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E4 ~魂の叫び~  作者: たま ささみ
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第4章  ライ麦畑でつかまえて

紗輝はスナイパーとしてE4に属していたが、必要最低限の仕事が終わると、ぶらりと外に出たまま、殆ど戻らない。それは、昼夜通してのことだった。

 どうやら、息抜きにドライブに出かけているようだ。

 別にダイレクトメモさえつながれば、杏たちが口を挟むことでもないのだろうが、こういう時に限って事件は起こったりする。

 杏は、注意すべきかどうか迷っていたが、以前の「暖簾に腕押し糠に釘」のようなことがあると、何をいっても聞きゃしない、という先入観にとらわれた。

 今日もまた、夕方になると紗輝は挨拶も程々に、E4を出て行った。定時退庁といえば聞こえはいいが、E4にいる限り、それは少し違う。

 だが、あの仏頂面を見ているよりは、ダイレクトメモで呼び出せば済むかという思いに至る。他のメンバーには申し訳ないが、呼び出しに応じない場合、4人とバグ、ビートルで何とかするしかあるまい、と腹を括っている。


 室長もこのことは知っているようだが、杏と同じような考えでいるらしい。室長は、紗輝のようなタイプが苦手と見える。テロ制圧部隊として、また、推理力において、紗輝は光るものがあるのは本当だが、すぐに鼻を曲げるのがいけない。


 次の日も紗輝はミーティングと射撃訓練のあと、事件が無いと知るや、日中からドライブに出かけて行った。ちょうど剛田室長は、カンファレンスに出掛けたあとだった。

 

 面白く思っていないのは、杏だけに限らない。

 あんなにお気楽な設楽と八朔でさえも、恨み節が出てくる。

「また行っちまった」

「今日は戻ってくるのかね」

「チーフ、あいつに何とか言ってくださいよ」

 杏は2度、肩を竦めた。

「あいつはあたしの手に負えない」

「げっ、チーフでも苦手な人間、いるんすか」

「そりゃいるさ」

「ドライブって言ってましたよね。Nシステムで調べてみるか」

「おいおい、いくらなんでもプライベートだろうに」

「本人には言いませんよ」


 そういうと、設楽と八朔はIT室に走り込んだ。そして部屋に篭ると、Nシステムルート探しゲームを始めた。杏から言わせれば、お前たちも同類だ、と。ただ紗輝と違うのは、この室内にいるかどうかだけ。


 こいつら全員、一度ビンタしたい。

 杏からビンタを食らえば、良くて打撲、運が悪ければ骨折。杏の手は、小刻みに震えた。


 北斗がドアの所に姿を見せた。

 3日ぶりの出勤である。

 潜入捜査は気を遣いすぎて、精神的に辛いものだ。剛田室長は、北斗に潜入捜査を頼んだ時は、捜査が終了すると少なくとも3日間の休暇を与えている。

 最初に北斗を見つけたのは、不破だった。

「おう、北斗。もう出てきて大丈夫か」

「うん。しっかり休んだし」

「バグとビートルが五月蝿くて。北斗はどこーって」

「あとで地下に降りてみるよ」

 こういった休暇や勤務時間など、E4はフレックス勤務に近い。


 倖田と西藤は、こと恋愛に関しては奥手のようだが、なぜかホステスさんの多い飲み屋がお気に入りで、非番の前日などは、夜が更けるまで飲んでいるらしい。

 ただ、倖田たちが入り浸っている店は、公務関係者のみ入れる店だった。やはり、一般人の前に出て飲むことは、かなりハードルが高い。

 不覚にも酔いが全身に回り脳がショートするだけなら未だしも、義体化した身体で一般人に危害を加えることのないよう、公務関係者の飲酒は厳しく取り締まられていた。


 百薬の長として古くから持ち入られてきたアルコール。身体に取り入れ過ぎれば百毒の長、悪魔の発明した水とも名を変えると言われる。アルコール依存症の一般人は国内に5百万人はいるとされていた。そもそも治療をしているのが5百万人なだけで、潜在的なアル中患者は1千万人とも言われているほどだ。

