第36話「森界の恐怖と勇気」
海界から帰国して三日後、凛たちは最後の目的地である森界への出発準備を整えていた。
「森界への入り口は、王国西部の古い森の奥にあります」
森界の使者シルフィアが説明した。
「しかし、現在その森は恐れのエネルギーに包まれており、近づくだけでも危険な状態です」
今回の多世界協力チームは、これまでで最大規模になっていた。
凛、ヘンリー、レオナ、セレスティア、天界のアリエル、地底界のグランドール、海界のマリーナ、そして森界のシルフィア。
「ついに全ての世界の代表が揃いましたね」
アリエルが感慨深げに言った。
「これほど多くの世界が協力するのは、歴史上初めてのことです」
「でも、森界は他の世界以上に困難かもしれません」
シルフィアが心配そうに続けた。
「恐れの感情は、他の感情よりも伝染しやすく、制御が困難なのです」
西部の森に向かう道中、その異常さは明らかだった。
「動物たちがいませんね」
レオナが気づいた。
普段なら鳥のさえずりや小動物の姿が見られるはずなのに、森は不自然なほど静まり返っている。
「恐れのエネルギーを察知して、皆逃げてしまったのでしょう」
グランドールが低い声で言った。
「地底界でも、ときどきこのような現象が起こります」
森の入り口に近づくにつれて、一行にも恐怖感が襲い始めた。
「なんだか、急に不安になってきました」
マリーナが震え声で言った。
「まるで、なにか恐ろしいものに見つめられているような……」
「これが恐れのエネルギーの影響ですね」
セレスティアが魔法で周囲を調査した。
「空気中に恐怖の魔力が充満しています」
「皆さん、しっかりと手を繋いでください」
凛が指示した。
「恐れに一人で立ち向かってはいけません」
手を繋いだ一行が森の奥に進むと、ついに森界への入り口が見えてきた。
それは巨大な古木の幹に開いた穴で、中から緑がかった光が漏れている。
しかし、その入り口の周りには、見えない壁のような恐怖のオーラが立ちはだかっていた。
「ここから先は、私一人で案内します」
シルフィアが申し出た。
「森界の住人以外には、この恐れのエネルギーは強すぎるかもしれません」
「いえ、みんなで行きます」
凛が決然と答えた。
「これまでの経験で学んだことがあります」
「恐れは、一人で向き合うものではありません」
「仲間と一緒なら、どんな恐怖も乗り越えられるはずです」
一行は手を繋いだまま、恐怖の壁を突破した。
古木の穴をくぐると、そこには幻想的な森の世界が広がっていた。
巨大な木々が空を覆い、光る苔や花が美しく光っている。
しかし、その美しさとは対照的に、住人たちの様子は深刻だった。
「あ、あの……」
出迎えてくれた森の精霊たちは、皆怯えたような表情をしている。
「どこから来た方ですか……?」
「もしかして、恐ろしい化け物ではありませんか?」
「私たちになにか悪いことをするのですか?」
質問も全て不安や恐怖に満ちていた。
「大丈夫です」
凛が優しく微笑んだ。
「私たちは皆さんを助けに来ました」
しかし、その言葉さえも森の住人たちには恐怖の種となった。
「助けるって……なにか恐ろしいことをされるのでしょうか?」
「きっと騙されるに違いありません」
「信用したら、後で酷い目に遭わされるかも……」
案内してくれた長老のオークハートも、常に周囲を警戒していた。
「申し訳ございません」
「我々は長い間、恐れと共に生きてきました」
「そのため、全てのことを最悪の可能性で考えてしまうのです」
村を案内してもらうと、森界の状況の深刻さが分かった。
「外に出るのが怖いです……」
家の中に籠もったまま出てこない住人が大勢いる。
「新しいことを始めるのが怖くて……」
「失敗したらどうしよう」
「みんなに笑われたらどうしよう」
学校でも、子供たちが萎縮している。
「発表するのが怖いです」
「間違えたら恥ずかしいもん」
「先生に怒られるかもしれない」
最も深刻だったのは、森界の中央にある「勇気の神殿」だった。
「ここは本来、勇気と冒険の精神を育む場所でした」
オークハートが説明した。
