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笑わず姫とカボチャパイーエーリカ④ー



*****




アルトゥールが駆け付けた時には、炎は既に家を飲み込もうとしていた。

火の勢いは強く、油の臭いが鼻をつく。

水桶を手にした村人達が、必死に消火を試みていた。

「水だ!どんどん水を持ってこい!」

「急げ!」

けれどそんな彼らを嘲るように、炎は火花を激しく散らし、火花は夜風に乗って母屋の隣にある家畜小屋の屋根に飛び移る。

乾燥した草葺屋根は、瞬く間に燃え広がった。

「大変だ!家畜を逃がせ!」

柵が壊され、半狂乱状態の家畜が飛び出してくる。

その向こうに、何かを囲むようにして人だかりができていた。

「おい、ブルーノ!しっかりしろ!」

「ひどい火傷だ」

「可哀想だが……こりゃ助からん」

誰かが火傷を負ったらしい。

(ダミアンは?)

アルトゥールがあたりを見回していると、燃えさかる家のなかから大柄な男があらわれた。

男は倒れこむようにして、抱えていた女を地面に横たえる。

女はぐったりとして動かない。

(あれは……)

アルトゥールは両手を握り締めた。

あれはダミアンの母親だ。

男は―――おそらくダミアンの父親は、煤だらけでひどく咳き込んでいたが、よろめきながらも立ち上がり、また炎に包まれた家のなかに戻ろうとしている。

「ダメだ!」

消火にあたっていた村人の一人が、ダミアンの父親に駆け寄った。

「行くんじゃない!死んじまう!」

「はなせ!息子が……ダミアンがまだ中にいるんだ!」

ダミアンの父親は村人を押し退けたが、咳き込んで膝をつく。きっと熱い煙を吸い込んでしまったのだろう。

風が炎を煽り、火花が夜空に舞う。

水を、と叫ぶ声。

せめて延焼を食い止めようと走り回る若者達。

嘶く家畜。

「ダミアン!」

ダミアンの父親が、叫んだ。

立つことすら出来ないらしく、けれど彼は這うようにして進み、燃える我が家に手を伸ばす。

「ダミアン!!」

その悲痛な叫びに、アルトゥールの体は勝手に反応した。

傍らにあった水桶を持ち上げると、そこに満ちていた水を頭からかぶる。

髪を、頬を、水滴が伝い落ちた。

「……あ!おい!あんた!」

ダミアンの父親をなだめていた男が声をあげたが、アルトゥールはかまわず炎のなかに飛び込んだ。






家のなかは火の海だった。

椅子やテーブルが燃え上がり、梁から吊るしてあった豆や玉葱が焼け落ちる。

自らを奮い立たせたアルトゥールが脚を踏み出そうとしたすぐそこに、糸車が焼け崩れて横倒しになった。丹精こめて紡いだであろう糸が、みるみる黒く焼き焦げていく。

「……っダミアン!ダミアン!?」

返事はない。

居間と食堂と調理場と作業場をいっしょくたにしたような決して広くはない室内には、炎の他に動くものは見当たらなかった。

痛みを感じるような熱さのなか、濡れた外套でアルトゥールは口元を覆う。

スピーゲルの家と造りが似ている。

雑多な一階と、私的な空間である二階。

王城で育ったアルトゥールにとっては珍しい間取りだが、一般庶民とされる家はどこも同じようなものなのかもしれない。

軽く咳き込みながら、アルトゥールはまだ火が燃え広がっていない階段を駆け登った。

二階にはまだ炎は届いていない。けれど煙が充満していて、視界が悪かった。

「ダミアン!」

扉を開けて、アルトゥールは呼びかける。

返事はない。

「ダミアン!?」

隣接する二つ目の、そして最後の部屋の扉を、アルトゥールは開く。

そこには子供のものと思われる小さな寝台が横たわっていた。

「ダミアン!?」

部屋に飛び込んだアルトゥールは、掛布を寝台から剥ぎ取ったが、そこはもぬけの殻だった。

「ダミアン!ダミアンどこですの!?」

叫ぶと、階下でパチパチと鳴る火花の音にまじって、咳き込む声が聞こえた。

「こ、ここ……」

振り返ると、部屋のすみに膝を抱えてダミアンが小さくなっている。

「ダミアン!」

アルトゥールは(まろ)ぶようにして、ダミアンが座り込むそこへ手をついた。

「迎えに来ましたわ!さ、逃げますわよ!」

「だ、ダメだよ!」

