第7話「新たな友との出会い」
ヘンリーの公式声明が王都に発表されてから三日が経った。
『筆頭文官ヘンリー・ヴァルター卿より、Cafe Luna及び店主リン・アヤセ嬢の料理の品質と安全性について、王国として正式に保証する』
この声明は王都中に大きな衝撃を与えた。筆頭文官が個人の店を公式に保証するなど、前例のないことだったからだ。
「リンさん、今日もお客様がたくさんいらしてますね」
メルが嬉しそうに報告した。声明の効果は絶大で、商業ギルドの悪質な噂を完全に打ち消しただけでなく、かえって店の知名度を高める結果となっていた。
「筆頭文官殿お墨付きのカフェを一度は体験してみたい」という好奇心から、今まで来たことのない客層も訪れるようになっていた。
「でも、忙しすぎて少し心配ですね」
確かに客数は大幅に増えたが、凛とメルの二人だけでは対応が限界に近づいていた。特に午後の混雑時間帯は、注文を受けてから提供するまでにかなり時間がかかってしまう。
「そろそろ人手を増やすことも考えないといけないかもしれませんね」
凛がそう考えていたとき、午後の忙しい時間帯に一人の女性が店に入ってきた。
二十代前半と思われるその女性は、栗色の髪を丁寧に三つ編みにまとめ、清潔感のあるエプロンドレス姿だった。手には小さな革のかばんを持っており、その所作から職人らしい雰囲気が漂っている。
「あの、すみません」
女性は少し遠慮がちに声をかけてきた。
「お忙しそうですが、席はありますでしょうか?」
「はい、こちらの席にどうぞ」
凛が案内したのは、ちょうど空いた窓際の席だった。ヘンリーがいつも座る席の向かい側で、店内を見渡せる良い場所だった。
「ありがとうございます。レオナ・カルティエと申します」
女性は丁寧に自己紹介した。
「王都で菓子屋を営んでおります。噂の美味しいガトーショコラを一度味わってみたくて、お邪魔させていただきました」
「菓子屋さんでいらっしゃるんですね! 光栄です」
凛は嬉しくなった。同業者の方に興味を持ってもらえるなんて。
「こちらがメニューです。ガトーショコラの他にも、いくつかスイーツをご用意しております」
レオナは凛が差し出したメニューを丁寧に眺めた。その真剣な表情から、純粋に職人として関心を抱いていることが窺えた。
「このガトーショコラ、どのような作り方をされているのでしょうか? 職人として、とても興味があります」
「企業秘密……というわけではありませんが、ちょっと特殊な方法を使っているんです」
もちろん、味覚魔法のことは言えない。でも、基本的な製法については話せる範囲で説明したかった。
「特殊な方法?」
レオナの目が好奇心で輝いた。
「すみません、同業者の方には詳しくお話しできなくて」
「いえいえ、当然です」
レオナは理解のある笑顔を見せた。
「私も自分の技術は秘密にしていますから。企業秘密は職人の財産ですもの」
この寛容な態度に、凛は好感を持った。同業者として嫉妬や警戒心を抱くのではなく、純粋に技術への興味を示してくれている。
「では、ガトーショコラとコーヒーをお願いします。それと……」
レオナは少し迷った後、続けた。
「もしよろしければ、他のスイーツも少しずつ試させていただけませんか? 職人として、ぜひ勉強させていただきたいのです」
「もちろんです!」
凛は張り切って厨房に向かった。同業者の方に自分の技術を評価してもらえる機会なんて、滅多にない。
ガトーショコラを中心に、手作りクッキー、アップルタルト、それに新作として試作中だったカスタードプリンも一緒に盛り合わせた。もちろん、どれにも丁寧に味覚魔法をかけた。
「お待たせしました」
プレートを置くと、レオナは目を輝かせた。
「どれも美しい仕上がりですね。特にこのガトーショコラの艶……完璧です」
まず、レオナはガトーショコラを一口食べた。その瞬間、彼女の表情が大きく変わった。
「これは……」
しばらく無言で味わった後、彼女は深いため息をついた。
「参りました。完敗です」
「え?」
「私も菓子職人として十年やってきましたが、これほど深い味わいのケーキは作れません」
レオナは率直に認めた。
「チョコレートの苦味と甘味のバランス、生地のしっとり感、そしてなにより……この味に込められた温かさ。どんな技術を使われているのか、本当に気になります」
彼女は続けて他のスイーツも味わった。どれを食べても、同じように驚きの表情を見せた。
「信じられません。どれも私の店で出しているものより美味しい」
「そんなことはありません。レオナさんもきっと素晴らしいお菓子を作られているはずです」
「いえ、これは素直に認めます」
レオナは苦笑した。
「職人としてのプライドもありますが、それ以上に純粋に感動しています」
彼女はコーヒーを飲みながら続けた。
「実は、最近お客様から『Cafe Lunaのスイーツと比べると物足りない』という声を聞くようになっていたんです。最初は悔しかったのですが、実際に味わってみて納得しました」
レオナの正直な言葉に、凛は恐縮した。
「でも、だからこそお聞きしたいんです。どうしたら、このような味が出せるのでしょうか?」
困った。味覚魔法の秘密は絶対に明かせないが、嘘をつくのも嫌だった。レオナの真摯な姿勢に応えたい気持ちもある。
「その……特別な技術というよりも、心を込めて作ることを一番大切にしています」
「心を込める?」