 アルコール依存症とは、鎮静剤としてのアルコール、すなわち薬物に依存する病気である。

 また、アルコールよりも強い有害物質としてアセトアルデヒド(ALDH)が挙げられる。ALDHが他民族より少なく、酒に酔い易い体質とされる日本人。アセトアルデヒド脱水素酵素や飲酒時に脳を司るとされるカタラーゼは肝臓に存在するというが、モンゴロイドはその働きが活性化しづらいのだという。それに比べ、コーカソイドやネグロイドは脱水素酵素の働きが活性化しやすい。

 旧露のお父さんたちが昼からウォッカを口にしても酔った様子が見受けられない絡繰りである。



 杏も、特に事件の無い夜は、剛田の家に帰る。不破も一緒に帰る。剛田と杏、不破は3人で暮していた。

 2人は仲が良いから、「交際している」と勘違いする人間もいるが、どちらかといえば、同志。

 2人とも、マクロヒューマノイドの研究材料として国立研究所で検査や訓練を受けてきたが、それは決して楽しいものでは無かったし、楽なものでもなかった。

 2人は歳も近かったが、特に仲良くお喋りを交わす間柄というわけでもなかった。ただ、何年も一緒にいたからこそ、お互いが隣にいるのが空気のように自然になっている。



 そんなある日のことだ、紗輝はE4を抜け出し、またドライブしていた。

 ただし、今日は一人ではない。助手席には、一般人の女性が乗っていた。

 ドライブ途中にナンパした訳ではない。きちんとした理由がある。



 女性は、花屋のスタッフだった。

 紗輝が女性を始めて見たのは、E4に来た当日。E4では、室内に生け花を飾っている。ほぼ男だらけの空気にはそぐわないが、男臭さも少しは抜けようというものだ。

 だが、そういった気遣いがあるのはE4ならでは、らしい。以前勤務していたERTでは、汗臭い香りが其処彼処に漂い、ただでさえ臭気に鼻の利く紗輝は、毎日のように吐き気をもよおしたものである。


 別に、一目惚れしたというわけではない。

 第一印象はE4に女性が尋ねてきた、という驚きだった。そして生け花を納品する花屋と聞いて、納得しただけ。

 それなら、なぜその女性が紗輝の運転する車の助手席に乗っているのか、不思議である。


 紗輝は帰庁後、ドライブに出掛けない日もある。そんな時は、きまって本屋に顔を出す。本屋も、昔は本ばかり置いていたものだが、今やディスプレイは様々で、花はその中心的な役割を果たしている。

 紗輝の寄る本屋も、然もあらん。

 生け花は出入り口の脇に始まり店内中にある。

 いつものように帰庁後、閉店ギリギリの時間に本屋に寄った紗輝が見たのは、店内を走り回る花屋の女性だった。

 忙しそうに誰か走っているなと思ったら、いつもE4に来る女性が、花束を持って本屋中を走っていたというわけだった。

 その日は閉店ギリギリということもあって、「ちょろちょろ動く女性」と紗輝の脳裏にインプットされただけで、それ以上の進展はなかった。

  

