笑わず姫とカボチャパイーエーリカ③ー
あたりが暗くなり、アルトゥールとスピーゲルが村の近くの森のなかで集めた薪で火を起こした頃、ジギスが帰ってきた。
くわえていた籠をアルトゥールの前に置き、ジギスは鈍く輝いて元の掌大の大きさに戻る。
「何ですの?ひっく」
籠のなかを覗き込んだアルトゥールは目を見張る。
「こ、これは……!」
甘くて芳ばしい香り。こんがり焼けて絶妙な焼き色がついた神々しいパイ生地。そこから覗く赤味がかった黄玉のごとき南瓜。
ちなみに、それらが光輝いて見えるのは、アルトゥールの心理状態による幻である。
アルトゥールはその美しい南瓜パイを籠から出して、天に掲げた。
「ベーゼン特製の南瓜パイ!!……ひっく」
アルトゥールとスピーゲルが空腹で夜を明かすことにならないように、ベーゼンがジギスに持たせてくれたようだ。
「さすがベーゼン……っ!感謝しますわ……っ!ひっく」
「……ずっと思ってたんですけれど……。しゃっくり、とっくに1000回なんじゃないですか?」
スピーゲルの指摘に、南瓜パイを掲げた姿勢のままアルトゥールは停止する。
そして愕然とした。
しゃっくりを1000回したら心臓が止まるはずではなかったのか。
「どうしてわたくし生きてますの!?ひっく」
「……それにしても頑固なしゃっくりですね……」
しゃっくりが始まったのは、太陽がまだ東の空にあった頃だ。つまり、半日以上しゃっくりが続いていることになる。
「本人が頑固だとしゃっくりも頑固なんですかね……」
「失礼ですわよ、スピーゲル。ひっく」
無礼な分析をするスピーゲルを咎めたアルトゥールの鼻孔が、香しいバターの香りにひくついた。
意識は早くも両手に持つ南瓜パイに移行する。
(なんて美味しそうなんですの……)
アルトゥールは南瓜パイに、うっとり見とれた。
しゃっくりの不快感にはとっくの昔に慣れてしまったし、死なないなら特に不都合もない。
……と、いうことで。
「とりあえず美味しく頂くことにしましょう、ひっく」
「……いいんですかそれで……」
「さ、スピーゲルも食べますわよ。ひっく」
アルトゥールはさっさと焚火の前に陣取り、スピーゲルも呆れながらもその隣に腰を下ろした。
南瓜パイは既に八等分に切り目がいれられていたので、アルトゥールはその一切れをスピーゲルに、一切れをジギスに渡し、そして残りの六切れがのった皿を自らの膝の上に置く。
他人がこの光景を見れば、南瓜パイの配分に対して何らかの疑問を抱くに違いない。けれど彼らのうちに、配分に異議を唱える者はいなかった。
「いただきますわ。ひっく」
「いただきます」
アルトゥール、スピーゲル、ジギスは、各々南瓜パイにかじりつく。
わざと粗めに潰した南瓜は食べごたえがあり、アルトゥールはその食感にご満悦だ。
けれど、同じものを隣で食べているスピーゲルは、眉間に皺を寄せていた。
南瓜が嫌い、というわけではない。食べるという行為がそもそもスピーゲルは苦手なのだ。
その為、彼はいつも憂鬱そうな顔で食事をする。まるでゲテモノでも食べさせられているかのような顔だ。
この顔を見ると、ベーゼンはいつも『食事をこしらえている身にもなって下さいませ』と文句を言う。確かに、こんな顔をされれば調理した方は気分が悪いだろう。
「ひっく。スピーゲルふぁどうひてそんなひ食べるのが嫌ひなんでふの?」
そういえば聞いたことがなかったと、アルトゥールは二切れめの南瓜パイを咀嚼しながら尋ねた。
スピーゲルは指の先程の量の南瓜パイを、ようやく飲み込んだところだ。
「……昔、子供の頃です。……目を怪我したことがあって……」
「あら……。ひっく」
目を怪我とは、穏やかではない。
子供に怪我はつきものだが、目となると少し話は変わってくる。
どうしてまた……とアルトゥールは尋ねたかったが、そうしてしまうとスピーゲルの話の腰を折ってしまいそうだったので、一先ずその疑問は脇に置いておくことにした。
「ほれで?怪我をしてどうひたんですの?……ひっく」
「……師匠のお陰で失明にはいたらなかったんですが……」
