第8話「魔法の実験」
レオナと出会ってから一週間後、凛は新しい挑戦を始めていた。
メルには数日前、閉店後に味覚魔法のことを打ち明けてある。彼女は誰にも言わないと指切りしてくれた。
「リンさん、今日も新しいスイーツの試作ですか?」
メルが興味深そうに厨房を覗き込んできた。ここ数日、凛は閉店後の時間を使って、様々な新作スイーツの開発に取り組んでいたのだ。
「ええ。レオナさんとの約束もあるし、それに……」
凛は手を止めて考えた。
「味覚魔法をもっと効果的に使えるようになりたいの」
これまで凛の味覚魔法は、既存の料理を「より美味しく」する程度の効果しかなかった。でも、レオナのような本格的な菓子職人と出会ったことで、もっと創造的な使い方があるのではないかと考えるようになっていた。
「でも、魔法の実験って危険じゃないんですか?」
「大丈夫よ。味覚魔法は戦闘用じゃないから、暴走しても大したことにはならないと思うの」
凛は楽観的に答えたが、実際のところ味覚魔法の限界については、まだよく分かっていなかった。女神様からもらった能力だが、詳しい説明はなかったのだ。
今夜試そうとしているのは、単純に既存の味を強化するのではなく、全く新しい味を創造することだった。
「たとえば、チョコレートとバニラとイチゴの味が同時に楽しめるケーキとか」
「それって、普通に材料を混ぜれば作れるんじゃないですか?」
「そうじゃないの。一口食べると最初はチョコレート、次にバニラ、最後にイチゴの味に変化していくような、時間差で楽しめるケーキを作りたいの」
メルは目を丸くした。
「そんなこと、できるんですか?」
「わからないけど、やってみる価値はあると思うの」
凛は基本となるスポンジケーキを焼き上げた。材料は普通のバニラケーキと同じだが、ここからが実験の本番だった。
「魔法をかけるときに、具体的な味の変化をイメージしてみるのね」
凛はケーキに手をかざして集中した。いつものように「美味しくなれ」と願うのではなく、もっと具体的で複雑な魔法をかけようとした。
『最初はリッチなチョコレートの味、五秒後にクリーミーなバニラ、最後に爽やかなイチゴの余韻』
魔法を発動させると、ケーキからこれまでとは違う、複雑で豊かな香りが立ち上った。
「わあ……すごい香りです」
メルが驚いた。確かに、チョコレート、バニラ、イチゴの三つの香りが絶妙に混じり合っている。
「成功したかも」
凛は期待を込めてケーキを一口食べた。
最初に口の中に広がったのは、確かに濃厚なチョコレートの味だった。それが徐々にまろやかなバニラの味に変化していき、最後にふわりとイチゴの甘酸っぱい風味が残った。
「信じられない……本当にできてる」
「どんな味ですか?」
メルが期待に満ちた表情で尋ねた。
「実際に食べてみて」
メルがケーキを一口食べると、その表情がみるみる変わっていった。
「すごい! 本当に味が変化してます! 最初はチョコレートだったのに、今はバニラの味がして……あ、イチゴになった!」
二人は興奮した。これまでの味覚魔法とは全く次元の違う効果だった。
「でも、これってどういう原理なんでしょう?」
メルの疑問に、凛も首をかしげた。
「正直なところ、よくわからないの。でも、魔法というより、味覚や嗅覚に働きかけて、感じ方を変化させているのかもしれない」
実験は成功したが、凛には一つ心配なことがあった。こんな複雑な魔法を使って、体に負担はないのだろうか。
その不安は、翌日の昼間に現実となった。
「リンさん、大丈夫ですか?」
メルが心配そうに声をかけてきた。確かに凛は朝からふらつきを感じていた。いつもより魔力を大量に使ったせいかもしれない。
「ちょっと疲れてるだけよ。心配しないで」
でも、午後になってもふらつきは収まらず、むしろ悪化していた。コーヒーを淹れている時も、手が震えて危険な状況だった。
「リンさん、今日は早めに休まれた方がいいんじゃないでしょうか」
