富良原きよみは何を置く
何となく、林道を外れてみます。
十ヶ月前の落ち葉を踏みしめます。沈みます。取り込んだばかりの洗濯物の山で跳びはねたときと同じ感触がします。
林道を外れると森に行き着くらしいのです。私はそこに行ってみたくなりました。
思いつきです。肩を揺さぶられようと、髪を乱されようと、理由は落ちてこないでしょう。それ以上無いのですから。
森はどのような場所でしょうか。ある人は「良い悪いではないが」と、ある人は「やめとけ」と言います。賛否両論です。しかし、どう捉えても悪い噂の方が多いです。
私は両手を斜めに重ね、それを胸に当てて進みました。
「引き返さなければ」という思いが半分。「この先に何があるだろう」という思いが半分。それぞれが綱引きを頑張って、後者がどうにか競り勝っているので、体は前に進みます。
森の中に棚を見つけたのは、それからすぐの事でした。
棚です。そこを中心に、木の無いスペースがぽっかりと開いていて、まるでアリスのお茶会会場、または都会の黒塗りな夜空に浮かぶ満月みたいでした。
丸々した木漏れ日のしずくが足下一面でざわつきます。しかし、それら三百六十度の誘いも、棚を前にして気にならなくなってしまいました。私は広場に駆け寄ります。
なんだ、良い場所があるではないですか。広場は小さいし雨よけもありませんが、棚があります。何かあれば、その何かを入れられると思います。
私は棚をよく観察しました。私より頭二つほど高い木製の棚に、敷居が八つもついています。下部には二つの引き出しもついています。これはもう、開けるしかないでしょう。
「あら」
右のから開けてみると、置き手紙が入っていました。赤ちゃんの手のひらくらい小さいです。
「居てください」
それだけ書いてありました。万年筆を想起させる、細い、細い文字でした。
「あら」
私はもう一度呟きました。帰ってしまっても良いのですが、このように魅力的な置き手紙を残す誰かさんの願いは叶えてあげたいです。
私は周囲を見渡しました。すると、おや。木々の狭間に家のようなものが見えるではありませんか。私は早速近づいてみました。森まで来て、行動に躊躇する理由はありません。
駄菓子屋でした。社会の教科書に載っていた「昭和の町並み」のセピア写真で見たような、木造のお店です。硝子張りの引き戸はやや曇っていますが、向こうに駄菓子が揃っています。
「どうも」
人も居ます。昔のパチンコ屋にあった赤い丸椅子に座り、軒下でのんびりしています。
「うちで得るものはありませんよ」
私が挨拶を返す前に、その人は言いました。私は年齢を推察するのが苦手なのですが、恐らく中年男性です。
「あの、駄菓子を買いたいです」
私は思いきって話しかけました。今の私に駄菓子は最適だと思います。広場に居るためには、甘いものが必要でしょう。
「はて、買いたい?」
駄菓子屋さんはお店をやっているくせに、「購入」について懐疑的なようです。私は辛抱強く駄菓子の必要性を説かなければいけないと予感しました。
しかし、二言三言の「説得」の後、駄菓子屋さんはこう言いました。
「へぇ、じゃあ持って行きなよ」
こうも言いました。
「その広場、行ってみようかな」
棚の置き手紙には「何人居てください」という指定はありませんでしたので、私は喜んで案内しました。駄菓子屋さんもこの場所を気に入ってくれたようで、棚に音の鳴るラムネを置いてくれました。
「わ」
私の心は、驚きを感じたようです。棚にラムネが置いてある。ささやかなものです。が、これは棚が棚であることを辺りの森に知らしめているようで、吹き抜ける風のような爽やかな心地がします。駄菓子屋さんは「得るものが無い」と言っていましたね。嘘ではないか。
私はラムネをぷつぷつと噛みながら、「三日は居られるな」と思いました。「まぁ、他に誰も居ないことだし」とも思いました。
しかし不思議なことに、次の日も訪問客が現れたのです。次の日も、次の日も現れました。また、彼らは自分の大切なものを一つずつ置いていってくれるのでした。
二日目に出会ったのは、真っ赤な花でした。
「血の赤です」
