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笑わず姫とカボチャパイーエーリカ②ー

息があがり、足が重い。とても、もう走れない。

スピーゲルが腰を下ろしていた草むらに、アルトゥールは勢いよく倒れ込んだ。

「姫?大丈夫ですか?」

スピーゲルが訊いてくるのに、アルトゥールはへばったまま答える。

「だ、大丈夫じゃ……あ、ありませんわ。ひっく」

「……頑固なしゃっくりですね……」

スピーゲルは呆れたように言うと、アルトゥールの額に滲む血を袖で拭った。

「本当にあなたは……気を付けて下さいといつも言っているのに」

アルトゥールは魔法を無効化する特異体質だ。怪我をしても病気になっても、スピーゲルの魔法では治せない。

だからスピーゲルはいつも口を酸っぱくして『気を付けて下さい』とアルトゥールに言うのだが、アルトゥールにしてみれば怪我を恐れて走らないなんて馬鹿げてる。

「大した傷じゃありませんわ……ひっく」

平然と言ってのけるアルトゥールに、スピーゲルが嘆息する。

「そういう問題じゃありませんよ」

「お姉さん大丈夫?」

スピーゲルの隣から、エーリカが心配そうに覗きこんできた。

彼女は息すら乱れていない。他の子供達も散々アルトゥールに追いかけ回されたはずなのに、疲れなどまったく感じさせない軽い足取りでまだ走り回っている。

(おかしいですわ……。昔はもっと身軽だったはずですのに)

齢十七。この年齢にして、自らの老化を実感することになるとは。

「お水もってくる?」

「わ、わたくしのことはいいですわ。それより……ひっく」

アルトゥールは半身をお越し、エーリカの腕をつかんで彼女を方向転換させた。

「ダミアンを捕まえるんですわ、エーリカ。ひっく。捕まえて……」

ビシリと、アルトゥールは一人の少年を指差す。

「こちょこちょ地獄に引きずりこんでやるのですわ!!」

子供達の先頭に立ってエーリカに石を投げてきた生意気そうな少年―――ダミアンが、舌を出して高笑いする。

「あはは!エーリカみたいなノロマに捕まるかよ!」

そしてダミアンは走り出した。

子供達のリーダー格だけあって、彼の足は速く、すばしっこい。まだ一度も捕まっていないのは彼だけだ。

「つ、捕まえるもん!!」

頬を膨らまして、エーリカは駆け出した。けれど、勢いがよすぎたのか躓いて転んでしまう。

助け起こさなくてはと思わず腰を浮かせたアルトゥールだったが、それよりも早くダミアンがエーリカのもとに駆け付けた。

「何やってんだよグズ!」

乱暴な物言いとは裏腹、ダミアンはエーリカを引っ張り起こし、衣服についた土埃を払ってやっている。

「ホラ、行くぞ!」

「うん!」

先程まで『魔族だ』とエーリカを追い詰めていたというのに、そんなこと忘れたかのように、ダミアンはエーリカに手を差し出す。エーリカも、その手に躊躇いなく自らの手を重ねた。そして二人は、待っていた仲間達のもとへ走り出す。

その姿に、アルトゥールは心が温まるような気がした。

ダミアンをこちょこちょ地獄に引きずりこむ計画は頓挫しそうだが、かまわないだろう。エーリカが楽しいのが一番だ。

「……昔、従兄や下働きの子供達とこんなふうに鬼ごっこをしましたわ」

アルトゥールが呟くと、スピーゲルがクスリと笑った。

「目に浮かびますね」

「従兄は……今はお父様の養子になったから兄なのだけど……従兄のエメリッヒはわたくしより年上なのに、小柄で泣き虫でしたの。わたくし、よく手をひいてあげましたわ」

走り回る子供達に、アルトゥールは過去の自分を重ね合わせる。

あの頃は、楽しかった。

エメリッヒを子分のように従えて、泥だらけになった衣装を母に叱られる毎日。

母はアルトゥールを叱って、けれど最後にはいつも笑ってくれた。『おてんばだこと』と。

どんなに嫌なことがあっても悲しいことがあっても、母が抱き締めてくれたらそれですべてが帳消しになった。

「……」

黙りこんだアルトゥールに、スピーゲルが怪訝そうに首を傾げる。

「姫?」

「……母が死んで……」

子供達を見ながら、アルトゥールはまた話し始めた。

「それからエメリッヒも下働きの子達も、わたくしと遊んでくれなくなりましたの。特にエメリッヒは……意地悪してくるようになったんですわ。嫌なことを言ったり、わたくしのおやつを食べたり、母の形見をとったり……」

