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そうして僕は時間を止める

作者: 海幸里谷

 薄暗い自室、時留将太ときとめ しょうたは眼を覚ました。

 カーテンの向こう側は、まだ暗く、深夜であることがわかった。

 時間を確認するために、窓から壁掛け時計へと視線を移す。

 蛍光色の時計の針が、すぐに時間を教えてくれた。

「……十二時か」

 時計は、長針短針ともに、ローマ数字の十二を指していた。最も細い秒針も、同じ所で止まっている。

 珍しい時間に眼が覚めたものだ。将太は心のなかで呟く。

 しかし、すぐに瞼を閉じた。

 明日は春休み明けの始業式だ。遅れるわけにはいかない。

 夜更かしは、昨日までに充分満喫していたし、わざわざ起きる必要性も感じない。ただ怠惰な毎日が終わり、平凡な高校生活がリスタートするだけだ。

 だけれども――

「明日も休みならいいのに……」

 ――そう思わずにはいられなかった。

 将太は一度寝返りを打つ。

 眠気はすぐにやってきた。



 将太はまた眼を覚ましてしまった。案の定、カーテンの外は、まだ暗かった。

 真っ暗闇だった。

 薄眼のままで、時間を確認する。

「あれ?」

 どういうことだ。

 将太は、驚きに瞼を上げる。

 蛍光色の長針と短針が、ローマ数字の十二を指していたのだ。

 少し前に眼を覚ましたときと同じ位置に、時計の針があった。秒針まで動いていない。

 ――零時零零分。

 時計は時間を刻んでいなかった。

 ああ、と将太は心のなかで頷く。

「……電池切れか」

 少し不思議に感じたが、時計の電池が切れたのだな、とすぐに理解した。

 時計は長く使っているのもので、これまで電池が切れたことはない。だから、いつ電池が切れても不自然ではなかった。

 将太はすぐに目を瞑った。

 出来れば、もう朝まで起きたくなかった。



「――ってことがあったんだよ。朝起きたら時計は普通に動いててさ、電池切れでもなければ、壊れてたわけでもねえの」

 将太は通学路を歩きながら、隣にいる幼馴染へと話しかけた。

 幼馴染である朝切海巳あさぎり うみは、ぼんやりとこちらを見ながら固まった。

「もしかして……それ怖い話?」

 海巳は、あからさまに怯えていた。長い黒髪が逆立ちそうなほどである。

 将太はくくく、と忍んで笑う。

 海巳が怪談などの不気味な話を苦手としていることは知っていた。身体の弱かった幼馴染は、昔から入院することが多く、入院先の病院で、怪談を嫌になるほど聞かされていたらしい。