 それから何度も、紗輝は本屋で女性を見かけた。

 閉店した本屋の中で、花を活けていたようだ。3輪車を引いて、各営業先へと花を届けているのだった。普通なら、車で運ぶだろうに。


 紗輝は決して冷たい人間ではない。どちらかといえば、根は温かみのある30歳だ。

 本屋から出た女性に、思い切って声を掛けた。


「どうも。驚かないでください。自分の職場で貴方をお見かけしたことがありまして」

 女性は少し驚いた様子を見せたが、次第に、にっこりとした営業スマイルに変わる。

「思い出した。あのビルですね、いつもありがとうございます」

「お忙しそうですね、車で運んでいないのですか」

「私は入ったばかりだし、近場専門ということで車は使ってないんです」

「それだと花が痛んで大変でしょう。お手伝いしましょうか」

「そんな、ご厚意に甘えてしまっては申し訳ありません」


 紗輝が感じた女性の第二印象は、一所懸命に仕事をこなす真面目さ。

 次に紗輝が女性を見かけたのは、1週間後である。

 雨の日、3輪車も生け花の材料も濡れる。なるべく材料が濡れないよう、何かしら工夫しているようだが、車ならそんな必要もない。

 紗輝は、本屋から出てきた女性に、また声を掛けた。

「大変そうですね、お手伝いさせてください」

「申し訳ないですから」

「毎日というわけにはいきませんが、なるべく車を出せるようにしますよ、お店の場所を教えてください」


 そんな会話があった翌日。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。

 紗輝はミーティングが終わると、剛田室長に今週のスケジュールを確認する。

「室長、今日、何かありますか」

「特にない」

「じゃ、今日から1週間、休みもらいます」

「何かあるのか」

「いえ、特には」

「事件が起きたら呼ぶ。それでいいなら休暇を認めよう」

「はい、わかりました」

 紗輝はそういうと帰り支度をして、そそくさとE4を後にした。



 一旦家に戻り、車を出して紗輝が向かったのは、女性の勤める花屋。ダイレクトメモ機能のある時計は、家に置いてきた。事件があっても連絡を受けないことにしていた。

 

 家から車で10分。教えてもらった花屋の店先を覗くと、女性が、3輪車に生け花の材料を積み込むところだった。紗輝は店に入り、店長と思われる男性の目の前に立つ。

「僕は彼女の兄なのですが、天気の悪い日を中心に、妹の配達を手伝ってもいいでしょうか」

 店長は一瞬、訝ったのだろう。思い切り眉間に皺を寄せたが、断る様子はなかった。家族と聞いて、断る理由が見つからなかったのかもしれない。

 紗輝は外に出ると、女性が3輪車に運んでいた生け花の材料を、自分の車に積み直す。

 そして小声で、女性の耳元で囁いた。

「すみません、強引で。家族ということにしました」

 女性も驚いた様子だったが、嫌な顔は見せなかった。

「ありがとうございます。これで今日は楽に配達できます」

 

 配達を始めた頃、空から大粒の雨が降ってきて、道路を濡らし始めた。女性はほっとした様子で、紗輝の方を向いて頭を下げた。

「助かります」

「雨の中配達するのは大変でしょう」

 会話が弾むわけではなかったが、紗輝はある種の緊張を感じながらも、隣に女性が乗っていることを心地よく思った。


 その週は、毎日朝から晩まで女性の仕事に付き合った紗輝。女性がビルやホテル、その他様々な場所に配達し花を活けている間は、車の中で音楽を聴きながら本を読んで待つ。女性が配達先から車に戻ると、次の配達先に向かう。

