白雪姫は林檎飴がお好き①
魔族に名前を呼ばれても、けっして返事をしてはいけないよ。
けっしてその手をとってはいけないよ。
魔法に絡めとられてしまうから。
晴天の空の下。
道の両側には、材木を紐で括った簡単な骨組みに、布で屋根を張った店が幾つも連なっている。小麦や干し肉。豆に香辛料。大小様々な壺。匙や器など木彫りの道具。他にも糸や布、籠など、ありとあらゆるものが店先に並んでいた。
「さぁ!安くしとくよ!見ていっとくれ!!」
男が大声で客を呼び込み、子供達が大はしゃぎで走り回る。売り物であろう家畜は落ち着きなく鳴き続け、焼けた肌を露出させた踊り子が、歌い手の声と集まった観客の手拍子に合わせてくるくる舞い踊っていた。
国境近くにあるこの街は、経済的に豊かな隣国のおこぼれに預かる形で発展し、交通の要所であることから常に活気にあふれている。
そんな街角で、一人の老女が杖を手にゆっくりと歩いていた。そこへ、先を急いでいたらしい旅人がぶつかる。老女はよろめき倒れ、けれど旅人はよほど急いでいたのか、それとも老女など気に留める必要はないと思ったのか、立ち止まることさえせずに行ってしまった。
残された老女は、立ち上がることも出来ずにオロオロと周囲を見回す。大事な杖が見当たらないのだ。倒れた拍子にどこかに飛んでいってしまったらしい。
「杖……私の杖……」
老女は困り果て、あてもなく手を伸ばす。深い皺が刻まれたその手を、革手袋をはめた大きな手が包みこんだ。
「大丈夫ですか?」
老女が振り仰いだ先にいたのは、外套のフードを深くかぶった男だった。彼が首から下げた紐の先で、小さな麻袋が振り子のように揺れている。
男の顔は煤色の外套のフードで殆どが隠れていたが、僅かに見える精悍な口元と声からして、若い男であるようだ。
男は穏やかな声で、優しく老女を労わった
「お怪我はありませんか?」
「ああ……どうもありがとう」
老女は男に感謝し、その手を支えに立ち上がる。
「助かりました……本当にどうもありがとう」
「杖をお持ちでしたよね?どこに……」
「あそこですわ、スピーゲル」
一人の女が進み出る。男と同じく外套を頭からすっぽりかぶって顔を隠したその女は、林檎飴を片手に大通りの反対側を指さした。
「ほら、あそこ」
杖は行き交う人々に次々と蹴られ、弾かれるようにして大通りを横切ってしまったようだ。
「わたくし、とってきますわ」
「あ。ちょっ……姫!僕が……」
男の制止の声も聞かず、女は林檎飴を持ったまま駆け出した。
その先には疾走する馬車。
「姫!!危ない!!」
馬が嘶き、馬車の車輪が石畳を削る。
先程までの喧噪が嘘のように、途端にあたりは静寂に包まれた。
横倒しになった馬車と、立ち上る土埃。
人々が息を飲み尻込みする中、女から『スピーゲル』と呼ばれた男だけが、車輪が空回りしている馬車へ走り寄った。
「姫!!」
すると、まるで男に返事をするように、茶色の土埃の中、馬車の影から女が姿を現した。
かぶっていた外套のフードは肩に落ち、そこに黒い巻き髪が波立っている。髪と同じ色の長い睫毛に飾り付けられた瞳は、晴れた日の泉のように煌めき、唇は血のように赤く、肌は雪のように白い。
絶世の美女と呼ぶに相応しいその容姿。
「―――杖。ありましたわ」
まるで何事もなかったかのような淡々とした表情と声でそう告げ、『姫』は林檎飴をペロリと舐めた。
街は瞬く間に元通りの喧噪を取り戻した。
「ありがとう。本当にありがとう」
「どういたしましてですわ」
頭を下げる老女に、アルトゥールは杖を手渡した。
その顔に笑みはない。
普通であれば笑みを顔に浮かべるべきだろう場面ではあるが、アルトゥールはまるで退屈な見世物を数刻に渡って無理矢理見せられたかのような顔をしていた。
機嫌を損ねているわけではない。基本的にアルトゥールという娘は無愛想なのだ。
