笑わず姫と苺飴ーリュディガー④ー
四角く切り出された石が規則的に積み上げられた地下牢は湿っていて、いたるところが苔むしていた。
ポトポトと天井から滴る水に濡れないように、若者は身を縮めて牢の隅に体を寄せる。
この水が雨水なのか、それとも地下水がどこかから染みて出ているのか、若者には知る由もない。牢には窓がなく、天気を知るすべがないからだ。
(……どうしてこんなことに……)
若者は途方に暮れて、自らの膝を抱き寄せた。
若者は先頃父親を亡くした。
父親は農夫として静かに暮らしていたが、若い頃には聖騎士団に所属していた騎士だったのだという。
その父親は、騎士団時代の友人が死んだという報せに都に赴き、そして死んだ。魔族に殺されたのだそうだ。
血まみれの指輪だけが、家に届けられた。聖騎士団の紋章と、父の名前が刻印された銀の指輪。鎖に繋いで、父がいつも首から下げていた物だった。
死体は、まともに残っていなかったのだという。そこらじゅうに血肉が飛び散っていたのだと、指輪を届けてくれた人が教えてくれた。
そんな馬鹿な―――。
若者は納得できなかった。小さな指輪一つ渡され父親は死んだと言われたところで、『はい。わかりました』と素直に頷けるものか。
とにかく詳細を知りたくて、若者は生まれて初めて都を―――王城を訪ねた。
騎士団の誰かに、話を聞けないかと考えたのだ。
父親の名前と血がこびりついた指輪を門番に出すと、門番は迷惑そうにしながらも上役に話を通してくれた。城門の内側の、更に内側の門の中に若者は案内され、そして何故か投獄された。
『出してくれ』『何故』―――叫んでも誰も相手にはしてくれない。
日の光が届かない暗いこの牢に座り込み、どれほどたっただろう。
「これは……お妃様!」
老いぼれた牢番の声に、若者は顔を上げた。
(……お妃様?)
つまり、この国の王妃ということか。そんな高貴な人が、何故こんなところへ来るのだろう。
若者は四つん這いになって牢の中を移動し、鉄の格子にすがりつく。
幾つもの牢が並ぶ狭い通路のその向こう。壁にかかった燭台の灯りの下に、跪き、頭を下げる牢番の姿と『お妃様』が着ているであろうドレスの裾が見えた。
「鍵を。それから、しばらく外へ」
少女のような細く高い声につづき、軽い金属が石の上に転がる音が響いた。おそらく銀貨だ。
「へ、へえ!お安いご用で」
牢番は這いつくばって銀貨を拾うと、鍵束を王妃に渡し、媚びた笑いを顔に浮かべながら地上へと続く階段を登って行った。
靴音が、近づいてくる。
姿を現した『お妃様』は、声と同じように少女のようだった。
髪が肩にふわふわかかり、白いレースを重ねて縁取った淡い薄紅色のドレスを着た姿は、まるで闇の中で咲く月見草のように可憐で儚げだ。
その少女のように白い顔に、彼女は無垢な微笑みをたたえていた。
(どうして……笑えるんだ?)
若者はゾッとした。
空気が淀んだ地下牢は暗く不気味で、若い娘など恐ろしくて泣き出すだろうに。けれど王妃は花畑を前にしたように笑っている。
それが不気味で、恐ろしい。
「鏡」
呼び掛けに応じるように、その背後からまるで闇から溶け出したように男が現れる。
男は煤色の外套を頭からかぶり、深くかぶったフードで顔を隠していた。
音もなく男は進み出て、王妃が差し出した鍵束を受け取る。
「……名前は?」
男が、殆ど唇を動かさずに言う。
「え?」
若者は戸惑った。男の声が自分に向けられたものなのか違うのか、判別がつかなかったからだ。
「『エトムント』……だったかしら?」
若者の―――エトムントの代わりに王妃が答えた。楽しそうに、嬉しそうに。おぞましいほどに可憐な微笑みだった。
何故、彼女が自分の名前を知っているのだろう。
(……あの男が?)
門番の上役の、あの男。
エトムントをここに閉じ込めたあの男が、王妃に教えたのだろうか。王城を訪れて以来、あの男にしかエトムントは名乗っていなかった。
「それじゃあ、後で持ってきてね。スピーゲル」
王妃は、まるで恋人に宝飾品をねだるような口振りで言うと、ヴェラーを踊るような足取りで行ってしまった。
軽い靴音が遠ざかり、重い沈黙がまた落ちてくる。
(……持ってきて、て……何を?)
