第35話「海界の深き悲しみ」
地底界から帰国して一週間後、凛たちは海界への出発準備を進めていた。
「海界への入り口は、王国南部の海岸にあります」
人魚の使者マリーナが説明した。
「満潮のときに現れる特別な渦を通って、私たちの世界に行くことができます」
今回の訪問団には、凛、ヘンリー、レオナ、セレスティア、そして地底界のグランドールと天界のアリエルも加わった。
「各世界の代表が一緒に行動するのは初めてですね」
アリエルが興奮していた。
「きっと、より効果的な解決ができるでしょう」
「でも、海の中での活動は大丈夫なのでしょうか?」
レオナが心配そうに尋ねた。
「私たち、泳げない人もいますし……」
「ご心配なく」
マリーナが美しい貝殻を取り出した。
「これは『海の恵み』という特別な貝殻です」
「この魔法により、皆さんも海の中で呼吸できるようになります」
「それに、泳ぐ必要もありません。海流に乗って移動します」
南部海岸に到着すると、確かに巨大な渦が海面に現れていた。
「あれが海界への入り口ですね」
セレスティアが感心した。
「古代魔法の仕組みが使われているようです」
マリーナが貝殻の魔法をかけると、一行の周りに水の泡のような膜ができた。
「では、参りましょう」
渦の中に飛び込むと、一瞬の浮遊感の後、美しい海底世界に到着した。
「わあ……」
海界は幻想的な美しさに満ちていた。色とりどりのサンゴでできた建物、光る魚たちが泳ぐ街路、そして海藻で作られた美しい庭園。
「美しい世界ですね」
凛が感嘆していると、迎えに来た人魚たちの表情に気づいた。
「でも、皆さん、とても悲しそうですね」
確かに、海界の住人たちは皆、深い悲しみに沈んでいるように見えた。美しい世界にもかかわらず、重苦しい空気が漂っている。
「それが私たちの問題なのです」
案内してくれた長老のネプチューンが重々しく説明した。
「我々海界の住人は、感情が深く、特に悲しみを強く感じる体質があります」
「これまでは、その悲しみを海の深さに沈めることで、なんとかバランスを保ってきました」
「しかし、あなたの魔法の影響で、抑えていた悲しみが一気に表面化してしまったのです」
街を案内してもらうと、その状況の深刻さが分かった。
「もうなにもかも嫌になった……」
海藻の農場では、働く人魚が涙を流しながら作業している。
「どうせ私なんて、なんの役にも立たない」
「生きている意味がないわ……」
学校では、子供たちまでもが希望を失ったような表情をしている。
「勉強しても意味がないもん」
「どうせ大人になっても悲しいことばかりだから」
「友達と遊んでも楽しくない」
最も深刻だったのは、海界の中央にある「記憶の神殿」だった。
「ここは、海界の歴史と記憶を保管している場所です」
ネプチューン長老が説明した。
「しかし、今では『悲しい記憶』ばかりが増幅されています」
神殿の中は、確かに重苦しい空気に満ちていた。
「戦争の記憶……」
「失恋の記憶……」
「家族を失った記憶……」
様々な悲しい記憶が、まるで生きているかのように神殿を漂っている。
「これは……」
凛は圧倒された。これほど濃縮された悲しみのエネルギーは初めて体験する。
「このままでは、海界全体が絶望に飲み込まれてしまいます」
ネプチューンが心配そうに続けた。
「すでに、生きる意欲を失って動けなくなった住人も大勢います」
「なにか解決方法はありませんか?」
「一つだけあります」
長老が古い巻物を取り出した。
「『悲しみの海』の浄化の儀式です」
「ただし、この儀式は……」
「危険なのですね」
凛が察した。
「はい。儀式を行う者が、海界全体の悲しみを一身に受けることになります」
「地底界以上に危険かもしれません」
「悲しみのエネルギーは、怒りよりも深く心に浸透するからです」
しかし、凛は迷わなかった。
「やります」
「凛……」
ヘンリーが心配そうに見つめたが、凛の決意は固かった。
「でも、今回は一人ではありません」
アリエルが前に出た。
「天界の『希望の光』で、悲しみを和らげることができるかもしれません」
「私も協力します」
グランドールも名乗り出た。
「地底界の『大地の力』で、悲しみを支えることができるでしょう」
「私たち、本当の仲間になりましたね」
レオナが微笑んだ。
「海の食材を使った特別なお菓子で、皆さんの心を癒してみせます」
翌日、儀式の準備が始まった。
海界の特別な食材を集めることから始める。
「これは『涙の真珠』です」
マリーナが美しく光る真珠を見せた。
「海界の住人の感動の涙から生まれる特別な真珠で、深い悲しみを癒す力があります」
「こちらは『希望の海藻』」
青緑色に光る海藻だった。
「絶望の淵にいる人に希望を与える効果があります」
「そして、これが『慈愛の潮』」
特別な海水を容器に入れて見せた。
「母なる海の愛情が込められた水です」
レオナも海界独特の材料を研究していた。
「この『波の砂糖』は面白いですね」
キラキラと光る砂糖を手に取った。
「甘さの中に、波の音のようなリズムがあります」
「これでお菓子を作れば、心に穏やかなリズムを刻むことができそうです」
「それと、この『深海のココア』も珍しい」
深い青色をしたココアパウダーを調べた。
「普通のココアとは全く違いますね」