否、無愛想という言い方は間違っているかもしれない。人間誰しも喜怒哀楽に伴い表情が変化するものだが、アルトゥールの場合、感情と表情を繋ぐ糸がどこかで複雑に絡まっているのか、上手く機能してくれないのだ。その為、アルトゥールが笑うのは非常に希なことで、大抵は人生に飽いたような顔をしていた。
表情の乏しさと人間離れした美貌が相まって、冷たい印象を周囲に与えてしまうアルトゥールだが、実際の彼女は良くも悪くもマイペース。
世間の皆様とは少しばかりずれた感覚を恥じるどころかむしろ誇る勢いで我が道を突き進む、十七歳のうら若き乙女である。
何度もお礼を言いながら立ち去る老女に、通常装備の無表情で手を振り続けるアルトゥールのその横で、スピーゲルはといえば馬車の御者に深々と頭を下げていた。
「本っ当――にすみませんでした!!」
「まぁ、俺にも馬にも怪我はないし、荷台の荷物も無事だからいいけどさ。気を付けてもらわなきゃ。こっちも急に止まれないんだから」
「はい!!すみませんでした!!」
全力で謝るスピーゲルの姿に、御者の男は渋い顔ながらも『もういいよ』と手を上げ、馬車に乗りこみ行ってしまった。
車輪が巻き上げた茶色の土埃の向こうに馬車が消え、騒動の見物に集まってきた人々は各々の目的の為にまた動き始める。
「……姫――――ッッッ!!」
スピーゲルの絶叫に、アルトゥールは両手で耳を抑えた。
「何ですの?びっくりするじゃありませんの」
「道を渡るときは左右を確認する!基本ですよ!?轢かれたらどうするんですか!」
「轢かれませんでしたわ」
「……あなたという人は……」
スピーゲルはわなわなと口元を引きつらせ、頭を抱える。
その様子を見ていた露店の店主が、楽しそうに大笑いした。
「まぁまぁ、お二人さん。夫婦喧嘩は犬も食わないよ」
露店の主人の仲裁に、スピーゲルは大仰に肩を揺らす。
「夫婦!?」
「あれ?違うのかい?」
「違いますよ!」
「そうかい、そうかい。恋人かい」
「何でそうなるんです!違います!」
「まぁまぁ、そんなに照れなさんな。はいよ、お嬢さん」
露店の主人は油紙をアルトゥールに差し出し、恰幅のよい髭面をニカリと緩める。
「勇気ある美人に贈り物だ。食べとくれ」
「……何ですの?」
アルトゥールは首を傾げて油紙を覗き込む。
「胡桃の砂糖がけだよ。食べたことないかい?」
露店の主人は、手元の鉄板を指さした。
そこでは炒った胡桃と溶けて飴状になった砂糖がからまり、香ばしくも甘い匂いを醸し出している。
「まぁ……何て美味しそうなこと……」
アルトゥールは感嘆する。実はアルトゥール、こう見えて食べ物に目がない。
「おい、見ろよ」
「すごい美人だ」
ヒソヒソと、道行く人々がアルトゥールを見て囁いた。何人かの男達は女神でも見つけたような顔で立ち止まり、辺りにはまたちょっとした人垣が出来始めている。
それに気付いたスピーゲルが、アルトゥールの頭に慌ててフードをかぶせた。アルトゥールのやたら目立つ顔を隠そうとしたのだ。
「ちゃんとかぶってください」
「ええ?でも暑いですわ」
季節は夏。ただでさえ暑いというのに、フードをかぶると首回りが蒸れて不快感が一気に増す。アルトゥールが不満を訴えるのも無理はないことだ。
そのやり取りを見た露店の主人が、また声をあげて笑った。
「はは!そうだな、他の男に見せるのは惜しいよなぁ」
「ち、が、い、ま、す!!そういうことじゃありません!お代いくらです?」
スピーゲルが財布を出すために腰から下げた革袋に手をやると、主人は首を振って固辞した。
「いらないよ。俺に払う金があったら早く結納金を貯めて結婚しちまいな。うかうかしてると他の男にかっさらわれるぞ?」
「だから、そういうんじゃないんですってば……」
「とりあえず、ありがたく頂きますわね」