エトムントは首を傾げたが、考えたところでわかるはずはない。
「……あ、あんた」
鍵を鍵穴にいれて押し回す男に、エトムントは思いきって話しかけた。
「あんた、お妃様に仕えてるのか?なあ、ここから出してくれよ。俺何も悪いことはしちゃいないんだよ」
鉄の錠前が音をたてて石の床に落ち、男が身を屈ませて牢のなかに入ってきた。
「なあ!頼むよ!」
エトムントは男にすがり付いた。自然とフードに隠れていた男の顔を見上げる体になる。
「……え」
エトムントは我が目を疑った。
「あ、あんた……あんた……」
男から手を放し、エトムントは驚愕で後ずさる。
煤色の外套が揺れ、男がゆっくりと顔を上げた。
顎が、口が、鼻が、徐々に精悍な顔立ちが顕になる。そして、遂にその切れ長の目が見えた時。エトムントは悲鳴を押さえきれなかった。
「ひいい……っ!!」
腰を抜かして、エトムントはその場にへたりこんだ。
外套の男の目は、暗闇でもわかるほどに赤かった。
血塗られた瞳。
人の生き血をすすり、肉を食らうという穢らわしい一族。魔族。
「助けて……!誰か!」
エトムントは上手く動かない体を必死に動かし壁際まで後ずさりしたものの、もはや逃げ場はない。
「だ、誰か!」
湿った石を重ねた壁のどこかに、逃げ出せる隙間はないかと探して、エトムントは壁のあちこちを叩いた。
「誰か助けてくれ!助けて!」
冷たい石の壁には、虫が這い出るほどの隙間もない。
誰も助けにこないと悟り、エトムントは恐怖に震えながらも魔族の男に向き直った。
「と、父さんは……父さんを殺したのはお前か!?」
「……」
魔族は答えない。エトムントは勇気と声を振り絞った。
「お前が父さんを殺したのか!?」
「……そうだ」
静かに、魔族は肯定した。
詫びるでもなく、まるで他人事のような答えにエトムントの怒りが燃え上がる。
「ど、どうしてだ!どうして父さんを……聖騎士だったからか!?お前の一族の谷を焼き払ったから……その復讐か!?」
「………」
「お、お前たちが悪いんじゃないが!魔法で洪水を起こして、飢饉を起こした!だ、だから父さん達は……!」
「……」
魔族は目を伏せ、口を開かない。
エトムントは、尚も叫んだ。
「お前らが悪いんだ!穢らわしい魔族!!血塗られた一族め!!」
魔族は、黙ったままその手から革手袋を引き抜いた。
現れたのは、驚くほど白い手だった。
「ひっ……!」
エトムントは息を飲んだ。
白い手が、エトムントに向けて伸ばされる。
「……『エトムント』」
「く、来るなあ!!」
虫を払うように、エトムントは腕を振った。その腕が、魔族に掴まれる。
「は、離……っ」
逃れようとエトムントは暴れ、けれど魔族は逃すまいとでも言うように指に力を込める。
魔族は、薄い唇で何か言葉を紡ぎ始めた。
それに反応して無数の光が現れ、渦巻く。
体から、力が抜けていく。
エトムントは膝から崩れ落ちた。
「……と、ぅさん……」
唇が、微かに動いて父親を呼んだ。
死んだ父親に救済を求めたのだろうか、それともこの世ならぬ世界での再会を願ったのだろうか。
どちらにせよ、暗い地下牢の闇にエトムントの声は消えていく。
「…………」
動かなくなったエトムントの腕から、魔族は―――スピーゲルはそっと手を離した。
『それでね』
スピーゲルの耳の奥で、幻聴が響く。
『次に苛々したら一緒に何か食べることにするんですわ。こんなふうに』
あの時飲み込んだ林檎飴は、驚くほど甘かった。
それまで抱えていた苛立ちなんて、すべてが馬鹿馬鹿しくなるくらいに。
闇のなかに、無意識にその姿を探してスピーゲルは目を彷徨わせた。
「…………」
こんなところに、いるはずがない。
彼女がいる世界は、こんな暗く醜悪な世界ではない。
(ああ……。ほら。やっぱり)
錯覚だったのだ。
叫びだしたいほどの悲痛を胸に、スピーゲルは暗い天井を仰いで目を閉じた。
***
「姫!起きてください!」
「はっ!」
スピーゲルの大声に、アルトゥールは飛び起きる。
いつの間にか睡魔と手を取り合い、本を枕に机を涎で汚していた。
リュディガーの父親との質疑応答に備えて、見識を広げようと本を読んでいたはずなのに。
「目次の一行目は読んだはずですのに……」
おかしい。二行目の記憶が既にない。
「ちょっと目を離すとこれだ……」
スピーゲルは、大きくため息をついた。
昨日の夕方に出掛けて行ったスピーゲルは、約束どおり朝には戻ってきた。そして、所用で出掛けたリュディガーとマルガレーテの代わりに、花嫁比べの諸々の準備に追われるアルトゥールに付き合ってくれている。
(……眠っていないのではないかしら?)