あれは何故だったのだろうと、アルトゥールは遠い日を思った。

仲が良いと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。それとも、幼い頃は気にもしなかった身分や、性別の違いを、アルトゥールより先に彼らが自覚してしまったということなのだろうか。

いや、単純に彼らが不快に思うことをアルトゥールがしでかしたのかもしれない。

「……形見、ですか……」

スピーゲルが一人言のように呟いたので、アルトゥールは視線を巡らせた。

スピーゲルはアルトゥールの視線には気づいていない様子で、いつも首から下げている小袋の紐を指先に絡めて弄っている。そうするのがスピーゲルの癖らしいのだ。

(そういえば、あの小袋の中って……)

今更ではあるが、もしかして袋のなかはスピーゲルの家族の形見なのではないだろうか。

そこに思い至ったアルトゥールは、自らの失態にようやく気が付いた。

(……わたくし……無神経でしたわ)

詳しく話を聞いたことはないが、スピーゲルの一族はアルトゥールの父親によって火炙りにされたのだ。

そのスピーゲルの前で母親や従兄の話をするなど、あまりに配慮に欠けていた。

「……スピーゲル。ひっく」

「はい?」

「ごめんなさい……ですわ。ひっく」

「……はい?」

スピーゲルが首を傾げる。

「その…………ひっく」

俯くアルトゥールに、スピーゲルは察したらしい。

気にするふうもなく、彼は小さく笑った。

「気を回さないでください。僕には師匠やベーゼンがいましたから」

「……」

アルトゥールは肩を落として黙りこむ。

謝るつもりが、逆にスピーゲルに気を遣わせてしまった。

「いやあああーーッッッ!!」

突然響いたその悲鳴に、アルトゥールとスピーゲルは驚いて視線を巡らした。

子供達に囲まれて、エーリカが両手で顔を覆って蹲っている。

その傍らに、ダミアンが戸惑いながらもしゃがみこんだ。

「エーリカ?どうしたんだよ?」

肩を揺すられ、エーリカは震える手の隙間から涙に濡れた顔を覗かせた。

「み……」

「え?」

「見え……た」

「見えたって……何を?」

怪訝そうに、ダミアンは訊き返す。彼には何のことか分からないらしい。

けれどアルトゥールとスピーゲルには分かった。

(見えたって……まさか―――)

「――――――っっっダミアン!!」

ダミアンの腕が、背後から急に引き上げられる。

よろけるように立ち上がったダミアンは、自らの腕を引いた人物を見て目を見開いた。

「か、母ちゃん!?」

ダミアンが母と呼んだのは、井戸端にいた女性の一人だった。池で子供を亡くし、エーリカのことを気味が悪いと言っていた、あの彼女だ。

彼女が抱えていたらしい洗濯物が積まれた籠が、少し離れた場所に散乱している。道の向こうからダミアンを見つけて走ってきたらしいが、洗ったばかりの衣類を放り出すほど慌ててどうしたのだろう。

