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「あいつが紅子と行ったのは韮沢の農業用のため池だったそうです。わたしはあいつを車に押し込んで韮沢池に連れていきました」
駐在所の中で、伊原は出水と向かい合って座っていた。
「伊原さん……」
話を聞いている出水が、目を赤くして拳を震わせている。
「あの男は、上司の娘との結婚話が持ち上がったので娘と別れるつもりだった。しかし紅子は、本気であいつと結婚するつもりで、あの日二人で私に会いにくるという話になったそうです」
実家に行く前に、せっかく来たのだから少し観光したいという邦明の言葉を、紅子は疑わなかった。韮沢の池は、周囲を紅葉に囲まれた、地元の人間しか知らない穴場だった。渓流に散る紅葉は落ちて流れるが、池は一面の紅葉に覆われて、まるで五色の反物を敷き並べたようにあでやかに輝いていた。
しかし邦明はそんな景色も目に入らないかのように、車を止めると、いきなり別れ話を持ち出した。紅子は最初邦明が何を言っているのか分からないというように、大きく目を見開いた。邦明は、紅子のことを勝気でしっかり者だし、見かけよりもプライドが高いから、好きな女ができたといえば簡単に別れられるのではないかと思っていた。しかし、紅子の反応は、邦明の予想を裏切った。固く握りしめた拳を膝の上に置いて、紅子は押し黙ったまま身じろぎもしなかった。あれこれ言い訳をし、謝罪する邦明の声も言葉も何一つ耳に入らないようだった。そして小一時間が過ぎた。
「もういいだろう。なっ、そろそろ帰ろう」
邦明はそう言って紅子の体を揺すったが、紅子は応じなかった。その頑なな沈黙に、邦明は次第に不安と不気味さを感じ始めた。
――この女と簡単に別れることはできない。面倒なことになるんじゃないか
「それで、あの男は紅子を……」
伊原の声がかすかに震えた。
「伊原さん」出水は、突き上げてくる思いをやっと言葉にした。
「それでも……あなたのような人が、人を殺すことはなかった。私たちに話して、まかせてくれれば」
伊原は、出水の言葉にうなずいた。
「本当にそうですね。私は、あの男がしゃべっている間、ずっと池を見つめていました。せっかくふるさとに戻ってきたのに、何年もこんな冷たい水の中にいた娘がただ哀れでした。できることなら、自分で飛び込んで助け出してやりたいと思いました。そして私はとっさに、こいつを殺してこの池に沈めれば、紅子のことも見つけてもらえるはずだと、そんな風に思ってしまったんです」
出水は思わず伊原の両手を握った。その指に冷たい手錠の感触が沁みた。
「出水さん、古い言い伝えでは、男に捨てられた女の妄念は鬼にも蛇にもなると言いますが、鬼は自分が愛した女を殺して、ゴミのように捨てる男の心にも棲む。そして愛するわが子を、理不尽に奪われた親の心にも、いつの間にか、人の心を捨てた悪鬼が棲みついたんです」
伊原はそう言うと、泣き笑いのような顔を出水に向けた。