 女性との会話も少しずつ増えてきた。

 互いの名前を教え合い、電話番号を聞く。

 紗輝が困ったのは、自分の職業を聞かれた時だった。

「紗輝さんたちのお仕事は何ですか?皆さん、机にかじりついていませんよね」

 E4では、常に皆、のんびりと座ったり寝転んでいたりする。紗輝は返答に困った。

「あ、ああ、そうです。気楽なIT系の会社ですよ、フレックス勤務の」

「あら、拳銃のようなものを磨いてる人を見たわ」

「彼は営業職で、射撃を趣味にしてるんです。IT室に篭ってる人間だけは、結構忙しい」

「そうなんですか、もしかしたら、公的なお仕事かもしれないと思っていたんです」

「違います。気楽な職ですから、いつも誤解される」

「じゃあ、義体化もしてないんだ」

「義体化か。僕はあまり好きじゃない」

「私も。今のところに仕事を見つけてからは、疲れないマイクロヒューマノイドもいいな、って思ったりするけど」

「お花屋さんの仕事は体力勝負ですね、今になってわかりました」

「そうなんです、綺麗なお花に惹きつけられて就職したのに、全然違ってびっくり」

 女性は右手を口元に寄せて、くすくすと笑った。

 紗輝もハンドルを操作しながら、つられて、あははと笑った。



◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇



 紗輝たちがほのぼのと会話を交わしているちょうどそのとき、E4では設楽がNシステムで紗輝の車を探していた。

 杏が設楽の後ろに立ち、突然大きな声を出す。

「悪趣味だぞ、設楽」

「趣味じゃありません、仕事ですよ」

「何が仕事だ。紗輝の車を追っているんだろうが」


 八朔が、杏の後ろに回り込んで設楽を突く。

「見つけましたよ、伊達市、国道13号線。A677区域です」

 設楽がにやにやしだす。

「どれ、あ、いたいた」

「助手席に誰かいますね」

「ん?もう少し大きく出ないか、画面」

「MAXです、これでも」

「雨露が邪魔してるのか。お?八朔のいうとおりだな、女が乗ってる」

「仕事休んで女とドライブ?ちょっとE4舐めてませんか」

 設楽は画面に釘付けになりながら、杏にお墨付きを貰おうとしている。

「どうします、チーフ」

「プライベートを注意できないだろう」

「この女、どっかで見たような気がする」


 杏は女性の正体に気付いていたが、2人に言うと大騒ぎしそうなので黙っていた。


 そのうち、設楽が女性を思い出した。杏のいることなど忘れたように、八朔との話に花が咲く。

「あ、生け花」

「そうだ、設楽さん。この人、うちで花活けてる」

「なんだ、紗輝のやつ。気に入って声かけてたってか」

「それにしちゃ、くそまじめな顔して運転してますよ」

「笑顔が無いと、フラれるぞー、紗輝くんよぉ」


 杏は一人カメレオン化し、Nシステムの電源を切る。

 画像は途端に消え、部屋の中は暗くなった。

「お前たち。紗輝のことを言えた口か。油売ってる暇があったら、FL教のオリジナルでも探せ」


 杏の声が聞こえたのか否か、設楽が小さく舌打ちした。カメレオン化した杏の目前で。杏はカメレオン化を解き、椅子にこし掛けている設楽を見下ろした。

「ほう、舌打ちするくらいこの仕事が嫌か。どうする、剛田室長から辞令でももらうか?」

 途端に設楽の顔が青ざめる。

「いやあ、そんなことありませんよ。オリジナル、探します、な、八朔」

「設楽先輩に同じです」

 杏は2人にプチ雷を落とした後、IT室を出た。


 頭を抱える杏。

 明日のミーティング後は、紗輝の話題で一部が盛り上がりそうだ。他人のことなど放っておけばいいものを。紗輝が出勤したら、また冷かして、紗輝が怒って帰るパターンが目に見えている。設楽のくだらないお喋りは何とかならないものか。


 といいながら、杏も紗輝のことを考えていた。

 紗輝のことだ、ここで見初めたとは思えない。あいつは非常に考えていることが顔に出やすい。見初めたのがE4内なら、顔が紅潮しても不思議ではない。でもそんな顔は見たことが無い。

 となれば、どこか他のところで偶然会い、仕事の手伝いでもしているというところか。今日は平日。普通の花屋なら休業日ではなかろう。花をビルまで運んで活ける仕事なら、相当な量の花を運んでいるはずだ。

 紗輝はどうしようもなく自分勝手だが、根は優しい。下心なく、手伝いをしているに違いない。それが恋心に変わるかどうかは、紗輝次第だ。

 それよりも、あいつは一般人になりたがっている。これを機に、チームを脱退するかもしれない。この仕事を辞めたいと申し出る確率は高い。

 取り敢えず倖田1人でもスナイパーは足りる。どちらかといえば、制圧部隊がもう一人は欲しい。

 剛田室長に、新たなメンバーのスカウトでも頼むとするか。


 E4室内に戻ると、みな寝転がっている。

 入口付近に、花屋の彼女が活けた花が綺麗に整えられていた。


 自分までもが紗輝の恋心に踏み入ろうとしている事実に気付いた杏は、首を2,3度横に振ると、そのままE4室内を出て、非常階段に向かう。非常階段に出た杏は、大きく身体を広げて新しい空気を吸い、脳まで活性化させた。


 