少し疲れたようなスピーゲルの横顔を、アルトゥールは盗み見た。
きっと―――彼は人を殺してきた。
けれど平然とアルトゥールの前に戻ってくるあたり、ただ優しいだけの男ではないのかもしれない。
(……でも、わたくしも、とやかく言えませんわ)
スピーゲルが聖騎士団に捕まることもなく、怪我をすることもなく、アルトゥールのところに戻ってきた。その事に何より安堵しているのだから。
「そろそろ休憩にと思って調理場からもらってきたんですが……これはジギスに食べてもらいましょう」
焼菓子がのった皿を、スピーゲルはアルトゥールが向かう机とは別のテーブルに置いた。
アルトゥールは非難の声を上げる。
「えええ!?おやつのために頑張ってましたのに!」
「居眠りしといてよくそういうことが言えますね!おいで、ジギス」
スピーゲルの外套の裾から、ジギスがヒョッコリ顔を出す。
甘いものが大好きな彼は皿の上の焼菓子を見て目を輝かせると、羽をパタパタと羽ばたかせ円卓に着地した。それから小さな前足で扁桃が練り込まれた焼菓子を器用に持ち上げ、パクりとかぶりつく。
その美味しそうに食べること。
アルトゥールは恨みがましくジギスを眺めた。
「ああ~……」
ジギスが焼菓子を咀嚼する小気味良い音にあわせて、アルトゥールのお腹が情けない唸り声を上げる。
それを聞いて、スピーゲルがやれやれと頭を振った。
「ひとつだけですよ?」
そう言って、スピーゲルはジギスの手元から焼菓子を一つつまみ上げる。
「はい、あーん」
「あーん!」
巣で餌を待つ小鳥のようにアルトゥールが口を開け、そこへスピーゲルが焼菓子を放り込む。
甘く香ばしい焼菓子を頬張り、アルトゥールは束の間の癒しを得た。
「……まったく……」
その様子を見て小さく笑うと、スピーゲルはアルトゥールが枕にしていた本を取り上げた。
「それにしても……一応お姫様だったんでしょう?それなりに教育をうけたはずなのに……」
「税金泥棒と罵りたいなら好きにしていいんですのよ?」
焼菓子を飲み込み、アルトゥールは椅子の背もたれに頭を預ける。
王女と生まれたからには高度な教育を受けて様々な教養を身につけ、国のため王のための結婚をするのが世のなかの常識らしい。
ところがアルトゥールは外国語も話せなければ歴史も知らないし、刺繍をすれば針で指を刺して血のしみをつくる。
(わたくしって我ながら……)
本当に『顔』だけ、である。
挙げ句に死んだふりをして出奔。国民の納めた血税に養われていたというのに、王女としての義務をまったく果たさなかった。
肩を落とすアルトゥールに、スピーゲルは少し首を傾げて、不思議そうに言った。
「罵る前に、僕納税していませんし」
「……え?」
「してるわけないでしょう?」
「……」
よく考えてみれば、それはそうである。
村や組合などの組織に属してこその租税だ。『魔族』として迫害されるスピーゲルが納税しているわけがないし、その義務もない。
「とにかく、対策を練りましょう」
「……対策?」
机に山積みにされている本の中から、スピーゲルは慎重にある一冊の本を抜き出した。詩集である。
「詩は短いものを選び直しましょう。……出来れば食べ物に関する内容のものを」
なるべくアルトゥールの興味をひく工夫をしようということらしい。
詩集のページをめくるスピーゲルの手元を、アルトゥールは覗き込んだ。
「食べ物の詩なんてありますの?」
「……林檎の色を恋愛になぞらえた詩なら……一応」
スピーゲルが指でなぞった先を、アルトゥールは目で追った。
恋心が育つ過程を、林檎が赤く色づく様と重ねた詩だ。
何だか甘ったるくて背中がむず痒くなりそうな内容だが、難しい言葉も使っていないし、何より短い。
アルトゥールは大きく頷いた。
「これなら何とかなるかもしれませんわ」
「質疑応答は……今更手当たり次第知識を詰め込むのは無謀です。大昔の賢人の格言に絞って頭に突っ込みましょう」