メルの提案に従おうとしたとき、ヘンリーがやってきた。
「いらっしゃいませ」
凛が挨拶したが、声が震えているのは明らかだった。
「体調が悪いのか?」
ヘンリーは即座に気づいた。
「少し疲れているだけです。すぐにコーヒーをお持ちします」
「いや、座れ」
ヘンリーの命令口調に、凛は素直に従った。
「メル、事情を説明してくれ」
「はい。昨夜、リンさんが新しいスイーツの開発をされていたのですが、今朝からふらつきが……」
「新しいスイーツ?」
ヘンリーの表情が険しくなった。
「どんな内容だ?」
凛は仕方なく、昨夜の実験について説明した。味覚魔法を使ったことは隠したが、複雑な新作開発に挑戦したことは話した。
「見せてもらえるか?」
「え……?」
「その試作品だ」
凛は昨夜作ったケーキの残りを持ってきた。ヘンリーは一口食べて、明らかに驚いた表情を見せた。
「これは……どうやって作った?」
「それは……」
凛は答えに困った。まさか魔法とは言えない。
「企業秘密だ」
ヘンリーは深刻な表情で考え込んだ。
「君はなにか特別な能力を持っているのか?」
鋭い質問に、凛は動揺した。やはりヘンリーは気づいているのだろうか。
「特別な能力って……」
「このケーキの味の変化は、通常の調理技術では不可能だ」
ヘンリーは低い声で続けた。
「それに、君の体調不良のタイミングも気になる。なんらかの特殊な技術を使って、その反動で体力を消耗したのではないか?」
さすがに鋭い分析だった。ヘンリーの推理は核心に迫っている。
「もし君がなんらかの特別な能力を持っているなら、正直に話してほしい。隠し事をされると、適切な対処ができない」
凛は迷った。ヘンリーを信頼しているが、異世界転生や魔法のことまで話すべきだろうか。
「私……実は」
「リンさん」
メルが心配そうに口を挟んだ。
「無理に話さなくても……」
「いや、話すべきかもしれない」
凛は決心した。これ以上隠し事をしていても、ヘンリーの心配を増やすだけだ。
「私には、味覚魔法という能力があります」
「味覚魔法?」
「食べ物の味を改良したり、変化させたりできる魔法です。これまでのお料理も、すべてその魔法を使って作っていました」
ヘンリーは驚いたが、納得した表情も見せた。
「それで説明がつく。君の料理が異常に美味しい理由も、今回の体調不良も」
「怒ってませんか? 騙していたことになりますから……」
「怒るどころか、感謝している」
ヘンリーの意外な反応に、凛は驚いた。
「君の魔法のおかげで、俺はこれまでにない美味しい料理を味わうことができた。それは何物にも代え難い贈り物だ」
「ヘンリーさん……」
「ただし」
彼の表情が再び厳しくなった。
「今回のような無謀な実験は控えるべきだ。魔法には必ず代償がある」
「代償?」
「君の場合は体力や魔力の消耗だろう。限界を超えれば、命に関わる可能性もある」
ヘンリーの警告に、凛は背筋が寒くなった。確かに今日のふらつきは、これまで経験したことのないものだった。
「これからは、魔法の実験をする時は事前に相談してほしい。一人で無謀な挑戦をするのは危険だ」
「はい……すみません」
「謝ることはない。ただ、君の安全が最優先だということを理解してほしい」
ヘンリーの言葉には、深い愛情が込められているように感じられた。
「それで、体調の方はどうだ?」
「まだ少しふらついています」
「今日は店を早めに閉めろ。十分な休息を取るんだ」
「でも、お客様が……」
「お客は俺が説明する。君の体調の方が重要だ」
結局、その日は午後三時で店を閉めることになった。ヘンリーが常連客に事情を説明してくれたおかげで、みんな快く理解してくれた。
夜、凛は二階のベッドで休んでいた。ふらつきは徐々に収まってきたが、まだ完全ではなかった。
「リンさん、お夕食をお持ちしました」
メルが温かいスープを持ってきてくれた。
「ありがとう。でも、あまり食欲がなくて……」
「ヘンリー様がおっしゃってました。魔力の消耗には栄養補給が一番大切だって」