咳き込みながら、ダミアンは涙ぐんだ。

「もうダメだよ。俺、このまま死んじゃうんだ」

「人間、誰だっていつかは死にますのよ!でも今じゃありませんわ!」

アルトゥールはダミアンの腕を引っ張り、立ち上がらせようとする。

だが子供とはいえアルトゥールの肩に届こうというほど背丈があるダミアンは、どんなに引っ張ってもびくともしない。

「ダミアン!立つんですわ!」

ぐずぐずしていられない。ここにもすぐに火がまわるはずだ。

それなのに、ダミアンは膝を抱いたまましゃくりあげる。

「お、俺死ぬんだ……」

「……っ」

忍び寄る炎の気配に、アルトゥールはエーリカの静かな声を思い出した。

『……お姉さん、もうすぐ死んじゃうね』

―――影が、見えると言っていた。

アルトゥールの背後に、死の影が迫っていると。

「……っ冗談じゃありませんわ」

こんなところで死ぬわけにはいかない。

アルトゥールはスピーゲルに殺される約束をしたのだ。

彼に殺されるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。

それに……。

アルトゥールはダミアンの背後に回ると、脇の下に腕をいれ、力一杯彼を持ち上げた。

「キスもしてませんのにおちおち死んでなんかいられませんわ!!」

「そう思うなら単身火のなかに飛び込むなんて真似しないでください」

怒っているような呆れているようなその声に、アルトゥールは顔を上げる。

「……っスピーゲル!」

少し息を切らせたスピーゲルは、アルトゥールとダミアンの前を早足で通り過ぎ、雨戸を開けた。

「階下にはもう降りれません。(ここ)から飛び降りましょう」

そう言うと、スピーゲルはダミアンを軽々と肩に抱え上げ、アルトゥールを振り返る。

「一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫ですわ」

アルトゥールは頷いた。

「王城の塔から飛び降りたことを思えば朝飯前ですわ」

アルトゥールを殺すために、スピーゲルが王城の高い塔の上にあるアルトゥールの部屋に忍んで来たのは、ほんの数ヵ月前のことだ。

『魔法無効化体質』であるせいでアルトゥールはスピーゲルに殺されてやることが出来ず、衛兵の足音が迫るなか、アルトゥールとスピーゲルの二人は塔から飛び降りた。

悲鳴も出ないほど恐ろしくてスピーゲルにしがみついたあの時が、随分と昔であるような気もする。

スピーゲルは小さく口元を緩めた。

「……下で受け止めます。先に行きますよ」

「ええ」

アルトゥールはもう一度頷こうとして、瞬いた。

(……あら?)

暗いせいだろうか。

スピーゲルの首もとに、いつも揺れている物が見えない。

「……スピーゲル。いつも首にかけてる小さな袋、どうしましたの?」

「……え?」

スピーゲルは、ダミアンを抱える手と逆の手を自らの首もとにあてた。

軽く叩くようにして胸元を探ったものの、あるはずの物はやはりない。

それを悟ったスピーゲルの頬に一瞬、狼狽と不安が浮かんだ。

スピーゲルの足が、窓とは逆に一歩を踏み出す。

けれどその先に立ち込める煙と焦げ臭さ、異常な熱に、彼は自らがしようとした行為が酷く無謀で危険であることに、すぐに思い至ったらしい。

未練を飲み込むように、スピーゲルはダミアンを抱え直した。

「……行きましょう。どうせ大した物じゃありません」

その言葉通り、スピーゲルはちらりとも振り返らず窓枠を跨ぎ、そして飛び降りた。

外から歓声とも悲鳴ともつかない声が上がり、アルトゥールは急いで窓から下を見る。

スピーゲルは無事に庭に着地し、ダミアンが父親と意識を取り戻したらしい母親に抱き締められていた。

「姫!」

燃えさかる家の二階にいまだ留め置かれているアルトゥールに向け、スピーゲルが腕を広げた。

その腕を目がけて踏み切ることに、アルトゥールは躊躇して窓枠を握り締めた。

高さが怖かったわけでもない。

ましてや、スピーゲルが受け止め損ねることを心配したわけでもなかった。

彼は、絶対にアルトゥールを受け止めてくれる。

「姫!早く飛び降りて!火が回りますよ!!」

切迫したスピーゲルの声。

背中に、迫る炎の熱を感じる。

(……でも……)

