第5話「ギルドの影」
ヘンリーが筆頭文官だと判明してから二日後、マリーの警告が現実となった。
午前中の忙しい時間帯、Cafe Lunaに見慣れない男性が二人入ってきた。身なりは整っているが、どこか威圧的な雰囲気を持った四十代の中年男性と、その後ろに控える若い部下らしき人物。
店内の和やかな雰囲気が一瞬で緊張に変わった。常連客の主婦たちも、何事かと不安そうに二人を見つめている。
「商業ギルドの者だ」
リーダー格の男性が懐から身分証らしき物を見せながら、威圧的な声で言った。マリーが警告してくれた、まさにその相手だった。
男性の名前はブルーノ・ハーゲンといい、商業ギルドの調査部長を務めているらしい。部下の方はアルフレッド・コーエンという名前で、記録係のようだった。
「当ギルドでは、新規開店した店舗の営業実態を調査している。食品の安全性と取引の適正性を確認するためだ」
ブルーノの態度は高圧的で、まるで犯罪者を取り調べるような口調だった。常連客たちは居心地悪そうに席を立ち、そそくさと店を出て行った。
「ま、まずなにをお聞きになりたいのでしょうか?」
凛は動揺を隠して答えた。メルは凛の後ろで、不安そうに手を握りしめている。
「営業許可証を見せてもらおう」
凛は慌てて許可証を持ってきた。ギルバートが手続きを手伝ってくれたおかげで、書類は完璧に整っていたはずだった。
ブルーノは書類をじっくりと眺め、何か粗を探すような目つきで検分した。
「ふむ……一応は適正な手続きが取られているようだが」
彼は書類を乱暴にテーブルに置いた。
「次に、食材の仕入れ先はどこだ? 許可を得た業者からのみ仕入れているのか?」
「ギルバート・マクダーモンドさんから仕入れています。正式な商人許可を持った方です」
「ギルバート・マクダーモンド……」
アルフレッドが手帳に名前を書き留める。その仕草が何か不吉な印象を与えた。
「そいつの業者登録番号は? 仕入れ伝票はあるか?」
質問は次々と続いた。どれも一見すると正当な営業をしているかを確認するものだが、その語調があまりにも威圧的で、凛は萎縮してしまった。
「調理法に問題はないか? どんな香辛料を使っている? 保存方法は適切か?」
「は、はい……基本的な香辛料のみを使用し、保存も冷暗所で適切に……」
「基本的な香辛料? 具体的にはなにを使っているんだ?」
ブルーノの追及は執拗だった。まるで何か違法行為を暴こうと必死になっているようだった。
「塩、胡椒、シナモン、バニラ、それにハーブ類を……」
「ハーブ類? どんなハーブだ? 薬事法に抵触する可能性のあるハーブを使用していないか?」
凛は困惑した。ごく普通のハーブティー用のハーブしか使っていないのに、まるで危険薬物を扱っているかのような言い方だった。
「ミント、カモミール、ローズヒップ……どれも一般的なハーブです」
「一般的?」
ブルーノが嘲笑うような表情を見せた。
「君のような素人が一般的だと思っても、実際には規制対象かもしれんぞ」
そのとき、ブルーノの視線がメニューに向けられた。
「特に、このガトーショコラとかいう菓子だが」
彼は嫌そうに言った。
「聞いたことがない名前だ。正体不明の食材を使っているのではないか?」
「チョコレートは正当な食材です。カカオ豆から作られる……」
「チョコレート?」
ブルーノが部下に向かって意味深な視線を送った。
「そんなものは王都の公式食材リストにない」
「リストにないものは使用禁止だ」
アルフレッドが得意げに言った。
「食材リストは毎年更新されるが、チョコレートなど聞いたこともない」
凛は愕然とした。チョコレートがこの世界では珍しい食材だということは知っていたが、まさか違法扱いされるとは思わなかった。
「問題のある食材を使用している可能性が高い」
ブルーノは勝ち誇ったような表情を見せた。
「しばらく営業を停止して、詳しい調査を受けてもらう必要がある」
「そんな……」
凛は青ざめた。やっと軌道に乗り始めた店を、こんな理不尽な理由で閉店させられてしまうのか。
「営業停止期間は最低でも一ヶ月。調査が長引けば、さらに延長される可能性もある」
「その間の損失については、当然ながらギルドは補償しない」
アルフレッドが追い打ちをかけるように言った。
「ただし……」
ブルーノが意味深な笑みを浮かべた。
「適切な指導を受ければ、営業停止を回避できる可能性もある」
「指導?」
「ギルド傘下の優良業者による経営指導だ。月額指導料は金貨十枚程度だが、安全で適法な営業が保証される」
