笑わず姫と苺飴ーリュディガー③ー
さっそく花嫁比べの準備にとりかかったアルトゥール達だったが、その進み具合はどうにもはかばかしくなかった。
まず、『詩の暗唱』。
『季節の移ろいと人生の無情感を詠んだ有名な詩人の素晴らしい詩だよ』とリュディガーがマルガレーテと選んだ詩は、長い上に言い回しがやたらまどろっこしく、アルトゥールは暗唱どころか舌を噛んでまともに読めもしない。
次に『質疑応答』。
とにかく知識をたくさん身に付けようと歴史、経済、哲学等々、色々な種類の本をまさに山のように押し付けられたアルトゥールだが、そもそもアルトゥールは子供向けの簡単な絵本を読める程度にしか読み書きが出来ない。けれど読めと言われた本は単語がいちいち難しく、字も小さくて挿し絵すらない。アルトゥールは何とか読もうと努力はしたのだが、1頁も読み終わらないうちに意識がどこかへ飛んで行ってしまう。
そして、一番絶望的なのはヴェラーだった。
「1、2、3、1、2、3……」
マルガレーテが一定の調子で手を叩く。その手の音に合わせて、手をとりあったアルトゥールとリュディガーは足を運んだ。
一見様になってはいるが、内実は違う。
「ぎゃああああ――――!!」
リュディガーが、足を抱えて大理石の床に転がる。そこへマルガレーテが慌てて走り寄った。
「リュディガー大丈夫!?」
「痛……っ痛い!骨が折れたかもしれない!」
リュディガーは涙目で悶える。
その姿を見て、アルトゥールは深くため息をついて立ち尽くす。
(……また間違えてしまいましたわ……)
リュディガーの足を踏むのは、これで何回目だろう。
アルトゥールも一応は元『王女』。本来なら教育の一環としてヴェラーを学ぶところではあるが、アルトゥールはとある理由からそれらの教育を受けなかった。
物心ついてから舞踏会に足を運ぶこともなく、その結果アルトゥールが『ヴェラーは眺めるもの』と傍観に徹するようになって久しい。
「……ごめんなさい、ですわ」
アルトゥールが俯きがちに謝ると、リュディガーは我に返ったように慌てふためいた。
「ベ、ベーゼン!はは!大丈夫だよ!気にしないで!こんなのへっちゃらさ!」
骨が折れているわりにリュディガーは颯爽と立ち上がり、腰に手をやって妙にキラキラしく笑う。
「初めてヴェラーを踊るんだ!最初から上手くいかないのは当たり前さ!さあ、練習を再開しよう!」
そう言ってリュディガーはアルトゥールに手を差し出した。
「……リュディガー……」
差し出された手に自らの手を重ね、アルトゥールはリュディガーを見上げる。
「優しいんですのね……」
長い睫毛に縁取られた青い瞳に見つめられ、リュディガーは頬を染めた。
「ベ、ベーゼン……」
「バカっぽいくせに格好つけてる痛い奴だなんて思ってて、ごめんなさいですわ」
「……そんなこと思ってたの……」
ガクリと首を垂らしたリュディガーを放置して、アルトゥールはヴェラーの足運びを確認する。
「さ、練習しますわよ。えっと最初は右で、次は……」
リュディガーのためにも、苺飴のためにも、次こそ間違うまい。
意気込んで踏み出したアルトゥールの足が、リュディガーの左足の甲を再び思いっきり踏み抜いた。
「ぎ、ぎいやああああ!!」
リュディガーの叫び声が大広間に響き渡った。
『す、少し休憩にしよう!』と、足を引きずるようにして出て行ったリュディガーを追いかけ、マルガレーテも大広間から出ていった。
ポツリと取り残されたアルトゥールは、誰もいない空間に向けて寂しく呟く。
「……疲れましたわ……」
アルトゥールはペタリとその場に座り込んだ。
窮屈な靴を脱ぎ捨て、足を投げ出す。
慣れないことの連続で、身も心もクタクタだ。
へこんだお腹は先程から情けない悲鳴をあげている。
(……苺飴のためとはいえ……)
さすがに疲れた。そもそも苺飴に、こうまでする価値はあるのか。
俯くアルトゥールの狭い視界で、大理石の床を革の長靴が踏みしめた。
見慣れたその靴にアルトゥールは目を見開き、急いで見上げる。
思ったとおり、そこにはアルトゥールを見下ろすスピーゲルがいた。
「スピーゲル……!」
家――つまりは本物の『ベーゼン』――に連絡をとった後、スピーゲルはアルトゥールから距離をとり、ずっと黙りこんでいた。