アルトゥールは窓枠から手を離した。

「……わたくし、探してきますわ!」

遠目にも明らかなほどに、スピーゲルが顔を歪める。

アルトゥールが何を言っているのか、まるで理解できないらしい。

「探し……!?何言ってるんですか!」

「すぐ戻りますわ!」

「姫!?ダメです!!行っちゃダメだ!!」

止めるスピーゲルの声と、唯一の脱出口である窓に、アルトゥールは背を向けて走り出した。

「―――っ行くな!!アルトゥール!!」

その声は、燃え上がる炎にかき消されてアルトゥールの耳には届かなかった。




*****




身を翻すアルトゥールに、スピーゲルはなりふりかまわず叫んだ。

「―――っ行くな!!アルトゥール!!」

探してくる、と彼女は言っていた。今にも焼け崩れそうな家のなかを、スピーゲルが落とした(あれ)を探して回るなど自殺行為だ。

窓枠のなかから、アルトゥールの姿が完全に消える。

「アルトゥール!!」

返事も、戻ってくる様子もない。

「……っ!」

スピーゲルは舌打ちし、先程飛び込んだばかりの一階の入り口からまた家の中にはいろうとした。

けれどそこには炎の壁がそびえ立ち、とてもではないが入れる状態ではない。

激しく散る火の粉とその高温に、スピーゲルは腕で顔を覆った。

呆然と炎を見つめ、一歩、二歩と、よろめくように(あと)ずさる。

「……おにいさん」

その呼びかけが自分に向けられたものだということに、スピーゲルは数拍の時間を要した。

「……え?」

いつからそこにいたのか、すぐ傍らにエーリカがいた。

普通なら子供は寝ている時間だが、騒ぎが騒ぎなだけに起きてきたらしい。

あたりには不安そうに集まってきた村中の女子供の姿が見えた。

「ご、ごめんさい……私」

エーリカが、目に涙を浮かべた。

「私、何にもできなくて……見えるだけで、ごめんなさい」

「…………」

スピーゲルは、無言でゆっくり首を振った。

やめてくれ。

まるで、もうアルトゥールが死んだような言い方をしないで欲しい。

『……お姉さん、もうすぐ死んじゃうね』

昼間のエーリカの言葉が頭のなかにこだまする。

(そんなはずはない)

おかしいと思い、スピーゲルは帰ろうとするエーリカを呼び止め、尋ねた。見間違いではないか、と。それか、何十年か先の死の影がちらついただけではないのか、と。

けれど、エーリカは違うと言った。

『すぐじゃないよ。でもお姉さん、もうすぐ死んじゃう』

エーリカははっきりと、アルトゥールの死を再度告げたのだ。

(……まさか、本当に?)

アルトゥールが死ぬというのか。

この炎のなかで。

外套の裾からジギスが顔を出し、オロオロと首を揺らす。

踊る炎のなかに、スピーゲルはアルトゥールの姿を必死に探した。

「………姫!!」

祈るように叫んだが、やはり返事はない。

(……死ぬ?)

細いくせに大食いで、お姫様だったのに神経図太くて野宿も平気で、殺しても死ななそうなあのアルトゥールが、死ぬというのか。

スピーゲルは、事態が飲み込めなかった。

どうすればいいのか、何をするべきなのかわからない。

出来るのは、アルトゥールが姿を消した二階の窓を、案山子(かかし)のように棒立ちで見上げるだけだ。

ふわりと舞う火の粉が、刹那、蝶の鱗粉に見えた。

生きた蝶の髪飾りに、照れた様子だったアルトゥールを思い出す。

頭のなかで、何かが焼き切れた。

その場に、スピーゲルは両膝をつき、次いで手をつく。

「おにいさん?」

「……」

すぐ隣にいたエーリカが訝しがって、半歩後ろへ下がる。

スピーゲルは、それにかまう余裕はなかった。時間がないのだ。

目を閉じる。

呼吸を整え、耳をすます。

(……師匠―――)

祈った。

語りかけた。

もう亡い養い親。

(力をかしてください。師匠―――)

祈りに応えるように、耳に理知的な声が蘇る。

『スピーゲル』

目を開けると、目線が低かった。

見上げるのは、病を得る前の師の姿。

『怖がらなくていいんだよ。お前が強い魔力をもって生まれたのは、お前が生きていくうえでそれが必要だからなんだ。だから怖がって無意識に力を抑えようとしなくてもいいんだよ』