 それならば、恐怖に耐性がつきそうなものだが、海巳に限ってはそれがなかった。

 結果、自然と怖い話を敬遠するようになっていったということだった。

「確かに怖いよな、時間が止まってんだぜ?」

「どっ、どうせ見間違いよ! 時間が止まるなんてあるわけない!」

 海巳が必死に否定した。

 もちろん、将太も時間が止まるなど有り得ないと思っている。しかし、それではつまらないと思い、切り返す。

「でもさ、身体もなんか重かったぜ? 変な音もしたし」

 これは嘘だ。ただ幼馴染を怖がらせてみたかった。

 直後、海巳が手の平で両耳を塞いだ。

「あーあー、もうきかなーい。ききたくなーい」

 降参のようだった。両手がフリーになったために、手に持っていた学生鞄が地面に落ちる。

 かかっと笑い、将太は、海巳の学生鞄を拾い上げた。

「嘘だよ、置いてくぞ」

 笑う将太とは対照的に、海巳は頬を膨らませていた。

「つまんないー!」

 口をいの字にして、海巳が怒った。



 将太と海巳は、いつでも一緒だった。

 特別な関係というわけではない。ただ、身体の弱い彼女を気遣ってくれるようにと、将太が海巳の両親から頼まれているだけだった。

 将太と海巳は幼稚園の頃からの幼馴染であり、小学校、中学校、高等学校と、家から近い公立の学校に進学した。

 小学校の頃から、将太は海巳の両親に、彼女のことを頼まれていた。

 だから登校も下校も、いつも一緒だった。

 しかし、小学校の頃に一度だけ、友達からからかわれたことが恥ずかしくて、海巳を置き去りにし、先に帰ったことが、将太にはあった。

 そのときは間が悪かった。

 ひとりで下校することになった海巳が、下校途中に発作を起こして倒れたのだ。

 将太は子ども心に、海巳が倒れたのは自分のせいだと思った。誰に責められたわけでもない。でも、自分が海巳を無視し、ひとりで帰ったせいで、海巳が倒れたのだと思った。

 それ以来、将太が海巳との登下校を拒否したことは一度もない。

 もちろん、将太には弁えていることもある。

 海巳に一緒に登下校をしてくれるような相手ができたら、自分はお役御免だ、ということだ。

 海巳には人を引き付ける魅力がある。

 きっと、お役御免の日は、そう遠くない。


「あとちょっとだぞ」

 後ろを歩く海巳に、将太は声を掛ける。

 学園に着くまで、あと上り坂ひとつだった。


 ――けほっ、けほ。


 海巳が押し殺すように咳をした。

 後ろから聴こえた咳に、将太は慌てて振り返る。

「――大丈夫か?」

 すぐさま海巳へと駆け寄った。その咳は、海巳がよくする咳だった。

「だい……けほっ……げほ……じょう」

 海巳の咳は次第に大きくなっていった。身体をくの字に折り曲げ、態勢もどんどん苦しそうになっていく。

 将太が学園まで走って、人を呼びに行こうとしたときだった。

 海巳の咳は、なんとか治まった。

 将太も安堵して、学園への道を二人して急いだ。

 しかし、それは予兆だった。

 

 ――講堂での始業式の途中、海巳は血を吐いて倒れたのだった。



 海巳が運ばれて行った大学病院の入口を潜った瞬間、将太は嫌な臭いを嗅いだ。

 臭かったわけではない。消毒臭がきつ過ぎるわけでもない。それは、嫌な、という以外に形容しようのない、病院特有の不吉なニオイだった。

 将太は学園での始業式と、学期始めの授業が終わり次第、市の中心部にある大学病院へと向かった。しかし、全身汗だくになるほどの必死の最速でも、着いたのは夕方だった。

 すでに、赤い夕陽も落ちかけている。

 病院の受付窓口で、将太は『朝切海巳』の名前を出した。

 制服姿だったのが幸いしたのか、とくに苦労もせず、海巳の病室を訊き出すことができた。

 四階、四○ 四号室。それが海巳の病室らしい。

 受付にいた看護士の話によれば、海巳の容態は安定しているということだった。

 ずっと抱えていた不安と焦燥が、将太の内から、ようやく消える。

「――たくっ、心配させるなよ」

 将太は小さく独り言を言った。

 とくに急ぐことはせず、階段を使い、将太は海巳の病室へと向かった。

 四階へと辿り着き、病室の番号をきょろきょろと確認しながら、白色の廊下を歩く。

「あった」

 ――四○ 四号室。

 病室を見付け、将太は軽く息を吐いた。


 ――わかってたから。


 スライド式の扉の向こう側から、海巳の声が聴こえた。


 ――長くないってわかってたから。


 海巳の声はそう続く。扉越しでもわかるほど、声色には影が落ちていた。

 将太は扉の前で立ち尽くし、その言葉を聞いた。

 長くない?

 なにが?

 入院が?

 病状が悪いのが長くない?

 将太は、すぐに『長くない』という言葉の意味を考えた。出来得る限り楽観的に、ポジティブに思考した。

 か細い声がまた聴こえる。


 ――私もう死んじゃうんだ。


 海巳の言葉に対して、返事をする者はいない。

 おそらく、それは海巳の独り言なのだろう。

 将太は怖かった。病室の扉を開ければ、そこには海巳がいる。名札を見た限り、四○ 四号室は一人部屋だ。そこには海巳しかいない。

 でも、海巳の言葉の意味は――

 将太は海巳の、身体のこと、病気のことについて、ほとんど知らなかった。大まかに『身体が弱い』という言葉を掴んでいただけで、それ以上の詮索をしたことがなかった。ちょくちょく入院を繰り返す海巳を、そういうものだと思って見つめていた。

