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笑わず姫と苺飴ーリュディガー①ー

地方都市として栄えるその街は、三日後の祭りを見物しにきた近隣の人々で溢れかえっていた。

店や民家の扉や窓には祭りを祝う花輪が飾られ、街のそこかしこで弦楽器や打楽器の陽気な音楽が流れている。

大通りでは、そこらへんで拾ってきたとしか思えない石が『幸運を呼ぶ』と銘打たれて売られていたり、ただの果実水がやたら豪華に飾りつけられ、目が飛び出るような高価格で店頭に並んでいた。お祭り騒ぎに便乗した無茶苦茶な商法だが、買う側も祭りに浮き足だっており、それらの商品は飛ぶように売れていく。

そんな街の片隅に、アルトゥールとスピーゲルは座り込んでいた。

道行く人々を眺めながら、アルトゥールはスピーゲルに尋ねる。

「お祭りってどんなお祭りですの?」

「僕もよくは知らないんですけど……ここら辺では有名な祭りだそうですよ。そんなことより、姫。ほら。あの人」

スピーゲルは小声で囁いた。

指差した先にいたのは、アルトゥールと同じ年頃の若者である。

「あの人はどうです?」

「……うーん」

アルトゥールは首を捻った。

相も変わらず、アルトゥールの理想の『キスの相手』探しをしている二人である。

けれど真面目に相手を探しているのは、実はスピーゲルだけだった。

それというのもアルトゥールは先頃、自分がキスの相手として理想的と考える条件に、スピーゲルがぴったり合致していることに気が付いたのだ。

自らの膝に両肘をつき、両掌で顔を支えながら、アルトゥールはスピーゲルの横顔を盗み見た。

(『背が高くて』『肩幅が広くて』『手が大きくて』『髪が長い』―――……わたくしって、こういうのが好みでしたのね)

妙に感慨深いものがある。

(……でも、困りましたわ)

実はアルトゥールは自分が『キスの相手』を見つけて、それがスピーゲルであることを、当のスピーゲルに言えないでいるのだ。

何度も言おうとしているのだが、どうしても言えない。

言おうとすると、体が凍る。そのくせ体内はのぼせるように熱くなって、思考が熔けてしまう。

(……あのキスの真似事……)

アルトゥールは、先日の一件を思い起こした。

暗い森のなか。

焚き火のあかり。

スピーゲルがゆっくり近づいてきて……。

結局はアルトゥールの頑固なしゃっくりを止めるために、スピーゲルがキスの真似事をしただけだったのだが、もし本当にキスされたらと考えると、アルトゥールの体の芯は震えた。

恐怖に似た、けれど甘い何かがアルトゥールの心臓を激しく叩いて、呼吸が止まりそうになる。

つまり、アルトゥールはおじけづいていた。

キスがしたいと相手を探し回っていたくせに、いざ相手が見つかると二の足を踏んでいる。

(……わたくしって、案外繊細ですのね……)

我ながら図太い神経を有していると思っていたが、これは大発見である。

「あ。あの人なんてどうですか?」

アルトゥールの意味深な視線に気づきもせず、スピーゲルは雑踏に候補者を探している。アルトゥールの内情など彼が知るよしもないので、仕方がないと言えば仕方がないのだが。

適当に視線を巡らし、アルトゥールは首を振った。

「眉毛が気に入りませんわ」

「じゃあ……。あの人は?」

スピーゲルが次に指差した若者を一瞥し、アルトゥールはまた首を振る。

「鼻が大きすぎますわ」

「……それじゃあ、あの人」

今度は指差された人物を見ることもなく、アルトゥールは首を振った。

「何となく嫌ですわ」

そんなアルトゥールの投げ槍な態度に、スピーゲルは困ったように肩を落とす。

「どうしたんですか?前から食べ物に気が散りがちでしたけど……最近特にやる気がないじゃないですか」

まさかアルトゥールが既に『キスの相手』を見つけているとは、スピーゲルは思っていないらしい。

ましてや、その相手が自分とは。

きっとアルトゥールが『もう見つけた』と言わない限りは、彼は生真面目にずっとアルトゥールの『キスの相手』を探し続けるのだろう。

『死ぬ前にキスがしたい』。

アルトゥールのその願いを叶える為に、彼はジギスヴァルトに魔法をかけて西へ東へとアルトゥールを遠出に連れ出し……。

他人(アルトゥール)のためにこうまでしてくれる人間は、世界広しと言えど、そう見つかりはしないだろう。

(……あら?)