花はそう自己紹介しました。
少し恐ろしいです。
私は戦場に咲く花を想像しました。凶弾に倒れ、ドクドクと流れる兵士の血を吸って頭をもたげる、月下の薔薇です。
しかし、それはすぐに違うと分かりました。実は、花は「血の通う人間の心」について思いを馳せるのが大好きで、いつの間にか自身の花びらにも血が通ったらしいのです。
花は自分の花びらを一枚、棚に置いてくれました。もう恐ろしくありません。
次に出会ったのは、パン屋さんでした。出会うが早いか、パン屋さんはパンを六つも分けてくれました。
「かじってください」
言われるままに一口かじると、恋の味がします。こんな味のパンは食べたことがなかったので、私はビックリして尋ねました。
「こんな素晴らしい味、どうやって作るのですか。まるで映画から出てきたような、物語の味がします」
「ご明察」
パン屋さんは特別に、パンの作り方を解説してくれました。特別ですよ、特別。
「まず、恋愛映画を作ります。できたフィルムをスクリーンに映して、そこからパンを取り出すんです」
「へぇ」
私は感嘆しました。私が知っているパンの作り方とは随分違います。パン屋さん曰く、「結構普通」らしいです。世の中は広いです。
パン屋さんはバスケットに入ったパンを五つ置いてくれました。あんまり美味しかったもので、家まで持ち帰り夜中に食べました。あれは美味しかった。
次に出会ったのは、羊皮紙でした。
「私は元々羊なので、人を眠らせるのが得意です」
羊皮紙は紙の端をヒラヒラさせながら言いました。
お恥ずかしい話ですが、私は最初、それをバームクーヘンと勘違いしていました。それくらい、その羊皮紙は長すぎたのです。長すぎてクラクラしました。こんなに長いものは見たことがありません。
これも面白い話ですが、私が羊皮紙を「凄い」と褒めると、でも謙遜するのです。未だになぜか分かりません。羊皮紙は自身の端を千切っては広場のあちこちに飾りを施してくれました。
まだまだ訪問客は続きます。
翌日出会ったのは、疲れた熊と、その背に乗る疲れた花でした。疲れている理由を尋ねると、「荒波に揉まれているからです」と口を揃えて答えてくれました。きっと海のことでしょう。確かに、磯の香りがします。
「では、海は悪いところなんですね」
私はそう言い、震えました。実は、私は春に港町へ引っ越す予定があるのです。
「いやね、それがたまらないのさ」
熊が頷くと、花もくたびれながらコクコクしました。
「僕は海に入るとシャチに化けられるんだ。悪い経験じゃないのだよ。毛むくじゃらな熊の体も温かくて心地良いが、でっぷりした黒の体も良いものさ。ゴム状の体表はつるりと水中を撫で、それと比較すればささやかに思えるヒレで水の流れを書き換える」
花も同意しました。
「塩水を吸って嫋やかに咲き誇れる花が、はてさてこの世に何輪あるかな?はっは」
二人は貝殻をいくつか置いてくれました。
次に、玩具の汽車が走ってきました。港の方からわざわざ森まで走ってきてくれたのです。
後から知ったのですが、羊皮紙がクルクルと港町の方まで伸びていき、汽車のレール代わりになってくれたらしいです。
私なんぞがまずお目にかかることのできない、端整な作りの玩具でした。全体的に施された黒色の塗料は、太陽に当たると薄く銀色に輝きます。持ち上げてみると、側面や下部のネジ一本一本まで、車輪と連結棒のかみ合わせ一つ一つまで正確です。
「凄い」
改めて、私はたった数日間の摩訶不思議な出会いに放心させられました。この汽車の玩具を家に持ち帰り、革張りのおもちゃ箱にしまい込んでしまいたい。私はそんなことを願ってしまいました。いやいや、汽車も羊皮紙のレールを自在に走る方が心地良いでしょうし。
私はあくどい考えを何とか打ち払い、汽車を地面に置きました。
「この方が良いですよね……や、良いよね?」
ついでに、私はこの汽車に対して敬語を使うのをやめました。
「えぇ、そうね」
汽車はパッと微笑み、木製の人形を一体置いてくれました。
次に出会ったのは、鳥達でした。
家の木箱にシジュウカラは訪れますが、この森の鳥たちはまた趣が違います。
