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笑わず姫と苺飴ーリュディガー⑥ー

「リュディガー。リュディガー?」

呼ばれたことで我に返ったリュディガーは慌てて顔を上げる。

花嫁比べの開催を祝う空砲が青空に響き、賑やかな音楽が絶え間なく流れる。

街の広場は花で飾り付けられ、地主の三人の息子達の花嫁を見物しようとやって来た多くの人々でごったがえしていた。

広場の中央に組まれた円形の舞台は大人の膝丈ほどの高さで、その壇上にはリュディガーの両親と二人の兄、そしてリュディガーが、着飾った美しい花嫁を囲むようにして座っていた。ポツンと寂しげな空席は、リュディガーの花嫁が座る予定の席だ。

リュディガーは背筋を伸ばす。

「は、はい!母上!何でしょう!?」

「何でしょう、ではありません。その前歯」

母親がさも醜いものを見るように眉をしかめ、扇で口元を覆う。

「どうしたというのです?みっともない」

「こ、これは……」

背筋を、冷や汗が流れる。

(い、言えない……)

まさか苺飴で釣った若い娘を無理矢理手籠めにしようと迫った末に、反撃されて歯が欠けたなんて、言えるはずがない。

目を泳がせるリュディガーに、父親が大きくため息をついた。

「まあ、いい。それで?お前の花嫁はどうしたのだ」

「え……えっと……」

これにもリュディガーは答えられなかった。

苺飴で釣った若い娘―――アルトゥール(ベーゼン)は、昨夜のうちにスピーゲルに引っ張られるようにしてマルガレーテの屋敷から出て行った。あんなことがあったのだ。無理もない。

(僕は……)

リュディガーは項垂れた。

今更だが、何てことをしようとしたのだろう。

すべて自分の思い通りに動かせるつもりでいたなんて、マルガレーテの言っていたとおり、自分は我が儘な子供のままだった。

「おい!まだ始まらないのか?」

「花嫁が一人足りないぞ?」

「おい、静かにしろ」

舞台を囲む観客が待ちくたびれて野次を飛ばし、警備の私兵がそれを睨み付ける。

花嫁比べを始める定刻は既に過ぎていた。

「見つからなかったんだろう?」

長兄が意地悪く笑った。

女遊びが過ぎて、街中の女に無視されてるんだ。花嫁なんて見つかるわけないよな」

「兄さん、やめなよ本当のことを言うのは」

親切そうに兄を嗜める次兄の目も、リュディガーを蔑んでいる。

リュディガーは体を小さくした。

(くそ……!馬鹿にしやがって!)

歪な矜持と虚栄心が、リュディガーを突き動かす。

「は、花嫁ならみ、見つかったさ!」

言ってしまった瞬間に、リュディガーはそれを後悔した。

(……ま、まずい!)

ついつい見栄を張ってしまったが、兄達が言うように花嫁はいない。

冷や汗を握るリュディガーに、兄二人は容赦なかった。

「どうせ幼馴染みに頼み込んだんだろう?」

「マルガレーテとかいう、あの丸々した娘か?」

わはは、と兄二人は高らかに笑った。

「まあ、気立ての良さは認めてやるがな!俺達の妻の美しさには到底及ばないな!」

「人前で比べられて恥をかくだけだ。可哀想だからやめてやれ!」

兄二人の暴言を、リュディガーの父親も母親も苦笑いをするだけで、止めようとはしない。

兄達の美しい妻達の悠然とした微笑みすら、マルガレーテを蔑んでいるように見えて、リュディガーは唇を噛んだ。

「……っするな」

膝の上で、リュディガーは拳を握り締める。

「マルガレーテを馬鹿にするな!!」

広場中に響き渡るような、大きな声だった。誰もが驚き、リュディガーに注目する。それらの視線に臆することなく、リュディガーは声を張り上げた。

「マルガレーテは醜くなんかない!確かに……確かに太ってるし目は糸みたいだし……でもマルガレーテはマルガレーテは……」

瞼の裏に、マルガレーテの柔らかな笑顔が過る。

あの笑顔に、何度助けられただろう。

何度、勇気をもらっただろう。

それすらも『当たり前』になるくらいに、マルガレーテは傍にいてくれた。

(僕は……馬鹿だ!!)