スピーゲルは南瓜パイをまた指の先程かじり、虫でも食べているような表情で飲み込む。
「……治療のために包帯を巻いていて、しばらく何も見えなかった時期があるんです。その頃に……」
「その頃に?ひっく」
「見えない分を補おうとしたのか無意識に聴力が過度に機能して……普通なら聞こえないものが聞こえるようになったんです」
アルトゥールは首を傾げた。
「それは……どういうことですの?ひっく」
スピーゲルの一族は耳がいい。アルトゥールが聞こえない動物の声や植物の声も聞き分ける。
そんな彼の『普通なら聞こえないもの』とは何なのだろう。
スピーゲルは面倒くさがる様子も見せず、丁寧に教えてくれた。
「僕は動物や植物の声を聞くことはできますが、彼らの声はとても小さいので普段は『聞こう』と集中しないと聞こえません。けれど、その時の僕はそうしなくても常に彼らの声が聞こえる状態だったんです」
「常に……聞こえる……ひっく」
これまでアルトゥールは、スピーゲルの耳は小鳥の囀りも木々のざわめきも、すべて言葉として認識していると思っていた。だが、どうやら違ったようだ。
スピーゲルは当時のことを思い出したのか、嫌そうな顔をした。
「それで……聞こえるんです。その……料理される時の……声も……」
「…………ひっく」
アルトゥールは想像した。
動植物にとって料理されるということは、つまりは命を奪われる……殺されるということだ。
その声。
動植物の断末魔。
「……………………ひっく」
どう想像しても、気持ちがいいものではない。
黙するアルトゥールの隣で、スピーゲルは淡々と話を続ける。
「怪我が治って聴力も通常程度に戻ってからも、何だか食べるという行為が怖くなってしまって……特に火を通してないものは……ちょっと……」
それはそうだろう。
自分の口のなかで断末魔が聞こえるなんて寒気がする。
それを子供が経験するなんて、トラウマになること必至だ。
「……口に食べ物をいれると……考えて、しまうんです……」
その低い声音に、アルトゥールはドキリとしてスピーゲルを見た。
パチパチとはぜる火の粉を見つめる横顔。
首から下げる形見らしい例の小袋を、スピーゲルは握りしめていた。
「……他の生き物の命を貰ってまで生きるほどの価値が、自分にあるのか……って」
揺らめく炎のように彼の命が吹き消されてしまうような気がして、アルトゥールは息を飲む。
「スピーゲル!ひっく」
「うわ!?」
掴まえなくてはと奇妙な焦燥に駆られ、アルトゥールはスピーゲルに抱きついた。
「ちょ、ちょっと姫!?」
スピーゲルは慌ててアルトゥールの腕から逃げようとするが、アルトゥールはそれを許さない。力一杯、スピーゲルを抱き締めた。
心臓の、音がする。
自らの鼓動か、スピーゲルの鼓動か、それとも双方のものか――――。
「……姫?」
「……価値なんて……なくてもかまいませんわ」
焚き火が、風に煽られて大きく揺れる。
一瞬炎は小さくなり、けれどすぐにまた力強く燃え始めた。
「きっとなくても、かまわないんですわ」
「…………」
アルトゥールの腕を引き剥がそうとしていたスピーゲルの手が、迷うように、そこに添えられた。
焚き火が照らし出す薄暗い小さな小さな世界。
そこで二人は、息を潜めた。
まるで、隠れ鬼をする子供のように、無慈悲な何かに見つからないように―――……。
「……ひっく」
静寂に、内臓が跳ね上がる暢気な音が響き渡る。
むしろ神聖なほどに静かだったその空間は、一気に雑多な日常に引き戻された。
「ひっく…………っ、やっぱり忌々しいですわ!これ!ひっく」
ガバリと、アルトゥールはスピーゲルから飛び退く。
そして星が輝く天に向かって吠えた。
「格好がつきませんわ―――!それに食べるときにも集中できませんわ―――!ひっく」
「……しゃっくり、止めたいですか?」
激昂するアルトゥールとはうってかわって淡白なほどに静かなスピーゲルの声に、アルトゥールは噛みつくように応えた。
「あたりまえですわ!ひっく……この忌々しいしゃっくりをすぐに……」