「ヘンリーさんが? 魔法について詳しいの?」
「詳しいかどうかはわかりませんが、とても心配されてました」
メルは椅子に座って続けた。
「リンさんのことを、本当に大切に思ってらっしゃるんですね」
「そうかもしれないわね」
凛はスープを飲みながら答えた。ヘンリーの反応から、彼が自分のことをどう思っているかが、少しずつ分かってきた。
「私も……彼のことを大切に思っているかもしれない」
「それって……」
「まだよくわからないけど、彼がいてくれることで安心できるの」
メルは嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、素敵な関係になりますよ」
その夜、凛は深い眠りについた。夢の中で、女神様が現れた。
「魔法の実験、頑張ってるみたいね」
「女神様……」
「でも、無謀すぎるわよ。あなたの味覚魔法は、まだ発展途上なの」
「発展途上?」
「これから徐々に強くなっていくけど、急激に使いすぎると体に負担がかかる。今回はいい勉強になったでしょう?」
確かにその通りだった。
「でも、諦める必要はないわ。適切に使えば、もっと素晴らしい魔法になるから」
女神様の励ましに、凛は希望を感じた。
翌朝、凛の体調は完全に回復していた。そして昨夜の女神様の言葉を思い出しながら、もう一度慎重に魔法の実験をしてみることにした。
「リンさん、今日は大丈夫ですか?」
メルが心配そうに尋ねた。
「ええ、すっかり元気よ。でも、今度は無謀なことはしないわ」
凛は前回よりもずっとシンプルな実験を計画していた。味を時間差で変化させるのではなく、一つの食材に複数の味わいを同時に持たせる方法を試してみるのだ。
「たとえば、プレーンなクッキーに魔法をかけて、チョコチップクッキーの味にしてみるの」
「それなら、最初からチョコチップを入れれば……」
「そうじゃないの。見た目はプレーンなのに、食べるとチョコチップクッキーの味がするクッキーよ」
メルは首をかしげたが、凛の実験を見守ることにした。
基本のバタークッキーを焼き上げた後、凛は慎重に魔法をかけた。今度は前回ほど複雑な魔法ではなく、既存の味に別の味の要素を加えるだけだ。
『このクッキーにチョコチップの味わいを』
魔法をかけると、クッキーから甘いチョコレートの香りが漂い始めた。
「成功したかも」
一口食べてみると、確かにプレーンなクッキーの見た目なのに、口の中ではチョコチップクッキーの味がした。
「すごいです! 本当にチョコの味がします」
メルも試食して驚いた。
「でも、体調の方は大丈夫ですか?」
「前回ほど疲れてないわね。やっぱり魔法の強さを調節することが大切なのね」
実験が成功した午後、レオナがお約束通り店を訪れた。
「リンさん、こんにちは。今日はお忙しそうですね」
「レオナさん! お待ちしてました」
凛は嬉しくてたまらなかった。昨夜作った実験作品を、ぜひ同業者の意見を聞きたかったのだ。
「実は、新しいスイーツを試作してみたんです。よろしければ、ご意見をいただけませんか?」
「もちろんです。どんなものでしょうか?」
凛は時間差で味が変化するケーキと、見た目と味が違うクッキーの両方を出した。
「まずはこちらのケーキから」
レオナが一口食べた瞬間、その表情が驚きに変わった。
「え……最初はチョコレートの味だったのに……今度はバニラ?」
「そうなんです。時間差で味が変化するケーキなんです」
「そして最後にイチゴの余韻が……」
レオナは完全に困惑していた。
「こんなお菓子、見たことも聞いたこともありません。一体どうやって……」
次にクッキーを試食したレオナは、さらに驚いた。
「見た目はプレーンなクッキーなのに、味は完全にチョコチップクッキーですね。これも信じられません」
「どう思われますか?」
「技術的には革命的です。でも……」
レオナは少し困った表情を見せた。