 『自分はどんな顔をして、病室に入っていけばいい』、将太の頭のなかを、それだけがぐるぐると回り続ける。

 しかし、いつまでも病室の前に立っているわけにもいかなかった。

 聴こえなかったことにして帰ってもいい。

 なにも聴いていないと思い込んで、自分の家に帰って、3DSでゲームをしてから、ネットサーフィンをした後に、怠惰に眠ってもいい。

 だけど――

 それをして、なにがどうなるのだろうか。

 一時の現実逃避にしかならない。

 海巳の言葉が真実なら、彼女に会うことすら、できなくなるかもしれない。

 意を決し、扉の取っ手へと、将太は手を掛ける。

 取っ手を握る指に力を込める。

 力を入れ過ぎたせいか、扉がわずかに動き、がたっ、と音が鳴った。

「――誰?」

 海巳が気付いたのか、中から声がした。

 もう後戻りはできないのだ。将太は扉をずらしていく。

 ゆっくりと扉は開いて行き、窓から差し込む夕陽の明るさが、将太の瞳の奥へと飛び込んできた。殺風景で駄々広い病室のベッドの上に、海巳はひとりで座っていた。

 扉の方を向いていた海巳と視線が合う。目を合わせたままで、将太は病室へと入った。

 後ろで、扉がスライドし、閉まる音がする。

 第一声を何にしようか、そのことについて全く考えていなかった自分に、将太は今更気が付いた。唇は一ミリも動かず、瞳は海巳から動かせなかった。

 ――なにかを話せ。

 将太の脳が号令をかけたとき、丁度、海巳の小さな唇が動いた。

「……聴いてた?」

 たった一言だった。たった一言に、将太の身体は固まった。そして、それが明確な答えになってしまったのだった。

 海巳が、首だけをわずかに動かし頷く。そして、笑った。辛いことなんてなにひとつない、と言わないばかりに明るく笑った。

「将太に話してなかったね。私、病気なの。それも、とっても珍しい病気。私のお婆ちゃんも、同じ病気で、若いときに亡くなったんだって。

 私ってよく咳をしてたでしょ? 症状は結核に似てるんだけど、全く違う病気で、感染病じゃなくて遺伝性の病気なんだって」

 将太の耳を、海巳の細い声が通り過ぎていった。海巳が笑いながら話しているせいだろうか、現実味が全くない。いや、自分自身が海巳の言葉を真に受けないようにしているのだった。

「……で、でもさ、治るんだろ? そのために何度も入院してたんじゃ……」

 声が震える。将太は、自分の唇から色が失われていることが、それを見なくてもわかった。

 くすっ、と海巳が笑う。

「言ったでしょう? とても珍しい病気だって。一千万人に一人、そのくらいの病気なの。それがどういうことかわかる?」

 将太は茫然として、首を横に振るう。

 海巳が冷静に、笑いながら話しているのが怖かった。なぜ、そんな深刻なことを笑顔を絶やさず話せるのか、そのことに背筋が冷たくなった。

「珍しいってことはね。治療を必要としている人が少ないってことなの。つまり需要がないの。需要がなければ、供給もないっていう単純な話でね。難病だ、って言われても、私のためだけに、お医者様も、お薬を研究をする人も動いてくれるわけじゃないの。お金にならないものや、沢山の人に必要とされているもの以外は、ゆっくりとしか造られないの。だからね――」

 ふっ、と海巳が息を切る。そして、毎朝登校するときのように微笑んだ。

「――何十年か先にならないと、私のお薬はできないんだって」

「――うっ、ぐっ」

 将太は下唇を噛み締め、愕然とした。すべてを諦めたように、あっさりと話しをする海巳に対して、将太の感情は爆発してしまうそうだった。

 落ちかけた夕陽を背に、また海巳が笑う。

「それで、もう今度こそ退院はできないって、お医者様に言われたの。お母さんと、お父さんは今その話をするために、お医者様のところへ行ってる」

 なんで?

 どうして?

 将太のなかに、疑問が渦巻く。

 なんで笑って、そんなことを話せるんだ?

 どうして自分が死ぬってことを、簡単に認められるんだ?

「なんで――」

 将太の疑問を食い気味に、海巳が言葉を発した。

「――これで将太もお役御免だね。これからは、私に合わせず、煩わされず、一人でゆったりと登校できるんだよ」

 海巳は、まるで冗談を言うように、言葉を紡いでいった。

 将太は、何を言われているのか、さっぱり理解できなかった。

 お役御免――そうだ、海巳に恋人ができて、毎日一緒に登下校をしてくれるような相手ができれば、自分の役割は終わるはずだった。今日の朝もそう思った。それが自然な成り行きで、それが自分たちの関係だ。そう思っていた。

 だけど、こんな突然。

 こんな滅茶苦茶な理由で。

 自分だけが知らなかった海巳の病気のことで。

 幼い頃から積み重なった登下校の風景が、一瞬の内にフラッシュバックする。

 将太は頭を垂れ、拳をきつく握り締めた。

 『なにか』が破裂してしまいそうだった。身体の奥底から、マグマみたいに沸き上がってくるものが、堰を切り、溢れてしまいそうだった。

「……将太?」

 心配するように、海巳の声が掛る。

 瞬間だった。

 『なにか』が決壊したのだと将太は思った。

 限界だった。

「――ふっざけんなよッ! なにが珍しい病気だよ! なにが難病だよッ! なんが遺伝だよッ! なにがお役御免だよッ! しらねえよ! どうして黙ってたんだよ! どうして隠してたんだよ! どうして、ンな大切なことを俺だけが知らねえんだよっ! なんで!