「はい。お客様に喜んでもらいたいという気持ちを、作る過程のすべてに込めるんです。材料を選ぶときも、混ぜるときも、焼くときも、常にお客様の笑顔を思い浮かべながら」
これは嘘ではない。味覚魔法を使うときも、常に「美味しくなって、お客様に喜んでもらいたい」という願いを込めているのだから。
「心を込める……」
レオナは真剣に考え込んだ。
「確かに、技術だけでは表現できないなにかがありますね。私も技術は身につけたつもりでしたが、心の込め方が足りなかったのかもしれません」
「レオナさんのお菓子も、きっと心がこもっていると思います。今度、私もぜひお店にお邪魔させてください」
「本当ですか?」
レオナの顔が明るくなった。
「ぜひいらしてください。そして、率直なご意見をお聞かせください」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それから二人は、菓子作りについて熱心に語り合った。使用する材料の話、王都で手に入る食材の情報、それぞれの店の客層について……同業者ならではの話題で盛り上がった。
「ところで」
レオナがふと思い出したように言った。
「筆頭文官殿が公式に保証されたというのは本当なんですね」
「はい……おかげさまで」
「実は、私の店にもときどき王宮の方がお菓子を注文しにいらっしゃるんです。でも、筆頭文官殿ご自身がお見えになったことはありません」
レオナは興味深そうに続けた。
「どのような方なのでしょうか? とても厳格で近寄りがたい方だと聞いていますが」
凛は少し迷った。ヘンリーのプライベートな面について話していいものだろうか。
「確かに最初はそう思いましたが……実はとても優しい方です」
「優しい? 筆頭文官殿が?」
「はい。いつも静かにお食事を楽しまれて、お店のことも気にかけてくださって」
凛の言葉に、レオナは驚いた表情を見せた。
「意外ですね。王都では『氷の筆頭文官』と呼ばれているのに」
「氷の筆頭文官?」
「感情を表に出さず、冷静沈着に政務を処理される姿から、そう呼ばれているんです。でも、リンさんの前では違うのですね」
レオナの指摘に、凛は改めて気づいた。確かにヘンリーは、他人の前と自分の前では態度が違うのかもしれない。
「もしかして……」
レオナが意味深な笑みを浮かべた。
「筆頭文官殿、リンさんに特別な感情を抱いていらっしゃるのでは?」
「そんな、まさか」
慌てて否定したが、内心では動揺していた。最近のヘンリーの言動を思い返すと、確かに単純な客と店の関係を超えているような……
「でも、そうだとしたら素敵ですね」
レオナが微笑んだ。
「あの方のような立場の人が、純粋に一人の女性を大切に思うなんて」
「レオナさん……」
「あ、すみません。余計なことを言ってしまって」
レオナは慌てて謝った。
「でも、もしそうだとしても、リンさんなら大丈夫だと思います」
「大丈夫?」
「はい。リンさんは自然体で、だれに対しても同じように優しく接する方ですから。そういう純粋さが、あの方の心を惹いているのかもしれませんね」
レオナの言葉に、凛は複雑な気持ちになった。ヘンリーに対する自分の気持ちも、まだよく整理できていないのに。
夕方になって、レオナが帰る時間になった。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、貴重なお話を聞かせていただいて」
「ぜひ、今度私の店にもいらしてください。お菓子作りについて、もっといろいろと教え合えたらと思います」
「約束ですよ」
レオナが店を出て行った後、メルが興味深そうに言った。
「素敵な方でしたね。同業者なのに嫉妬したりしないで」
「本当にね。きっと技術に自信があるから、他人の技術も素直に認められるのね」
「それに、リンさんとヘンリー様のことも……」
「メルちゃん!」
「あ、聞いてました?」
メルがくすくすと笑った。
「でも、みんな気づいてると思いますよ」
「みんなって?」
「マリーさんも、ギルバートさんも、常連のお客様たちも。ヘンリー様がリンさんを特別に思ってらっしゃることは、見てればわかります」
メルの言葉に、凛は顔が赤くなった。そんなに分かりやすいのだろうか。
「でも、リンさんの方はどうなんですか?」
「どうって……」
「ヘンリー様のこと、どう思ってらっしゃるのですか?」
メルの直球な質問に、凛は答えに詰まった。確かにヘンリーは魅力的だし、彼の孤独や優しさを知って親しみを感じている。でも、それが恋愛感情なのかどうかは……
「まだ、よくわからないの」
「そうですか……」
メルは少し寂しそうな表情を見せた。
「でも、きっといつかわかるときが来ますよ」
その夜、凛はレオナとの出会いを振り返っていた。同業者でありながら、素直に自分の技術を評価してくれる彼女との友情は、きっと今後の大きな支えになるだろう。
そして、ヘンリーに対する気持ちについても、少しずつ向き合っていかなければならない時が来ているのかもしれない。
明日からも、新しい出会いと挑戦が待っている。でも、もう怖くない。信頼できる仲間がいるから。
<第7話終了>
第3章が始まりました。
凛とヘンリーの関係は今後どうなっていくのか?
この二人の動向に、ぜひともご注目ください。
PVの数が増えてきて、本当に励みになっております。
皆様、今後ともよろしくお願いいたします。