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇



 1週間後。

 紗輝は遅刻もせずにE4に出勤した。珍しく、スーツを着用している。スーツのポケットには、退職届が入っていたのだった。ミーティング後、剛田室長に渡すつもりで神妙な顔つきを終始崩さなかった。

 そこに、設楽、八朔、杏と不破がほぼ同時刻に出勤してきた。

 設楽と八朔は、紗輝を見て右手を縦に口に当て、冷やかすような仕草を見せた。後ろに杏がいることを知っていたので、声には出さなかったらしい。

 不破がもろに不機嫌な顔つきになる。

「あの辺、朝から弛んでますね、チーフ」

「そうだな。また雷でも落とすか」


 全員が揃い、ミーティングが始まる。

 剛田室長から今週のスケジュールや注意事項などが話され、質問があれば受け付ける。今週は特に何もなく、ミーティングは早々に終了した。


 自分の椅子に座った剛田室長の前に、ささっと紗輝が進み出た。

「室長、実は」

「何だ」

「こちらを受け取ってください」

 スーツのポケットから退職届を取り出した。中身を見た剛田室長は、驚くでもなし、慰留するでもなし、ただ黙って、一度だけ頷いた。

「これから人事にもっていく。承認が出たら、承認書と、もろもろの書類を郵送しよう」

 紗輝は、安堵の溜息を吐いた。

「はい。では、今日はこれで失礼します」

 紗輝は剛田の机から離れると、杏を呼び止め挨拶した。

「チーフ。短い間でしたがお世話になりました」

 杏は、にっこりと笑って紗輝の肩を叩いた。

「辞めるのか。達者でな」

「はい、チーフもお元気で」

「皆にも挨拶していけ」

「チーフからお話いただけますか」

「そういうな」

 杏は声を張り上げた。

「皆、こっちにこい」

 背広姿の紗輝と杏のところに、皆が集まってくる。

「今日付けで、紗輝が退職する。紗輝から最後の挨拶だ」

 紗輝が、ややぶっきら棒気味に挨拶した。

「皆さん、お世話になりました。どうぞお元気で」

 設楽や八朔は、退職の理由が花屋の彼女だと、今、気が付いたらしい。

「あ、紗輝。もしかして」

「設楽。余計なことは言うな」

 杏が設楽を嗜める。

「いや、いいんです、チーフ。俺、花屋に転向することにしましたんで。ここにも配達にくるかもしれないし」

「配達に着たら、珈琲の1杯も飲んで行け」

「ありがとうございます、室長。それでは、これで失礼します」


 紗輝は皆から離れ、ドアを開けて一歩進み出ると、振り返り室内に向かって一礼した。

 廊下に出た紗輝を、杏は追った。

「紗輝。職はまだしも、電脳や義体の事実は伝えてあるのか」

「いいえ。隠し通します」

「それなら、国立研究所に相談してみよう。解けるものなら解いた方が気楽だろう」

「右腕はそのままでも。花屋って、結構体力勝負だったりするんです。足腰も義体化したいくらいですよ」

「そうか。何かあったらあたしに相談しろ」

「ありがとうございます」


 踵を返して廊下を歩く紗輝の後姿は、どこか愉しげだった。