止めたい、と言うはずだった。
けれど、アルトゥールは言わなかった。
手袋をはめたままの手が、アルトゥールの頬に添えられたからだ。
銀色の睫毛の長さが分かるほどすぐそこに、スピーゲルがいる。
紅い目が、アルトゥールを見つめた。
まるで、アルトゥールの目のなかに、何かを探すかのように。
ドン、と拳で叩かれたように心臓が鳴り、そこが焼けつくような熱を発する。
『背が高くて』―――鼓膜に、自らの声が響いた気がした。
『肩幅が広くて』『手が大きくて』『髪が長くて』、そして、柔らかに微笑む人。
(……キスをするなら……)
そういう人がいい―――。
近づいてくる唇に、目を閉じるか否かアルトゥールは迷って瞼を震わせる。
「……………なーんて」
はは、と笑って、スピーゲルが身を引いた。
「驚くとしゃっくりが止まるっていいますけど、どうです?止まりまし…………」
スピーゲルが言葉を飲み込み、表情を凍らせた。
アルトゥールが今にも泣き出しそうに、表情を歪めていたからだ。
そしてその顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
焚き火に照らされているからという言い訳は、まず通用しないほどに。
陶磁器のように白く硬い表情のアルトゥールの日頃からはまったく想像出来ないその変貌に、スピーゲルは開いた口が塞がらない。
「……な……何て、顔してるんです、か」
「……こ……この顔は生まれつきですわ―――っっ!!」
叫んだ勢いのまま、アルトゥールは夜の森めがけて全力で走り出す。
しゃっくりが止まっていることには、アルトゥールもスピーゲルも気付いていなかった。
*****
走り去るアルトゥールを危ないと止めることも出来ず、スピーゲルは焚き火の脇で呆然とした。
「…………は?……え?」
前髪を、くしゃりとかきあげる。
スピーゲルとしては、勿論驚かせるだけのつもりで、本当にキスするつもりなどなかった。
確かに質が悪いやり方ではあるけれど、それくらいしないと心臓に毛が生えているアルトゥールを驚かすのは不可能だと思ったのだ。
(それなのに……)
まさか、アルトゥールがあんな可愛い反応をするなんて思わなかった。
(……か、可愛いって……)
自らの心の声に、スピーゲルは動揺する。
アルトゥールが美人だということは知っていた。
傍若無人ではあるけれど、素直で心根が真っ直ぐだということも。
(でも、あんなふうに……)
あんなふうに、可愛いなんて。
じわじわと、体温が上がっていく。
抱き締められた時の柔らかな感触までが鮮やかに蘇り、スピーゲルは頬を赤く染めた。
「こ……こっちまで照れるじゃないか……」
頭を抱えるスピーゲルのその横で、放り出されてしまった南瓜パイを平らげたジギスが、はち切れんばかりに膨らんだお腹をかかえて寝そべっていた。
*****
月は煌々と輝いていたが、鬱蒼とした木々の葉がその光を遮り、森のなかは暗闇に静まり返っていた。
その静けさを切り裂くように、アルトゥールは闇を走り抜ける。
そうしなければ身の内に燻る熱に、体を焼き付くされてしまう気がしたのだ。
けれど闇に紛れていた小さな窪地に足をとられ、アルトゥールは顔から勢い良く地面に突っ込んだ。
梟の鳴き声が、暗い森に響く。倒れたアルトゥールを馬鹿にするかのように。
「……うう……痛いですわ」
アルトゥールは肘をつき、頭を起こした。
髪からパラパラと木の葉が落ちる。擦りむいたのか、額がひりつく。
『……しゃっくり、止めたいですか?』
低い声が、夜の闇に蘇る。
頬を撫でた、革手袋のざらついた感触。
焚き火に照らされた紅い瞳。
その深い色合いを思うと、身体中がむず痒いような気がして、あたりを転げ回りたい気分になる。
「…………っ」
アルトゥールは火照りが冷めない頬を、地面に突っ伏した。
『背が高くて』『肩幅が広くて』『手が大きくて』『髪が長くて』『柔らかに微笑む人』。
(……わたくしは…… スピーゲルとキスがしたかったのかしら?)