その時。難しいことを考えるのは苦手なはずのアルトゥールの脳みそが、無駄に速く回転した。

おかげでアルトゥールは、今まで気が付かなかったことに今更ながら気付いてしまったのだ。

「……」

アルトゥールの胸の内に、突如黒い雲が立ち込める。

その黒い雲は暴力的で理不尽で、アルトゥールの理性を問答無用に捩じ伏せた。

黙りこんでいるアルトゥールを、スピーゲルが不審に思って覗きこむ。

「……姫?どうしました?」

「……どうしてですの?」

「は?」

「どうしてスピーゲルはそんなにわたくしの『キスの相手』を一生懸命探すんですの?」

「……は?」

スピーゲルが困惑するなか、アルトゥールは立ち上がる。

そしてスピーゲルを見下ろした。

「わたくしが……わたくしが誰かとキスしてもスピーゲルはかまいませんの?」

「……はあ!?」

アルトゥールの発言に、スピーゲルが当惑を全面に押し出した。

「何言ってるんです?僕がかまわないかって……だって『キスがしたい』と言ったのはあなたでしょう?」

「そうですわ。けれど、そうじゃなくて……!」

スピーゲルに、自分は何を要求しているのだろう。

わからない。

わからないけれど、とにかく苛立って仕方がない。

スピーゲルが、やれやれとでもいうように立ち上がった。

その見慣れたはずの仕草すらも、アルトゥールの神経を逆撫でする。

「空腹で苛々しているなら、林檎飴でも買ってきましょうか?」

いつもなら大きく頷いていただろうスピーゲルの言葉。

けれど今日は、その言葉にアルトゥールの怒りは完全に振り切れた。

「スピーゲルなんか……もう知りませんわ―――ッッッ!!」

道行く人々が驚いて振り返る。

「姫?どうし……姫!?」

スピーゲルを置いて、アルトゥールは駆け出した。







(スピーゲルなんかスピーゲルなんかスピーゲルなんかスピーゲルなんか……っ!!)

腕組みをし、アルトゥールは人通りを凝視した。

限界まで目を見開き、瞬きすらせず、全身から怒りという名の覇気を発するアルトゥールを人々は恐れて遠巻きに通り過ぎる。

(『背が高くて、肩幅が広くて、手が大きくて、髪が長い』……)

心の内で条件を呪文のように唱え、アルトゥールは『キスの相手』を探していた。

こうなったらスピーゲル以外に条件に該当する人物を探しだしてさっさとキスしてしまおう。

絶対にスピーゲルに『キスして欲しい』なんて言うものか。

アルトゥールは意地を張りに張りまくっていた。

(『背が高くて、肩幅が広くて、手が大きくて、髪が長い』……)

探せば沸くほどいるはずだ。

スピーゲルでなくとも。

きっとすぐに……。

(……見つかるかしら……)

張りつめていたアルトゥールの意地が、急速に萎んでいく。

アルトゥールは項垂れ、しゃがみこんだ。

わかっている。

アルトゥールの『やりのこしたこと』をやるのがスピーゲルの目的で、アルトゥールのキスの相手が誰であろうと、彼はかまわないのだ

アルトゥールが誰かとキスをしても、スピーゲルは当然ながら平気なのだ。

そう思うと、アルトゥールは悔しくて、腹が立って、そして……。

(……悲しい……)