その中の一匹は、まだ雛と言っていいほどの小柄な鳥でした。
「僕はね、金色の卵から生まれたのさ」
雛はそう言うと、嘴をカチカチ鳴らしました。大きな鶯色の喉袋が膨らんでは萎み、膨らんでは萎み。そうやって話すもので、声が非常に大きいのです。私はクスクスと笑いました。
しかし、雛が置いていってくれたものを見て、私は言葉を失いました。それは、金色の卵の殻と羽で作られた楽器だったのです。その芸術性に私は惚れ惚れとして、日が暮れるのも忘れて見入っていました。
棚はどんどん埋まっていきます。
残念ながら、私には全てを解説して回る余裕がありません! なんてことでしょう、これら一つ一つで一本の小説が書けるほどに素晴らしいものばかりなのですが、目を離した隙に増えているものなんかもあって、大変もどかしいのです。
セイレーンの歌詞カードについて。
七色に光る、真夏の果実について。
トランプのクイーンについて。
月を見上げながら文明について語り合った食器達も、座敷童の手鞠をいくつも並べて置いてくれた猫さんも、私はもっと語りたい。
確かに私は、この寂しげな棚を一杯に溢れさせることを夢見ていました。あわよくば棚を増やして、十にも二十にもしてしまおうと。それで雨よけまでくっつければ、ここは一種のお家です。「居てください」の置き手紙を、世界一忠実に実行できるようになるでしょう。
しかし、私の考えは緩やかに回っていきました。電子レンジのターンテーブルのように、ゆっくり回っていきました。
もしかして、幸せとは棚を分からないほど溢れさせる事ではないのかもしれません。そうでなくて、置かれたもの一つ一つを手に取って、それがいかに素晴らしいのかを語る事なのかもしれません。
私は、数日前までは予想もつかなかったであろう摩訶不思議な考えにぼぅっとしながら帰路へつきました。
▽
翌日。
広場に行くと、誰が来るより早く雨が降ってきました。致し方なし。私は「今日は帰ります」と置き手紙を残して、ぽつり帰りました。
私は、部屋に一人居ました。いくら妄想を捗らせようとも、雨よけのない、ぬかるみだらけの広場には行くことができません。私はがっくりして、暗くも明るくもない部屋で目を閉じました。
棚の品々は無事でしょうか。直接に雨粒がかかっていることは無いと思いますが、万が一、万が一流れ去ってしまっていたらどうしよう。皆の大切な品々ですから、それは大変なことです。
(もしくは、皆持ち帰ってしまったかもしれない)
あぁ、そっちの方が現実的かもしれません。なんてったって、「大切な」ものです。そんなものを、雨の日まで棚へ預けたままにするでしょうか。
ガランドウの棚。
私はお化けに見つめられた子どものように、目を開けられなくなりました。私には他人の思考が分かりません。
(おや)
私は目を閉じたまま、ハッとして顔を上げました。
品々がどうなってしまったか分からない理由、分かりました。私が、ずっと広場に居た私自身が、あそこに何も置いてこなかったのです。
こうしちゃいられません。私はおもむろに恐怖心を拭い去り、部屋全体を確認しました。
旅行鞄、いくつかの段ボール、ベッド。
なんてつまらない部屋でしょう! なんてったって、私は春に港の方へ引っ越すのです。荷物は既にまとめてあります。
「棚に置けるもの、無いじゃん」
立ち上がったばかりの脚から、フラフラと力が抜けるのが分かりました。私はそのまま、床にお姉さん座りをします。動けません。
低気圧で頭が痛い。そのせいで……。嘘です。さっきまでのズーンとした気持ちが溢れかえってきて、それが涙と変わりました。
理解とは苦しいものです。皆は、あの広場に大切な品を置いていたからこそ、あそこに舞い戻る理由があります。私は何も置いていないので、あそこに戻る理由がありません。「居てください」の細やかな文字にかまけて、ちょっと長居してみただけの人間ですから。
私は泣きながら、その場で眠りました。床で眠りました。
▽
ドキッとする暖かさで、私は目を覚ましました。カーテンも閉めていなかったので、直射日光が顔を刺します。
赤い、赤い陽です。
赤……。赤?