師は―――アーベルは、小さなスピーゲルの両肩に手を置いた。そして促す。

『耳をすませてごらんスピーゲル。呼吸を整えて。お前には聞こえるはずだよ、精霊達の美しい歌が』

肩が、温かかった。

見上げた空の青さを思い出す。 

スピーゲルの母の伯父だったその人は、スピーゲルを慈しみ、大切に大切に育ててくれた。

その胸に、怒りや恨みはまさに抱えきれないほど抱えていただろうに、そんなどす黒い感情のほんの片鱗すら、アーベルはスピーゲルに見せようとしなかった。

『―――私はいつかお前より先にこの世からいなくなる。お前がどんなに困っても、助けてやることも守ってやることも出来なくなる。そんなときは彼らにお願いしてみるといい』

スピーゲルは、目を開けた。

そこにあったのは、かつてのアーベルの手の大きさと変わらぬまでに大きくなった自らの手。

冷たく固い、石の感触。

けれど、まだ耳はアーベルの声を追いかけていた。

『お前になら、きっと彼らは応えてくれる。きっとお前に手をかしてくれるはずだ―――』

地についた手を、スピーゲルは砂利ごと握り締めた。

「お、おい。あんた」

地に手をついたまま動かないスピーゲルを心配して、村人の一人が近づいてきた。

「しっかりしなよ。とにかく急いで火を消して……」

その村人は、スピーゲルを慰めるように肩に手をやる。すると、煤色のフードが、白銀の髪の上を滑り落ちた。

「あ、あんた……!?」

村人が目を剥いて飛び退く。

それを見ていた他の村人も、誰もが驚愕に目を見開いた。

炎に照らされて輝く白銀の髪。

真紅の瞳。

「ま、魔族だ――――っ!!」

誰かが叫び、悲鳴が連鎖する。

けれどその騒動を、スピーゲルは聞いてはいなかった。

「……歌を、きかせてくれ。呼びかけに応えてくれ」

呟きにも似た、祈り。

切なる願い。

スピーゲルは、もう一度目を閉じた。

「魔族め!貴様が火をつけたんだな!」

「捕まえて騎士団に突き出してやる!穢らわしい魔族め!」

火を消していた村人が、一斉にスピーゲルをとり囲む。

その手には木の棒や、鉄の刃がついた鍬。

(集中しろ。集中しろ。集中しろ)

渦巻く魔力が、世界に散らばる雑音のなかから求めるものを拾い上げる。

――――乱暴なほどに力強い炎の歌。

こちらの言うことなど、聞く耳を持とうとすらしてくれない。

(それなら……) 