アルトゥールは何度か彼に話しかけようとしたが、何となく出来ずに時間だけがたち、いつの間にかその姿は見えなくなっていたのだ。
どこに行ったのだろうかと気にしていたのだが……。
「……まったく、あなたは……」
スピーゲルは顰めっ面で言うとアルトゥールの前にしゃがみこみ、手に持っていた白い磁器の乳鉢を床に置いた。
乳鉢の中を覗きこみ、アルトゥールは眉根を寄せる。
「……何ですの?これ」
妙な臭いがする。
目をあわせずに、スピーゲルが答えた。
「薬草を擂り潰した軟膏です」
「薬草?」
姿が見えないと思ったら、どうやらスピーゲルは薬草を探しに行っていたらしい。
乳鉢は、マルガレーテの屋敷の者にかりたのだろう。
スピーゲルは手袋をとると乳鉢から濃い緑色のそれを手にとり、アルトゥールの足首を中心に塗り始めた。
白い長い指が、アルトゥールの足首を優しく行き来する。
「……くすぐったいですわ」
「我慢してください」
軽く叱られ、アルトゥールは仕方なく口をつぐむ。
やがて軟膏を塗った場所がポカポカと温かくなり、足が軽くなってきた。それに伴い、アルトゥールの疲れた心も解れていく。
「疲れたなら疲れたと……痛いなら痛いとはっきり口に出さないと。あなたの無表情じゃ誰も気付いてくれませんよ」
スピーゲルは、やはり目をあわせずにそう言う。
アルトゥールは、何だか可笑しかった。『誰も気付いてくれませんよ』―――そう言いながらも、彼は気付いてくれたではないか。
「スピーゲル。怒っていたんじゃないんですの?」
アルトゥールが尋ねると、スピーゲルはようやくアルトゥールの目を見た。
「怒ってません!」
「怒ってるではないの」
すかさずアルトゥールが指摘すると、スピーゲルは険しい顔を更に険しく歪める。
「……っだからって、ほっとけないでしょう!?あなたは疲れてフラフラしてるのに、あのバカ息子は自分のことばっかりでちっとも気付きやしない!」
いつものスピーゲルらしくない苛烈な口調に、アルトゥールは少し怖じ気づいた。
「……スピーゲル。何をそんなに怒っていますの?」
「だから!怒ってなんて……」
いない、と言おうとしただろう口をスピーゲルは噛み締める。
どんなに強く怒っていないと主張したところで、説得力がまるで足りないことに自分でも気付いたのだろう。
「ああ!もう!」
苛立ちを押さえきれないというふうに、スピーゲルは軟膏がついたままの手を握り締め、額にあてた。
そうして彼はしばらく俯いていたが、やがて悔しそうに話し始める。
「……自分でもよくわからないんですよ。どうしてこんなに苛立っているのか……分からなくて、また苛立つ……」
「あ、それ」
アルトゥールはスピーゲルを指差した。正確には、スピーゲルが吐き出した言葉を。
「わかりますわ。その感じ」
「え?」
スピーゲルが、顔を上げる。
「ほら。昼間リュディガーに会う前に、わたくしスピーゲルに怒鳴ってしまいましたでしょう?あの時、わたくしもどうして自分が苛々しているのかわからなくて、分からないからまた苛々して……だから」
アルトゥールは林檎飴を取り出した。スピーゲルが渡してくれた林檎飴だ。
スピーゲルが、自らの目を疑って瞬かせる。
「……え。今どこから出し……?」
「だから、はい!」
問答無用とばかりに、アルトゥールはスピーゲルの口に林檎飴を突っ込んだ。
「……っ!?」
「はい、噛んで」
「……っ」
「味わって」
「……」
「はい、飲んで」
アルトゥールに促されるまま林檎飴をかじって咀嚼し唾下したスピーゲルは、不機嫌そうに口元を歪める。
「……何なんですか?」
「苛々するのは、きっとお腹がすいているせいですわ。スピーゲル」
「……はい?」
スピーゲルは困惑に目を細めたが、アルトゥールは気にせず淡々と続けた。
「そういうことにしておきましょう?分からないことを考えるのは疲れますもの。それでね、次に苛々したら一緒に何か食べることにするんですわ。こんなふうに」
スピーゲルがかじった林檎飴を、今度はアルトゥールがかじる。
薄く硬い水飴と、甘酸っぱい果汁が舌の上で絡まりあった。
「そうしたら、もう喧嘩せずにすむでしょう?」
「……」
スピーゲルが、険しい顔のまま俯いた。
(……あら?)