だから、キスの相手に求める条件としてスピーゲルが持つ特徴を無意識に挙げたのだろうか。
それとも、アルトゥールがキスの相手に求めた条件に、スピーゲルがたまたま該当しただけなのだろうか。
正体不明の熱に溶かされかけているアルトゥールの脳みそでは、どちらなのかまったく判別がつかない。
そもそも、物事を深く考えるのはアルトゥールが苦手とする分野である。
(……でも、一つはっきりしていますわ)
キスの相手として、スピーゲルは申し分ない。
散々あちこちの街でキスの相手を探し回ったというのに、実は隣にいたというまさに灯台もと暗し。いや、棚から林檎飴である。
とにもかくにも、相手は見つかった。
あとはスピーゲルに頼んでキスしてもらえばいい。
そうすれば思い残すこともなく、晴れ晴れとスピーゲルに殺されるのを待つだけである。
「……そういえば、しゃっくり止まってますわね……」
アルトゥールが一人呟いたその言葉に、遠く叫び声がかぶった。
驚いたアルトゥールは、勢い良く起き上がる。
(……日の出?)
見上げた空が明るい。
まさか。
数刻前に日が落ちたばかりではないか。
それに、日の出なら明らむのは東の空だ。けれど明らんでいるのは西―――エーリカとダミアンが住む村の方向だ。
エーリカとダミアンが手を繋ぎ並走する笑顔が脳裏をよぎる。
次いで、エーリカの流した涙も。
「……エーリカ……ダミアン!」
アルトゥールは夢中で駆け出した。
*****
その夜。村の広場では男達が集まって焚き火を囲んでいた。
麦の収穫が無事に終わったので、慰労の酒杯を傾けていたのだ。
「今年は天気が味方をしてくれたな」
「良かった良かった。今年の冬は安心だ」
「来年もこうだと助かるんだけどなあ……」
「ははは、違いない」
酒に酔った赤い顔で、男達は笑い合う。
例年は収穫の時期に前後して雨季が訪れるため、雨で冷えた麦が発芽してしまったりカビが生えてしまったりと収穫に痛手を被ることが多い。
けれど今年は雨季が始まるのが遅く、そして降雨量も少なかった。
おかげで収穫は例年になく多く、麦の質もいい。
これなら商人も麦を高く買い取ってくれるだろうから、小作料を地主に納めても村が一冬を越えるのに必要な分の麦が確保出来る。
「……それにしても、何とかならないのかな」
一人の若者がポツリと呟いた。
「小作料が年々上がるせいで、働いても働いても暮らしはよくならない。麦や豆は獲れ高はたかがしれてるし……」
「何か他の農作物でも作れたらなぁ……」
顔を寄せあい話し合う若者達に、老人達は眉をひそめる。
「こんな痩せた土地で何が育つって言うんだ」
「諦めて地道に働くしかないさ」
至極もっともな正論に、若者達は返す言葉もなく項垂れた。
その若者達から少し離れて、一人で酒杯を口にする男がいた。
痩せた男だ。
みすぼらしい無精髭もそのままに、誰とも目をあわせないように俯いている。
その痩せた肩を、大柄な男が突き飛ばすようにどついた。
「おい、ブルーノ」
不意の衝撃に、ブルーノは持っていた酒杯から手を離してしまった。
木の器は地面に転がり、麦酒の白い泡がそこら中に飛び散った。
ブルーノは怯えたように肩を竦める。
「に、兄さん……」