「えっ、今何時?」
私はハッとして窓に駆け寄りました。
夕方じゃないですか。
家から林道にかけて道が赤々と色づいています。奥の森の方に至っては、もう夜に抱かれています。
「ふわぁ……」
寝過ぎたので、また眠くなってきました。微睡む森を見つめれば、また寝てしまおうかと睡魔が頬をつつきます。
風が吹きました。窓の外で木々がさざめきます。それが、なんだか私を誘うようで。
「あっ」
私は重大な事柄を思い出しました。
棚は? 棚はどうなったでしょう?
私には確認する使命があります。私が居たから、私が皆とお喋りしたから、棚の品は増えていったのです。私は、力の限りを振り絞って森の広場へ疾走しました。
森は未だぬかるみ、隙あらば私を転ばせようと躍起になって手を伸ばします。夜は視界を奪い、私を永遠の迷い子としてその腕で抱こうとします。
私は、靴を泥だらけにしながら林道を外れました。泣いた後の腫れぼったさが、まぶたに残っています。
それでも、私は着きました。
ここはアリスのお茶会会場? それか、黒塗りの夜空にぽっかり浮かぶ満月?
いいえ。ここは広場です。月光のヴェールを纏って、ただ居る。棚のある小さな広場です。
しかし。
「ああっ」
私の心は、一瞬にしてぬかるみに囚われました。
棚が倒れています。風に耐えきれなかったのでしょう、背中から風を受けてバタリです。棚にしまわれていた品々がその下敷きになっているのか、はたまた吹き飛ばされてしまったのか、私には判別できません。
私は夢中で棚に駆け寄り、なんとか持ち上げようと必至になりました。しかし、自分より頭二つも大きい棚はピクリともしません。
それでもグッと力を込めると、手のひらが汗で滑ります。滑った衝撃でぐらりと傾いた体は月を見上げます。
視界に入る真っ赤な手のひらとは対照的な、真っ白い月。
「あぁ……」
よろめいた私は己の非力さを悟り、棚にすがりました。
「ごめんなさい」
私は独り呟くと、棚の背面に一度、口づけをしました。
その瞬間、何ということでしょう?
棚の下で下敷きになったはずの品々が、ぶわりと芽吹き始めたのです。月光を浴びて四方八方へ枝葉を伸ばす、銀白色の宝石達。
花の、果物の、菓子の香りがします。
木の、水の、シルクの手触りがします。
皆の大切な品々が折り重なり、気づけば棚は小さなベッドに変わっていました。
私はもう言葉を忘れ、胸の奥の奥まで銀白色で染められてしまいました。幼いころからずぅっと、ずぅっと本で教わってきた五文字の言葉すら忘れ、呆けていました。
「居てください」
ベッドは、私を促します。私は無言のまま、泥だらけの靴を脱ぎました。
私は仰向けに寝転びました。夜空です。夜空は一つのシャンデリアです。月が重たそうにぶら下がり、星々のネックレスが周りを飾ります。
そういえば、外で寝るのは初めてです。しかし、私は初めてとは思えないほどの居心地よさを感じていました。私は大きめのシーツにくるまります。
皆が居ました。皆の前で寝るのも初めてですが、これもまた、なんとも言えない居心地良さを感じます。
「決めた」
私はそう言って、口を閉ざしました。
私はここに、何も置いてはいけません。大切な品など、未だに何もございません。
ならば私は、ここに私を置きましょう。私自身から豊かに枝葉を伸ばし、この繋がりを広げましょう。
おやすみなさい。
富良原きよみは、夢の世界へ旅立ちます。
これが私の、大切な繋がりのお話。