 どうしてお前は笑いながら、ンなことを話してんだよ!」

 喉が壊れるくらいの怒声だった。

 怒りで、困惑で、無理解で、力の限り叫ぶことしかできなかった。

 突然のことに、想いが整理できなくて、血管が切れるかと思うほど、頭が痛んで、どうしたって冷静になんてなれやしなかった。

「っざけんなッッ! なにが可笑しいんだよ、へらへら笑って、淡白に話して――

 ――わっかんねえよっ!」

 吐き気がした。視界が狭かった。天と地がひっくり返りそうだった。

 だから――将太は踵を返し、海巳の病室から逃げ出した。

 後ろから、海巳の声が聴こえたような気がした。しかし、聴こえない振りをして走った。廊下を走り抜け、階段を登り、ただ上を目指した。

 大学病院の二十一階まである階段を、一心不乱に、二段飛ばしで駆け上がった。走る足の幅は合わず、何度も段差に足を引っ掛けた。そのたびに転び、起き上がり、それでも階段が続く限り、上へ上へと登って行った。

 呼吸が乱れ、こけたときに打った腕が痛み、心臓の音が耳の奥に響き渡っても、将太は止まらなかった。思考を止めるためには、走っているしかなかったのだ。

 二十一階の表示を過ぎ、最上階にある鉄の扉を力ずくで開ける。

 風が勢いよく吹き込んできた。

 そこで、ようやく将太は足を止める。

 いつの間にか、瞳から溢れた熱い液体が、頬から顎先にかけて、たらたらと流れ落ちていっていた。最上階のテラスに出たあとでも、流れる雫は止まらなかった。

 どうやっても止めようがなかった。


「――――――――――――ッ」


 身体の底から出た叫びは、もう声になっていなかった。



 将太の気持ちが落ち着いたのは、夜の帳がとっぷりと落ちたあとだった。冷たい風が吹きつけるテラスで、ただ項垂れていた。

 長い時間で、気持ちは落ち着いていた。しかし、決して気持ちの整理ができたわけではなかった。気持ちの整理など、着くはずがない。

 海巳の死を受け入れられるわけがない。

 そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。冷静になったとしても、将太には現実を受け止めることができなかった。

 テラスの出入り口である鉄の扉を開き、病院のなかへと戻る。

 すぐちかくに、みっつのエレベータがあった。右端のエレベータの脇にあった下矢印のボタンを押すと、十秒ほどでエレベータは上がってきた。

 エレベータのなかには誰もいなかった。

 乗り込んでから、将太は何階のボタンを押そうか迷った。

 一階?

 四階?

 少し躊躇ったが、四階を押した。テラスへと吹き付けていた冷気のおかげで、頭は冷えていた。

 海巳の病室で、なにを叫んだのかも覚えていない。それでも謝らずに帰るのは嫌だった。何が嫌なのかは、自分でもわからない。

 エレベータは一度も止まらずに四階まで行き、そこで降りた。

 足を引きずるような遅さで、将太は、海巳の病室まで歩いた。

 廊下は、蛍光灯の灯りが白い壁に反射していて、眩しいくらいだった。

 四○ 四号室の前に着き、将太はノックをしよう裏手をだす。

 しかし、まただった。

 また扉の内側から声がした。

 海巳の泣き声だった。すすり泣きのような可愛らしいものではなく、大きな嗚咽だった。

 海巳の嗚咽に呼応するように、海巳の母親が「ごめんね、ごめんね」と、涙声で繰り返している。


 ――元気な身体に産んであげられなくて、ごめんね、ごめんね、ごめんね……


 将太はもう、その場にいることができなかった。

 あと何年、あと何カ月、あと何日、海巳は生きていられるのだろう。

 自分の家へと帰りついた将太は、なにも食べず、なにもせず、ただ布団だけを頭から被り、ぐしゃぐしゃになった顔で、すべてを必死に忘れようとしていた。

 このまま時が止まればいい。

 そう思わずにはいられなかった。



 いつの間にか、眠ってしまっていた自分に、将太は強い嫌悪感を覚えた。幼馴染である海巳が、いつ死んでしまうかわからないような状態でも、自分は眠ってしまえる人間なのだ――そう思うと気分は最悪になった。

「くそっ!」

 毒づき、歯を噛み締める。

 気持ちが悪かった。少しでも気を緩めると、胃袋から胃液がせり上がってきそうだった。

「うっ――」

 我慢できず立ち上がり、お手洗いに向かおうとする。

 そのとき、将太は不自然を感じた。

 無音だ。

 何の音もしないのだ。

 家族の話し声も、近くの道路を走る自動車の走行音も、秒針が時を刻む音も。

 全ての音が、一斉にストライキを起こしたように、辺りは静まり返っていた。

 今、何時だ?