やはり、食べることが嫌いなスピーゲルには無茶な提案だっただろうか。それとも林檎飴を無理矢理食べさせたことで、不快にさせてしまっただろうか。
(いい考えだと思いましたのに……)
少し不安になったアルトゥールは、おそるおそるスピーゲルに呼び掛けた。
「……スピーゲル?」
「……あなたの目に、この世界はどんなふうに見えているんでしょうね……」
下を向いたまま、スピーゲルがボソボソと呟く。
「え?」
アルトゥールは訊き返した。
伏せていた顔を上げたスピーゲルは、困ったように、じわりと滲むように、微かに笑っていた。
「あなたと話していると、この世界が実は優しいのではないかと錯覚しそうになります」
「……それは……」
アルトゥールは考え込んだ。いったい、どういう意味だ。
「……この世界があなたのような人ばかりなら……きっと僕の一族は滅びたりなんかしなかったんでしょうね……」
寂しそうな呟きは、小さすぎてよく聞こえない。
「え?何て?」
アルトゥールが首を傾げるのと、窓硝子が激しく鳴ったのは同時だった。
黒い烏が、羽ばたきながら窓を嘴でつついている。
「……烏?」
「……」
スピーゲルが、無言で立ち上がった。そして真っ直ぐ窓に向かい、閂を引き窓を開ける。
烏はそれを待っていたかのように窓から飛び込み、スピーゲルの差し出した腕に掴まると羽を畳んだ。
優しく、スピーゲルは烏の頭を撫でる。優しく、優しく。
彼の表情が見えないことに、アルトゥールは不安を覚えた。
「……スピーゲル?」
「……出掛けてきます」
言って、彼はアルトゥールを振り返った。
その頬は、柔らかく微笑んでいる。
「明日の朝までには戻りますけれど、大丈夫ですか?」
「……ええ」
アルトゥールは頷いた。頷くしかなかった。
何故ならスピーゲルが笑っているから。
その微笑みが作り物だとわかっていたから。
そこから先は、踏み込んではいけない。踏み込むことを、スピーゲルは望まない。
だから、アルトゥールは何も気づいていないふりをした。
ゆっくり、スピーゲルがアルトゥールに近づき、手を伸ばす。
軽く押すように、幼い子供にするように、スピーゲルはアルトゥールの頭を撫でた。
痛みをこらえるように、スピーゲルは微笑みを深くする。
「……いい子に、してるんですよ?」
「……」
アルトゥールは、答えなかった。
スピーゲルも、アルトゥールの答えを待つことなく手をひく。
床に置いておいた手袋を拾いあげ、スピーゲルは踵を返す。烏が一声鳴いてスピーゲルの腕から飛び立ち、窓から外に出る。
それに続いて、スピーゲルも窓から出ていった。
***
ベーゼンを大広間に残し、リュディガーは自室に引きあげてきた。
靴を脱ぎ何度もベーゼンに踏まれ続けた足を、氷水で満たした桶に差し入れる。
「うう……痛い……」
幾分か痛みが和らいだ気はするが、足の甲にはベーゼンが履いていた靴の踵の跡がはっきり残っている。
「ねえ、リュディガー。大丈夫なの?」
心配そうなマルガレーテに、リュディガーはひきつりながらも笑顔を返した。
「だ、大丈夫さ。本当に骨が折れているわけじゃないし!」
「そうじゃなくて……ベーゼンさんで大丈夫なの?本当にあの人で花嫁比べに勝てるの?」
「そ、それは……」
リュディガーは言葉を失う。
「その……だ、大丈夫さ。まだ本番までには時間があるし」
「でも、あの人……字があまり読めないようだったわ……詩の暗唱なんて難しいんじゃないかしら……」
「う……」
リュディガーの額に冷や汗が浮かんだ。
(た、確かに……)
ベーゼンが読み書きが苦手らしいことは、リュディガーも薄々気が付いていた。
農村部や貧しい家の娘ならともかく、近頃は大抵の娘は読み書きを不自由しないまでに習得するのが普通である。