――――温かく雄大な大地の歌。

その奥から、聞こえるはずだ。

スピーゲルは耳をすませた。

スピーゲルがひざまずく地上から、ずっとずっとずっと下。

たった一滴の水滴が落ちる音。

その音を、スピーゲルの耳は掴まえた。

アーベルが、繰り返す。

『スピーゲル、怖がらなくていい』

ゆっくり、スピーゲルは瞼を上げた。

『怖がらなくていいんだよ。』

頷き、微かに震える唇を、動かす。

「…………力をかしてください。『ウィンディーネ』」

途端にすさまじい勢いで地がひび割れ、轟音と共に水が噴き出した。

屋根よりも高く噴き出した水は激しい雨のように降り注ぎ、調子づく炎を叩きのめす。

「……見て!火が」

集まっていた村人が声を上げ、指差した。

「火が……消えていく……」

圧倒的な水圧で火を捩じ伏せた水は、役目の終わりを知っていたかのようにその勢いを急速に失い、やがて湧水のように大地を舐める程度に流れるのみになった。

まるで世界中の音という音が消え去ったかのようにあたりは静まり返る。

昼間のようにあたりを照らしていた大きすぎる炎が消え失せて、村はまた夜の静かな闇に包まれた。

村人の誰かが持っている燭台の火だけが、優しく揺れる。

スピーゲルは膝に手をつき立ち上がろうとしたが、それは叶わなかった。

魔力の消耗が激しい。呼吸が整わず目眩がする。

「スピーゲル!」

その声に、スピーゲルは弾けるように顔をあげた。

煤けた二階の窓から、アルトゥールが身を乗り出している。

白い顔は煤に汚れ、髪も服も散々なありさまだったが、アルトゥールは怪我をした様子もなく大きく手を振っていた。

「見つけましたわ!ありましたわよ!」

アルトゥールは()()を揺らして見せた。

誇らしげなその様子に、スピーゲルは足がふらつくのにもかまわず走り出す。

「姫!」

スピーゲルが腕を広げると、アルトゥールは躊躇なく窓枠を踏み切った。

飛び込んできた重みを、スピーゲルはしっかり受けとめ、そのまま抱き締める。

「スピーゲル!ほら、見てごらんなさい。すこし袋は焦げているけど中はきっと大丈……」

アルトゥールはスピーゲルの肩を押し返す。

手に握り締めた()()をスピーゲルに見せようというのだろう。

けれど、スピーゲルはそれをさせなかった。そんなもの、どうでもよかった。

「……スピーゲル?」

「……よかった」

強く、強く抱き締める。

すると、焦げ臭さのなかに、ほのかにアルトゥールの髪の薫りが漂う。

その匂いに、頭の奥が痺れるような気がした。

いつからだろう。

こんなふうにアルトゥールの匂いに、仕草に、声に、心が締め付けられるようになったのは。

「……よかった……」

噛み締めるように、スピーゲルは呟いた。

失わなくて、本当によかった。




*****




アルトゥールの肩に顔を埋めたまま、スピーゲルは動かない。

「スピーゲル?」

何だか様子がおかしい。

どうしたのだろうとアルトゥールが少し身を引くと、スピーゲルが体の均衡を欠いたようによろめいた。

アルトゥールは慌てて彼の腕のなかに戻ることで、スピーゲルの長身を支える。

「スピーゲル!?どうしたんですの!?」

スピーゲルは真っ青な顔で薄く笑う。

「いえ、ちょっと……」

「ちょっとじゃありませんわ!」

顔色も悪いし息も荒い。アルトゥールが支えなければ、立っていることすら難しい状態ではないか。

どうしてこんなことになったのだ。

(そういえば……)

アルトゥールは黒焦げたダミアンの家を見上げる。

ちょうどよく雨が降ってきて、うまいこと火を消してくれたと思っていたけれど、まさかあれは……。

(スピーゲルが?)

スピーゲルが魔法でアルトゥールを助けてくれたのだろうか。

「……ご、ごめんなさい、ですわ……スピーゲル」

消え入りそうな声で謝ると、アルトゥールに寄りかかったまま、スピーゲルが身じろいだ。

「どうして謝るんです?」

「だって……」

アルトゥールがあんな無茶しなければ、スピーゲルもこんなことにはならなかっただろうに。

「……あなたが殊勝だと気味が悪い」

スピーゲルの呟きに、アルトゥールは眉をひそめた。

「……失礼ではなくて?」

「あなたは無茶苦茶でいいんです。横暴で我が儘で周りの事情なんて鑑みないで」

「……わたくしを怒らせたいんですの?」

それとも、スピーゲルが怒っているのだろうか。

ちがう、と言うように、アルトゥールの肩に回されたスピーゲルの腕に、再び力がこもった。

「そうやって、あなたは僕を振り回せばいい」

「……」

スピーゲルの腕に、声に、何とも言えない甘さを感じて、アルトゥールは黙りこんだ。

何だか居心地が悪い。

居心地が悪いのに、ずっとそうしていて欲しくて、アルトゥールはスピーゲルの背中に手を回し、彼を抱き締め返した。

その様子を遠巻きに見ながら、村人達は戸惑い顔を見合わせる。

「魔族が……火を消した?」

「助けてくれたのか?」

「そ、そんなわけあるか!魔族だぞ!?」

若い男が叫ぶ。

「どうせ火をつけたのも魔族なんだ!」

すると、彼の友人らしい何人かの若者が同調して声を荒げた。

「そ、そうだそうだ!」

「捕まえろ!騎士団に突き出してやる」

「いいや火炙りだ!」

高まる糾弾の声に、アルトゥールは腹が立ってスピーゲルの胸を押しやり、叫んだ。

「スピーゲルは火なんてつけていませんわ!」

火事の原因など、アルトゥールは知らない。

けれど、燃える家のなかからダミアンを抱えて飛び降りたスピーゲルを誰もが見ていたはずなのに、どうしてスピーゲルが悪いという方向に話が進むのだ。

悪いことが起きると、それはすべて魔族のせい。

そんな悪しき思い込みは、この村にも蔓延しているようだ。

「穢らわしい魔族め……!」

村人達はじりじりと近づいてくる。

髪も目も魔族のそれではなくても、村人達にとってアルトゥールも『魔族』であるらしい。

鍬を手にした村人の目の狂気に、アルトゥールは身がすくんだ。刺すような殺気が恐ろしい。

そんなアルトゥールを彼らから隠すように、スピーゲルがアルトゥールを抱き寄せる。

「……姫は……彼女は関係ない。彼女に手を出さないでくれ」

「スピーゲル!?」

スピーゲルは、アルトゥールの盾になるつもりなのだ。

察したアルトゥールは、抗議の声を上げた。

「ダメですわスピーゲル!放して!放しなさい!」

けれどスピーゲルはアルトゥールを放さない。

アルトゥールは焦った。

(このままじゃ……!)

