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――紅子
伊原伸郎はサイドボードの上の写真立てを手に取った。高校生くらいの女の子が、ほっぺたを赤く染めて弾けるように笑っている。村の運動会の時の写真だった。山の紅葉が燃えるようだった晩秋に産まれたのと、夫婦が丹精込めて育てるリンゴにちなんで紅子と名づけた。しかし妻は、娘が中学生の時に癌で亡くなって、それからは伸郎が男手一つで娘を育てた。明るくて何にでもひたむきな、伸郎にとっては目に入れても痛くない愛娘だった。
「東京の大学なんてとんでもない」
紅子が東京の大学に進学すると言い出した時は、猛烈に反対した。TVなどで見ていると都会は心底怖いところだと思う。山奥の村で純朴に育った女の子が、一人大都会で暮らすことなど思いもよらなかった。けれど、紅子は夜遅くまで勉強し、第一志望の公立の大学に合格した。人の何倍もがんばった娘の未来を閉ざすことはできず、伸郎は断腸の思いで紅子を送り出した。
「お父さん、結婚資金は自分で貯めてるから、心配しなくていいからね。もうあまり無理して働かないで、体を大事にしてね」
卒業して一部上場の食品メーカーに就職した紅子は、実家に帰省するたびに、そう言って父親を気遣った。そしてこうも言っていた。
「私結婚する時は、絶対長野で暮らしてくれる人を見つけるからね。寂しいだろうけど、もうちょっと待っててね」
その紅子が、ある日突然消えてしまったのだった。
――あの日……
それは四年前の十一月の初めだった。
信州の秋は美しい。十月も半ばを過ぎて、朝夕が冷え込むようになると、渓谷の木々はいっせいに色づき始める。遠景では、赤、黄、褐色、それに常緑樹の緑のコントラストが見事で、近くに寄ると、ひと口に赤と言っても様々な色合いがあり、それが光の加減や天気の具合でさらに微妙に変化して見る者を魅了した。休日には大勢の観光客が紅葉狩りに訪れた。
そんなある日の昼下がり。
春日神社の前に白い乗用車が止まり、若い女性が車から降りた。運転席には男性の姿があった。つばの広い白い帽子をかぶってライトブルーのふわりとしたワンピースを着た女性は、両腕を伸ばして伸びをした。それから女性は、車内の男性となにか言葉を交わすと、再び車に乗り込み、車はそのまま北西の方向へ走り去った。
伸郎はその様子を遠くから見ていた。
ひとりで暮らすようになってから彼は農作業の合間に、村の観光案内のボランティアをするようになっていた。村に伝わる歴史や伝承を学び、観光客に話して聞かせる。パソコンを覚えてブログを書いたり、観光の見所の写真を撮って紹介したりすることもできるようになった。若い人たちと話をする機会が増えて、紅子のいない寂しさがまぎれた。
その日も、観光案内所からの帰り道だった。遠目だったが、車から降りた若い女性が紅子だということはすぐにわかった。男性の車に乗って帰省した娘に、伸郎の心は波立った。結婚という二文字が脳裡に浮かぶ。伸郎は内心見苦しいほどうろたえている自分に気づいて苦笑いした。
――紅子の選んだ男だ。間違いはない
伸郎はそう思うことで自分を落ち着かせ、娘を待った。しかし、四時になっても五時になっても、紅子は現われず、電話もない。伸郎は居てもたってもおられず、娘の携帯に何度も電話したが、電話はついにつながらなかった。
――あの日……
後悔は鋭い錐を心にもみこむように伸郎をさいなんだ。
――あの日俺がすぐに紅子に電話していたら。いや、すぐに車を出して、あの二人の後を追っていれば。いや、それよりなにより、最初から紅子が東京に行くことを止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれない
自分は娘に嫌われたり恨まれたりしたくなかった。物分りのいい優しい父親だと思われたかった。その結果、親として言わなければいけないこと、やらなければならないことから逃げたんじゃないか。後悔は最後には苦い自虐に変わった。
ひと月後無人になった東京の紅子のアパートを片付け、持ち帰った荷物の中には、白い帽子も青いワンピースもなく、手がかりになるようなものは何もなかった。
自分の命よりも大切と思う存在を失った悲しみは、時が過ぎても和らぐことはない。紅子が結婚し、やがて孫が生まれる。正月には娘夫婦が孫を連れてやってきて、年毎に家族が増えにぎやかさを増していく。伸郎の中で、失ったものの大きさが日ましに膨らんでいった。そしてそれはある一つの思いに凝縮された。
――あの時の男がすべてを知っている




