第六話:壊れる心
マスターと過ごす時間はどれ位経ったのだろうか。
今という現実の確認をするために、起こった出来事を一つ一つ噛み締めながら話し、ゆっくりと経つ時間に安心を取り戻していた。
ふと気付くと鞄が震えている。
持ち上げてみると、聞き慣れた音楽が鳴っていた。
麻奈美が本当に好きな人が出来たときに着信音にしようと思っていた、CHARAの”やさしい気持ち”。
――良輔だった。
顔が強張った麻奈美を見て、マスターは首を横に振ったが、出なければいけない気がして、良輔と話さなければいけない気がして、麻奈美は通話ボタンを押した。
「……はい。」
『麻奈美……?ごめん、俺……なんであんな事をしちゃったのか……自分でもわからないんだ。』
いつもの良輔の声。
何をこの人は言っているんだろう。
薄笑いを浮かべながら殴る顔が、目の前にいるかのように焼きついている。
『どうしても今、会いたいんだ。……ちゃんと顔を見て話したい。』
一瞬迷う。
しかし麻奈美は会うことを決めた。
全ての事実から逃げたくない、受け止める為に。
携帯を切った後、マスターの視線が痛かった。
『……行くんですね。』
トイレで鏡を見て、また気合を入れる。
家を出るときは楽しい気分だったが、今は違う。
祖母に貰ったネックレスも切れてしまった。
この数時間で、自分の生きてきた全てのことが嘘だったかのように思えてならなかった。
BARを出ると、空が薄明るくなっていた。
まだ人通りの少ない道を、少し足早に歩く。
あの部屋に戻るのは恐い。
武者震いの止まらない脚が歩くのを早め、痛みも増していく。
この痛みが起きた事をまた、現実なんだと麻奈美を逃がしてはくれなかった。
数日前の幸せはどこへ行ったのか。
二人で過ごした日々、思いやりに満ちた日々、初めて愛した男。
こんな事をされながらも、まだ心の隅で良輔への気持ちが残っている。
一人になるのが寂しいからなのか、良輔との思い出がそうさせるのか、未だに愛があるからなのか。
自分でもわからない、気持ちの確認もしたかった。
良輔の家が近付くにつれて、震えも増してくる。
でも今、会わなければいけない。
(恐い、恐い、恐い……)
何度も引き返しそうになりながら、あの部屋へと辿り着いた。
もう戻ることは出来ない。
意を決して、階段を上った。
『待ってたっ……!!!』
チャイムを押した途端ドアが開き、赤い顔をした、今にも泣き出しそうな顔の良輔が力いっぱい抱き着いてきた。
「痛い……!やめてっ……!!」
何が起きたのかわからず、精一杯の力で良輔を跳ね除けようとしたが、男の力。
なすすべなく、そのまま中に引きずり込まれ、玄関に叩き付けるように押し倒された。
その上に被さる良輔。
良輔の顔は泣き出しそうだったのでは無く、独特の目をした、人間が欲情したときに見せる顔だった。
「……痛いよっ!痛いよ、良輔!!恐いよっ……!!」
涙や汗などが飛び散り、切れた傷から出る血がそれへと混ざる。
まるで一面、残酷な色をした絵の具でキャンパスの中に描く、地獄絵図のよう。
その絵に存在する麻奈美は、諦める事を覚えた無気力な人形。
すでに感情など無かった。
されるがままに横たわる麻奈美の目には、必死に自分に貪り付く良輔だけが写っていた。
事実を知りたかっただけなのに。
良輔の気持ちを知りたかっただけなのに。
自分の気持ちを知りたかっただけなのに。
ちゃんと話しをしたかっただけなのに。
モウ一度良輔ノ顔ヲ見タカッタダケナノニ。