瞬裏返る。
(知っていたら……)
許嫁がいると知っていたら、『キスして欲しい』なんて言わなかった。スピーゲルを困らせるつもりなんてなかったのに。
スピーゲルはアルトゥールにあわせるように立ち止まったが、振り向くことなく言った。
「……あなたに言う必要はないでしょう?」
正論に、アルトゥールは押し黙る。
確かに、許嫁の存在をアルトゥールに話す義務はスピーゲルにはないし、アルトゥールにもそれを言えと強いる権利はない。
アルトゥールとスピーゲルは、恋人でも、友人ですらないのだ。いつかアルトゥールがスピーゲルに殺される日まで行動を共にする、ただそれだけの関係。
すべて分かっているのに、何故こんなに胸の奥が痛いのだろう。
彼に許嫁がいることも、『言う必要はない』と突き放されたことも、鋭い刃のようにアルトゥールの胸を痛めつけた。
「……行きますよ」
スピーゲルが、歩き出す。
置いていかれたくなくて、アルトゥールも必死の思いで足を動かした。
青い空に、太陽がその存在を主張するように明るく輝く。
熱い陽射しは容赦なく地上に注がれるが、アルトゥールの肌には汗一つ滲まなかった。
スピーゲルの十歩ほど後ろを、アルトゥールは力なく歩く。
歩いても歩いても、スピーゲルに追い付けない気がした。
(待って、と……)
そう呼んでも、もしかしたらスピーゲルは待ってくれないのではないか。
そんな恐怖に囚われて、アルトゥールはスピーゲルを呼ぶことすら出来ない。
「……」
黙々と歩きながら、アルトゥールは不意にスピーゲルと出会ってすぐに交わした会話を思い出した。
『……偽名、ですわね?』
『真名を名乗るのは、生涯をともにすると誓った相手だけです』
スピーゲルの一族にとって命を捧げるも同然のその行為。
生涯をともに……つまり妻になる許嫁に、スピーゲルは本当の名前を捧げるのだ。
いや、もう捧げたのかもしれない。
スピーゲルの許嫁はスピーゲルの本当の名前を知っていて、彼女だけがスピーゲルを本当の名前で呼べるのだ。
それが、何故なのか羨ましくて羨ましくて、アルトトゥールは仕方がなかった。
***
十歩ほど後ろから、足音がついてくる。 アルトゥールの足音だ。
歩調を緩めてやらなければ彼女が追い付けないことがわかっているのに、スピーゲルはそれをしなかった。
胸焼けにも似た強い苛立ち。
それのせいで、スピーゲルは振り向くことすら出来ない。
(……キス、したい……とか)
そんなことを、軽々しく言わないで欲しい。
溜息を、スピーゲルは苦々しく噛み潰した。
(……この人は……)
繊細な見た目に反して大雑把で少しばかり無精な面があるアルトゥールは、きっと『キスの相手』を探すのにほとほと飽きたのだろう。
だから先だっても、よりによって人生舐めきっている最低男をキスの相手に選んだりしたのだ。
(……そうとわかっていたのに……)
あの時はどうしてこんな男なのだと何だか妙に苛立って、アルトゥールに対して好くない態度をとってしまった。
前回同様、今回もアルトゥールは深い考えなどないままに『スピーゲルと……』などと言い出したに決まっている。
『魔族』と蔑まれ恐れられる自分を、好き好んでキスの相手に選ぶはずがないのだから。
首から下がる紐の先で揺れていた小さな袋を、スピーゲルは手繰り寄せた。
火炙りにされた父が残した、形見の砂時計。
長く人に大切にされた物や、魂を傾けて作られたものには心が宿るのだという。その心を、スピーゲルの一族は『精霊』と呼ぶ。
小さな細工を得意とする職人だったスピーゲルの父は、丹精こめて道具を作り、その道具には精霊がやどったそうだ。スピーゲルの父親はこの精霊に名前を与えて魔法をかけた。持ち主の意を汲み、長く大切にされるように、と。
この砂時計は、そうやって持ち主が望む時を刻むようになった。
引っくり返しても砂は逆に落ちることなく、強く揺らしても砂が落ちる量は変わらない。
そしてこの砂時計は、今はただひたすらに『その時』を待っている。
――――――『その時』。
砂がおちきったら迎えに行くと、スピーゲルは『許嫁』に約束していた。