 これからの人生が、紗輝にとって輝かしいものになりますように。


『ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたら一番いいんだよ』


 J.Dサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」の中で、杏の好きな一節だ。

 まさに、今がそうだった。本当は、紗輝は変わるべきではない。なぜだか分らないが、そんな気がした。

 杏は魂が疼くような気がして、一抹の不安を抱えながら紗輝を見送った。



◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇



 今日も平穏。

 紗輝がいなくなってからのE4は、主だった仕事も無く、皆、だらけきっていた。

 北斗だけが真面目にバグやビートルの世話をし、床を掃除していた。

 杏は、設楽と八朔のいるIT室に向かった。

「おい、また北斗が掃除してるじゃないか。掃除メカにさせろ」

「あいつがやるっていうもんで」

「北斗からお前たちに言うと思うか?」

「聞いたんですよ、こないだ、休養明けに。そしたら、自分がやるって」

「北斗は真面目だから何かしていないと嫌なのかもしれないな」

「そういうことです」

 杏が、設楽の頭に拳骨を入れる。

「馬鹿者。そういうことです、じゃない。掃除メカを直せ」

「北斗はどうします」

「こちらに寄越せ。遊ぶだけならいいが、掃除まで任せるな」

「りょかいでーす」


 北斗は49階に戻ってくると、飛んできて杏に声をかけた。

「すみませんでした。こちらで何かすること、ありました?」

「北斗。頑張り過ぎだ。バグたちとは遊ぶだけにしておけ」

 北斗が照れ笑いを浮かべる。

「いや、そんなんじゃないんです。あいつらと遊べるの、楽しいし」

 杏は北斗の左肩をぽんぽん叩く。

「だから、遊ぶだけにしておけ。掃除してる間は遊べないだろ」


 北斗はコクンと頷くと、自分の机に移動して、活字新聞を見始めた。

 不破は別室で筋肉調整のトレーニングをしている。マイクロヒューマノイドとて、修練しなければ筋肉が落ち、贅肉と化す。贅肉がパーツの繋ぎ目まで落ちてくると、大変みっともない姿になる。

 不破をはじめ、西藤、倖田も同様。皆で筋肉のあるべき場所を確認して、戻すことに力を入れていた。

 北斗も暫く新聞を見ていたが、筋肉増強のトレーニングをすると言って、別室に赴いた。

  


 すれ違いに、剛田室長がE4室内に入ってきた。

 設楽や八朔に聞かれたくないのだろう。電脳を繋げ、と杏に向かって耳の部分を覆う仕草をする。杏は言われた通りに耳たぶを強く押した。

(どうしたの?)

(国立研究所から、バグとビートルを引き揚げる旨の連絡があった)

(どうして今時期に。何かあったの)

(使用履歴がないからだそうだ。表向きは、な)

(裏向きもあるってわけ?)

(試用機を回収したいのだろう。別の思惑を感じる)

(折角大好きな北斗が3カ月ぶりに戻ったのにね、あの子たちの記憶は消されてしまうのかしら)

(おそらく)

(残念だわ)