村人達が手に持つ鍬。石。棒。

それらがスピーゲルを打つだろう様を思い、アルトゥールは身震いする。

「スピーゲル!!放して!」

アルトゥールは暴れたが、スピーゲルは頑然とアルトゥールを放さない。

こんなふうに彼が害されるなんて間違ってる。

しかもアルトゥールを庇ってだなんて。

「放してスピーゲル!!」

その時。

アルトゥールとスピーゲルを庇うように、村人に立ち向かう人物が現れた。

エーリカだ。

小さな体を精一杯大きく広げて、エーリカはスピーゲルとアルトゥールを守ろうと大人達を必死に睨む。

「た、助けてくれたんだよ?見てたでしょう?どうして怒るの?」

大人達が、二の足を踏んだ。

エーリカは、必死に声をあげる。

「どうして『ありがとう』じゃダメなの!?」

「エーリカ。お前……」

エーリカのひたむきな訴えが大人達の歪に固まった心を動かしてくれる。アルトゥールはそう期待したが、事は上手く運ばなかった。

一人の村人が、エーリカを冷たく見下ろす。

「……エーリカ、お前。やっぱり魔族だったんだな」

「……え?」

エーリカが、自らの耳を疑うように瞳を揺らす。

そんな少女のいたいけな表情など目に入らないかのように、大人達は次々と呪いの言葉をエーリカに浴びせかけた。

「だからそいつを庇うんだろう!?」

「魔女だ!」

「捕まえろ!早く始末しないと俺達の村が焼かれちまうぞ!」

大人達の心の歪さは、小さな少女一人の訴えくらいでどうにかなるものではなかったらしい。

むしろ、無垢な少女の存在すら飲み込むほどに、その歪みはあまりに醜かった。

エーリカは恐怖と悲しみに涙をこぼす。

「私……私は……」

「エ、エーリカは魔族じゃない!」

ダミアンが、エーリカとエーリカに迫る大人達の間にはいった。

「エーリカは悪いことはしてない!あの魔族も……魔族だけど、俺を助けてくれた!!」

「うるさい!!どけ!!」

大人達は耳をかそうともせず、ダミアンを突き飛ばす。

ダミアンは固い地面に背中から叩きつけられ、呻き声をもらした。

「何てことするんですの!!」

アルトゥールは叫んだ。

ダミアンを突き飛ばした村人を、逆に突き飛ばしてやりたい。

すると、急に体が自由になる。

抱き締めることでアルトゥールを拘束していたスピーゲルの腕が、離れたのだ。

けれどアルトゥールは動けなかった。

不意に見上げたスピーゲルが、アルトゥールを睨み付けていたからだ。

怒りに燃える赤い目を、アルトゥールは呆然と見つめ返す。

「ス……スピー……ゲル?」

こんなふうにスピーゲルに睨まれたのは初めてで、アルトゥールは驚きを隠せない。

自分は何かしでかしたのだろうか。

優しいスピーゲルを怒らせてしまうことを何か……。

「わたくし……何かし……」

「この愚か者め!!」

スピーゲルの突然の怒号に、アルトゥールは固まった。

けれど、同時に強い違和感を感じる。

(『愚か者め』?)

まるで下僕を叱るようなその言い回しは、スピーゲルらしくない。

アルトゥールの違和感は、スピーゲルが次に発した言葉で更に加速した。

「聖女の力を削ぐために、その仲間であるダミアンの命を奪おうという俺様の計画がお前のせいで台無しだ!」

「……え?え?え?」

何が何やらわからない。

聖女とは誰だ。

(俺様?計画?一体何のことですの?)