げんなりしているスピーゲルにはかまわず、アルトゥールは軽く膝を折って頭を下げると、胡桃の砂糖がけをうやうやしく受け取った。くれるというのだ。もらわない理由はない。
指先でまだ温かい胡桃を掴むと、アルトゥールは口の中に放り込んだ。 胡桃の香ばしい香りに、冷めて程よく硬化した水飴のカリカリした食感。アルトゥールは手で頬を押さえた。
「ほっぺたが溶けて落ちそうですわ……」
目を潤ませ、うっとりと舌鼓を打つ。
そんなアルトゥールに、スピーゲルは呆れて頭を抱えた。
「……まったく姫。あなたときたら……」
「恋人を『姫』呼びするのもすごいなあ」
「だから!恋人でも夫婦でもありませんから!」
スピーゲルが露店の主人相手にむきになっている隙に、アルトゥールは胡桃を口一杯頬張った。伸縮自在の白い頬は、まるで栗鼠のように膨らみ、アルトゥールの咀嚼に合わせて上下する。
(ああ、美味しい)
至福の時である。
隣の薄焼き屋の女主人が楽しそうに笑う。
「あんた、愛想はないけどいい子みたいだね。これも食べるかい?」
女主人は薄焼きを包んだ油紙を、アルトゥールに手渡した。
「粉と水を溶いて焼く店もあるけどね、うちの薄焼きは卵と牛の乳を使ってるんだ。他の薄焼き屋とは一味違うよ」
「押し売りは困ります!」
スピーゲルがすかさずアルトゥールの手から薄焼きを取り上げ、女主人に突っ返す。けれど女主人は、違うよ、と笑って手を振った。
「お代はいらないよ。美人に食べてもらえば目立って宣伝になるからね」
「いや、でも……」
「くれるというんですもの。ありがたく頂きましょう?スピーゲル」
ひょい、とアルトゥールはスピーゲルの手から薄焼きを取り返す。実はさっきから食べてみたいと思っていたのだ。
「姫!」
呆れるスピーゲルを尻目に、アルトゥールは薄焼きにかぶりつく。もちもちした薄焼きの中には、蜂蜜とバターがたっぷり。甘味と塩味の見事な調和に、アルトゥールは感動して目を閉じた。
「……っ舌がとろけそうですわ」
これを見た付近の露店の主人達が、我先にとアルトゥールに群がり始める。
「お嬢さん!うちの串焼きも食べとくれよ!」
「蜂蜜酒はどうだい?」
「腸詰めもあるよ!」
集まった人々に次々と渡された料理で、いつの間にかアルトゥールの両手はいっぱいだ。
(ここは地上の楽園ですの?)
美味しいものに囲まれて、アルトゥールは御満悦である。
「ところで、お嬢さん達は何しにこの街に来たんだい?商売かい?買い物かい?」
髭面の露店の主人に尋ねられ、アルトゥールは串焼きを咀嚼しながら答えた。
「違ひまふわ。人探ひにきまひたの」
「人探し?親か兄弟が行き方知れずなのかい?」
「ひひえ。探ひてひるのふぁ……」
ゴクリと、アルトゥールは串焼きを飲み込む。
「キスの相手ですわ」
「……………は?」
露店の主人が、そして周囲にいたスピーゲル以外の人間が、一斉に眉をしかめる。
「な、何だって?」
「わたくし、キスをする相手を探しているんですわ」
「…………」
奇妙な沈黙。
スピーゲルがアルトゥールの外套を指先で引っ張った。
「だから……人前でそれを言わないように言ってるじゃないですか……」
「だって、何しに来たのかって訊かれたんですもの……」
アルトゥールは不貞腐れたように目を細める。
露店の主人は額に浮かんだ汗を拭った。
「キ、キスの相手って……?」
「キスをするのが子供の頃からの憧れですの。だから相手を探していますの」
アルトゥールは蜂蜜酒の器に口をつけ、ごくごくと飲む。
薄焼き屋の女主人が横から口を出した。
「キスの相手なら、隣にいるじゃないか」
「だから、僕は恋人じゃありません」
「近頃の若い者は……」
露店の主人は、米噛みを押さえて独り言ちた。
「まあ、とにかく。お嬢さん、気を付けた方がいいよ」
「気を付ける?」
串焼きの肉をまた頬袋に詰め込んでいたアルトゥールは、目を瞬かす。
「気を付けるって……何にです?」
露店の主人が、声をひそめる。