「しかし今では、恐怖の記憶ばかりが蓄積されています」
神殿の中は、様々な恐怖のエネルギーで満ちていた。
「失敗への恐れ……」
「拒絶される恐れ……」
「孤独になる恐れ……」
「死への恐れ……」
無数の恐怖が、まるで黒い霧のように神殿を漂っている。
「これは……」
凛は身震いした。これほど濃縮された恐怖のエネルギーは、想像を絶するものだった。
「もしかして……」
セレスティアが重要なことに気づいた。
「これらの恐怖は、他の世界の感情問題とも関連しているのではないでしょうか?」
「どういうことですか?」
「天界の感情抑圧も『感情を出すことへの恐れ』が根底にありました」
「地底界の怒りの爆発も『傷つくことへの恐れ』から我慢していたからです」
「海界の深い悲しみも『立ち直れないことへの恐れ』が関係していました」
凛は理解した。
「つまり、恐れこそが全ての感情問題の根源だったということですね」
「そうです。だからこそ、森界の問題を解決することが、真の多世界平和への鍵となるのです」
翌日、最後の儀式の準備が始まった。
「『恐怖の森』の浄化の儀式です」
オークハートが古い樹皮の書物を取り出した。
「この儀式は、最も危険で困難なものとされています」
「恐怖のエネルギーは、他の感情よりも深く魂に刻まれるからです」
しかし、今回は違った。
「でも、私たちには四つの世界の力があります」
アリエルが希望に満ちた声で言った。
「きっと大丈夫です」
森界の特別な食材集めも、みんなで協力して行った。
「これは『勇気の実』です」
シルフィアが黄金に光る果実を見せた。
「食べると、心に勇気が湧いてくる特別な果実です」
「こちらは『安心の葉』」
深い緑色の葉っぱだった。
「煎じて飲むと、不安な心を落ち着かせてくれます」
「そして、これが『希望の樹液』」
透明に光る樹液を容器に集めた。
「絶望の淵にいる人に、新しい希望を与える力があります」
レオナも森界の材料を熱心に研究していた。
「この『森のバター』は面白いですね」
木の実から作られたバターは、深い緑色をしている。
「普通のバターとは全く違う、森の香りがします」
「それと、この『花の蜜糖』も珍しい」
様々な花から集めた蜜を結晶化させた砂糖だった。
「甘さの中に、花それぞれの個性が感じられます」
「その蜜糖は、恐れを和らげる効果があります」
オークハートが説明した。
「花々の優しさが、心の恐怖を包み込んでくれるのです」
準備には三日間かかった。森界の食材は非常にデリケートで、恐怖のエネルギーの影響を受けやすかった。
「森の食材は生きているんですね」
凛が感心した。
「調理している間も、ずっと私たちとコミュニケーションを取ろうとしています」
「森界の調理は、自然との対話なのです」
シルフィアが嬉しそうに答えた。
「食材の声に耳を傾け、その望みを叶えてあげることが大切です」
儀式当日、勇気の神殿には森界の住人が恐る恐る集まった。
「本当に大丈夫でしょうか……」
「もし失敗したら、もっと恐ろしいことになるのでは……」
「やっぱり危険すぎるかもしれません……」
不安と恐怖に満ちた呟きが神殿に響いている。
「大丈夫です」
凛が皆に向かって言った。
「恐れることは、決して悪いことではありません」
「恐れがあるからこそ、私たちは慎重になり、準備を怠らないのです」
「大切なのは、恐れに支配されるのではなく、恐れと共に前に進むことです」
凛の言葉に、少しだけ住人たちの表情が和らいだ。
「では、みんなで一緒に儀式を行いましょう」
今回は、凛一人ではなく、全ての世界の代表が協力することになった。
「天界の希望の力」「地底界の勇気の力」「海界の慈愛の力」「森界の調和の力」、そして「地上界の癒しの力」。
五つの世界の力を合わせて、最強の「恐怖浄化の料理」を作る。
凛は勇気の実と安心の葉を使って「恐れを勇気に変えるスープ」を作った。
アリエルは天界の光る果実で「希望を与えるサラダ」を。
グランドールは地底界の強い野菜で「勇気を与えるシチュー」を。
マリーナは海界の特別な海藻で「心を落ち着かせるスープ」を。