そもそもこの婚約は、スピーゲルの大叔父であり養い親であり師でもあるアーベルが、自らの死後に残されるスピーゲルを心配して、半ば強引にまとめたものだ。
向こうにしてみれば迷惑な話で、きっと許嫁はスピーゲルのことなど、許嫁だなんて思ってはいないだろう。
スピーゲルにしても許嫁に対して恋愛感情を抱いているわけでもなかったが、だからといって何の思い入れがないわけでもない。
初めて繋いだ許嫁の手の温もりを、スピーゲルはまだ忘れていない。
誰もがスピーゲルを『穢らわしい』と蔑み、石をなげつけるこの世界で、許嫁の存在だけがスピーゲルが存在することを許してくれる
「…………」
背後に聞こえる足音に、スピーゲルは耳をそばたてた。
トボトボとしか形容できない悄気かえったアルトゥールの足取りに、苛立っていたはずのスピーゲルは徐々に後悔に苛まれる。
(……もっと言い様があったのに)
どうして、自分はアルトゥールを突き放すような言い方しかできなかったのだろう。
アルトゥールとしては、いつもの我が儘の延長のようなつもりだったのだろうに。
我が儘を言って振り回していいと言ったり、それなのにその我が儘に過剰に反応してアルトゥールを突き放したり、スピーゲルこそアルトゥールを振り回してしまっている。
(困ったな……)
この気詰まりな雰囲気をどうすればいいのだろう。
謝るのも何かおかしいし、だからといってキスに応じるなど論外だ。
――――――憧れ続けた『キス』の相手が魔族だなんて、アルトゥールが可哀想すぎるから。
***
人目がつかない場所で巨大化したジギスの背に乗り、近所と呼ぶにはやや遠い街にアルトゥールとスピーゲルが到着した頃。あれほど晴れ渡っていた空は暗い雲がたちこめ、今にも大粒の雨が降り注ぎそうな空模様になっていた。雨が振りだすのを警戒してか、街の人通りはまばらだ。
その街は、かつて運河網が発達し、貿易で栄えた街だった。
けれど二十二年前、魔族がおこしたという水害で上流の街が水没し、それに伴いこの街も活気を失っていた。
古い街並みが続く大通りを、アルトゥールは爪先を睨むようにして歩く。
「……」
目線を上げれば、十歩程先を歩くスピーゲルの背中が目にはいった。
広い肩幅。体を、あまり揺らすことない歩き方。
(……歩調が……)
どうしてだろう。スピーゲルと歩調が合わない。
体格に差がある分、歩幅自体が違うのだから、歩調が合わなくても不思議なことではない。
けれど今まで、アルトゥールがスピーゲルの歩調に遅れをとることはなかった。おそらく、スピーゲルが歩調を緩めてくれていたのだろう。
けれど今、彼はそうしてくれない。
アルトゥールの隣を歩くことを避け、目を合わすことを避け、会話を避けている。
アルトゥールは唇を噛み締めた。
(……どうして、あんなことを言ってしまったのかしら)
あの時は言わずにはおれなかった。
けれど『キスの相手はスピーゲルがいい』なんて不用意に言ってしまったせいで、アルトゥールとスピーゲルの間に何かしらの齟齬が生じてしまっている。
(言わなければよかった……)
後悔してももう遅い。
『……許嫁がいます……』
スピーゲルの声が耳鳴りのように甦る。
(そもそも……スピーゲルに許嫁がいることで、何故わたくしは動揺しているのかしら)
スピーゲルが誰と結婚の約束をしていようが、実際に結婚しようが、アルトゥールが関知するところではない。
(関係ない……ですわ)
だから、前と同じようにすればいい。我が儘を言って、スピーゲルを困らせて振り回して―――……。
そうしたら、スピーゲルもきっとすぐに、以前の彼に戻ってくれる。『仕方がないですね』と文句を言いながらも、困ったように笑ってくれる。
「……あ……」
声が、掠れた。
ともすれば雑踏にかき消されてしまいそうなその小さな声に、スピーゲルが足を止める。
けれど、振り返らない。
ただじっと、彼はアルトゥールの言葉を待っているようだった。
「あ……えっと……」
難しいことを考えるのは苦手な頭で、アルトゥールは懸命に考えた。
スピーゲルが呆れるような我が儘を言わなければ。けれど、いざとなるとろくな我が儘が思い浮かばない。