ところがベーゼンは本の目次頁を読むにも四苦八苦した末、まるで現実から逃避するかのように居眠りを始めてしまった。
「それにね。ベーゼンさんはヴェラーも全然踊れないし……」
「うう……」
冷や汗が、リュディガーの頬を伝って流れ落ちる。
(ヴェラーが踊れないなんて……)
そんな人間がこの国にいるなんて考えもしなかった。
宮廷式の色々と複雑な決まりがあるヴェラーならともかく、基本的なヴェラーは結婚式や収穫祭で貧富を問わず踊られるものだ。殆どの人間は子供の頃からヴェラーに慣れ親しみ、きちんと習ったことがなくてもそれなりに踊れるものである。
けれどベーゼンはまったく踊れなかった。最初に踏み出す足さえも知らないかったくらいだ。
字も読めず、ヴェラーも踊れない。
いくら絶世の美女とはいえ、『美しさと教養』を競う花嫁比べでベーゼンは圧倒的に不利である。
(で、でも……それがなんだ!)
リュディガーは手を握り締め、立ち上がった。足元の氷がガラリと鳴る。
「財産を得るには……っ!兄さん達の花嫁に勝つには、ベーゼンの美貌に賭けるしかないんだ!」
時間はあと二日ある。
とにかくベーゼンの頭に詩と知識を、足にヴェラーの拍子を叩き込むのだ。
けれどマルガレーテはまだ安心出来ないらしく、不安げに口元に手をやった。
「でも……全てうまくいったとしても正式に結婚しないと財産は相続出来ないのよ?それはどうするの?」
「それこそ心配いらないさ!」
心配げなマルガレーテに、リュディガーは自信満々に片目を瞑ってみせる。
「花嫁比べまでにベーゼンを口説きおとしてみせるよ!僕を誰だと思っているんだい?」
だが、マルガレーテはこれにも顔を曇らせる。
「でも……ベーゼンさん。自分が口説かれていることにすら気付いていないみたいよ?それに、あのスピーゲルさんて人、ベーゼンさんの恋人なんじゃないの?」
「……ううう……っ」
マルガレーテの鋭い指摘に、遂にリュディガーは目を泳がせた。
そうなのだ。財産を相続するために、早速リュディガーはベーゼンを口説き始めたのだが、ベーゼンはまったくそれに食いついて来ない。というより、自分が口説かれていることにすら気付いていないらしいのだ。
(何なんだ!?あの娘!!)
リュディガーの意味ありげな流し目をもってしてもベーゼンは恋に落ちないし、爽やかな微笑みにも知的な思案顔にも、まったく興味を示さない。
それならばと『目が綺麗だね』と耳元で囁けば『知ってますわ』と真顔で返してくる。
そこは普通はにかんで『ありがとう』と返すか『そんなことないわ』と謙遜するところではないのか。
そこへ『君の瞳のなかの星をもっと近くで見せてくれないか』というリュディガーお気に入りの殺し文句が炸裂する予定だったのに、『知ってますわ』なんて言われたら全てぶち壊しだ。
(それに、あのスピーゲルとかいう顔を隠した男……)
ベーゼンは『同居人』だなんて言っていたが、本当にただの同居人なら何故ずっとリュディガーに殺気を向けてくるのだ。何も言ってこないのが余計に怖い。
「……あら?」
マルガレーテが、何かに気付いて窓に近づく。氷水に足をつけたまま、リュディガーは尋ねた。
「どうかしたのかい?」
「……今、スピーゲルさんが大広間の窓から出ていったの。……烏と一緒に」
「……烏と?」
リュディガーは顔をしかめた。何故、烏。
「スピーゲルさん、どこに行ったのかしら?」
「……マルガレーテ。絶好の好機到来だ!」
「え?」
リュディガーは拳を握りしめ、氷水から勢いよく飛び出した。
「すぐにベーゼンのところに……っわ、わわわ!わああ!」
濡れた足が床の上で滑り、リュディガーは見事に転倒する。