アルトゥールとスピーゲルのやりとりを目の当たりにしたエーリカやダミアン、村人達も、ポカンと口を開けて目を瞬かせた。

「せ、聖女?」

「聖女の仲間が……ダミアンって

「え、じゃあ聖女って……」

村人達が、無言でエーリカを見る。

エーリカは驚いて肩をすくませた。

「わ、私?」

「そうだ、小娘。お前が聖女だ。聖女は我が世界征服の野望を打ち砕く脅威!まだ幼い今のうちに仲間もろとも始末しなければならん!」

芝居がかったスピーゲルの言葉と大仰な仕草にようやくピンときたアルトゥールは、慌ててスピーゲルの策に勢いよく飛び乗った。

「で、ですが大魔王陛下様!聖女の力は思った以上に強大でございますですわ!」

魔女アルトゥールの進言に、スピーゲル大魔王は腕を組んで大きく頷く。

「うむ。まさか地下に眠る水の精霊を呼び出すとは、何とおそろしい。さすが聖女だ」

村人達がどよめいた。

「え……エーリカが、水を?」

「エーリカが助けてくれたのか?」

エーリカはオロオロと冷や汗を流している。

「わ、私。私何にも……」

「兎に角!聖女の力にはかなわん!『ジギスヴァルト』!」

土埃とともに、ジギスヴァルトがその巨体をあらわした。

竜のように大きな羽蜥蜴の出現に、村は騒然となる。

スピーゲル大魔王は外套を無駄に大きく靡かせて、身を翻した。

「ずらかるぞ!」

「合点承知、かしこまりましたですわ!大魔王陛下様!」

スピーゲル大魔王と手下の魔女を背に乗せた邪竜は、月が隠れた暗い空に飛び立ち、やがて姿を消した。

残された村人達は、あまりにも劇的な成り行きに言葉もない。

「……エーリカ」

ダミアンの母親が、エーリカに近づいた。

「ひどいことを言ってごめんなさいね。わかってたのよ、クルトが死んだのはあなたのせいじゃないって、でも、何かを恨まないと私……私……」

煤に汚れた頬を、涙が洗い流していく。

「ごめんなさいね。エーリカ」

「おばさん……」

泣き崩れたダミアンの母親に、エーリカはそっと寄り添った。

「大丈夫だよ。わかってるよ。私、おばさんが本当は優しいのも、悲しくてたまらなかったのも、ちゃんとわかってるよ」

「……エーリカ……っ」

ダミアンの母親がエーリカを抱き寄せる。

傍で様子を見ていたダミアンが、くしゃりと顔を歪ませボロボロと涙をこぼした。

ダミアンの父親が、ダミアンの頭を小突く。

「こら。男が何泣いてんだ」

「だ、だって……やっと、前の母ちゃんに戻ってくれたから……」

そう言って鼻水をすすり上げるダミアンに、村人達の間に優しい空気が流れ始めた。

「エーリカ。ひどいこと言ってごめんな」

「村を守ってくれたんだな」

「ありがとう。エーリカ」

温かな言葉に少し戸惑いながらも、エーリカは嬉しそうに微笑んだ。


―――その温かな人垣から少し離れた場所で、小さな男の子が立っていた。

ダミアンとよく似た面差しのその子に、気づく者は誰もいない。

けれど彼はそれを寂しがる様子もなく、安心したように笑って、蛍の光のように霧散した。







夜の彼方にエーリカとダミアンの村が遠ざかるのを、アルトゥールはジギスの背で夜風に吹かれながら眺めた。

「……それにしても、よくあんなことを咄嗟に思い付きましたわね」

『あんなこと』とは、勿論、村での即興小芝居のことだ。

あんな無茶苦茶な()を押し通すとは、スピーゲルもなかなかに豪胆である。

スピーゲルがアルトゥールを振り返った。

「あなたも上手く乗ってくれたましたね。『大魔王陛下様』は傑作でした」

「あら。『ずらかるぞ』も負けていませんわ」

「ははは」

悪戯が成功したことを喜ぶ子供のように、スピーゲルは笑った。

アルトゥールは闇の向こうに見えなくなった村をもう一度振り返る。

「でも……聖女だなんて持ち上げてしまったけれど大丈夫かしら?エーリカ」

聖女として過度な期待をされはしないか心配だ。

けれどスピーゲルは、心配いらないという風に頷いた。

「少なくとも、無下にはされずにすむと思います。田舎の村は信心深いですし。それに、今度何かあった時は、きっとダミアンが守ってくれます」

「そうですわね」

まだ幼いエーリカとダミアンだが、大人になったその時に関係性に特別な変化が顕れるだろうことは想像に難くない。

きっと二人は互いを大事にするだろう。

アルトゥールがかつて憧れた、あの雪のなかの恋人達のように。

「そういえば……スピーゲル。体は大丈夫ですの?」

アルトゥールが訊ねると、スピーゲルは頷いた。

「少し疲れただけですから。食べて寝ればすぐ回復します」

その答えに、アルトゥールは心の底から安堵した。

そして手に握りしめたスピーゲルの落とし物を思い出す。