あまりに近すぎて、その存在の大きさを見失っていたなんて。

「マルガレーテは、僕の大事な人なんだ―――!!」

広場が、静まった。

誰も口を開かず、楽士達も音楽を奏でることを忘れている。

リュディガーの長兄が、はは、と渇いた笑いを漏らす。

「ほ、本当にあの娘を花嫁にする気か?正気か?」

「弟ながら顔以外は最低だと思ってたけど、女の趣味も悪かったとはね……」

蔑むように次兄が目を細めた。

その背後に、迫る影。

「……リュディガー様」

次兄は、振り向いた。

煤色の外套で顔を隠した男がそこにいた。

「誰だ?俺はリュディガーじゃない。マインラートだ」

リュディガーは椅子から立ち上がり、目を瞬かせた。

「ス、スピーゲル?そんなところで何を……」

昨夜、ベーゼンを屋敷から連れて出て行ったはずのスピーゲルが何故ここにいるのだろう。それに円形の舞台は私兵がぐるりと囲むようにして警備しているはずだ。スピーゲルはどうやってその警備をかいくぐったのか。

スピーゲルはリュディガーには答えず長兄に向き直る。

「では、あなたがリュディガー様ですか?」

「スピーゲル?何を言ってるんだ?」

リュディガーは眉を寄せた。『リュディガー』が誰か、スピーゲルは知っているはずだ。それなのに、何故誰が『リュディガー』か訊いて回るような真似をしているのだろう。

まるで、兄達の名前を聞き出そうとしているかのように―――。

長兄は不機嫌もあらわに顔をしかめた。

「よりによって末の弟と間違うな。俺はベルノルトだ。おい、リュディガー。この男はお前の知り合いか?」

「え?えっと……」

どう答えたものかとリュディガーが逡巡するうちに、スピーゲルが兄二人の肩に手を置いた。その手に、いつもつけていた古びた革手袋がない。

「『ベルノルト』『マインラート』」

スピーゲルの呼び掛けに、リュディガーの二人の兄は異口同音に応えた。

「何だ?」

「何だ?」

スピーゲルが、小さく何かを呟く。

「『その目は汝への真心深き者を美しく映し、真心なき者を醜く映す』」

何を言っているのか、リュディガーには分からなかった。

兄達も両親も兄達の花嫁二人も、聞き取れなかった様子だ。異国の言葉だったのかもしれない。

一瞬、小さな光が二人の兄の目の前をちらついたように見えたが、スピーゲルが兄達から手を離す頃にはそれも消えてなくなっていた。

「……何なんだよ?」

「おい、誰かこいつを舞台から……」

ベルノルトとマインラートはいぶかしみながらも視線を戻す。そして二人は同時に椅子から立ち上がった。けたたましい音をたてて、椅子が壇上に倒れる。たが、二人はそんなことにかまう余裕はないようだった。

「俺の花嫁はどこだ!?」

「ぼ、僕の花嫁は!?一体どこに行ったんだ!?」

美しい花嫁二人は、それぞれ首を傾げる。

「何言ってるの?」

「私はここに……」

「俺の花嫁はお前みたいなブスじゃない!」

「そうだ!お前みたいな醜い女!誰が花嫁に選ぶか!」

容姿を罵られ、花嫁達の顔色はみるみる変わっていった。

「何てこと言うのよ!自分は芋みたいな顔のくせして!地主の息子だから求婚に応じてやったのに!」

「そうよ!本当ならあんたみたいな偉そうな男まっぴらだわ!!」

彼女達は勢いよく立ち上がると、各々の夫の頬を思いっきり平手打ちにした。

「痛……っ!何しやがる!このブス!」

「まだ言うか!この芋男!」

突如勃発した予想外の余興に、広場に集まっていた民衆が一斉に歓声を上げる。囃し立てる声に怒声も混じり、広場は大混乱だ。リュディガーの両親は瞬きを忘れ、口を開けたまま凍りついている。

「……な、何が起こって……」

呆然とするリュディガーの横に、スピーゲルが立った。

「ス、スピーゲル……?」

「ちょっとした魔法ですから、明日には元に戻ります」

「え?」

「あなたには―――かける必要はないですね?」

煤色の外套のフードが揺れ、紅玉のような瞳が緩やかに微笑む。

リュディガーはそれを見てしまった。

「……ス、スピーゲル。お前……!」

「あなたを許したわけではありませんが、うちのお姫様は言われっぱなしのあなたが可哀そうなんだそうです。……それに、マルガレーテさんのことで怒ったあなたは……少しだけマシでした」

そう言って、スピーゲルは踵を返す。

立ち去るその背中を指差し、リュディガーは口の明け閉めを繰り返した。

(め、目が……!赤!?ま、魔族!?)