「ダミアン!エーリカと遊ぶんじゃないと言ったはずだよ!」

ダミアンの母親はダミアンを頭ごなしに叱りつけると、エーリカを睨み付けた。

うちの子(ダミアン)に近づくんじゃない!この魔女!」

そして、エーリカの肩を突き飛ばす。

抵抗するすべもなく、エーリカは均衡を失った。

その小さな体が地面に転がる直前に、スピーゲルがその腕にエーリカを受け止める。

「……子供相手に何をするんですか」

スピーゲルは俯いていたが、その尖った声はまっすぐダミアンの母親に向けられた。

だがダミアンの母親は一瞬も怯まない。

噛みつくように、彼女はスピーゲルに怒鳴り返した。

「子供だろうと関係ないね!そいつは魔女なんだ!魔族なのさ!」

ダミアンの母親の目は怒りに燃えて釣り上がっている。

その様子は常軌を逸していた。

「行くよ!ダミアン!二度とエーリカにかまうんじゃない!わかったね!?」

ダミアンは真っ青な顔をして首をすくめたが、おずおずと口を開く。

「で、でも……母ちゃん」

ダミアンは今にも泣き出しそうな様子だったが、チラリとエーリカを見ると大きく息を吸い、母親に対峙した。

「エ、エーリカは……ノロマだしグズだし……やっぱり前みたいに俺が面倒見てやらなきゃ……ク、(クルト)が死んだのだって……エーリカのせいじゃないよ!」

「黙りな!!」

ダミアンの頬を、ダミアンの母親は勢いよく叩いた。息子に反抗されたことで、感情の制御が完全に利かなくなったのだろう。

あまりもの剣幕に、周囲にいた子供達は怯えて後ずさる。

「二度とこの魔族と遊ぶんじゃないよ!呪い殺されてもいいのかい!?」

「……エ、エーリカはそんな……」

叩かれた頬を手で庇い目に涙を浮かべながらダミアンは言い積のる。けれど彼の母親は聞く耳をもとうとはしなかった。

「あんたも!」

彼女はエーリカを振り向き、また睨み付ける。

「クルトだけじゃなくダミアンまで呪い殺そうったって、そうはいかないからね!」

刃のような言葉を言い捨て、ダミアンの母親はダミアンの腕が抜けるのではないかというほどに強く引っ張り、歩き始めた。

ダミアンがしゃくりあげる声が、垣根を曲がって聞こえなくなる頃。呆然としていた他の子供達が、気まずそうに一人、また一人と帰り始める。

最後に残った一人が、アルトゥールの隣でポツリと呟いた。

「ダミアンの母ちゃん。クルトが池で死んでから、ちょっと怖いんだ……」

それだけ言って、その子も逃げるように行ってしまった。

残されたのは、アルトゥールとスピーゲル。そしてエーリカの三人だ。

エーリカはまだ震えている。

けれどそれは、ダミアンの母親に怒鳴られたからではないようだった。

「どうしよう……ダミアン……ダミアンが死んじゃう……」

黒い目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

やはり、エーリカは例の『影』を見たらしい。しかもダミアンの後ろに。

スピーゲルは片膝をつくと、目を合わせる代わりのように、エーリカの手をとった。

「影が真っ黒になったら……と言っていましたね。()()()()()か、検討はつきますか?」

エーリカは泣きながら首を振る。

「わかんない。わかんないよ……」

エーリカは混乱しているようだ。無理もない。彼女は自分で自分の力を持て余しているのだ。

アルトゥールはエーリカの背中を優しく撫でた。

「大丈夫ですわ、エーリカ。スピーゲルがダミアンを助けてくれますわ。ひっく」

「……本当?」

「ええ。だから、教えて欲しいんですの。()()なのか。ひっく」

「……っ」

エーリカは歯を食いしばり、涙を堪えて考え込んだ。

「……お父さん達が死んじゃう前の日と同じくらいの濃さ(かげ)だった。だから……だから明日かもしれない」

「……明日……」

スピーゲルが、口のなかで呟いた。

エーリカは不安げに瞳を揺らす。

「ねえ、本当に助けてくれる?ダミアン死なない?」

「……大丈夫」

スピーゲルは、エーリカの手を握る手に力を込めた。