「あ、これ」

スピーゲルの目の前に、それを差し出した。

「ちゃんと見つけましたわ!スピーゲルのご両親の形見!」

すると、スピーゲルは複雑そうな表情を見せた。

「……形見なんて、言いましたっけ?」

「……違いますの?」

アルトゥールが母の形見の話をしたときにスピーゲルがそれを握り締めたから、てっきり形見(そう)なのだと思ったのだが。

スピーゲルはゆるく首を振った。

「いや、違わなくはない…………です」

妙に歯切れが悪い。

アルトゥールの手のなかのそれに、スピーゲルは手を伸ばし、掴む。

自らの手の内に戻ったそれを見下ろし、彼は目を細めた。

けれどその様子は、嬉しそうと言うより、どこか痛々しい。

「……スピーゲル?」

「…………父の、形見です」

「お父様の?」

「父は小物を作る職人で……これは父が作ったものなんです」

スピーゲルはそう言うと、焦げた袋の口紐を緩める。

その中から、親指と人指し指でつまむようにして取り出したのは、青銅でつくられた砂時計だった。

硝子の管のくびれの下にはまるで白い砂が小山をつくっている。

宝石や金銀のような派手さはないが、その落ち着いた美しさにアルトゥールは目を奪われた。

「綺麗ですわね……」

食べ物以外で、こんなふうに心をひかれるのは初めてかもしれない。

アルトゥールは身を屈めて砂時計に見いった。

「……でもスピーゲル。この砂時計、壊れていますわ」

硝子管のくびれで砂がつまっているらしく、ちっとも砂が下に落ちない。

スピーゲルは、複雑そうな顔を見せた。

「いや、これは……」

「これは?」

「……壊れてるんじゃないんです。砂が落ちるのがゆっくりで……まだその時が来ないんです」

「その時?」

それは一体いつのことなのだろう。

スピーゲルは答えてくれる気はないらしい。

「その時、です」

それだけ繰り返し、砂時計を見つめる。

アルトゥールも、同じようにまた砂時計に視線をやった。

硝子管のなかで、白い砂がキラキラと輝いて、まるで雪のようだ。

(……『その時』て……)

この砂時計は、もしや何か一定の時間を計っているのだろうか。ずっと。

首から下げた袋のなかで揺られていたのだから、普通に考えれば有り得ないことだ。

けれどスピーゲルの口ぶりだと、この砂時計がまるで何年も前から砂がすべて下に落ちる『その時』を待っているように聞こえた。

(……まさかね、ですわ)

そんなことあるはずがない。まるで魔法ではないか。

いくらスピーゲルが魔法使いだとしても、相手の名前が分からなければ魔法をかけることはできないのだし、第一、砂時計に名前はない。

「見つけてくれてありがとうございます」

小袋に砂時計を戻しながら、スピーゲルが呟く。

「……キスの相手探し。またぜんぜんできませんでしたね」

その言葉に、アルトゥールはようやく思い出した。

スピーゲルがキスの相手として理想的であるということを。

(いい機会ですわ)

アルトゥールを殺したがっているスピーゲルのためにも、さっさとキスをしてもらって、やがて訪れる死に備えよう。

「スピーゲル。その件なのだけれど……」

「はい?」

スピーゲルが顔をあげた。

二人の目線が、真正面から絡まる。

すると、どうしたことかアルトゥールは何も言えなくなってしまった。

言おうとしていた言葉が、喉につまって出てこない。

「何です?」

スピーゲルは、アルトゥールを甘やかすように優しく言葉の続きを促す。

月明かりに、紅玉のように輝く瞳。

切れ長で一見鋭利に見えるその目は、彼が少し目元を緩めるだけで信じられないほど優しくなる。

「……えっと……」

アルトゥールは口籠った。

キスをしてほしい。

言いたいのはそれだけなのに、どうして言えないのだろう。

身体中の血が異常なほど高速で流れているのに、舌だけは動かない。

「姫?」

「あ、あの……キ、キスを……」

ようやくその単語を唇から押し出した直後。

アルトゥールのお腹が、キュルルルル……と、音を発した。

狼の遠吠えのように長引く情けない音。

その余韻が消えるのを待って、スピーゲルが噴き出した。

「あ、あなたは……ふっ、ククク、あっはっはっはっはっはっはっ!!」

ジギスの背に突っ伏して大爆笑するスピーゲルは、笑いすぎで目に涙をうかべている。

「…………」

アルトゥールは項垂れた。

何故どうして、今なのだ。自分。

「ひー苦しい……ああ、すみません。キスが何ですって?」

「……もういいですわ」

憮然として、アルトゥールは夜を睨んだ。



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