【1】
太陽の化身が棲まう神の山
何人たりとも穢すことなかれ
禁忌を犯せば 災いが訪れる
太陽は姿を隠し 大地は眠りにつく
見渡せど白 音無き世界
赦しを乞えよ
無垢なる乙女を捧げよ
「そなたは何者だ」
「わたし? わたし、ノーラ!」
「……何故ここにいる」
「えっとね、ケシンさまにあいにきたの。もしかして、あなたがケシンさま?」
「まあ、そう呼ばれているようだな」
「そっか。それじゃあね、イケニエをどーぞ!」
「生贄だと」
「うん! わたしがイケニエっていうのになったんだって! これでやっとはるがくるんだって!」
満面の笑みでそう語る幼子――ノーラに、アギルヴァシラは頭を抱えた。
といっても、実際に頭を抱え込んだわけではない。身体の構造上、アギルヴァシラにはそれができない。
大木ほどある四肢に、それに見合う大きな爪。沈む間際の陽の色をした鱗に覆われた巨躯からは、強靭な長い尾と、空を舞うための翼が生えている。
彼は、いにしえの時代より生きる者。
人間が『竜』と呼ぶ存在だった。
「はぁ……」
彼がため息を吐くと、並ぶ牙の隙間から、ちろりと炎が零れた。
アギルヴァシラは、火を司る竜だ。
それ故に、ある場所では人間から崇め奉られ、またある場所では忌み嫌われている。火は天恵であると同時に、天災でもあるからだ。
しかし天災もまた、世の理の一部。起こるべくして起きている。それをどう捉えるかは、人間の勝手だ。
だが、何事にも程度というものがある。
アギルヴァシラは、そう考えていた。
だから、遠く南の火山が幾度も噴火を繰り返すことを見かねて、それを鎮めるためにこの山を離れたのが一年ほど前のこと。芽吹きの気配が感じられる季節であった。
しかし、ようやく火山が落ち着きを取り戻したのを見届け、ここに戻ってきた彼を迎えたのは一面の銀世界と、人間が『祠』と呼ぶ洞窟で、うたた寝をしていた人間の子だった。
一体何が、とは思わない。
何度か似た光景を見たことがあるし、見当もついている。
おそらくは、氷を司る竜――ザザンゼロが全ての原因だ。
「はぁ……」
「だいじょーぶ? げんきないの?」
「問題無い。健全だ」
二度目のため息をノーラに心配され、そう返したものの、アギルヴァシラの心は重かった。
竜には、寿命や死という概念がない。
その代わり、自ら転生するのだ。卵の姿に還り、一から生まれ直す。
だがその間、世界の管理は疎かになってしまう。大地が痩せたり、海が荒れたり、冬が終わらなかったり、と。
そして件のザザンゼロは、ひどく繊細な心の持ち主だった。
嫌なことがあれば、その記憶を消し去るためにすぐ転生する。ここ百年ほどは安定していると思っていたが、どうやらついに何かあったようだ。
だから、この冬を早く終わらせるためには、卵の殻を割り、ザザンゼロを叩き起こす必要がある。
しかし相手は、薄氷でできた像のようなもの。とにかく慎重に扱わねばならない。
そのためにはまず、マリーミリーに声を掛けて――と、そこまで考えを巡らせたところで、アギルヴァシラはもう一つの問題に目を向けた。
周りの雪にも似たブロンドの髪に、独特な刺繍が施された防寒具。
ぽかんとした顔でこちらを見上げる、その小さな存在に。
「人間よ。我は生贄など求めぬ」
「イケニエいらないの?」
「ああ、不要だ」
アギルヴァシラは、麓の人間たちが何をどう語り継いでいるかは知らない。
だが、ずいぶんと昔、ザザンゼロが殻に閉じこもったとき以来、今回と同じようなことが起こるたびに、こうして生贄を寄越してくるようになった。ここまで幼いのは初めてであるが。
正直、彼としては迷惑この上ない話である。
竜は人間を食べたりしない。それ以前に、そもそも食事を必要としない。普通の生物とは一線を画す存在なのだ。
それなのに、生贄はやってくる。
しかも、追い返すことすら許されないものとして。
「それじゃあ、わたしどーすればいい? そんちょーには、かえってきちゃだめっていわれてるよ?」
「案ずるな。どこかの群れまでは運んでやろう」
生贄としての役目を負った者が、そのまま群れに戻ればどうなるか。
最初の一件で、生贄の扱いについてマリーミリーに相談した際、アギルヴァシラはそのような注意を受けた。
ただでさえ麓の人間たちは、終わらない冬のせいで蓄えが尽きかけている。そんな群れに役目を果たせなかった者が戻っても、決して厚遇は受けぬだろう。場合によっては、同族殺しすら起こりかねないらしい。
故に、余裕のあるどこか遠くの群れに置いてくるしかない。
もちろん、アギルヴァシラとしてはこのまま放っておいても構わないのだが、自分の棲み処に人間の死骸が残るというのも良い気がしないし、住み着かれでもしたら最悪だ。
だから、ひとまずこの幼子を潰さぬよう掴んで、と。
そこでようやく、彼は違和感を覚えた。
「そなた、我が恐ろしくはないのか」
「……なんで?」
不思議そうに小首を傾げるノーラに、アギルヴァシラの違和感はますます強まった。
人間は小さく弱い。
それ故、アギルヴァシラの姿を見た人間は、生贄としてやって来た者も含め、そのほとんどが動けなくなり、やがて気を失った。残る一握りも、脇目も振らずに逃げ出しただけだ。
だから当然のように相対するノーラが、アギルヴァシラには奇妙でしかなかった。今まで見た人間のどれとも違う。
そしてその答えは、やはり当然のようにノーラの口から明かされた。
「だって、ケシンさま、やさしいめをしてるもの。ぜんぜんこわくなんかないよ」
にへらと笑う幼子に、アギルヴァシラが受けた印象は結局のところ違和感だけだった。
奇妙な人間。幼子特有の性質だろうか。
そう思いながらも彼は、地に沿うように首と身体を低くした。
「背に乗れ、人間」
人間を傷付けないように掴むのは一苦労だ。特にこれほど幼い子は、さぞ壊れやすいだろう。
だから意識があるならば、背にしがみついてもらったほうが楽である。
そんなアギルヴァシラの考えなど無論知らないだろうが、てててと駆け寄ってきて、言われた通りに頭の先からよじよじと登り始めるノーラ。
そして、時折アギルヴァシラの尾の助力を受けながらも、ついに肩の辺りにちょこんと落ち着いた。
「のれたよ、ケシンさま!」
「ああ。では、しっかりと掴まっていろ」
「はぁい!」
ひしと小さな身体が張り付いた感覚を得て、アギルヴァシラは翼を広げた。
まず向かうべきは、マリーミリーの元。ザザンゼロの件と共に、ノーラの預け先も手配してもらおうという算段だ。
そして、その巨躯は軽やかに宙に舞い上がると、空を滑るかのように彼方へと消えていった。
――その後、初めて人を背に乗せたアギルヴァシラに、いつもの表情を忘れたかのように目を丸くしたマリーミリーは、まるで意趣返しのように驚きの言葉を吐いた。
「アギル。いい機会だから育ててみなさいな、その子を。これからは人間の時代。あなたはもう少し人間を知るべきよ」
もうちっとだけ続くんじゃよ。