「そのココアは、海の最深部で数百年熟成させたものです」
ネプチューンが説明した。
「飲むと、心の奥底にある傷を癒してくれます」
準備には二日間かかった。海界の食材は繊細で、扱いに特別な注意が必要だった。
「水の中での調理は、陸上とは全く違いますね」
凛が苦労しながら練習していた。
「でも、慣れてくると、水の流れが調理をサポートしてくれるような気がします」
「そうです」
マリーナが嬉しそうに答えた。
「海界の調理は、水の精霊と協力して行うのです」
儀式当日、記憶の神殿には多くの人魚が集まった。
しかし、皆の表情は暗く、希望を見出せないでいるようだった。
「本当に、私たちは救われるのでしょうか……」
「どうせ無駄よ。悲しみは消えない」
「生きていても辛いだけ」
そんな絶望的な呟きが神殿に響いていた。
「大丈夫です」
凛が皆に向かって言った。
「悲しみは決して悪いものではありません」
「悲しみがあるからこそ、喜びの価値がわかるのです」
「大切なのは、悲しみに支配されるのではなく、悲しみと共に生きることです」
凛の言葉に、少しだけ人魚たちの表情が変わった。
「では、儀式を始めます」
凛は特別な魔法陣の中央に立った。海界の魔法陣は、美しい貝殻と真珠で作られている。
涙の真珠と希望の海藻を使って、「悲しみを慈愛に変えるスープ」の調理を始めた。
慈愛の潮を使った特殊な鍋で、ゆっくりと煮込んでいく。
しかし、調理を始めた瞬間、海界全体の悲しみが凛に流れ込んできた。
「あ……ああ……」
凛は言葉にできないほど深い悲しみに襲われた。
愛する人を失った悲しみ、裏切られた悲しみ、孤独の悲しみ、自分の無力さへの悲しみ。
海のように深く、果てしない悲しみが心を満たしていく。
「凛さん!」
アリエルが天界の希望の光で凛を包んだ。
「一人で背負わないで!」
「俺たちもいる!」
グランドールが大地の力で凛を支えた。
「みんな……」
仲間たちの支えにより、凛は悲しみに押し潰されることなく、調理を続けることができた。
「レオナさん、お願いします!」
「はい!」
レオナも同時に「悲しみを優しさに変えるケーキ」を作り始めた。
波の砂糖と深海のココアを使い、海界の特殊なオーブンで焼き上げる。
「悲しみを感じることは恥ずかしいことではありません」
レオナが作りながら語りかけた。
「悲しみは、愛の裏返しなのですから」
二人の料理が完成すると、神殿全体が温かい光に包まれた。
「これは……」
人魚たちの表情が変わった。
深い悲しみは消えていないが、その悲しみが優しい慈愛の感情に包まれている。
「悲しくても……大丈夫」
一人の人魚が涙を流しながら微笑んだ。
「この悲しみも、私の大切な一部なのね」
「愛した人を思って悲しむということは、愛していた証拠なのね」
次々と人魚たちが気づき始めた。
悲しみを否定するのではなく、受け入れることの大切さを。
「素晴らしい……」
ネプチューン長老が感動していた。
「私たちは長い間、悲しみを恐れていました」
「でも、悲しみこそが私たちの優しさの源だったのですね」
儀式の後、海界は大きく変わった。
悲しみは残っているが、それが人々を結びつける絆となっている。
「辛いときは、一人で抱え込まないで」
「みんなで支え合いましょう」
「悲しみを分かち合えば、きっと乗り越えられるから」
人魚たちが互いに慰め合い、支え合っている。
「これぞ、真の共感の力ですね」
アリエルが感心していた。
「天界にはない、深い感情の繋がりです」
三日間の滞在で、海界の住人たちは悲しみとの付き合い方を学んだ。
「悲しみは消すものではなく、昇華するものなのですね」
「芸術や音楽に表現することで、美しいものに変えることができます」
実際、海界では美しい歌声や芸術作品が生まれ始めていた。
「悲しみから生まれる美は、何物にも代えがたいものですね」
凛も深く感動していた。
帰国の日、多くの人魚が見送りに来た。
「ありがとうございました」
「私たちは悲しみを恥じることをやめました」
「そして、その悲しみを愛に変える方法を学びました」
「今度は、私たちが他の世界を助けたいです」
マリーナも一緒に地上界に来ることになった。
「海界の代表として、多世界協力に参加させていただきます」
王国に戻ると、最後の訪問先である森界からの使者が待っていた。
緑の肌に花の髪飾りをつけた女性、シルフィアが挨拶した。
「お疲れ様でした。私は森界の使者です」
「森界では『根深い恐れ』の問題で困っています」
「恐れが森全体を支配し、だれもが怯えて暮らしているのです」
凛は最後の挑戦に向けて決意を新たにした。
四つの世界を巡る旅も、いよいよ最後の世界となる。
しかし、これまでの経験で学んだことがある。
どんな感情も、決して悪いものではない。
大切なのは、その感情と正しく向き合うことなのだ。
「次は森界ですね」
レオナが意欲的に言った。
「今度はどんな食材があるのでしょう?」
「私たちも一緒に行きます」
アリエル、グランドール、そして新たに加わったマリーナ。
多世界協力チームは、着実に成長していた。
最後の試練を前に、凛は仲間たちに支えられていることを深く感謝していた。
真の多世界平和まで、あと一歩。
必ず成功させてみせる。
<第35話終了>