 杏は深く溜息を吐くと、電脳を解いた。

 皆に今、言うべきか、言わざるべきか。

 IT室に聞えないよう、剛田室長の傍に寄る。

「いつ?」

「今週末」

「早いのね」

 杏はまた溜息を吐いた。2度も溜息を吐くチーフの存在に、まず、設楽が気付いたらしい。IT室から出てくると、杏の傍に陣取った。

「どうしたんです、さっきからこそこそと」

「別にこそこそしてはいないけど」

「嘘ばっかり。向こうのガラスに反射して写ってましたよ。電脳繋いで何か話してる姿が」

「あら、そうだった?」


 杏は、決意を固めた。

「設楽。別室にいる連中を呼んできて。話があるの」


 設楽が指でOKマークを作り、廊下に出る。その背中を見送った杏と剛田室長は、首を振りながら自分の椅子に座りこんだ。

 5分もすると、メンバーがぞろぞろと室内に戻ってきた。

 皆、何の話があるのかと不思議そうな顔をしている。杏の表情をよんで、テロ制圧の任務でないことだけは気が付いたようだ。

 杏は、そぞろに寂しさを覚えながらも、チーフとして毅然と振舞っていた。

「皆揃ったわね。今、室長から聞いたんだけど」

 設楽がいつものように横槍を入れる。

「で。何です?異動話?」

「異動には違いないわね」

「誰が異動するんです?」

「バグとビートルが研究所に帰ることになったわ」


 途端に、北斗の顔色が悪くなった。

「チーフ。今から地下に行ってあいつらと遊んできてもいいですか」

「ええ。今週末までだから、たくさん遊んであげて」

「はい」

 北斗は、取る物も取り敢えずと言った調子で、ドアをバタンと開けると、バタバタと地下に降りて行った。


 不破も杏に尋ねたいことがあるようだった。じっと杏の目を見ている。

「どうしたの、不破」

「なんだか急ですね、何かあったんですか」

「使用履歴がない、というのが建前みたい」

「本音は?」

「試用機の回収。そうよね、室長」

「そうだ。E4での任務には支障が出ない、という話だが」

 不破は納得がいかない様子だった。今度は剛田室長を見つめる。

「それにしちゃ、急ですよ」

「そうだな」

「何か裏にあるのかな」

「たぶん」

「調べてみてもいいですか。任務がないときに」

 剛田室長がワハハと笑う。

「じゃ、今が最適だ」


 杏と不破は、一度地下に降りた。西藤と倖田も一緒のエレベーターに乗る。誰も言葉を発しなかった。まるで通夜の団体のようだった。

 杏が、一言だけ発する。

「今週末に引き揚げられるそうだ。皆、なるべく遊んであげてくれ」

 エレベーターが地下に着いた。


 1台のビートルが4人に寄ってくる。

「ミンナデドウシタノ?」

 不破が極めて自然に返答する。

「任務がなくてな、暇なのさ」

「ニンムガクルマデアソベルノ?」

「ああ」

「ミンナ、ヨホドヒマナンダネ」

「そういうな。遊ぼう」

「ジャア、オイルサシテ」

「わかったよ」

 オイルの缶を3人がばらばらに持って、バグやビートルに注してあげる。

 杏はバグたちの寝床を見に行った。汚かったら、掃除をしようと思ったのだ。

 寝床の片隅に、本が落ちていた。手に取って、杏は驚いた。

 J.Dサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。


 名言も数多くある中、殺人や暗殺の洗脳本という都市伝説もある著書。

 剛田に引き取られてから、杏もこの本に夢中になったことがある。

 現在、暗殺も任務のうち、を考えれば、都市伝説アリッというわけだが、別に関係はあるまい。


 それにしても、バグたちがこれを読んでいたのか。

 杏は、1台のバグを捕まえた。

「この本は誰が読んでいた?」

「ミンナデヨンダヨ」

「誰からもらった」

「ホクト」

「いつ」

「エフエルキョウニイクマエ」

「読めるのか、本当に」

「ウン、ヨメルシイミモワカルヨウナキガスル」

「そうか。ありがとう」


 たった3ケ月で、皆で回し読みしながらも意味がわかる。普通のロボットなら、意味をインプットしない限り自力で意味を考えるのは無理だ。

 バグもビートルも、人間が思うより遥かに成長している。

 こいつらを、研究所に返すのは惜しい。


 しかし、こいつらを研究所に返せない理由にはならない。


 そうだ、使用履歴の問題だった。

 もっと一緒に現場に行くんだった。

 そもそも、テロ制圧そのものの現場が少なかった。難しい任務がなかった。

 今更何をいってみても、空しく木霊するだけだ。

 杏は本を寝床に返すと、自分もビートルに油を注すため、オイル缶に手を伸ばした。



◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 

 週末、バグとビートルを研究所に返す日がやってきた。

 北斗は余程寂しかったらしく、言葉も掛けられないと言って、地下に降りようとはしなかった。

 杏も、バグ、ビートルたちに対して、お前たちを研究所に戻すとは言えず、オーバーホールがある、と嘘を吐いていた。

 久しぶりに研究所でオーバーホールするバグやビートルたちは、朝から騒々しかった。


「ミンナデナランデイケバイイノ?」

「イツマデムコウニイルノ?」

「ダレカイッショニイクノ?」

「ホクトハ?」

「サキハイナクテイイヨ」

「ウン、ウルサイモンネ」

「ソウイエバ、サキヲチカゴロミテナイネ」

「ヤメタンジャナイ?」

「イイヨ、サキノコトハ。ソレヨリ、ホクトハ?」

「ホクトヨンデキテー!!」

 