「最近、ここらへんで人さらいがでるんだよ」
「人さらい?」
「そうさ。若い娘が頻繁にいなくなるんだ」
「自警団は何をしてるんですか?」
スピーゲルが怪訝そうに尋ねる。
町の治安を守るのは、町ごとに組織される自警団の役目だ。人さらいのような重大犯罪が頻発しているなら、当然自警団が警戒にあたるべきである。
露店の主人は、更に声をひそめた。
「それが……奴らの仕業らしいのさ。それで自警団も怖がって腰を上げたがらないんだよ」
「奴ら?誰ですの?」
アルトゥールは露店の主人にならって声をひそめた。スピーゲルは、首から下げた袋の紐を指先に絡めながら、無言で露店の主人の言葉を待つ。
露店の主人は、少し緊張したように言った。
「魔族だよ」
「……」
「……」
黙りこんだアルトゥールとスピーゲルの様子に、露店の主人は心外だと腰に手をあてた。
「信じてないな!?でもね!魔族の仕業としか考えられないんだよ!本当に忽然といなくなるのさ!娘達の悲鳴すら誰も聞いてないんだぞ!」
力説する露店の主人を横目に、薄焼き屋の女主人は迷惑そうに眉を寄せた。
「やだやだ。魔族だなんてやめとくれ。子供達が怖がるだろう?」
「きっと魔族が娘達の名前を呼んで手を引いたんだ。とにかく、気を付けた方がいいよ、お嬢さん。あんた無愛想だけど美人だから……あれ?」
露店の主人はキョロキョロと辺りを見回した。
そこには、既に誰もいなかった。
表の喧騒から一歩裏へ入った狭い路地に、アルトゥールとスピーゲルは体を滑り込ませる。日が射さない路地裏は薄暗く、誰かが通る様子もない。
アルトゥールはしゃがみこむと、棒つきパンをかじった。
「誰かが見たわけでもないでしょうに、どうして魔族の仕業と決めつけるのかしら」
アルトゥールと向かい合うようにして壁にもたれ掛かっていたスピーゲルが、俯いて腕を組む。そうすると、僅かに見えていた口元すらもフードの影になり、スピーゲルの顔は完全に窺えなくなった。
「仕方がありません。毎年冬に風邪が流行るのも、狼に羊が食べられるのも、全部『魔族の仕業』だと言われてますからね」
そう言って、彼は手慰みに首から下げた紐を指に絡みつけた。スピーゲルの癖なのだ。
「羊が食べられるのは狼がお腹がすいたからですのに……そのうち太陽が沈むのも『魔族の仕業』と言われそうですわね」
アルトゥールは抱えていた包みの中から無造作に揚げ芋を掴み、口の中に押し込んだ。細く切った芋を揚げて塩をまぶした素朴な料理は、外はカリッと中はホクッとしていて、いくらでも食べることが出来る。
『魔族』とは、白銀の髪に赤い瞳をもち、魔法をつかって災厄を呼ぶ一族のことだ。
彼らは魔法をかける際に、対象の名前を呼び、その手をとるのだという。
だから、この国に生まれた子供は、こう親に言い聞かされて育つ。
『早く寝ないと魔族に名前を呼ばれるよ』『いい子にしないと魔族に手をひかれるよ』と。
これだけ聞くと、おとぎ話の中だけに存在する架空の一族のようだが、かつて彼らは実在した。
二十二年前のこと。魔族が魔法の力で呼んだ雷雲によって洪水が起き、家々は川に飲まれ、畑は押し流され、人々は冷たい雨に震えて食べるものもなく、一人また一人と力尽きていったという。これを憂いた国王が、騎士団を率いて魔族を捕らえ、王宮前の広場で一人残らず火炙りにしたのだそうだ。
『魔族狩り』と呼ばれるこの騒乱の後、国には平和が戻ったが、今でも人々は何かあれば『魔族の仕業に違いない』と囁きあって魔族を恐れ、その存在に怯えていた。
「これ、本当に美味しいですわ」
アルトゥールはスピーゲルに揚げ芋の包みを差し出した。
「スピーゲルも食べてごらんなさいな」
「いえ、結構です」
揚げ芋の包みを、スピーゲルは革手袋をはめた手で押し戻す。
一本くらい付き合ってくれてもいいのに、とアルトゥールは口を尖らせた。