アルトゥールは自らの膝を抱き締める。

悲しくて、悲しくてたまらない。

どうして、こんなことを急に思うようになったのだろう。

今まで何とも思いはしなかったのに。

―――いや、本当に、何とも思っていなかったのだろうか。

街で売られる食べ物や出会う人々を言い訳に、逃げていなかっただろうか。

本気で『キスの相手』を探すことを。

無意識に、避けていなかっただろうか。

(……何だか最近……)

よく分からないことが多い。

どうしてこんなに悲しい想いをしているのか、どうしてこんなにスピーゲルに対して怒っているのか。

わからないことだらけだ。

(……とにかく、スピーゲルに謝らなきゃいけませんわ)

彼は何も悪くないのだから。

謝って、そして林檎飴を買ってもらおう。

きっと彼が言っていたように、自分は空腹だったのだ。だから苛立っていたのだ。

お腹が満たされて心も体も元気になったら、もう一度スピーゲルと『キスの相手』を探そう。

アルトゥールは心にそう決め、立ち上がった。

丁度その時。

水路にかかっていた小さな木橋を、男が一人渡ってきた。

(『背が高くて』……)

背が高いその男は身なりがよく、上品な上衣が広い肩幅によく似合っている。

(『肩幅が広くて』…)

男は長い髪を大きな手で背中に払った。鼻筋が通った顔立ちは、なかなかに整っている。

(『手が大きくて、髪が長い』……)

アルトゥールは男を見つめた。

―――まずい。見つけてしまった。条件に合致する男を。

いや、何もまずいことはないのだが、その時のアルトゥールは自分でも気がつかぬうちに、『まずい』と思ってしまっていた。

当の男は困った様子であたりを見回していたが、アルトゥールと目があうやピタリと立ち止まる。

「……見つけた!!」

言ったのはアルトゥールではない。男の方だ。

「遂に見つけたぞ!!」

男はもう一度叫ぶとアルトゥールに走り寄り、その手をガッシリと掴む。

妙に煌めく瞳でアルトゥールをねっとり見つめ、男は言った。

「もう離さないよ……っ!!僕の花嫁!!」

アルトゥールの両腕に、一斉に鳥肌がたった。







久しぶりの祭りを目の前にして、浮かれる街の人々とは対照的に、リュディガーは途方に暮れていた。

リュディガーはこの街を含む一帯の地方を治める地主の家の三男坊として生まれた。

女の子に間違われるほど可愛い子供で、しかも末っ子。

両親、召し使いから可愛がられ、それはそれは幸せな幼少期を送ったリュディガーはやがて背が伸び、声が低くなり、麗しい青年へと成長した。

リュディガーの華麗な姿に女達は感嘆し、リュディガーの気をひこうと高価な贈り物を手に列をなす。

彼女達に乞われるままに、リュディガーは愛を囁き、恋を楽しんだ。

めくるめく愛と青春の日々。

「つまり、女遊びに夢中な放蕩息子というわけですわね」

テーブルを挟んだ向こう側に座り。リュディガーの話を聞いていた女がバッサリと言い放つ。

「み、身も蓋もないことを言わないでくれたまえ!!」

リュディガーはテーブルを叩いて立ち上がった。

周囲のテーブルに座っていた客達が一斉にリュディガーに注目する。

「……失礼」

リュディガーは咳払いして椅子に座り直した。

リュディガーが座っているのは、上品な白い壁に、これまた上品な絵画を飾る上品な店の中だ。

振るまいや服装が店の客として相応しくなければ、店から追い出されてしまう。

「気を付けないと、お茶がこぼれますわよ」

向かいに座っていた女は涼しい顔でそう言うと、突き匙(フォーク)で野苺のパイを突き刺し頬張った。

ちなみに七皿目。

(こ、この女……!)