 時刻を確認するために、ローマ数字が書かれた時計を見る。


 ――零時零零分。


 長針と短針、そして秒針が、『X?』きっかりで止まっていた。

 眠りにつくまで、完全に記憶から欠落していたが、昨晩と同じ現象だった。

「なんだよ……これ?」

 チンケな言葉以外に出てくるものがない。

 無音の静寂。

 漆黒の暗闇。

 止まった時計。

 将太には何が起きているのかわからなかった。本当に、断じて、なにひとつ理解ができなかった。海巳の病状があまりにもショックで、頭がどうにかなってしまったのかと思った。

 いいや、と一向に動く気配のない時計へと手を伸ばす。

 右手を上げ、時計へと触れる。将太の指先が触れた途端、カタッカタッと秒針は時を刻み始めた。

「なんだ壊れ――」

 壊れていただけかと、時計から指を離す。

 しかし、ふたたび、秒針が止まった。

 時計に触れ、指を離す、という動作を、何度か繰り返す。

 結果はすべて同じだった。

 つまり、将太の指が触れているときだけ時計は動き、そして、指を離すと時計は止まった。

「どうなって……」

 部屋のなかを、ぐるうっと見回しても、別段変化はない。

 ただ凍りつくような無音が、そこにあるだけだった。

 将太は自室を出て、玄関まで行った。靴を履き、外へ飛び出し、近くの道路まで走る。

 壊れるかと思うくらいに、眼球が広がった。

「――えっ」

 言葉にならなかった。

 人も、自動車も、信号機も、空に浮かぶ雲さえも、なにひとつ動かず、その場に制止していたのだ。

 将太は、あらゆるものがモノクロになってしまったような錯覚を覚えた。

「……止まっている、なにもかも」

 時が止まっていることを理解した瞬間、先程まで感じていた吐き気がぶり返してきた。それと同時に眼が回り出す。足がふらつき立っていられない。

 膝が折れ、身体が倒れる。額がコンクリの地面へと触れる。

 動けない。

 瞬間、将太の視界は暗転した。



 運が良いことに、コンクリの地面に倒れ込んでいた将太を見付けてくれたのは、将太の父親だった。意識はなかったが、小さな頃に抱かれて以来、久方振りに、父親の手によってベッドまで運ばれた。