あまりに驚いて、悲鳴どころか声すら出ない。腰も立たない。

スピーゲルは舞台の端まで歩いて行くと、そこから飛び降りた。音もなく着地した彼は、大騒ぎの人混みの中を掻き分けて行く。その先に、外套をかぶったアルトゥール(ベーゼン)の姿が見えた。

アルトゥール(ベーゼン)はリュディガーに見向きもせずスピーゲルを迎えると、その姿はすぐに人混みの中に紛れて見えなくなってしまう。

「…………」

「リュディガー」

ふと気づくと、舞台のすぐ下にマルガレーテがいた。

「マルガレーテ」

「……ありがとう」

マルガレーテははにかむように笑った。

「私をかばってくれて……ありがとう」

その笑顔に、リュディガーは泣きそうになった。

胸が熱い。

その熱さに促されるままに、リュディガーは舞台から飛び降りるとマルガレーテの前に跪いた。

「マルガレーテ!僕と結婚してくれ!」

どうしようもなく馬鹿な自分を受け止めてくれるのはマルガレーテだけだ。

マルガレーテがいてくれるなら、浮気もしないし賭場通いもやめる。

(父上の財産を相続できなくてもマルガレーテの財産があるし!)

かなりを食い潰してしまったとはいえ、贅沢さえしなければ働かなくても暮らしていけるはずだ。

すべてがまた自分の思い通りに回り始めたように、リュディガーの目には見えた。

世界が輝いている。

(まるで僕とマルガレーテを祝福しているみたいだ!)

―――自分がまったく懲りていないことに、リュディガー自身は気付いていなかった。

「結婚て……リュディガー……っ!」

マルガレーテは普段は糸のような目を、満月のように大きく見開いている。感極まったようなその様子に、リュディガーも涙ぐむ。

(僕は……僕は真実の愛に辿り着いたんだ!)

「―――ごめんなさい」

ぺこり、とマルガレーテが頭を下げた。

(……ん?)

リュディガーは硬直した。

今、マルガレーテは何と言ったのだろう。

「……何だって?」

リュディガーが尋ねると、マルガレーテは困ったように目を伏せた。

「ごめんなさい。あなたと結婚は出来ないわ、リュディガー」

「……」

これは夢だ。夢に違いない。

けれど、マルガレーテはリュディガーが現実を拒絶するのを許さないとでも言うように、言葉を重ねた。

「幼馴染みだからと思って我慢してきたけど、本当はあなたのこと苦手なの。お金使いも荒いし、不誠実だし、自己中心的で典型的な自分大好き人間だし、そもそもあなたって自分で思っているより格好良くもないしモテないから」

目には見えない矢が、リュディガーの心臓に次々と命中する。

瀕死のリュディガーは、涙目でマルガレーテにすがりついた。

「……っや、優しいって……僕は優しいって言ってくれたじゃないか!」

スピーゲルに殴られる寸前のリュディガーを、マルガレーテは『本当は優しい人なんです!』と庇ってくれた。あれは嘘だったのか。

「嘘よ」

「……っ」

あっさりと言い放たれ、リュディガーは地に両手をついた。

「う、嘘……」

「ベーゼンさんにとにかく許してもらわなきゃと必死だったんだもの。だって、あなた働けないでしょう?花嫁比べで勝って財産を相続できなきゃ路頭に迷っちゃうじゃない。そんなことになったら寝覚めが悪いし」

「え?え?え?」

「本当ならスピーゲルさんに半殺しにされても文句が言えないけれど、でもあなたの取り柄って顔だけだし、青あざだらけの腫れあがった顔で花嫁比べに出すわけにもいかないでしょう?だから庇ったの」