 倖田がエレベーターで北斗を呼びに行く。

 北斗は、E4室内で、1人涙していた。

 倖田が顔を出すと急いで涙を拭き取ったが、また、涙が溢れてくる。

 静かに北斗の左肩に手を添える倖田。

「バグたちが会いたがってるぞ」

 鼻をすすりながら、北斗は下を向く。

「こんなんじゃ、とてもじゃないけど顔出せない」

「もう二度と会えないんだ、最後に会ってやれ」

 しばらく身動きもしなかった北斗だが、こっくりと頷くと、涙を拭きサングラスをかけて目元が皆に見えないようにして、倖田と一緒に地下に降りた。

「ホクトダ」

「イマカラボクタチケンキュウジョニイクンダヨ」

「ホクトモイッショニイカナイ?」

「イコウヨ!」


 バグたち10機に囲まれ、北斗は今にも泣きそうな顔をしている。

「うん、運転してついていくよ」

 北斗は、それだけの言葉を絞り出すのがやっとだった。


 前日の夜、杏と不破はカメレオンモードで研究所に入り込んでいた。およそ不夜城と化している国立の研究所だが、戸締りをして帰っている研究員も多かった。研究員のいない部屋で、研究内容を探った。

 どの部屋を探っても、パワーアニマルに関する研究を行っている部署は無いようだ。

 とすると、パワーアニマルを必要としているのは誰なのか。

 2人には、見当もつかなかった。



 国立研究所はE4のビルから車で20分の山際にある。

 北斗は車に剛田室長と杏を乗せ、研究所へと車を走らせた。

 その後を、バグとビートルがついていく。なるたけ時間を稼ごうという北斗は、のんびりとしたスピードでアクセルを踏みこむこともせずゆっくりと車を走らせていた。

 それでも、20分は短かった。

 すぐに研究所へ到着した一行。

「ホクト、スコシマッテテネ」

「スグニカエルカラ」

「ホクト、バイバーイ」

 バグとビートルたちは、北斗にバイバイと前足を振りながら、剛田室長と一緒に研究所に入っていく。

 全てのバグ、ビートルが入り終えると、北斗は声を上げて泣きだした。

 杏が助手席から降り、運転席に回り込む。

「北斗、帰りは私が運転する。助手席に乗れ」

「すみません」

「あと、ほら」

 杏が差し出したのは、北斗がバグたちに渡した「ライ麦畑でつかまえて」の本だった。

「あいつら、3ケ月間、皆で回し読みして、意味もある程度わかったらしいぞ」

「どんな言葉が好きって言ってましたか」


「『幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君が望むのなら、君はそこから学ぶことができる。それとちょうど同じように、もし君に他に与える何かがあるならば、今度はほかの誰かが君から学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ』だそうだ。

あとは、

『ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね』って言ってたビートルもいたな」


「俺より勉強家だ。研究所じゃなく、ライ麦畑に連れて行ってあげたかった」

 そういって、北斗はまた泣く。堰を切って溢れ出た涙は、ハンカチが何枚あっても足りないくらいだった。

 杏も少しだけセンチメンタルになりかける。

「お前から学んだことがたくさんあって、あいつらは嬉しかったに違いない。もう泣くな」

 北斗を泣き止ませ、本を渡した頃、剛田室長が研究所から出てきた。

「E4に戻るぞ」

 杏の運転する車は、ゆっくりと研究所を出た。



◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇



 研究所からの帰り道、杏は北斗のアパルトモンに車を停め、北斗を降ろした。

「泣き止んだらE4に出てきなさい」

 杏も剛田室長も、今日は北斗に休みを与えるつもりだった。北斗を必要とする潜入捜査は、今すぐにはない。

 杏が北斗を降ろしたのは、北斗が悲しみにくれているからでもあったが、別の、バグたちが引き揚げられた本当の理由を剛田室長から聞きたかったからだ。

 不破とともに研究所に忍び込んだ際には、これといった収穫はなかったから。

「室長。研究所長から、何か話があった?」

「いや、特には」

「聞かなかったの、理由」

「聞いたところで話しやしないだろう」

「それもそうね」

 なぜ、今。

 これから何が行われようとしているのか。

 杏は、曇天の遥か彼方に一筋の光が差し込んでいる空の方向に、車を走らせた。

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