第2話 日なたの窓に憧れて
連れ込み宿のベッドで目が覚める。体を起こすと二日酔いの頭痛が頭の芯に響いた。窓辺からはカーテンの隙間を通り、朝日が差し込んでいる。
隣で寝ていた女をゆすり起こす。床に脱ぎ捨てられた服を手早く身に着ける彼女に、昨夜の臨時収入の札を幾枚か握らせる。彼女はウインクをして部屋を出ていった。それをベッドの上で眺めながら、親英はあくびを噛みしめる。伸びをし、シャワーを浴びるため、浴室へ歩き出した。
宿から卸売市場までバイクを走らせる。卸売市場の朝は早く、賑やかだ。漁に出ていた船たちが戻り、水揚げされた魚が運ばれてくる。野菜や肉類も同様だ。そして市場内の食堂は今昔手頃でおいしいと相場は決まっている。
運ばれてきた真鯛のカマの塩焼きに舌鼓をうつ。真鯛とは味良し、見た目良しである魚の王である。鯛の食べ方には色々ある。新鮮な活造り、香りと旨みを押し出した昆布締めが美味であるのはもちろんのことである。他にもあらだき、煮付け、酒蒸しがあり、米と合わせると茶漬け、鯛めしなどなど、どれもよい。
そして塩焼きはシンプルながらに鯛が持つ旨みを最大まで引き出す。特にカマは程よい脂が醸し出す風味は絶品である。カマを突いているとビールが欲しくなってくるが、後のことを考え、自重する。
箸でカマから身をほぐし、熱々のごはんと一緒に口の中へ運ぶ。塩のきいた身が口に入った当初は押し出してくるが、噛むごとにほろほろと崩れた米の甘みがしみだしてくる。
「うまい……」
思わず心の中から声が漏れる。ごはんを飲み込み、口の中を味噌汁で流す。味噌汁も定番のわかめ、ネギ、豆腐に加えて鯛のあらが入れられた出汁のきいた絶品である。あらから骨を取り除き、口へ持っていく。あらは、腹の脂ののった部分と頭近くのぷるるとした口当たりの良い部分がどちらも入っており、得した気分である。
小鉢の漬物を小休止とばかりに齧る。それから食べ終わるまでにそう時間はかからなかった。熱く入れられた緑茶は、喉の渇きを癒すには程よい温度となっており、一気にすする。腕時計を見ると約束の時間にはよい頃合いであった。
泊商店のバラックの前にバイクを停める。相変わらずシャッターが下りたままである。拳で3回シャッターを叩くと、気持ち昨日より早くシノの声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってね」
シャッターの前で柱に背を預けながら、煙草に火をつける。ちょうど1本吸い終わる間際に、モーター音がしたかと思うと、がらがらとシャッターが引き上げられた。そこにあったのは軍用であろうか登山にも使えそうなリュックサックを背負い、ヘルメットを小脇に抱えた、満面の笑みのシノの姿であった。
「とりあえず、聞こうか。どうするつもりだ?」
煙草の火を消し、携帯灰皿に入れる。息を吐き、言いたいことは分かっているが、一応尋ねる。
「そりゃ、もちろん。おじさんについていこうかなと」
しれっと、何でもないかのようにシノは答えるが、問題ばかりである。
「親父さんが留守なのにまずいだろ。あと俺はまだ未成年略取で捕まりたくない」
「親父のことなら心配いらないよ。いろんなところに女作ってるんだから。それに私もう18歳だから大丈夫!大丈夫!」
なんとも安心のできない理由である。シノは意気揚々と置手紙を書き始めた。彼女が不在の間、この店はかの重機関銃ターレットが守るようである。
「本当についてくるつもりか?」
念押しのごとく尋ねる。可愛い女の子を道連れに旅をするのも心惹かれるが、実際には問題も山積みなのだ。
「ついていくよ。こんな機会でもないと、旅なんかできそうにないからね。それにおじさんのことは信頼してるから」
信頼が重く感じられる。自分はそのような人間ではないと自分の声で否定する。心の中で誰とも知れぬ声が「お前はそんな人間ではない」と叫び否定する。ポーカーフェイスを心がける。そのような考えはおくびにも出さない。
「だめですか?」
女性の上目遣いとはかくも魅力的なものである。が、親英はここにいたってもなお、のらりくらりとかわそうとする。
「………」
彼女は無言のまま一歩こちらに踏み出してくる。彼は半歩下がる。さらに彼女は一歩踏み出す。彼はまた半歩下がる。彼女はとどめとばかりに踏み込む。彼の後ろは壁であった。戦略的後退はもうできない。自然と身長差から彼女を見下ろす構図となる。
彼女は顔を赤くしてこちらを見つめる。小麦色に日焼けした頬が赤くなっているのが分かる。彼女がいつも着ているタンクトップの影へ視線がいかないよう努力をする。もう悪あがきだ。何年も前から知っている少女の初めて見る表情に頭の中を乱されている。背徳感、庇護欲、独占欲などごちゃ混ぜになった感情が脳髄を刺激する。ひとまず落ち着こうと深呼吸をする。彼女から漂ってきているのだろう柑橘類のような爽やかな匂いと年頃の少女の甘酸っぱい匂いを吸い込んだ。落ち着けるわけがなかった。
交渉の結果は言うまでもないだろう。
***
シノの荷物をサイドカーに括り付ける代わりに、キャンプ道具、日用品を後部座席へ積載する。彼女は今置手紙を書いている。内容を覗き見るほど野暮ではないが、願わくば怒りがこちらまでとどかないようにしていただきたいものだ。
「よしっ!」
威勢の良い声とともにシノが立ち上がる。スキップするかのような足取りの軽さでこちらに歩み寄る。太陽の光がバイクのタンクに乱反射する。彼女の顔は山笑うような春の光に照らされる。
目が合う。
彼女の花がほころぶかのような笑顔に考えていた心配事は立ち枯れるかのように消え去った。
彼女がサイドカーへ乗り込み、ヘルメットを被ったことを横目で見て、セルを回す。
街道の桜の蕾は色づき始めていた。