「ダミアンは、きっと僕が助けます。だから安心してください」

少し考え込んだ後、スピーゲルは再びエーリカに語りかけた。

「……エーリカ」

「なぁに?」

エーリカは丸い目を瞬かせて返事をする。

スピーゲルは少し躊躇う様子を見せたが、やがて意を決したように口を開いた。

「君が……君が望むなら、影を見えなくするようにもできます」

エーリカが、驚いたように瞬いた。

「……そんなこと出来るの?」

「君が望むなら」

「……」

エーリカは俯いた。迷っているらしい。

「どうしますか?エーリカ」

「……私……」

黒い瞳を、エーリカはスピーゲルに向ける。静かな、大人びた眼差しだ。

「私、いい。見えたままでいい」

「影を見ることで、君はつらい思いをするかもしれない。悲しい思いや苦しい思いもするかもしれない。それでも?」

「……いいの。だって……」

エーリカは神妙な顔だ。

「見えたら、教えてあげられるもん」

「……教えたら、嫌なことを言われるかもしれないですよ?」

ダミアンの母親のように、エーリカを魔族と罵る人間もいるだろう。いつかエーリカは、周囲から完全に孤立してしまうかもしれない。

エーリカは潤んだ目を瞬かせた。目尻から、小さな雫がポロリと落ちる。

けれど、彼女は意志を曲げなかった。

「いい!」

「……そう」

エーリカの答えに、スピーゲルが小さく頷いた。

「……君のような力を持つ人は、多くありません、エーリカ。残念ながら少数派は淘汰されるのが、この世界の理です。生き抜くためには、頭をつかわないといけない」

「……頭?」

エーリカが、不思議そうに首を傾げた。

スピーゲルは口元を緩めて、柔らかに微笑(わら)う。

「そうです。君のお母さんは『皆が怖がるから言っちゃダメ』と言ったのでしょう?それはすごく賢明……賢いことだと思います。人は恐怖を目前にすると逃げ出そうとする。走って逃げる、という意味の『逃げる』じゃありませんよ?目を逸らしたり、信じなかったり、排除したりしようとする……わかりますか?」

エーリカは『わかる』と小さく呟いた。

「わたしが皆の『きょうふ』? だから皆、私と目をあわさないの?たから、一緒に遊んでくれないの?」

「……君は賢いんですね」

スピーゲルは、エーリカの頭を撫でた。けれど微かに、唇を動かす。

「……可哀想に」

声に滲んだあまりに切実な憐憫に、アルトゥールは思った。スピーゲルは、エーリカに自らを重ねているのかもしれない、と。

(……スピーゲルは……)

思ったことがあるのだろうか。

魔力なんていらないと。

捨てたいと、思ったことがあるのだろうか。

黙って撫でられていたエーリカが、スピーゲルを窺う。

「……お母さんの言うように、言わない方がいいの?見えないふりをしたほうがいい?」

これに、スピーゲルは単純には同意しなかった。

「それでもかまわないと思います。それも集団社会で生きるための知恵だ。でも君は、皆に教えてあげたいんでしょう?死んでほしくないから、気を付けて欲しいんでしょう?」

「……うん」

「君がそう思うなら教えてあげればいい。けれど、伝え方には気を付けて」

「……伝え方?」

「死ぬ、と直接言ってはいけません。人はその言葉自体に恐怖を抱くものですから。……例えば……体調は悪くないか。痛いところはないか。でかける予定があるなら、乗り物に不備はないか。それとなく注意を促すんです」

エーリカはスピーゲルの言葉を食い入るように聞き、そして尋ねた。

「……相手にしてくれなかったら?」

「君の声を殺すも活かすも、そこから先は相手の自由だ。君に責任はありません」

これを聞き、エーリカは少しばかり納得しかねる様子で黙っている。

エーリカの頭を撫でていた手を、スピーゲルは下ろした。

「『どうして教えてくれなかったのか』とか『本当だと知ってたら言うことを聞いたのに』とか、後から文句を言う輩は、そもそも他人の助言には耳を貸さない人間です。聞いてもらえなかったと、君が傷つく必要も責任を感じる必要もない」