細いくせに異常に食べる。しかも遠慮がない。

リュディガーは密かに自らの財布の膨らみを確認した。はっきり言って、持ち金が心もとない。

父親から支給された今月分の小遣いも幼馴染みから借りた金も、賭場で殆どつかってしまった。

だが『是非とも一緒にお茶を』と目の前の女を店に連れてきたのは自分の方だ。いつもは同伴する女性に払ってもらっていたが、今回ばかりはリュディガーが払わないわけにはいかない。いざとなったらツケだ。

「そ、そういえば」

リュディガーは、また咳払いをして作り笑いを口に浮かべた。

「名前を言っていなかったね。僕はリュディガー。君は?」

女はリュディガーの問いにはすぐに答えず、何か考え込むようにモグモグと口を動かしていたが、やがて口を開く。

「……ベーゼン、ですわ」

「……ベーゼン」

リュディガーは眉を寄せた。

(ベーゼン)。妙な名前である。

(けれど、その容姿は文句のつけようがない)

リュディガーは目の前に座る女を改めて観察した。

(こんなに美しい女、初めて見た……)

雪のように白い肌。

泉のように青い目。

林檎のように赤い唇。

背中に波立つ黒い巻き髪。

ちらりとも笑わないほどに愛想はないが、間違いなく絶世の美女である。

「それで?親に甘やかされて人生舐めきっている馬鹿息子が何故途方に暮れていますの?」

歯に衣着せないベーゼンの言葉に、リュディガーの米神の血管がひきつる。

ちやほやされて生きてきたリュディガーにとって、ベーゼンのリュディガーに対する態度はあまりなものだ。

(お、落ち着け。僕)

どんなに失礼で無愛想だろうと、こんな美貌を持つ女は他にはいない。

リュディガーはお茶を一口飲んで気持ちを落ち着け、ベーゼンにニッコリと笑いかけた。

「実は……僕の家には妙なしきたりがあってね。男兄弟が全員成人した年に、祭りで『花嫁比べ』をするのさ」

「……『花嫁比べ』?何ですの?それ」

「言葉の通り、花嫁を比べるのさ。美しさ、洗練された身のこなし、教養……そしてもっとも優れた妻を持つ者が……――」

リュディガーは勿体ぶって言葉を途切らせた。

「―――全財産を相続する」

前髪をわざと揺らし、リュディガーは意味ありげな目線をベーゼンに送った。

この流し目で恋に落ちなかった女は過去いない。

そんなリュディガーにとって、ベーゼンはまったく新しい人種だったようだ。

「わたくし、あなたとは結婚できませんわよ」

ベーゼンは恋に落ちるどころか、リュディガーの言いたかったことを全て理解した上で、あっさりと求婚を拒否してきたのだ。

リュディガーは慌てた。

「ど、どうして!?全財産だよ!?この街と周辺の土地と、そこから生み出される収益が全て手に入るんだ!」

「確かにわたくしは美しいですわ」

悪びれずに言い切ると、ベーゼンは突き匙(フォーク)でザクリと8皿目の干し葡萄のタルトを突き刺した。

「けれどはっきり言って(これ)だけですもの。あなたが探しているのは、つまり顔だけじゃダメなのでしょう?」

普通なら切り分けて何度かに分けて食べるであろうそのタルトを、ベーゼンは一口で軽く咥内におさめ、咀嚼し、そして飲み込んだ。

「とにかく、あなたと結婚はできませんの。―――さくらんぼの蜂蜜タルトを一つお願いできて?」

ベーゼンは手を上げて近くにいた店員に声をかけた。

九皿目である。

間違いなく財布の中身が足りない。ツケ決定だ。

(いいや!ツケがなんだ!)

父親の全財産を相続すればツケどころかこの店を買い取ることだってできるのだ。

リュディガーは必死だった。

兄二人は両親に溺愛され贔屓されてきたリュディガーを目の敵にしている。

彼らのうちどちらかが財産を相続すれば、リュディガーがどんなに頭を下げても金貨一枚すら恵んではくれないだろう。

両親にしろ、溺愛してくれたのは今や昔。いい年をして働かず、女性問題を次から次へと起こすリュディガーに今や呆れ果てている。

(このままじゃ僕の人生終わりだ!)