レオナは森の材料で「恐れを優しさに変えるケーキ」を。
そして、シルフィアは希望の樹液で「新しい希望を与える飲み物」を作った。
六人が同時に調理を始めると、神殿全体が美しい光に包まれた。
しかし、その瞬間、森界全体の恐怖のエネルギーが一斉に押し寄せてきた。
「きゃああああ!」
凄まじい恐怖の波に、一行は押し倒されそうになった。
ありとあらゆる恐怖が同時に襲いかかってくる。
「でも、私たちは一人じゃない!」
凛が叫んだ。
「みんな、手を繋いで!」
六人が手を繋ぐと、それぞれの世界の力が合わさって、恐怖を跳ね返す強大な光となった。
「これが……真の協力の力!」
光は神殿全体を包み、さらに森界全体に広がっていく。
恐怖のエネルギーが浄化され、代わりに温かい安心感が森を満たした。
「あれ……?」
森の住人たちが驚いた。
「恐くない……」
「むしろ、勇気が湧いてきます」
「新しいことにチャレンジしてみたくなりました」
子供たちも目を輝かせている。
「明日は学校で発表してみる!」
「新しい友達を作りたい!」
「冒険に出かけてみよう!」
儀式の成功により、森界は劇的に変化した。
恐れは完全に消えたわけではないが、それが健全な注意深さとなり、無謀な行動を防ぐ知恵となった。
「素晴らしい……」
オークハート長老が感動していた。
「恐れと勇気は対立するものではなく、バランスを取り合うものだったのですね」
「適度な恐れがあるからこそ、本当の勇気が生まれるのです」
一週間の滞在で、森界の住人たちは恐れとの正しい付き合い方を学んだ。
「恐れは、私たちを守ってくれる大切な感情なんですね」
「でも、恐れに支配されてはいけない」
「恐れを感じながらも、それでも前に進む。それが本当の勇気なんですね」
帰国の日、森界の住人全員が見送りに来た。
「ありがとうございました」
「私たちは恐れを恥じることをやめました」
「そして、恐れを乗り越える勇気を学びました」
「今度は、私たちも多世界平和のために協力します」
シルフィアも一緒に地上界に来ることになった。
「森界の代表として、末永く協力させていただきます」
王国に戻ると、大きな歓迎を受けた。
「お疲れ様でした!」
「ついに四つの世界すべてを救われたのですね」
メルや心の調和学院の生徒たちが喜んでくれた。
「これで、真の多世界平和が実現しますね」
しかし、凛は何か重要なことを忘れているような気がしていた。
その夜、ヘンリーと二人で語り合った。
「素晴らしい成果だったな」
「はい。でも、これで終わりではないような気がします」
凛が窓の外を見つめた。
「四つの世界は救えました。でも、真の平和にはもう一つなにかが必要な気がするんです」
そのとき、空に不思議な光が現れた。
これまで見たことのない、虹色に輝く巨大な光の輪が王都の上空に浮かんでいる。
「あれは……」
セレスティアが急いでやってきた。
「大変です! 新しい次元の扉が開かれました」
「しかも、これまでとは全く違う種類の光です」
「新しい世界?」
「いえ、これは……」
セレスティアが古代文書を調べた結果、驚愕の事実が判明した。
「『統合の時』が来たのです」
「統合の時?」
「五つの世界が一つになり、真の調和を実現する時です」
「しかし、この過程では未知の困難が待ち受けているとされています」
凛は理解した。
四つの世界の問題を解決したことで、ついに最後の段階が始まったのだ。
真の多世界平和への最終試練が。
<第36話終了>
<第8章「進化する力」完>
第9章予告:「最終的な大きな危機への対処」
四つの世界の感情問題を解決した凛たちに、最後の試練が待ち受ける。五つの世界の統合という前代未聞の現象が始まり、それに伴って新たな脅威が現れる。世界の境界が曖昧になる中、各世界のバランスが崩れ、存在そのものが危機に瀕する。凛は全ての世界の代表と協力し、真の統合を成し遂げなければならない。しかし、その過程で明かされる古代の最大の秘密とは?世界を救うために、凛が払わなければならない最後の代償とは?壮大なクライマックスが今、始まる。