アルトゥールは、鉛を飲むような心持ちで咥内に溜まった唾を飲み込み、息を吸い込む。
「り……林檎飴!!」
アルトゥールの口から飛び出した『林檎飴』に、たっぷり間を置いてスピーゲルが振り返る。
「………………はい?」
「……林檎飴……食べたい、です、わ……」
尻すぼみに小さくなる我が儘に、アルトゥールは絶望した。
これが『高飛車で傲慢』と悪名をはせた『笑わず姫』の渾身の我が儘か。もうちょっと何かあるだろう、自分。
「……わかりました」
スピーゲルの声に、アルトゥールは俯いていた顔を上げた。
「……スピーゲル」
「探してきますね」
風に揺れて外套が揺れ、刹那スピーゲルの顔が垣間見えた。
いつも通りの優しい微笑みが嬉しくて、けれどどことなく彼が安堵したようにも見えたことで、アルトゥールの心臓はぎゅう、と見えない何かに押し潰されたように苦しくなった。
よかった。我が儘で正解だったのだ。
我が儘を言って、彼を振り回して、そうしていればスピーゲルは笑ってくれる。
仕方がないな、とアルトゥールを甘やかしてくれる。
もう、かまわない気がした。
憧れ続けたキスを知ることなく死ぬのは少し残念だが、スピーゲル以外とキスしても、多分意味がないのだ。
それだけは、アルトゥールの出来そこないの頭でも理解することができた。
「……っスピーゲル!」
永遠にも思えた十歩の距離をなくすため、アルトゥールは駆け出す。
けれど三歩も進まないうちに、脇道から飛び出してきた影と勢いよくぶつかり石畳に倒れ込む。
「姫!!」
スピーゲルが血相を変えて駆け寄って来た。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫ですわ。わたくしより……」
ぶつかってしまった相手は大丈夫だろうか。
視線を巡らせると、その人物はすぐ傍に倒れていた。
紺色の外套を頭からかぶっているので顔は見えないが、少年であるようだ。靴をはいていない。
「ごめんなさいですわ。大丈夫ですこと?」
アルトゥールが声をかけると、ゆっくり、『彼』が起き上がる。
(……え?)
アルトゥールは驚きに目を見開いた。
『彼』の肩から零れるように流れた髪。
その色。
月の光をあびたかのような、白銀の髪。
「え……」
アルトゥールの頭上で、スピーゲルも戸惑いの声をもらす。
「あ……え?……え?」
言うべき言葉が見つからないアルトゥールは、『彼』を震える指で差し、スピーゲルと見比べる。
(ま、まさか……!)
スピーゲルの一族は、スピーゲル以外に生き残りはいないはずだった。
けれど、この髪。
「ス、スピーゲル!この人……っ!」
「いたぞ――――――!!」
突然、声が響いた。
「あそこだ―――!」
『彼』が飛び出してきた脇道の奥から、数人の男が走って近付いてくる。
『彼』を追いかけてきたらしい。
「え?ええ?えええ?」
混乱するアルトゥールの前に、スピーゲルが進み出た。
「スピーゲル!?」
「下がって」
男達はスピーゲルを突き飛ばす勢いで迫ってくる。
「どけ!!」
スピーゲルは腰を僅かに落とすと、最初の男の顎を掌で勢いよく突き上げた。男は走ってきた勢いもそのままにひっくり返り、呻き声をもらす。
「何しやがる!」
掴みかかってきた二人目の男の腕を、スピーゲルは素早く捻り上げて投げ飛ばした。
「こっちだ!」
叫んだのは『彼』だった。
「早く!こっちに!」
『彼』は建物の影から手を振っている。
どうするべきだろう。アルトゥールはスピーゲルに判断を委ねて叫んだ。
「スピーゲル!?」
「先に行って!」
三人目の男の拳をよけながら、スピーゲルが叫ぶ。
アルトゥールは頷くと『彼』のもとへ走った。
三人目と四人目の男を、相次ぎ蹴り飛ばしたスピーゲルが、それを追いかける。
アルトゥールとスピーゲルが建物の陰にはいると、『彼』は壁に立ててあった木材を力任せに引き倒した。
「危ない!」
「さがれさがれ!」
追いかけてきた男達が慌てて下がる。
けたたましい音をたてて木材が崩れ、錆色の土埃があたりに広がった。
その土埃が落ち着いた頃。
「……くそ、逃げられたか」
誰もいない路地裏を一瞥し、男達の一人が舌打ちした。