今までのように面白おかしく遊んで暮らすには莫大な財産を相続するしかない。

そして莫大な財産を相続するには、この二人といない美女・ベーゼンと結婚するしかないのだ。

ちなみに、真面目に働くという選択肢はリュディガーの頭には浮かばないらしい。

「と、とにかく……!()()だけでもいいんだ!花嫁比べで勝って財産を相続するまで花嫁の……花嫁が無理なら許嫁の()()をしてくれればいい!勿論君にも財産の分け前を渡す!」

「でも……それってつまりは皆を騙すということですわよね?」

ベーゼンは気が進まないという様子で空の皿に突き匙を置くと、頬杖をついた。

リュディガーは立ち上がり、テーブルに手をつけ頭を下げる。

「この通りだ!頼むよ!」

「……でも……」

「……花嫁比べの席には珍しいご馳走が出るよ」

ピクリと、小さな頭を支えるベーゼンの指先が反応した。

(やっぱりな……)

リュディガーはひそかに右の口角を上げる。

これでも女という女を口説いてきたのだ。何を言えばその女がよろめくかくらいは簡単に分かる。

「年に一度の祭りだしね。普段は食べられないご馳走がいっぱいさ。近くの大きな河で獲れた新鮮な魚と白葡萄酒の煮込み料理。小麦と大量のバターを練って焼いて、焦がし砂糖でくるんだ祭りの時にだけ特別に作るパン。そして―――苺飴」

「……苺飴?」

ベーゼンが身を乗り出す。

「苺飴って何ですの?」

釣りに成功したことを確信したリュディガーは、万歳三唱をしたい気分を懸命に答えて平静を保った。

「林檎飴は分かるだろう?あれの中身が苺なのさ」

「何ですって……!?」

ベーゼンは驚愕し、両手で口元を押さえる。

「でも……今の時期に苺?旬はとっくに過ぎてますわ!」

「この地域で栽培している夏に収穫出来る苺さ。品種改良を重ねて近年ようやく安定して収穫出来るようになったんだ。とはいえ、数は少ないよ。都の王様にもまだ献上出来ていない稀少な物だし、いくら年に一度の祭りでも食べられるのは地主である僕の父上がひらく花嫁比べの宴だけ―――……」

「やりますわ!!」

ベーゼンが拳を握りしめ、力強く立ち上がる。

「わたくし、立派に許嫁のふりをしてみせますわ!!」

「そうこなくちゃ!!」

リュディガーは手を叩いてベーゼンの決断を讃えた。

(うまくいったぞ!)

リュディガーはほくそ笑む。

ベーゼンには『ふりでいい』なんて言ったが、それは嘘だった。

優れた妻を持つことで相続が認められるのだから、当然正式に結婚する必要がある。

けれどベーゼンは顔はすこぶる上品だが、食べ物につられてしまうような少し残念な娘だ。丸め込むのはそう難しくないだろう。

それに、莫大な富を実際に目にすれば気が変わるはずだ。

(ああ!楽しみだ!!)