「リュディガー!?大丈夫!?」
「だ、大丈夫さ。それより、スピーゲルだけが大広間から出ていったんだね?」
「え、ええ……」
頷くマルガレーテに、リュディガーはニヤリと口角を上げる。
「仲違いしている様子だったしな……その隙に付け入るのは簡単さ」
恋に悩み泣く娘は、優しさに弱いものだ。いくらベーゼンだって、そうに違いない。
「靴をとってくれ!」
痛む腰をさすりながら、リュディガーは急いで靴に足を突っ込んだ。
***
スピーゲルが出ていった窓から、アルトゥールは外を眺めた。
太陽は西の山に沈み、既に夜色を帯びた東の空に一番星が顔を見せている。
置いていかれたわけではない。明日の朝にはスピーゲルは帰ってくる。
それなのに心細くて仕方がない。
「ベーゼン」
声をかけられ振り返ると、いつの間にかリュディガーが戻ってきていた。
リュディガーは、酷く心配そうな顔でアルトゥールのすぐ隣に立つ。
「どうしたんだい?スピーゲルと喧嘩でもしたのかい?」
「……仲直りしましたわ」
アルトゥールはすねるように言って、窓の外に視線を戻す。
(……そうですわよね?)
アルトゥールは食べかけの林檎飴をまた口に運んだ。
双方の何が悪かったのか、そして何に苛立っていたのかは今だ不明だが、スピーゲルとの間に霧のように漂っていた気まずい空気は消えた。
それなのに、不安だ。
「仲直りしたなら、どうしてスピーゲルは出ていったんだい?」
「それは……」
答えられず、アルトゥールは口ごもる。
(……止めた方が良かったのかもしれませんわ)
けれど、それが出来なかった。
スピーゲルは、多分王城に行ったのだ。
(王城で、スピーゲルはきっと……)
聖騎士団の誰かの命を奪っている―――。
そしていつか、アルトゥールもスピーゲルに殺されるのだ。
一族を火炙りにした国王を、聖騎士団を、スピーゲルは憎んでる。殺さずにはいられないほどに。
(……でも……)
何故だろう。
奇妙な違和感があるのだ。
スピーゲルが人を殺しているのは確かだ。
彼が人を殺めたその瞬間を、アルトゥールは見たことがある。
そして、その無惨な遺体を見た誰もが『魔族の仕業に違いない』と……。
難しいことを考えるのが苦手な頭で、アルトゥールは必死に思考を巡らせる。
この違和感は、一体何なのか。
「……」
「ベーゼン、わかるよ」
思考の海にどっぷりと浸かるアルトゥールの隣で、リュディガーが同情的に言った。
「スピーゲルも罪な男だ。君みたいに綺麗な恋人を置いて他の女のところに行くなんて……けれど僕は違うよベーゼン」
キラリと、リュディガーの白い歯が光る。
「僕は真実の愛を見つけたからね。僕は君を泣かしたりしないよ。……ベーゼン」
リュディガーの手が、アルトゥールの肩に伸びた。けれどアルトゥールは考え込んだまま、それに気がつかない。
「ベーゼン……泣きたいなら、僕の胸で……」
アルトゥールの肩を、邪な手がまさに抱き寄せんとした時。
開いた窓から飛び込んだ何かが、リュディガーの顔に張り付いた。
その湿った質感に、リュディガーは悲鳴をあげる。
「ぎぃやあああ――――――――――――――――――!?」
「……あら、ジギス。お帰りなさい。早かったですわね」
アルトゥールが差し出した手の上に、『おつかい』を終えたジギスヴァルトがパタパタと降り立った。
「は、羽蜥蜴が……っ爬虫類が顔に!僕の美しい顔に!!ひいいい!!」
リュディガーはひきつるような声を上げて、大広間から逃げていった。
その後ろ姿に、アルトゥールは不思議そうに首を傾げる。
「何を大騒ぎしているのかしら?ねぇ、ジギス?」
答える代わりに、ジギスヴァルトはアルトゥールが持っていた林檎飴の残りにかぶりついた。