「顔だけ……」

「でもやっぱりあんな最低なことしようとして、許してもらえるはずないわよね。本当、最低よ。結局ベーゼンさんもスピーゲルさんも出ていっちゃったし……。あーあ、せっかくベーゼンさんがヴェラーを踊れるようになって『いけるかも!』て思ったのに、リュディガーったら全部自分で台無しにしちゃうんだもの」

「マ、マルガレーテ……」

リュディガーは震える声でマルガレーテに尋ねた。

「ぼ、僕のために……協力してくれたんじゃないのかい?僕を自立させようと……」

「ええ、そうよ。自立して欲しかったの。自立して、いい加減屋敷から出て行って欲しかったの」

特大の刃が、リュディガーの心臓を貫いた。

朝陽を浴びた魔物のごとく白い灰になったリュディガーは、足元からさらさらと風に拐われ崩れていく。

マルガレーテはそれに頓着する様子もなく、頬を蒸気させた。

「だって私、結婚するんだもの!ね?ヴァルター!」

彼女が振り返った先には、侍従のヴァルターがいた。

かしこまっているヴァルターの腕に、マルガレーテが嬉しそうに飛び付く。

「私、子供の頃からヴァルターに憧れてたの!知的で有能で渋くて!」

「……ですがお嬢様」

ヴァルターは少し照れながらも恐縮したように目を伏せた。

「私のような老いぼれがお嬢様のような若く溌剌とした素晴らしい女性となど……亡くなった旦那様に申し訳なく……」

「ヴァルター!あなたは老いぼれなんかじゃないわ!たった34才差じゃない!お父様も天国で喜んでくれているに決まってるわ!」

「お嬢様……!」

「ダメよ、ヴァルター。名前で呼んで?」

「……マ、マルガレーテ……」

手に手をとりあい見つめあう年の差バカップルを、周囲で見ていた人々は『家でやれや』とばかりにぞんざいな拍手で祝福する。

「だからリュディガー!早く新婚生活を始めたいから、早めに出て行ってね?立て替えておいたお金は少しずつ返してくれればいいから、気にしないで?」

「……」

マルガレーテの弾けるような笑顔を前に、灰と化したリュディガーはもう何も言うことが出来なかった。




***




広場の喧騒を後にしたアルトゥールとスピーゲルは、道端の露店の前に立ち止まった。

「苺飴一つ」

スピーゲルが銀貨を差し出すと、店番の老婆はにこやかに笑った。

「あいよ。お客さんついてるねぇ。最後の苺飴だよ」

艶々と輝くような苺飴を受け取ったのはアルトゥールだ。串の先に刺さった苺飴を眺め、アルトゥールは目を細めた。

「……苺飴は地主の宴でしか振る舞われないと聞いたのだけれど」

「少し前まではそうだったんだけどねぇ、最近じゃ特産品としてそこらで売ってるよ。まあ、林檎飴よりは値が張るけどねぇ」

「……」

苺飴を舌先で舐めながら、アルトゥールは歩き始めた。そのすぐ後ろをスピーゲルがついて歩く。

甘い飴を味わいながら、アルトゥールは真顔で呟いた。

「何だったのかしら……。この三日間は……」

拳より小さなこの一粒を食べるために、アルトゥールは三日間寝る間も惜しんで頭に知識を詰め込み、ヴェラーを練習した。

けれど地主であるリュディガーの父親の宴でしか食べられないはずの苺飴は、一般庶民でも買える期間限定の特産品として街のあちこちで普通に売られていた。つまりは、アルトゥールの三日間の苦労のすべてが無駄だったのだ。

(重ね重ね、許すまじですわ。リュディガー……)

憤怒するアルトゥールに、スピーゲルが鋭く切り込んだ。

「これに懲りて、良く知りもしない人についていくのはやめてくださいね」

「……善処しますわ」

アルトゥールは苺飴を口にいれて項垂れた。

果実を覆っていた水飴の膜はすぐに溶けてなくなり、小さな一粒は数度噛んだだけですぐになくなった。

(……何だか……)