 将太がそれを知ったのは、昼の十二時に眼が覚めてからだった。

 ベッドから半身起き上がり、昨晩の記憶を探る。すると、ズキリと頭が痛んだ。神経が擦り切れるような不可解な痛みだった。

「違う!」

 将太は、奇妙な体験の記憶を振り切り、ベッドから跳ね上がった。

 学園に行くためではない。海巳のいる病院へと急ぐためだ。

 時間は午後十二時三十分。

 将太は一刻も早く、海巳に会いたかった。

 想いを認識した瞬間、頭が痺れた。

 ぐわん、と地球が回った。

 いや、地球までもが、自転を止めた。

 時が止まったのだ。

 将太には、それがはっきりとわかった。

 自己催眠や、思考の加速、そんなチャチなものじゃない。だけれども、恐ろしいものでもない。完全に『時止め』を制御できているという自信が、将太にはあった。

 五秒だとか、九秒ではない。

 時間を止めていようと思えば、一生でも止めていられる。そういう自信だった。


 脈絡なんてガン無視で、予兆なんて言い訳に過ぎない。それでも――

 ――時留将太は時間を止める能力を、本人の意思とは全く無関係に手に入れたのだった。



 海巳の病室に入るのに、将太はもう逡巡しなかった。自分には力がある。その自信が、背中を強く押していた。

 海巳の余命が、どんなに短くても関係ない。時を止めれば時間は無限だ。海巳が死ぬことはない。

 だから、将太は病室に入ったとき、既に時間を止めていた。

 時は呆気なく止まった。

 海巳の時間も止まっている。ピクリとも動かない。

 将太はベッドに近付き、海巳の左手小指に触れる。

 『対象物に自分が触れれば、対象物の時間が動きだす』というルールは、昨晩経験済みである。

 経験は正しかった。

 海巳の身体へと、色が付いていくように生気が宿る。

 海巳が吃驚して、高い声をあげた。

「――ショータ!?」

 今度は、病室で将太が笑う番だった。

 全ての解決策を自分は持っている、そう思っていたからだ。そして、前回の見舞いで叫んでしまったことさえ、どうでもよくなっていた。

「見ろよ、時が止まってる! このなかなら、お前は死ぬことないんだ! 生きていられれるんだ!」

 海巳を早く安心させたくて、あからさまに説明の端を折って、将太は状況を話した。

 戸惑うかと思っていたが、海巳の理解は早かった。

「将太に手を触れているときだけは、私の時間も動くのね?」

「ああ、そうだ」

 自信満々に将太は答える。

 全ての悩みは解決されたんだ。そういう思い込みからだった。

 しかし、海巳が笑うことはなかった。彼女は、自身の細く白い首筋に、右手の指先を当てる。

「……脈がある」

「当たり前だろ、生きてるんだから」

 海巳が自信なげに顔を伏せる。

「……生きてるから、人は死ぬんだよ」

 海巳の伏せられた瞳から雫が垂れた。彼女の瞳を離れると、止まった時の中空で、雫は制止した。それからいくつも、いくつも、雫が中空へとばら撒かれた。

 将太は二度目の絶望を味わうことになった。

 止まった時間のなかで、将太が海巳に触れることが、彼女を死に近づけている。それに気が付いたからだった。

 異常な興奮と高揚のあまり、将太は『時止め』を万能の力だと勘違いしていた。時が止められれば、病気は治るのだと、気が狂ったような思い違いをしていた。

 万能の力なんてものは存在しない。

 何秒、何分、何時間、何日、何年、いくら時間が止められようとも、その力が病気を治すことはない。

 海巳の手を握った将太の右手が、小刻みに震える。

 心底間抜けで、無力な自分を殺してしまいたいと思った。しかし、それを口に出すことも、頭で考えることもしてはいけないのだと、海巳を見て気が付いた。

「それなら、ずっと時間を止め――」

「――そんなの死んでるのと一緒だよ!」

 海巳が叫んだ。彼女が怒鳴ったのを、将太は初めて聞いたような気がした。十年来の付き合いで初めてだった。

 海巳の強い視線で、将太は睨まれる。

「手を離して! もう二度と私に触らないでっ! もう二度と此処へは来ないでっ!」

 将太は、なにも言い返せなかった。自分の愚かしい行動と、回らない頭を呪いながら、将太は生気を失った瞳で、こちらを睨みつける海巳を見ていた。

 次の瞬間、海巳に手を振り払われた。

 将太以外の時間は再び止まった。

「ははっ、ははっ、はははははははっ」

 虚脱し、海巳を見つめながら、将太は渇いた笑い声を上げた。

 止まった世界で、自分は一人孤独なのだと、将太は初めて知ったのだった。



 絶望に打ちひしがれていても、将太は時を動かすことができなかった。

 時を動かせば、海巳はまた一歩死に近づく。

 時間を止めていることは、現実逃避でしかなかった。それでも、海巳を救う手段のない現状で、時間を動かす勇気が、将太にはなかった。

 将太は徘徊する浮浪者のように、病院内を歩いた。

 ――どうして海巳だけが。

 ――どうして海巳だけが。

 ――どうして海巳だけが。

 何の解決にもならない呪い節だけが、頭のなかを駆け巡った。

 死んでしまおうか、そう思った。しかし、その選択は有り得なかった。自分が死ねば、時は動き出し、海巳も死ぬ。自分のことはどうでも良かったが、海巳の死だけは許せなかった。

 絶望は、すぐに苛立ちへと変わった。

 ――誰のせいだ。

 思考は其処へと至った。

 決まっている。すべて、すべて、すべて、すべてすべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて。全て、海巳を治せないヤブ医者どものせいだ。

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。

 いくら給料をもらってる。どれだけ国から補助を受けてる。どうして、自分のたったひとりの幼馴染を助けられない。

 理不尽で、不合理で、利己的な怒りだけが、将太の頭を占拠する。

 将太は、四階にあるナースステイションの奥へと進んだ。

 奥にはスタッフルームがある。

 そこには書類や医療器具が雑多に置かれていた。デスクの前にある椅子には、短髪の女医が腰を掛けていた。

 将太の苛立ちは正常値を遥かに超えていた。

 眼の前の女医を殺してやろうかと思った。

 海巳のために、なにひとつできないお前らは死んで当然だ。そう思った。

 お誂え向けなことに、スタッフルームの壁には、手に持てるくらいの額縁が飾ってあった。それを無理矢理、壁から引き剥がし、女医の頭を打つために振り上げる。

 ――お前が死ね!

 思ったときだった。

 手前のデスクに置かれていた電子カルテが、眼に止まった。電子カルテには、『朝切海巳』の名前が表示されている。

 同じページには、彼女の病名が書かれていた。


 ――『遺伝性間質性肺機能喪失症』


 将太にとっては、見たこともない漢字の羅列だった。遺伝性、肺機能喪失、という部分だけは、辛うじて意味を理解することができた。

 振り上げていた額縁が、手の平から零れ落ちる。

 スタッフルームの本棚に差し込まれていた分厚い『医学事典』へと、将太は、その手を伸ばす。

 医学事典には、海巳から聞いていた病状の説明と、ほぼ同様の内容が載っていた。

 医学事典の文章を読んでいる途中、将太へと天啓が降りてきた。

 それは、とても気が遠くなるような――

 ――しかし、時間が許せば、実現不可能とは言い切れないヴィジョンだった。

 失敗する可能性だって大いにある。

 無駄骨になって、時間を浪費するだけかも知れない。

 しかし、自分に何が出来て、自分が何をしたいのか、そのときになって、将太には、ようやく理解ができた。

 一からだ。

 いや零からだ。

 時間が零時零零分で止まったように、そこから自分の時間が始まるのだ。


 ――お役御免?

 馬鹿言うな!

 ――海巳の前に、適当な人間が現れたら身を引く?

 くそったれ!

 ――付き合いが長いだけの幼馴染?

 ンなわけあるか!

 何年かかっても、何十年かかっても、俺がお前を助けてやる。

 ――なぜか?