愛想はないが若く美しいベーゼンを妻にし、莫大な財産を手に入れるその時が待ち遠しい。

うっとりとこの先の薔薇色の人生に思いを馳せるリュディガーに、店の店員が声をかける。

「他のお客様のご迷惑になりますので、退店をお願いできますでしょうか?」

「え!?」

リュディガーは慌てて周囲を見回した。

上品な衣装に身を包んだ上品な方々の、汚いものを見るような視線がリュディガーとベーゼンに集まっている。

そんな目線など気にもとめず、ベーゼンは残念そうに空の皿を眺め、突き匙をくわえた。

「あら。もう一皿さっきのパイが食べたかったのに……けれど腹八分目が健康にいいと言うし……」

ベーゼンは立ち上がるとさっさと歩き出した。

「さ、行きますわよ。馬鹿息子」

「そ、その呼び方はよしてくれ!」

急いで後を追おうとしたリュディガーの袖を、店員が引っ張った。

「お勘定をお願いいたします」

「え!?」

「紅茶が二杯に焼き菓子十三皿ですので……」

「十三皿!?」

九皿のはずでは、とリュディガーはテーブルを見返した。

ベーゼンが座っていた場所には、確かに十三皿の白い皿が塔をつくっている。

「い、いつのまに!?」

「……しめて、銀貨二袋になりますが」

「ふ、二袋……!」

リュディガーは震え上がった。

銀貨一枚はおおよそ林檎一つの金額だ。銀貨一袋は銀貨が百枚。

財布を開くまでもなく足りない。まったく足りない。

「……ツ、ツケで頼む」

リュディガーお得意の美しい愛想笑いに、店員が困った顔を見せた。

「失礼ですが、随分とツケがたまっておりますので…」

「で、出来ないっていうのか!?僕は地主の息子だぞ!?」

「……と、言われましても……」

周囲の客が、クスクスと笑い始める。

リュディガーは顔を赤くした。何たる屈辱だ。

「……お召し物をお預かりしましょうか?」

店員が小さな声で提案してきた。

つまり、代金の代わりにリュディガーの上衣をくれと言うのだ。

(そんな貧乏人のようなこと……!)

出来るものかと、リュディガーは激昂した。

「馬鹿にするな!僕は地主の息子で……」

「困ります、お客様……」

店の入口で、何やら押し問答をしている声が聞こえた。

そちらを見ると、擦りきれた煤色の外套を頭からかぶった男が店に入ろうとし、店員がそれを押し止めている。

「失礼ですがお客さまの身なわりでは入店は出来かねます。せめて外套を……」

「いえ、あの……えっと……顔に火傷があって脱げないんです、外套(これ)

リュディガーが嫌いな、土臭い格好の男だ。頭から顔まですっぽり外套をかぶって、陰気なことこの上ない。

そんな男がこんな高級な店に何の用があるのか。

リュディガーだけではなく、店中の人間が怪訝そうに男を眺める。その男の影から、ひょい、とベーゼンが顔を見せた。

「え!?ベーゼン!?」

どうしてそこに。

「スピーゲル、彼ですわ」

ベーゼンがリュディガーを指差し、煤色の外套の男を見上げる。

すると、その男はリュディガーに近付いてきた。

(ぼ、僕より……)

背が高い。

自分より背が高い男に見下ろされることに慣れていないリュディガーは、怖じ気づいて後ずさる。

男の顔は外套のフードで隠れていてほとんど見えなかったが、引き締まった顎と口元を見ると、どうやら若い男らしい。

「あの……ご迷惑をかけたんじゃないかと思いまして。彼女、すっっっっっっっっごく、食べたでしょう?」

ベーゼンが横から口を出す。

「たった十三皿ですわ」

「こういう店の十三皿は銀貨一袋でも足りないんです」

その通りである。

「と、言うわけでこれ……」

男は光輝く金貨を一枚取り出した。

金貨一枚は、銀貨十袋。つまり銀貨千枚に相当する。

リュディガーも、そばにいた店員達も目を剥いた。

(こ、こんな……)

こんなみすぼらしい男がこんな大金を持っているなんて。

リュディガー達の様子に、男はハッとして慌てて店員達に言い訳を始めた。

「あ、あの!か、彼の親御さんから届けるように頼まれたんです!」

そんなはずはない。リュディガーと男は初対面だ。

けれどそういう(てい)を装った方が怪しまれないと、男は判断したのだろう。

確かに、彼の身なりでこんな大金を持っていたら、良からぬ人物なのではと痛くもない腹を探られる。

実際、リュディガーは男を訝しんだ。何者なのだ。この男は。

「わたくしの同居人ですわ」

まるでリュディガーの疑問に答えるように、ベーゼンが横から言った。

(ど、同居人?)

色々と怪しいところはあるが、疑ったところでリュディガーの財布の中身は増えはしない。

「……ご、ご苦労だったな!」

リュディガーは偉ぶって言うと、男から金貨を受け取った。

(……これで上衣を着て店を出れる)

心底リュディガーは安堵していた。



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