序章
呼吸が、白く凍る。
露台の石の手摺は冷たく、そこに手をついたアルトゥールの細い指はたちまち冷えて赤くなった。
この冬初めての雪が、ひらひらと空から舞い降りる。
小さく儚い一片が、やがて一面に降り積もって根雪となり、春までこの国を雪に閉じ込めてしまう。そうなれば、峠を一つ越えるのも難しい。だからその前に生まれ故郷に帰りたいのだ、と下女は言っていた。行商に行っていた恋人がようやく帰ってきたから、彼と一緒に帰るのだと。
その下女は十歳になるアルトゥールより七歳ほど年上だった。アルトゥールの部屋の前の床をよく歌いながら磨いていて、アルトゥールは扉を少しだけ開けて、その隙間から漏れ聴こえる彼女の歌にいつも耳をすましていた。
下女の歌は明るくて楽しくて、心が踊るような恋の歌だった。
今日も、アルトゥールはいつものように扉を少しだけ開けて、下女の歌が聞こえるのを待っていたのだが、聞こえてきたのは歌ではなかった。
『辞める?』
『ええ、行商に行っていた恋人が帰ってきたの!やっと結納金が用意できたって!私もここで働けて持参金を貯められたし』
『でも雪が降ってきたのに……』
『だから、すぐ行くわ!春を待ってたら折角貯めたお金があいつの酒代に消えちゃうから!』
下女は、馴染みの侍女達に別れを言って階段を駆け下りていったようだ。
アルトゥールは慌てて扉をしめると部屋を横切り、硝子扉を開けて露台に出た。すると、堀のむこうにある城門へとつづく通路を見下ろす事ができるのだ。
普段は人通りが多いその通路は、寒いせいで人影が少なかった。広い通路の端はうっすら白くなっていて、見張りの衛兵が歩いた黒い足跡がいくつか交差している。
しばらくすると、外套をかぶった旅姿の下女が城から駆け出してきた。
城門の陰から男が出てきて、下女にむかって両手を広げる。その腕の中に、下女は迷わず飛び込んだ。二人は笑って見つめあい、そしてくちづけを交わした。
わあっ、と、アルトゥールがいる部屋の隣の部屋から歓声があがる。アルトゥールと同じように、侍女達が窓から城門につづく通路を眺めていたのだろう。
アルトゥールは、あまりに美しい光景に呼吸を忘れた。
凍えるような寒さの中、自然に寄り添い、くちづけを交わす恋人達。
幸せそうだった。
そのまま雪に凍えて命が絶たれても悔いはないと言い切れるだろうほどに、二人は幸せそうだった。
(あんな……)
あんなキスがしてみたい。
寂しさも、悲しみも、すべて溶かしてしまうような熱いキスがしてみたい。
あんなふうに、誰かと――……。
誰かを――――……。
2020.1.19 行間、句読点等調整しました。