凛は絶句した。金貨十枚といえば、Cafe Lunaの月間売上の大部分に相当する。実質的に店を乗っ取られるのと同じだった。
「ど、どうしても営業停止しなければならないのでしょうか?」
「法律は法律だ」
ブルーノが冷酷に言い放ったとき、店の扉が開いた。
「ちょっと待て」
低い声が店内に響いた。振り返ると、ヘンリーが入り口に立っていた。いつもの濃紺の制服姿で、その金色の紋章が威厳を放っている。
「筆頭文官殿!」
ブルーノは慌てて頭を下げた。その変わりようは滑稽なほどだった。さっきまでの威圧的な態度はどこへやら、完全に萎縮している。
「この店でなにをしている?」
ヘンリーの声は氷よりも冷たかった。その眼光は鋭く、二人のギルド職員を射抜くように見つめている。
「は、はい。新規店舗の営業実態調査を……」
「調査?」
ヘンリーはブルーノに近づいた。その威圧感は圧倒的で、ブルーノは明らかに動揺している。
「商業ギルドの調査権限は、食品安全と取引秩序の維持に限定されているはずだが?」
「その通りです」
ブルーノは冷や汗をかいている。
「では、この店になんの問題があるというのだ?」
「え、えっと……食材に不明な点が……」
「不明?」
ヘンリーの声がさらに低くなった。
「私は一週間前からこの店を利用しているが、出される料理はすべて安全で美味い。なんの問題もない」
「筆頭文官殿がそうおっしゃるなら……」
「それとも」
ヘンリーが一歩前に出た。
「君たちは私の食事内容に問題があると言いたいのか?」
この言葉に、ブルーノとアルフレッドは完全に青ざめた。筆頭文官に対してそんなことを言えるはずがない。
「と、とんでもございません!」
「ならば、この店にはなんの問題もないということだな」
「は、はい……」
「ついでに聞くが」
ヘンリーが冷たい笑みを浮かべた。
「君たちが問題視していたチョコレートという食材だが、実は王宮でも使用している」
「え……?」
「先日の外国使節との晩餐会で、デザートに使用した。国王陛下もお気に入りだ」
ヘンリーの嘘に、ブルーノは完全に困惑した。
「まさか、国王陛下の食事に問題があるとは言わないだろうな?」
「そ、そんなことは……」
「では、チョコレートはなんの問題もない食材だということだ」
ブルーノは何も言えなくなった。アルフレッドも手帳を握りしめたまま、震えている。
「調査は終了だ。この店に問題はない」
「は、はい……」
「今後、不当な調査は控えるように。私が直接国王陛下に報告することになるぞ」
この脅しに、二人は慌てて店を出て行った。
静寂が戻った店内で、ヘンリーが振り返った。
「大丈夫か?」
「はい……ありがとうございました」
凛は深く頭を下げた。もしヘンリーが来てくれなかったら、本当に営業停止になっていたかもしれない。
「あの人たちは……」
「商業ギルドの腐敗した職員だ」
ヘンリーは嫌悪感を込めて言った。
「表向きは食品安全を理由にするが、実際は個人商店を潰して大商人の利益を確保するのが目的だ」
「そんなひどいことが許されるんですか?」
「残念ながら、法的には問題のない行為として処理される。彼らは法の抜け穴を巧妙に利用している」
ヘンリーはいつもの席に座った。
「だが、今回の件で彼らも学習したはずだ。この店には手を出すなと」
「本当にありがとうございました」
メルも涙を流しながら礼を言った。
「君たちに感謝されることではない」
ヘンリーは優しい表情を見せた。
「この店は俺にとっても大切な場所だ。守りたいと思うのは当然だろう」
「大切な場所……」
「ああ」
ヘンリーは窓の外を眺めた。
「王宮では常に政治的な思惑に囲まれている。本音で話せる人間もいない。だがここでは……」
彼の表情が柔らかくなった。
「ただ美味い料理を味わい、静かな時間を過ごせる。それがどれほど貴重なことか」
凛はヘンリーの言葉に胸が熱くなった。自分たちの小さなカフェが、こんなに重要な人の心の支えになっているなんて。
「今日もコーヒーとガトーショコラを」
「はい、すぐにお持ちします」
コーヒーを淹れながら、凛は複雑な気持ちだった。ヘンリーに感謝している一方で、彼に頼ってばかりでいいのかという不安もある。
でも、少なくとも今日は、Cafe Lunaは守られた。そして、ヘンリーが本気でこの店を大切に思ってくれていることも分かった。
これから先、どんな困難が待っているか分からない。でも、きっと乗り越えられる。仲間がいるから。
<第5話終了>