「……不思議ですわ。そんなに食べないで、よくそれだけ大きくなれましたわね」
無限の食欲を誇るアルトゥールとは対照的に、スピーゲルは食に対する欲求が極端に低い。
出来ることなら食べることなく生きていきたいとすら、彼は思っている節がある。
(食べることを楽しめないなんて、スピーゲルは人生損してますわ)
だが仕方がない。人生の楽しみ方は人それぞれである。
アルトゥールはスピーゲルに揚げ芋を食べさせることは諦め、一人で堪能することにした。
「……僕としてはそれだけの量を食べて、どうしてあなたがそんなに細いのかの方が不思議ですよ」
呆れたようなスピーゲルの発言は聞き流し、アルトゥールは大きな口を開けて腸詰めの串焼きにかじりつく。
「熱……っ」
唇と舌に痛みによく似た熱さを感じて、アルトゥールは慌てて腸詰めから口を離した。焼きたての腸詰めは、表面は冷めても中の肉汁は熱いままだったようだ。
スピーゲルが組んでいた腕を解き、アルトゥールの隣に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですわ」
「ちょっと見せてください」
スピーゲルは革手袋を手からはずすと、長い指でアルトゥールの顎に触れた。
いつも手袋をつけているスピーゲルの手は、日に焼けないので白く、そして少しかさついていた。その指が、アルトゥールの唇をゆっくりなぞる。
「……大丈夫そうですね。でも、気を付けてください。治してあげられないんですから」
スピーゲルはアルトゥールから手を離した。
「自分がどんな『体質』なのか、ちゃんと自覚してください。さっきの馬車の件も、本当に気を付けてくださいよ?」
「分かってますわ」
アルトゥールは頷いた。
「スピーゲルとの約束がありますもの。勝手に死んだりしないから安心してくださってかまわなくてよ?」
「…………」
アルトゥールが口にした『約束』という言葉に、スピーゲルがわずかに唇を噛み締める。アルトゥールは腸詰めに息を吹きかけるのに夢中で、それに気が付かない。
「……とにかく」
スピーゲルはアルトゥールの肩を掴み、人通りが多い通りの方に向きなおさせた。
「今日こそ見つけてください。『キスの相手』」
「えええ~?」
「『えええ~?』じゃありません!その為に来たんでしょう?」
「……まだ腸詰めを食べ終わっていませんのに……」
食べ物はゆっくり味わうのがアルトゥールの信条なのだが、スピーゲルはアルトゥールの不満にとりあってはくれなかった。
「あの人はどうです?」
スピーゲルは通りすぎる一人の男を指差した。仕方がなく、アルトゥールは自らの膝に頬杖をつき、スピーゲルが指差した男を眺める。そして右へ首を傾げた。
「……背が低すぎますわ」
「じゃあ、あの人」
別の男をスピーゲルが指差すと、アルトゥールは今度は左へ首を傾ける。
「髪が短すぎますわ」
「それなら……あの人は?」
次にスピーゲルが指差した若い男に、アルトゥールは眉を寄せた。
「……何か違いますわ」
「……探す気あります?」
苛立ちを声に滲ませるスピーゲルに対して、アルトゥールはため息をついて目を閉じた。
「もう誰でもいいですわ」
「何で投げ槍になってるんですか!あなたの『キスの相手』を探しているんですよ!?」
「だって……」
アルトゥールはげんなりした。確かにキスをするのが子供の頃からの夢で、その夢を叶えるためにスピーゲルは協力してくれている。
けれど正直、アルトゥールは相手探しに飽き飽きしていた。
このところ、あちこちの街でこうして『キスの相手』に相応しい相手を探しているのだが、どうにも『これ』という相手が見つからない。
はっきり言えば、『キスの相手』より街で売っている美味しい食べ物の方に気を取られていた。『花より砂糖菓子』とは、よく言ったものだ。
「……林檎飴」
アルトゥールは、唐突に呟いた。