少しばかり手厳しい言葉を、幼いエーリカがどこまで理解できたのかはわからない。けれどエーリカは、やがてコクリと頭を下げた。

「わかった」

「じゃあ、お家にお帰り」

スピーゲルは立ち上がり、エーリカの肩を優しく叩く。けれどエーリカは、不安そうにスピーゲルを振り仰いだ。

「……ダミアン。本当に大丈夫?」

目線が低いエーリカから目と髪が見えないように、スピーゲルは深く俯き、外套のフードを押さえる。

「大丈夫だよ。安心してお帰り」

「……うん」

エーリカはゆっくり歩き出す。けれどまた立ち止まり、スピーゲルを振り返った。

「大丈夫ですわ。ひっく」

エーリカを安心させるために、アルトゥールは大きく頷いた。

それを見たエーリカは少しだけ頬を緩め、前を向く。そして不安を打ち消すかのように走り出した。

「……あ……エーリカ!」

スピーゲルが、何かを思い出したようにエーリカの後を追う。

すぐにエーリカに追い付いた彼は、再び屈みこんで何かをエーリカに尋ね、エーリカがそれに短く答え、そして二人のやりとりは終わった。

エーリカが走り去る後ろ姿を見送りながら、アルトゥールはスピーゲルに近づく。

「何を訊いたんですの?」

「……いえ、べつに」

言葉を濁すスピーゲルを、アルトゥールは追及することはしなかった。それより、気になることがある。

「それで……どうするつもりですの?スピーゲル。ひっく」

ダミアンをどうやって助けるか。

分かっているのは『ダミアンが死ぬ』ということと『明日』ということだけ。原因はわからない。つまり、どうやってダミアンを助ければいいのかが分からないのだ。

エーリカの手前、『大丈夫』と言いはしたが、実際に助けられる保証はどこにもない。

スピーゲルは難しい顔をしていた。

「……持病を持っているようにはみえませんでした。そんな(ダミアン)が明日死ぬとしたら……」

「したら?ひっく」

乾いた風に煤色の外套が揺れ、その奥に隠れていた赤い瞳が、太陽に晒されて鈍く光る。

「……事故か、あるいは……」

二人の頭上高く、白い雲が濃い青空を泳ぐように走っていった。







そう大きくはないその池の水面は、菱の葉で広く覆われていた。ところどころに白い小さな可愛らしい花が咲いている。

池の周りに柵はなく、丈の高い草が生い茂っているせいで陸と池の境が分かりづらい。子供が誤って落ちるのも頷けた。

アルトゥールは、しゃがみこんで水面を覗き込む。

「この池で……ダミアンの弟が死んだんですのね……ひっく」

水はどんなに冷たかっただろう。どんなに怖かっただろう。

そう考えるとアルトゥールは胸が締め付けられた。

「……池に変わったところはありませんね」

スピーゲルは周囲を見回した。

「安全とは言えませんが……よくある、いたって普通の池だ」

この場所の他にも、アルトゥールとスピーゲルは村のいたるところに見て回った。

ダミアンの死因として地崩れや大水などの可能性を疑い、そういった災いの前兆はないか確認したのだ。

だが、村人に聞いた話ではここらへんは上流を含めて最近雨らしい雨は降っていないという。地崩れの前には独特の臭いがしたり、井戸の水や川の水が濁ることがあるのだが、それもない。

スピーゲルは手を顎にあて、思案を巡らせている。

「……動物が騒いでいないので地震の線も薄いし……」

病気でもなく、災害でもない。

飢饉などの非常時であれば、小さな子供が口べらしの為に……ということも考えられるが、一見してそこまでの窮状にある村には見えない。豊かとは言えないが、大人も子供も飢えに苦しむ様子はなく、ありふれた長閑な農村だ。

それなら、やはり突発的な何らかの事故が起こるということだろうか。

アルトゥールは立ち上がった。

「ダミアンの家に行って、事情を話すのは?ひっく」

何が起こるにしても、ダミアンの傍にいれば柔軟に対処できるはすだ。

けれどスピーゲルは首を振った。

「あの母親の様子じゃダミアンの傍どころか家に入れてくれないでしょうね」

「……そうですわね。ひっく」

「とりあえず、家のなかにいるぶんにはそうそう危険なことは起きないでしょう。―――ジギス」

スピーゲルが呼ぶと、彼の外套の奥からジギスが大きな欠伸をしながら顔を出した。寝ていたらしい。

「僕は今夜はここで様子を見ることにします。姫、あなたはジギスと家にもどってください」

「嫌ですわ。ひっく」

アルトゥールはすぐさま拒否する。このまま一人だけ帰るなんて、出来るわけがない。

スピーゲルは口元を歪めた。

「嫌って……野宿するんですよ?何があるかわからないし……」

「野宿なら薪がいりますわね」

早速、アルトゥールは薪を拾い始める。その後ろ姿に、スピーゲルはため息をついた。

「……言って聞くあなたじゃありませんね……」

その後、スピーゲルはジギスに魔法をかけた。いつもかける巨大化の魔法だが、今回はアルトゥール達を背にのせるわけではないので、スピーゲルの背丈より小さいくらいの大きさに調整されている。

それからスピーゲルは手持ちの筆記用具でことの次第を羊皮紙に書き、ジギスの尻尾に結びつけた。

以前、ある町に急遽泊まることになった際、帰宅後に家で待っていたベーゼンに『連絡くらいしてください』と怒られ、何かあったら連絡するようにと約束させられたのだ。

ベーゼンへの手紙を携えたジギスは、翼を羽ばたかせて大空に舞い上がり、すぐに雲の向こうに見えなくなった。





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