美味しかったのだが、食べた感がない。林檎飴の方が数倍美味しい気がする。あくまでアルトゥール個人としての意見だが。

「……あの……」

アルトゥールが振り向くと、スピーゲルが立ち止まっていた。

スピーゲルはいつもより深く俯いたまま、アルトゥールと目をあわせようとしない。

「スピーゲル?どうしましたの?」

「……昨日はすみませんでした」

「……謝罪なら、もう聞きましたわよ?」

そもそも、悪いのはあのリュディガーの馬鹿であって、スピーゲルは何も悪くないのだが。

スピーゲルは首を振った。

「いえ……あの……よく考えたら余計なことをしたかと思って」

「余計なこと?」

「……キスの……邪魔をしたかな、と……」

スピーゲルの声は尻窄みに小さくなった。

(ああ、そのこと……)

アルトゥールは気まずい思いでスピーゲルから顔を背けた。

「……別に……かまいませんわ」

「かまわないってことはないでしょう?」

「だって、本当にかまわないんですもの。リュディガーとキスするのは……何か、違うなと思いましたの」

アルトゥールの言葉に、スピーゲルが怪訝そうに顔を歪める。

「何か違う?何かって何です?何が違うんです?」

「……それは……」

苺飴が刺さっていた串を、アルトゥールは前歯で噛んだ。

―――何が違うか。

人が、違う。リュディガーは違う。

スピーゲルと同じように背が高くて肩幅が広くて手が大きくて髪が長くても、リュディガーでは駄目なのだ。

スピーゲルでなければ嫌なのだ。

(……なんて言えるはずありませんわ!!)

言ってしまったら、それはまるで、まるで…………。

アルトゥールは喚いた。

「どうしてもこうしても!違うものは違うんですわ!!」

そして、猛然と歩き始める。

けれど十歩も歩かないうちに小石に足をとられてつんのめった。

「姫!」

スピーゲルが、後ろから抱き締めるようにしてアルトゥールの体を支えてくれた。

大きな手。

その手を意識するだけで、アルトゥールの全身が発火しそうなほどに熱くなる。

「串をくわえたままじゃあぶないですよ。気をつけてください」

「……」

「……姫?」

俯いたままのアルトゥールに、スピーゲルが首を傾げる。

「……わたくし」

言葉が、音にならない。

よく噛んで飲み込んだはずなのに、喉に苺飴が引っ掛かっている気がした。

言うのが、怖かった。

でも言わなければ……。

(スピーゲルは、またわたくしのキスの相手を探しますわ)

それは、嫌だ。

スピーゲルに、スピーゲル以外の男をあてがわれるのは、堪えられない。そんな気がする。

だから必死に、アルトゥールは唇を動かした。

「わたくし……スピーゲルがいいですわ」

「……はい?」

言葉が足りず、彼には何のことかわからなかったらしい。

「……キスの……相手」

声が、震えた。

それでも、アルトゥールが言いたいことはスピーゲルにようやく伝わったらしい。

スピーゲルが、息を飲んだ。

彼の喉仏がゆっくり上下するのを見守って、アルトゥールはもう一度声を振り絞った。

「わたくしが……スピーゲルとキスしたいと言ったら、スピーゲルはしてくださる?」

「…………」

スピーゲルは答えない。

祭りに浮かれる人々が、二人の周囲を通りすぎて行く。

すべての音が消えて、自分の心臓の音だけがアルトゥールの耳に響いた。

長い時間が過ぎた。いや、刹那だったのかもしれない。

「……できません」

スピーゲルの答えに、アルトゥールの心臓が悲鳴をあげるように大きく脈打った。

「……どうしてですの?」

何故そんなことを尋ねてしまったのだろう。

アルトゥールは酷く後悔したが、零れた山羊の乳が器にはもう戻らないように、一度唇から落ちた言葉はなかったことには出来ない。

スピーゲルの表情は見えなかった。

外套に視界を阻まれたからではなく、アルトゥールが俯いていたからだ。

スピーゲルの顔を見るのが怖かった。

今あの赤い目でみつめられたら、本当に心臓が止まってしまうような気がする。

「……許嫁(いいなずけ)がいます……」

想像もしていなかった言葉に、アルトゥールは驚愕し、瞠目した。

「……許……嫁……?」

手を握り締め、おそるおそる顔を上げる。

すると、赤い目が、真っ直ぐアルトゥールを見下ろしていた。

「……だから」

スピーゲルの目が揺れた。まるで、血が滲むように。

「だから、あなたとはキスできません」


心臓は、止まらなかった。





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