第1話 誤訳――戦争は一言から始まる
会談の部屋は、いつも静かすぎる。
厚い石壁は外の喧騒を切り落とし、蝋燭の炎だけが小さく揺れている。その沈黙の中心に置かれているのは剣ではない。言葉だ。
レイは壁際に立っていた。椅子はない。机の端に座る資格もない。臨時雇いの通訳官という身分は、必要なときだけ呼ばれ、終われば忘れられる。
それでも呼ばれる理由は単純だった。ここでは、言葉を間違えると人が死ぬ。
獣人族の代表が、低く唸るような声で言った。
「我らは、そちらに従う」
人族側の将軍――ガルムが口角を上げ、側近がすぐさま書記に目配せをした。羽ペンが条約文の空白へ向かう。
その瞬間、レイの胸の奥が冷たくなった。
――まずい。
訳そうとして、舌が止まる。口が渇く。耳の奥で、遠い叫びが鳴る。
自分の脳はいつもこうだ。言葉を吐く前に、最悪の未来を並べてしまう。臆病だと笑われる。だが臆病は、血を見た者の習性でもある。
「待ってください」
静寂を破った声は自分のものだった。
ガルム将軍の眉が跳ねる。
「通訳官。余計な口を挟むな」
レイは獣人代表を見た。獣人の表情は人ほど分かりやすくない。だが耳が後ろへ倒れ、尻尾が床を一度叩く。
怒りではない。屈辱の気配だ。
「その言葉は……服従を意味します」
ガルム将軍が頷きかける。
「よし。なら——」
「しかし」
レイは一歩だけ前に出た。
「獣人族にとって“服従”は、部族の死を意味する言葉です」
ざわめきが起きた。側近が顔を見合わせ、書記のペン先が宙で止まる。
獣人代表が、ゆっくり顔を上げた。初めてレイを見る。
「……違うか?」
レイは首を振る。
「あなたが言いたいのは、服従ではない。境界を尊重し、踏み越えないということです。
『従う』ではなく『踏み越えない』。その意味で、ここに来た」
獣人代表の鼻先が僅かに震えた。
数秒、沈黙。
やがて短く頷く。
「そうだ。踏み越えない」
ガルム将軍が苛立ちを隠せない声で言った。
「獣人の言葉を、人族の都合で捻じ曲げるな」
「都合ではありません」
レイは静かに返す。
「意味の確認です。意味が違うまま署名すれば、条約は紙切れになります。紙切れは火種です」
側近が口を挟む。
「では、なぜ獣人はそんな危ない言葉を使う」
獣人代表が唸るように言った。
「人族が好む言葉だと思った。従えば安心するのだろう?」
レイはそこで初めて、獣人代表の“善意”の形に気づいた。
獣人は勝ちたいのではない。戦いたくないだけだ。だが彼らは、人族を安心させるために、人族が聞きたい言葉を差し出してしまう。そしてその言葉が、彼ら自身を殺す。
書記が条文を書き直し、会談は辛うじて継続した。
剣は抜かれないまま、時間だけが進む。
会談が終わった廊下。
ガルム将軍がレイを呼び止めた。
「……君が来ていなければ、もう軍を動かしていた」
レイは礼をしない。褒められても軽く笑えない。褒め言葉は、責任の形を変えるからだ。
将軍が続ける。
「なぜ止めた? 獣人が服従すると言ったのなら、こちらは得をする」
レイは答えなかった。答えれば、昔の出来事が漏れる。
代わりに、ただ一言だけ。
「得をした瞬間に、次の血が決まります」
ガルム将軍の顔が強張る。
「……通訳官は、戦の話まで口を出すのか」
「戦になる前の話です」
レイは目を逸らさずに言う。
「ここで間違えれば、兵が死にます。将軍も死にます。獣人も死にます」
将軍は鼻で笑った。
「脅し文句が上手くなったな」
レイは袖の中で拳を握る。震えが止まらない。
将軍が吐き捨てるように言った。
「次は失敗するなよ。君の一言で戦争が起きる」
その言葉が、背中に刺さったまま離れなかった。