 それは、だって――


 ――時留将太が、朝切海巳を好きだからに決まってる。



 地獄だったのは決心が固まってからだった。三年かけて医学書を読み漁り、次の三年は世界中の名立たる研究者によって書かれた、肺病関係の研究論文を寝る間も惜しんで読み耽った。

 思った通り、時の制御に不可能はなかった。

 睡眠時ですら、時間を停止させておくことが可能だった。

 そもそも、そうでなければ、この方法は取れなかった。

 海巳は、自身の病気を治せるまでに十数年かかると話していた。研究をする人間が少ないからだと言っていた。

 だったら自分がやってやる――

 ――将太は、そう決意した。

 時が止まった孤独のなか、海巳のためだけに生きてやる。

 そして、将太以外の時間は止まり続けた。


 ――時間を止めてから、十年(時留将太の体内時間)の月日は瞬く間に過ぎた。


 医学書や、研究論文を読むことで知識は得られた。しかし、それだけでは足りなかった。

 目的は、海巳の病気を治すこと。

 可能であれば特効薬を開発し、根本から症状を改善すること。

 そのためには、一人じゃ足りなかった。

 その道の権威に助力を請うことが必要だった。幸運なことに、その手段はあった。将太の触れた人間は、止まった時のなかでも活動ができる。

 そして、将太は手段を選ばなかった。

 『時止め』という能力を使っての、脅迫すら厭わなかった。


 ――五十年(時留将太の体内時間)が過ぎ、特効薬開発の目途が経った。

 

 段階は、最終段階へと近づいていた。

 そう、臨床実験の段階だ。

 将太は犠牲を厭わなかった。

 海巳の病気が、一千万人に一人の症例であろうと、同じ疾患を抱える人間は存在する。その人間を利用しての臨床実験。

 この場合の臨床実験は、人体実験と同義だった。

 死人が出た。

 しかし、躊躇している時間は残されていなかった。

 将太の体内年齢は六十代半ばだったが、孤独のなか血肉を擦り減らすようにして、研究に没頭してきた身体はぼろぼろだった。

 自身の寿命が残り少ないということを、将太は明確に自覚していた。


 ――さらに五年後(時留将太の体内時間)、将太が時を止めてから六十五年、『遺伝性間質性肺機能喪失症』を完全に克服した特効薬が完成した。


 ぼさぼさの髪は、真っ白に染まり、眼は落ちくぼみ、頬はこけ、肉は垂れ、少年の面影は完全に失われていた。

 将太自身、それを知っていた。

 しかし、それでいいと思った。

 事実、そうしてこなければ、特効薬の完成は不可能だった。外見に時間を割いている余裕など、将太にはなかった。

 だから――

 ――最後、特効薬を飲ませ、海巳の顔を見ることができたら、どこへなりとも消えてしまおうと思っていた。

 なにも言わずに、只いなくなる。

 それが人生の幕引きだ。

 そう考えながら、久しく訪れることのなかった四○ 四号室、朝切海巳の病室へ、時留将太は向かった。


エピローグ 朝切海巳


 朝切海巳は、自身の身体に、不可思議な活力が湧いていることに気が付いた。生まれたときから付き合っていた呼吸器の重さも、全く感じなくなっていた。

 瞳には涙が溜まっていたが、今まで吸ったことのないような新鮮な空気を吸い込むと、すぐに涙は収まった。

 さっきまで、自分の手を握っていてくれた幼馴染に、とても酷いことを言ってしまった。

 余命一ヶ月という宣告を受け、自暴自棄になっていたせいもあるが、学園を休んでまで見舞いに来てくれた幼馴染に対して、なんてことをしてしまったのだろうと、心から後悔していた。

 がらっ、と音を立て病室の扉が開く。

 海巳は思わず「将太!」と叫ぶ。

「あら、ボーイフレンドじゃなくて残念だったわね」

 現れたのは女性の看護士さんだった。

 海巳はすぐ顔を伏せる。

「別に、将太は私のことなんて、なんとも思っていないから」

「そうかなあ?」

 看護士さんがおどけたように言う。

「絶対そうなんです! 私のこと妹かなにかと勘違いしているんだから!」

「じゃあ、海巳ちゃんは、ショウタ君のことが好きなのね?」

 看護士さんは柔らかく笑った。

 海巳は頬を赤らめる。

「大好きに決まってます! いつも私のこと気にかけてくれて、誰よりも私のことで真剣になってくれる。看護士さんだって、そんな人がいたら、ぜったい、ぜーったい、大好きになっちゃいます!」