ブルーノの兄はブルーノとは対称的な筋肉質の太い腕を組み、弟を睨み付けた。
「お前、裏庭の草刈りはいつになったら終わるんだ。言いつけたのは一昨日だぞ」
「それは……」
「収穫も腰が痛いだの頭が痛いだの、まともに手伝わなかったじゃないか。それなのに酒だけは一人前に飲むつもりか?」
「……」
ブルーノは口を引き結び、零れた麦酒から視線を逸らそうとしない。そうすれば兄の怒りをやり過ごすことが出来ると信じているらしい。
ブルーノの兄は眉をひそめて、大きなため息をついた。
「お前は昔からそうだ。野良仕事は嫌だと町に働きに行ったと思ったら、勤めていた商店の金に手を出して博打に使い込む……お前の借金を返すために俺は親父からもらった土地を売ったんだぞ?少しは反省して真面目に働こうとは思わないのか?」
「……」
ブルーノは返事どころか、兄と目を合わせようともしない。
子供のようにいじけるブルーノの様子に、ブルーノの兄は顔をしかめる。
そしてブルーノの腕を掴むと強引に立ち上がらせた。
「明日の朝までに草刈りを終わらせろ。出来なければ家から追い出すぞ」
ブルーノの兄は、そう言ってブルーノの肩を叩くようにして押し出した。
その肩を片手で押さえ、ブルーノはトボトボと祝杯をあげる人々の輪から離れていく。
それを見送り、ブルーノの兄はまた大きなため息をついた。
「まったく……困った奴だ」
「気が長いねぇ。いい加減放っときゃいいじゃないか。あんたがどんなに苦労してるかなんて、ブルーノは知ろうともしないっていうのに」
傍で成り行きを見ていた顔見知りの同情に、ブルーノの兄は情けない笑顔を返す。
「弟の面倒をみると死んだ親父に約束したからな。……嫁でももらえば地に足がつくかと方々を探してるんだが……いい娘さんの心当たりはないかい?」
「あんたがそう言うなら、隣村の従兄に声をかけてもいいけどよ……。まぁ、飲みなよ。あんたも大変だなぁ。下の息子があんなことになって、まだ日が浅いのに」
麦酒をさしだされ、ブルーノの兄はそれを受けとる。
その目元には疲労に似た悲しみの影が差していたが、彼は気丈にも微笑んだ。
「……いや、いつまでも落ち込んでられないさ。うちにはまだもう一人息子がいるし……何より手がかかる弟もいるしな」
「はは、違いない」
二人は木の器を軽く打ち付け合い、各々口に運ぶ。
その様子を広場のはずれから見ていたブルーノは、恨めしげに兄を睨み付けた。
「……くそ……」
ブルーノを酒宴から追い出しておいて自分は楽しむなんて、何て底意地が悪い兄だろう。
「久しぶりに酒にありつけると思ったのによ」
愚痴をこぼしながら、ブルーノは月明かりだけを頼りに暗い道を歩いた。
(あの男は昔からそうだ)
数年早く生まれたからっていつも偉そうに指図してくる。
ブルーノの作った借金を返すために売った土地だって、どうせ大した金にはならない荒れ地なのに、恩着せがましいったらない。
だいたい、借金だって肩代わりしてくれなんていつ頼んだ。博打に勝ったら借金なんて簡単に返せたのだ。それなのに、兄は勝手に借金を肩代わりして、ブルーノを無理矢理生まれ故郷のこの村に連れ戻した。
こき使える召し使いが出来たと、内心喜んでいるに違いない。
