【2】
「久しいな、マリーミリー」
太陽の化身が棲むと崇められる山の頂。
初夏の日差しが燦々と降り注ぐ中、アギルヴァシラがそう言うと、マリーミリーはふふっと笑いを零した。
「何が可笑しい」
「いや、だって一年ぶりよ。たった『一年』よ」
ずいぶんと人間の感覚に染まってきたわね、と、裂けんばかりに口角を上げるマリーミリーに、アギルヴァシラは顎を引き、渋面を作るほかなかった。
「やっぱり私の目に狂いはなかった。ノーラで正解」
そう言って笑い続けるマリーミリーは、人間の女性だった。
遥か東方の島国の民族衣装である『キモノ』を身に纏い、おそろしく長い白髪は一つに縛り上げて襟巻のように首へ。年の頃は二十そこそこといったところだが、独特な佇まいのせいか、三十にも四十にも見える。
しかしその正体は、人に化けた竜――『湖を飲み干す白蛇』とも称されるほど巨大な竜であった。
「それで、何か困ったこととかはない? 大丈夫?」
満足いくまで笑ったのか、表情を戻してそう尋ねるマリーミリー。
といっても、元より糸のように細い目をしているので、そのままでも笑っているように見えるが。
「別段、問題は無い。何かあれば、こちらから訊きに行く」
「ふふ、そうよね。ちょっと熱が出ただけでも、すっ飛んで来たものね」
「どれだけ前の話だ」
「そうねぇ……十年くらい前の話かしら」
つまりほんの少し前の話ね、と竜の感覚で語ると、マリーミリーは再び声を上げて笑い出した。
「はぁ……」
正直なところ、アギルヴァシラはマリーミリーが得意ではなかった。
もちろん、悪い竜ではない。竜の中では一番の知恵者であり、何かあれば必ず親身になってくれる存在だ。
しかしその反面、竜の中でも随一の変わり者でもあった。
特にここ千年ほどはいつも人間に化けており、あちこちの人里に下りては、何食わぬ顔でその中に紛れて生活していたりする。一時期に至っては、一つの国を作り上げたことすらあるという。
そして、それら全ての移ろいを眺めるのが、マリーミリーの趣味なのだ。
平穏と均衡を好むアギルヴァシラとは、どうしても相性が良くない。というか、いつも一方的に遊ばれてしまうのだ。
「それで、ノーラは? せっかくお土産持って来たんだけど」
「ノーラならば、薬草採りに。じき戻ると――ほら」
アギルヴァシラが視線で促すと、険しい斜面を物ともせず、籠を背負った人影がずんずんとこちらに向かって登ってきていた。
「アギルー! 見て見てー! もうこんなに木苺が生ってたー!」
両手で作った器になみなみと木苺を盛り、駆け寄ってくる人影。
確かにマリーミリーの言う通り、数年前ならば危なっかしくて見ていられず、すぐに口も手も出していたところだ。
しかし、今はもう違う。どんと構えていられる。
アギルヴァシラがそんな表情でマリーミリーを見やれば、器用にも微笑んだまま呆れ顔を作って、「あなただけが成長したわけじゃないのよ」と笑われてしまった。
「あれ、マリー! 来てたの?」
「久しぶり、ノーラ。また一段と大人っぽくなったんじゃない」
「えへへ、そうかなぁ」
そう心から嬉しそうに笑ったノーラの身長は、もうマリーミリーと大差なかった。
そして背も伸びれば、身体つきも変わる。白に近かった髪も、成長するにつれて赤みを帯びたものになり、今はマリーミリーを真似て伸ばしている最中とのことで、後頭部から馬の尾のように垂れ下がっていた。
当時を知る者がいれば、きっと別人だと思うだろう。
当然と言えば当然だ。
あれから、もう十年の歳月が過ぎようとしているのだから。
「はい、これお土産」
「いつもありがと、マリー。えー、何だろう?」
ノーラが戻ってきたところで、アギルヴァシラたちは近くの洞窟に場所を移していた。
少々狭いながらも家財道具が一式揃い、暖炉と煙突まで完備。意識のない者がこの中で目覚めたならば、どこかの高級宿の一室と勘違いしてもおかしくない造りである。
そしてこれらは全て、アギルヴァシラとノーラの努力の賜物だった。