他の本を手に取りなかを確認するスピーゲルに、アルトゥールは尋ねた。
「食べ物に関する格言はありませんの?」
「……」
スピーゲルは考え込み、やがて口を開く。
「……『祈りは短く。腸詰めは長く』……とか」
アルトゥールは目を瞬かせた。
(『祈りは短く。腸詰めは長く』……)
何となくだが、賢人が言いたいことはわかる。きっと彼は祈りの時間が大嫌いで、腸詰めを深く愛していたのだろう。
アルトゥールはぐっと力強く親指をたててみせた。
「そういうのなら楽勝ですわ!」
「その意気です。あとはヴェラーですね」
スピーゲルは本を閉じ、それを机に置いた。
「それこそ、お姫様なら踊れるものでしょうに……マルガレーテさんから基本的な足運びは習ったんでしょう?」
「習いましたわ。でもリュディガーが耳元であれこれうるさいから集中できなくて……それに」
アルトゥールは軽く肩を竦める。
「何だか足の運びを見ていると目が回るんですわ」
「……なるほど」
頷き、スピーゲルはアルトゥールに向かって手を差し出した。
その手とスピーゲルの顔を、アルトゥールは交互に見比べる。
「え……え?」
「さあ」
言って、スピーゲルは腕を伸ばし、アルトゥールの手を掴んだ。
「手を肩に」
引っ張り上げられるようにして立ち上がったアルトゥールは、促されるままにスピーゲルの肩に手を置いた。
「スピーゲル。お、踊れるんですの?」
「あれだけ見てれば覚えますよ。いきますよ。1、2、3、はい!」
「え、ちょっ……」
容赦なく、スピーゲルは拍子を取りながら回り始める。
「1、2、3、1……」
「スピーゲル、ま、待っ……」
アルトゥールは焦った。うろ覚えの規則性に従って、何とかスピーゲルの動きについていく。
彼の足を踏みつけてしまわないかと、それが心配でアルトゥールは足元から目が逸らせない。
そんなアルトゥールに、頭上から無理難題が降ってきた。
「足を見ないで」
「ええ!?」
アルトゥールは悲鳴をあげた。
「で、でも見ないと踏んでしまいますわ!」
「いいから見ないで―――僕を見て」
「え?」
思わず顔を上げると、体の動きに外套が揺れスピーゲルの赤い目とはちあった。
耳元で、風が吹いた気がした。
足元を見るどころか、アルトゥールは瞬きさえ出来なくなる。
スピーゲルから、目が逸らせない。
切れ長の赤い目が、柔らかに綻んだ。
「足ばかり見てるから目が回るんです」
スピーゲルが口ずさむ拍子が速くなった。拍子が速くなると、当然足運びも速くなる。アルトゥールは目を剥いた。
「……っは、速いですわ!スピーゲル!」
「1、2、3……」
「スピーゲルったら!」
慌てるアルトゥールに、スピーゲルが噴き出した。
「はは。たまには振り回される側になればいい」
「どういうことですの!?それ!!」
もしや、これは日頃から傍若無人な振るまいでスピーゲルを振り回すアルトゥールへの彼なりの復讐なのだろうか。
「スピーゲル!」
「あはは!」
スピーゲルが楽しげに笑った。
太陽が弾けるようなその様に、アルトゥールの目が眩む。
ヴェラーの三拍子にあわせるように、鼓動が速まった。
「……素晴らしいわ!!」
声と拍手が響き、アルトゥールは我に返るように足を止める。
振り返ると、部屋の入り口にマルガレーテとリュディガーが立っていた。
マルガレーテはまだ拍手を続けている。
「そんなに速い拍子で踊れるなんて凄いわ!すぐに楽士を呼びます!音楽に合わせて練習しましょう!」
マルガレーテは本当に嬉しそうな様子だったか、その隣のリュディガーは面白くなさそうな顔をしている。
(……どうしてかしら?)
別に彼に喜んで欲しくて練習していたわけではないが、財産が欲しいリュディガーにしてみれば、アルトゥールがヴェラーを踊れるようになったことは喜ばしいことのはずである。
それなのに、何故彼は悔しそうに唇を噛み締めているのだろう。
不貞腐れたリュディガーは、まるで他人の玩具を羨む子供のようだった。