「林檎飴が食べたいですわ」
林檎飴は、アルトゥールの大好物だ。
実はつい先日までその存在すら知らなかったのだが、その出会いは運命としか言いようがない。
あの艶やかな光沢。甘く薄い飴。果実のほのかな酸味と溢れる果汁。
これを知らずに生きてきた自分の人生は、間違いなく損をしていたと思うほどに、アルトゥールは林檎飴に魅入られている。
「ダメですよ。さっき食べたでしょう?林檎飴は一日一本までです」
これはアルトゥールが屋台の林檎飴を食べ尽くしかけた前歴から、スピーゲルが定めた取り決めである。
しかし、こんな横暴な取り決め、アルトゥールとしては受け入れられるものではない。せめて、一日十本。
「林檎飴を食べたら、キスの相手が見つかる気がしますわ」
「そんな無茶苦茶な……」
アルトゥールは勢いよく立ち上がって、スピーゲルを見下ろす。
「り―ん―ご―あ―め――!!」
その迫力に気圧され、スピーゲルは怯えて仰け反った。
「わ、わかりましたよ。買ってきますから……あと、一本ですよ」
立ち上がり、スピーゲルは肩越しにアルトゥールを振り向く。
「そこ。動かないで下さいよ?」
「ええ。わかりましたわ」
「……じゃあ、いい子にしているんですよ」
ポン、とアルトゥールの頭に軽く手を置いて、スピーゲルは人込みの中に紛れていく。
その背中を見送りながら、アルトゥールはスピーゲルの手の感触が残る自らの頭頂部をなでた。
まるで子供扱いだが、アルトゥールはスピーゲルにそうされるのが、実は好きだった。
「さて……」
ようやく冷めた腸詰めに、アルトゥールがかじりついたその時。
アルトゥールの背中に突然何かが突っ込んで来た。
「……!?」
馬に体当たりされたと言えば言い過ぎかもしれないが、アルトゥールにとってはそれくらいの衝撃で、思わず持っていた腸詰めの串焼きから手を離してしまう。
「ああっ!!」
砂利にまみれた腸詰めに、アルトゥールは愕然として石畳に手をついた。
「一口しか食べていませんのに……!」
夏だというのに、気分は冷たい木枯らしにさらされるキリギリスだ。
「ご、ごめんなさい」
消え入りそうな謝罪の声に、アルトゥールは振り返る。アルトゥールと同じ年頃の娘がそこに座り込んでいた。どうやら、ぶつかってきたのは馬ではなく彼女のようだ。
「暑さで眩暈がして……本当にごめんなさい」
娘は具合が悪いようで、立ち上がろうとしてふらついた。
「大丈夫ですの!?」
アルトゥールは慌てて娘の手を取り、その体を支えた。
娘は苦しそうな呼吸の下で、微かに笑う。
「あ、ありがとうございます……」
今にも倒れてしまいそうな娘を、放ってはおけない。
「家まで手をかしますわ」
「でも、そんなご迷惑をかけては……」
「そんなふうには思いませんわ」
娘を安心させたくて、アルトゥールは苦手ではあるが、ひとつ笑ってみせることにした。
引き上げた口角の筋からは、ギギギ、とまるで金属が錆びつく音がする。久方ぶりに動かしたせいかもしれない。
「遠慮なさらないで?困ったときはお互い様ですわ」
「え……あ、あの……は、はい……」
自分では優しく微笑んだつもりではあったが、怯えるような娘の顔から察するにどうも上手くいかなかったらしい。
(…………慣れないことはするものじゃありませんわね)
他人様を怯えさせるのは本意ではない。アルトゥールは頬から力を抜いた。途端にアルトゥールのやたら整った顔から表情が削げ、いつもの人形じみた無愛想面になる。
「……とにかく、家まで送りますわ」
「じ、じゃあ……お言葉に甘えて」
娘を支えて立ち上がったアルトゥールは、肩ごしにさっきまで座り込んでいた場所を振り向いた。
『そこ。動かないで下さいよ?』
スピーゲルの声が耳に蘇る。
(……すぐ戻れば大丈夫ですわよね)
言い訳をしつつ、アルトゥールは歩き始めた。