「ふふっ、そうね。じゃあ、検査だから一緒に来てくれる?」

 検査、という言葉が、海巳を一気に現実へと引き戻した。

 死、という現実だ。

 朝切海巳が、時留将太と結ばれることは永遠に有り得ないのだと、小さな希望を押し込める。たったそれだけのことで、涙が零れそうになった。

 看護士さんが手を差し伸べてくる。

「ほら」

 歯を噛み締めて堪えていたのに、看護士さんの差しだしてくれた手の平に――もちろん、形は全く違うのだけれど――将太の手の平を重ねてしまう。

 それだけでもう、海巳には堪えられなかった。

「――うわあああああんん」

 愚図った自分を、看護士さんは優しく抱きしめてくれた。

「死にたくないよお……死にたくない……生きたいよお……大学だって行きたい、仕事だってしたい、結婚だって、生きたい、生きたいよお、うわああああああああんん」

 看護士さんは、うんうん、とだけ頷いていてくれた。

「奇跡だって、きっとあるから――奇跡はきっとあるから」

 そう言って励ましてくれた。

 海巳は、どうにか泣き止んで、ベッドから立ち上がった。

 奇跡などありえない。

 でも、助けてくれるならなんだっていい。

 だけど、願うだけ無駄なのだ。

 ――朝切海巳は、もう死んじゃうんだ。

 海巳は、それだけを受け入れた。



 朝切海巳の検査結果に、驚きを隠せる者は、誰ひとりとしていなかった。

 海巳の抱えていた『遺伝性間質性肺機能喪失症』は、跡形もなく完治していたのだった。それは奇跡を通り越して、神の仕業とまで言われた。

 海巳でさえ、そんな都合の良いことが起きるものか、と三日は信じることができなかった。

 四日目に、ようやく完治の自覚が現れた。

 そして、大事を取った末の、六日目。退院する前日には、海巳の不安も跡形残らず払拭されていた。

 病院側から、『遺伝性間質性肺機能喪失症』の完全治癒について論文を書きたい、と申し入れがあったけれど、それはまたの機会のお話に、ということになった。

 海巳に不安はなかったけれど、不満がひとつだけあった。

 誰よりも完治の報告をしたかった幼馴染が、検査の日から一週間、一度も姿を見せなかったのだ。

 「もう来るな!」と言ってしまったのは海巳だったけれど、それだけのことで何日も来てくれないというのは酷く冷たいのではないか、と自分勝手に思った。


 ――七日目、朝、退院日。

 

 大学病院の出口で花束をもらい、両親と共に散々頭を下げ、海巳は病院を後にすることになった。病院の出口付近には、小さな庭があり、そこを通り過ぎた先の駐車場に、父親の車が停めてあるということだった。

 海巳は足取り軽く、庭を歩いた。気管を通り、肺へと落ちていく空気が、あまりにも心地良くて、歩きながらでも眠れてしまいそうだった。

 チラッ、と病院の庭のベンチに座る老人の姿が、海巳の眼に入った。

 真っ白な髪、落ちくぼんだ瞳、こけた頬、幽霊と見紛うほどに生気を欠いた老人だった。

 はしゃいでいたのを見られたのが恥ずかしくて、海巳は老人から眼を逸らす。

 なんだろう。

 どうしてか、その老人が気になった。

 しかし、声を掛けることもしないまま駐車場に着き、父親の自動車へと、海巳は乗り込んだ。

 もう二度と病院から出ることはないと思っていた――次に病院から出るときは死ぬときだと思っていた。

 そう思うと、父親の車に乗っただけなのに、涙が零れそうになった。

 ううん。

 海巳は、自分でも知らないままに、首を振った。

 何に対して首を振ったのかもわからない。


 ――幼馴染の姿が脳裏に浮かぶ。


 父親が、キイを差し込み、自動車のエンジン音が鳴り始める。


 ――先程、一目見ただけの老人の姿が、どうしてか忘れられない。


 父親が涙声で号令をかける。

「じゃあ、行くぞ。本当に良かった……本当に……」

 自動車が動きだし、駐車場の出口へと差しかかる。

 唐突に、海巳の頭を、幼馴染を追い返してしまった日の記憶が駆け抜けた。

 とても大切なことを自分は忘れようとしている。

 そんな気がした。

 このまま病院を出てしまっていいのか、そんな意味不明な疑問が、ボコボコと湧きあがってくる。

 母親が、助手席から振り返り、こちらを見た。

「帰ったら『将太君』にもお礼を言わなきゃね」

 大きなクイが、海巳の心に引っ掛かった。巨大な碇の返しが、いくつもいくつも、心の奥底へと引っ掛かってくる。

 それは予感だった。

 いや、女の直感だった。

「お父さん、待って!」

「なんだ、忘れものか?」

 海巳のなかで、直感は自然に確信へと変わってく。

「そう、忘れ物!」

 自動車がUターンするのを、まだるっこしいと、海巳は後部座席のドアを開ける。次の瞬間、駆けて行く。


 彼からもらった、心地良くて新鮮な空気を身体一杯に吸い込んで――

 ――大好きな幼馴染の元へと、朝切海巳は駆けて行く。

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