「お客様の反応が読めませんね。最初は驚くでしょうが、慣れてしまうと普通のお菓子では物足りなくなってしまうかもしれません」
鋭い指摘だった。確かに、あまりにも奇抜すぎると、かえってお客様を困らせてしまう可能性がある。
「それに、製造コストも気になります。こんな複雑な技術を使うと、相当な時間と労力がかかるのでは?」
レオナは商売人としての視点からも意見をくれた。
「確かに、時間はかかりますね」
凛は魔法のことは言えないが、実際に複雑な魔法は体力を消耗する。
「私としては、この技術を部分的に取り入れることをお勧めします」
「部分的に?」
「たとえば、特別な日の限定商品として出すとか、お客様の記念日用のオーダーメイドケーキに使うとか」
レオナの提案は現実的で参考になった。
「毎日出すメニューとしてではなく、特別な時だけの『魔法のスイーツ』として位置づけるのはいかがでしょうか?」
「素晴らしいアイデアです!」
凛は目を輝かせた。確かにそうすれば、無理に毎日複雑な魔法を使う必要もないし、お客様にも特別感を提供できる。
「でも、本当にすごい技術ですね。私も勉強させていただきました」
レオナは感嘆した。
「今度、私の店にもぜひいらしてください。私からも新しいアイデアをご紹介したいと思います」
「ぜひお邪魔させていただきます」
レオナが帰った後、凛は彼女のアドバイスについて深く考えた。確かに、魔法を使ったスイーツを特別なメニューとして位置づけるのは良いアイデアだ。
「メルちゃん、どう思う?」
「いいアイデアだと思います。毎日無理して複雑な魔法を使うより、安全ですし」
「そうね。それに、お客様にも『特別な体験』として楽しんでいただけそう」
夕方、ヘンリーがいつものようにやってきた。
「体調はどうだ?」
「おかげさまで、すっかり回復しました」
「それはよかった」
ヘンリーは安堵の表情を見せた。
「実は、昨日の実験の改良版を作ってみたんです」
凛は時間差ケーキをヘンリーに出した。
「今度は魔法の強さを調節して、体に負担がかからないようにしました」
ヘンリーが一口食べて、いつものように驚きの表情を見せた。
「相変わらず信じられない味だな」
「レオナさんからアドバイスをいただいて、これは特別メニューとして提供することにしました」
「賢い判断だ」
ヘンリーは頷いた。
「毎日これほど複雑な魔法を使っていたら、君の体が持たない」
「はい。無謀な実験はもうしません」
「約束だ」
ヘンリーの真剣な表情に、凛は深く頷いた。
「ところで」
ヘンリーが話題を変えた。
「来週、王宮で小さな茶会がある。君にケーキの注文をしたいのだが」
「王宮からのご注文ですか?」
「ああ。外国の使節が来訪するので、この王国の特色あるお菓子でもてなしたい」
凛は興奮した。王宮からの正式な注文なんて、夢にも思わなかった。
「喜んでお受けします! どのようなケーキをご希望でしょうか?」
「君に任せる。ただし……」
ヘンリーが意味深に微笑んだ。
「今日試食した『特別なケーキ』でも構わない」
「え……でも、あのケーキは実験作品で……」
「完成度は十分だ。外国の使節にも良い印象を与えるだろう」
ヘンリーの提案に、凛は迷った。確かに味は完璧だが、王宮で出すには責任が重すぎる。
「大丈夫だ。俺が責任を持つ」
ヘンリーの言葉に、凛は決心した。
「わかりました。最高のケーキをお作りします」
「期待している」
ヘンリーが帰った後、凛とメルは興奮して話し合った。
「王宮からのご注文なんて、すごいですね!」
「本当にね。でも、プレッシャーもすごいわ」
「大丈夫ですよ。リンさんの魔法のケーキなら、きっと外国の方々にも喜んでもらえます」
メルの励ましに、凛は勇気をもらった。
来週の茶会に向けて、最高の『魔法のスイーツ』を作ろう。そして、Cafe Lunaの名前を王都全体に知らしめるのだ。
このとき、凛はまだ知らなかった。この王宮での茶会が、彼女の運命を大きく変えることになるということを。
<第8話終了>