竜はどこでも、それこそ宙に浮いたままでも眠れるが、人間はそうはいかない。屋根と壁に囲まれた住居が必要だ。
しかし、かといって祠に住むわけにもいかない。あそこは年に数回、麓の村の人間がやってきて儀式を行う。頼んでもいないというのに。
なので、近くの岩肌をアギルヴァシラが爪でくり抜き、そこをノーラの家としていた。
最初こそ何もないただの洞窟だったが、アギルヴァシラとノーラの悪戦苦闘に、時折マリーミリーや他の竜たちの協力も得て、ここまで充実したものとなっていた。
しかし今、その中にアギルヴァシラの姿はない。
開け放たれた大きめの戸口から、片方の瞳だけ覗かせている状態だ。
「あなたも人型になればいいのに」
「あれは好かん。竜の本分を忘れかねない」
「そんなことないんだけどねぇ」
やれやれと首をすくめたマリーミリーの袖が、くいくいと引っ張られる。
もちろん他に誰がいるわけでもない。ノーラだ。
しかし振り向いた先にあった顔は、先ほどまでの嬉々としたものではなく、ひどく怪訝なものだった。
「ねぇ、マリー。これ、何? しおれた桃?」
ノーラが植物の葉でできた包みを開け、一粒つまんで持ち上げたのは、赤茶色の何かだった。言われてみれば確かに、しおれた桃のようにも見えるが、それと比べると二回りほど小さい。
しかし、その疑問には答えず「いいから食べてみなさい。美味しいから」と、マリーミリーはニコニコと促すだけ。
こうなれば、たとえ天地がひっくり返っても答えてはくれないことを、ノーラは知っている。むしろ、天地をひっくり返してでも食べさせようとしてくるだろう。
まあ、マリーミリーが害になるようなものを持ってくるわけがない。
だからノーラは、ぽんと丸ごとそれを放り込んだ。
「――っ!?!」
次の瞬間、ノーラを襲ったのは強烈な刺激だった。
大地の冷気が駆け上がってきたかのように、全身が小刻みに震える。酸っぱいとか塩辛いとか、そういう次元の話ではない。はたして、これは味なのかどうかという問題だ。
「あぁもう、どうして一口で入れちゃうの! ほら、ペッしなさい、ペッ!」
「ぬぇっ……」
「まったく、よく分からないんだから齧るだけにしなさいよ。はい、お水」
マリーミリーが手早く甕から水を汲んだ木彫りのカップを渡すと、うまく言葉にならないながらも「ありがとう」と受け取るノーラ。
そして、それで口の中を念入りにすすぐと、ごくんと飲み込んだ。
「ぶぇええ……何これぇ?」
「ウメボシ、よ。今、私が住んでるところの食べ物。かなり味が濃いけど、ちょっとずつ食べると美味しいのよ」
お酒にもよく合うしねぇ、と恍惚の表情を浮かべるマリーミリーに、外のアギルヴァシラもすかさず噛みついた。
「今日は持ってきていないだろうな」
「さて、どうかしら」
「どちらでも構わぬが、ノーラには飲ませるなよ」
「えー。何でよ、アギルー」
文句を言うノーラに、アギルヴァシラは鋭い視線を飛ばす。大の男でも、泡を吹いて倒れるほどの威圧感だ。
だがしかし、そんなものに気圧されるノーラでもなければ、アギルヴァシラもそれは重々承知の上。
だから、すぐに鋭い言葉の釘を刺した。
「以前どんな醜態を晒したか、忘れたわけではあるまい。我はもう二度と介抱などせぬぞ」
「むううう……」
うら若き乙女がするとは思えないような表情で、不満を表すノーラ。しかしそれを受けても、アギルヴァシラの眼光は衰える様子を見せない。
そんな光景を見て、マリーミリーはまたも声を上げて笑い出した。
「ほんっと、あなたたちを見てると飽きないわ」
「我を含めるな」
「いいえ。あなたたちは二人一組よ」
そう言って、視線をノーラに戻すと、その耳元でマリーミリーはささやいた。
「また今度、内緒で飲ませてあげるからね」
「聞こえているぞ、マリーミリー」
「あら。聞こえるように言ってるのよ、アギル」
介抱の予約を入れとかなくちゃ、と微笑むマリーミリーに、苦い記憶を噛みしめるかのようにアギルヴァシラは瞳を閉じた。