一人暮らしの日常
新宿駅のホームに降り立つたび、肺の奥が薄汚れるような気がする。
二十四歳の秋、私はこの街の歯車になった。正確には、歯車にすらなれていない、摩耗して捨てられるのを待つだけの安価な代替品だ。
定時を二時間過ぎたオフィス。キーボードを叩く音だけが、自分が生きている証拠のように響く。
「佐藤さん、これ、明日までにやっといて」
背後から投げられた言葉に、振り返ることもなく「承知いたしました」と答える。私の声は、いつの間にか自分でも驚くほど無機質になっていた。上司の顔すら見ない。見ても、そこにあるのは疲労と無関心の混ざった記号でしかないからだ。
深夜、駅からの帰り道。コンビニの自動ドアが開く音に、一瞬だけ現実が引き戻される。だが、向かうのはコンビニではない。その先にある、深夜一時まで営業しているスーパーだ。
生鮮食品売り場。蛍光灯の青白い光が、パック詰めされた死骸のような食材を照らしている。私の目的は、鮮魚コーナーの隅。
『半額』
その二文字が、今の私に許された唯一の贅沢だ。
売れ残った真鯛の刺身。角が丸くなり、少しドリップの出た一切れを見つめる。かつては荒波を泳いでいたであろう命が、今は百五十円の価値にまで叩き売られている。
(私と同じだ)
そんな感傷を、レジ袋の擦れる音と一緒に押し殺した。
六畳一間のアパート。玄関を開けると、こびりついたような静寂が迎えに来る。
靴を脱ぎ、コートをハンガーにかける前に、まず台所のシンクへ向かった。スーパーのパックのまま食べるのは、最後の一線を越えてしまうような気がして、わざわざ百円ショップで買った安物の平皿に刺身を移し替える。
その時、玄関の隅に置かれた段ボールが目に留まった。
二日前に実家から届いたものだ。忙しさを理由に開けていなかったが、ふと、カッターでテープを切り裂いた。
中には、緩衝材代わりの新聞紙と、小分けにされた米、それから数個のリンゴが入っていた。
新聞紙をどけると、ふわりと、あの匂いがした。
湿った土と、刈り取ったばかりの草。そして、納屋の奥に漂う古い木材の匂い。東京の無機質な空気には、一滴も混じっていない「生命」の匂い。
底の方に、手書きのメモがあった。
『ちゃんと食べてるか。リンゴ、今年は甘いぞ。無理するな』
父の、不器用で角ばった文字。
私は、皿に移したばかりの刺身を一口食べた。
味はしない。ただ、冷たい塊が喉を通っていく。
醤油の塩辛さだけが、舌の上でやけに主張している。
「……おいしい」
誰に言うでもなく呟いてみる。声が震えていた。
窓の外では、深夜だというのに車の走行音が絶えない。誰かが働き、誰かが遊び、誰かが絶望している。この巨大な街の営みの中で、私の涙一滴分くらいの物語なんて、一瞬で蒸発してしまう。
それでも、私はリンゴを一つ手に取った。
皮を剥く気力もなく、そのままかじる。
溢れ出した果汁は、驚くほど甘く、そして痛かった。
私は、この「半額」の刺身を食べて、実家のリンゴで口直しをして、また数時間後には満員電車に揺られる。
「承知いたしました」と嘘をつき、誰の記憶にも残らない書類を作り続ける。
ヒット作の主人公のような、劇的な逆転劇なんて起きない。
けれど、この部屋に漂う土の匂いだけは、誰にも安売りさせない。
明日の朝、駅のホームで吸い込む空気は、今日より少しだけ深く吸えるような気がした。