雑草が生い茂った裏庭を眺めて、ブルーノは舌打ちする。
(どうせ……)
刈ったところで10日もすればまた草は伸び放題だ。
それにもかかわらず草を刈れなんて、兄はブルーノを虐めて楽しんでいるのだ。
こんなふうに兄に虐げられる毎日がこれから先一生続くのだろうか。
まるで地獄だ。
「……くそ。くそくそくそ!」
ブルーノは草を踏みつけた。けれど、腹立ちはおさまらない。
(いっそ……)
またこないだのように、兄の子供を池に投げ込んでやろうか。
ちょこまかとうるさかった、あの甥。
その体は驚くほど小さく、軽く、簡単に水に飲み込まれた。
あの時は本当に胸がすっきりしたものだ。
冷たくなった子供の亡骸に縋って泣く兄と兄嫁の姿に、笑いをこらえるのが大変だったが、気分は最高だった。
ブルーノはニヤリと笑う。
「そうしよう……」
兄にまた思い知らせてやるのだ。
兄に良く似た風貌の、もう一人の甥っ子、ダミアン。
ブルーノを馬鹿にするような目つきが、ずっと気にくわなかった。
(だが、まいったな……)
年の割りに背が高い彼を池に放り込んだところで、びしょ濡れになるだけである。
では、どうするか。
「……そうだ」
いいことを思い付いた、とブルーノは納屋に足を運んだ。
月の光が届かない納屋の棚を、手探りでそれを探す。指の先に触れた瓶の感触に、ブルーノはほくそ笑んだ。
瓶を手に納屋から出たブルーノは、そっと家の裏手に回り込む。
家の中からはカラカラと糸車を回す音がした。
兄嫁が夜な夜な回す糸車のその音も、ブルーノは気に入らなかった。煩くて眠れやしないからだ。
きっと兄嫁はブルーノへの嫌がらせとして、わざと夜遅くまで糸車を回しているのだ。夫と同じく、底意地が悪い女である。
「……思い知ればいい」
ブルーノは瓶の蓋を開け、それを傾ける。
トロリと粘りがあるその液体は、家の壁に蜜のように滴った。
空になった瓶をそこに放り投げ、ブルーノは腰から垂らした革袋から、小さな火打石を取り出した。
火打石の使い方を、かつてブルーノに教えてくれたのは兄だった。なかなか上手くいかないことに癇癪を起こして泣いたブルーノに兄は根気強くコツを教えてくれたのだが、ブルーノはもはやそんな優しい思い出など忘れてしまっていた。
どこでねじ曲がってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。
誰もそれをブルーノに教えてくれない。
そしてブルーノも、誰にも教えを乞いはしなかった。
自分の歩く道がいつの間にか歪んでいることにすら、ブルーノは気付いていないのだ。
火打石を、打ち付ける。
散った火花は、瞬く間に油へ引火した。
壁に、地面に、滴った油が激しく燃え上がる。
その時、ブルーノは見た。
いや、感じた。
腕を掴む、手の感触。
小さな手。
冷たい手。
まるで、冷たい池の水に凍えたようなーーー。
驚いたブルーノがその感触を振り払う暇もなく、その手はブルーノの手をひいた。
逃がさないとでも言うように。
行かないでと甘えて縋るように。
ブルーノの着衣が黒く焦げ、煙があがる。
「ひいぃっ!は、離せ!離せー!!」
耳をつんざくその悲鳴が自らの喉が発したものだと自覚する間もなく、ブルーノの体は炎に包まれた。