細くて暗い路地裏は、まるで迷路のようだ。どこをどちらに何度曲がったか、アルトゥールがもはや思い出せなくなった頃。よろめいていた娘の足取りが突然軽快になった。
「あの、大丈夫ですの?急に動いたら……」
「ご親切にどうもありがとうございます。中で休んで行って下さい」
娘はニッコリと笑い、ある家の古い木の扉を少し乱暴に叩いた。
「私よ!開けて!」
どうやら、ここが彼女の家らしい。
(……いつの間にか顔色も良くなっているし)
もう大丈夫そうだ。
「わたくし、連れが待っているので戻り……」
アルトゥールが娘に別れを告げようとしたその時、扉が内側から軋むようにして開いた。
中から少し屈むように出てきた男を見上げ、アルトゥールは言葉を失う。男が呆れるほどに大きくて、そして岩石のような顔をしていたからだ。
大男は誰もが震え上がりそうなその凶悪な目で、アルトゥールの頭の天辺から足の先までをジロジロと何往復もして、やがてニヤリと太く笑った。
「すげぇな!上玉だぜ!さすがだな!」
「でしょう?」
娘がニコニコと笑いながら、アルトゥールの背中を叩いた。あまりに勢い良く叩かれて、アルトゥールは仰け反るようにして、一歩前に出る。
「あ、あの……」
何だか、展開がおかしい。ここは娘の家で、家の中から出てきたということは男は娘の家族のはずなのに、やりとりを見るに、そういう関係にはどうも見えない。
「金貨七袋!」
娘は元気良く両手を突き出した。右手は指を五本立て、左手は人指し指と中指だけを立てて、残りの指は握っている。先程までよろめいていた面影は微塵もない。
大男は眉をひそめた。
「おいおい、いくらなんでもそりゃないぜ。お前からはいつも高めに買い取ってやってるんだぜ?こないだだって……」
「あら、文句あるなら他の店に連れていってもいいのよ?」
娘はニヤリと笑ってアルトゥールを見た。
「こんな美人で巨乳だもの。買い手は沢山いるでしょうし?ねえ?」
「え……」
アルトゥールは瞬いた。いったい、自分は何の同意を求められているのだろう。
「わ、わかった!わかったよ!こんな上玉逃す手はねえ!」
大男は焦ったように扉の奥に戻ると、手に袋を持ってまた出てきた。
「六袋だ」
娘の手に渡された袋は、音からして中身は金貨のようだ。娘は拗ねたように唇を尖らせた。
「七袋と言ったはずよ」
「今の手持ちがこれしかないんだ。まさかこんな上玉つれてくるなんて思わないからな」
「……仕方ないわね。貸しよ」
「お前にはかなわねえな」
大男がやれやれと腕を組むのを横目に、娘は首もとの釦を一つはずし、そこから金貨が入った袋をつめこんだ。
そうして、また釦をつけ直すと、人が良さそうな笑顔でアルトゥールを見上げてきた。
「じゃ、さよなら」
「……え」
アルトゥールが呆然と見送る間に、娘は足取りも軽く鼻唄を歌いながら行ってしまった。
「……あの、えっと……」
とり残されたアルトゥールは、大男からそっと一歩退いた。
事態は把握出来ないものの、何だかまずい状況だということだけは、さすがに分かる。
「それでは……ご機嫌よう」
脱兎のごとく走りしたつもりだったが、数歩も行かないうちにアルトゥールは大男の肩に担ぎ上げられた。
「そうはいくか。見てただろう?今あんたは金貨六袋で俺が買ったんだ」
「買った!?」
薄々そんな気はしていたが、やはりそうだったらしい。何とか逃れようとアルトゥールは身を捩ったが、アルトゥールの腰を抱える大男の太い腕はびくともしない。
「こ、困りますわ。スピーゲルのところに帰らなければいけませんのに!」
「鏡?何の事だかよくわからんが……まぁ、運の尽きと思って諦めるんだな」
「そんな……!」
アルトゥールは必死に大男の背中を叩いた。
「離して!お離しなさいですわ!この無礼者!!……っスピーゲルーーー!!」
アルトゥールの叫びは、大男が閉めた扉に遮られて大通りには届かなかった。
2024.2.9 一部改稿