第3話「運命の出会い」
翌朝、メルは凛よりも早く起きて、既に一階で掃除を始めていた。
「おはようございます、リンさん!」
振り向いたメルの顔は、昨夜とは見違えるほど生き生きとしていた。希望という光が宿った瞳は、まるで別人のようだ。
「おはよう、メルちゃん。もう始めてくれてるのね」
「はい! 早く立派なカフェにしたくて」
メルの一生懸命な姿を見て、凛も自然と笑顔になった。一人では心が折れそうになることもあったが、仲間がいると頑張れる。
それから三日間、二人は文字通り朝から晩まで働き続けた。
一階の店舗部分は見違えるほど綺麗になり、ギルバートから調達してもらった木製のテーブルと椅子も配置完了。厨房スペースには基本的な調理器具も揃った。
「リンさん、この看板の文字、私が書きましょうか?」
メルが手作りの看板を指差した。
「お願いします。私、あまり字が上手じゃないの」
「任せてください!」
メルは意外にも、とても綺麗な文字を書いた。『Cafe Luna』——月の女神への感謝を込めて、凛が考えた店名だ。
「素敵な字ね。どこで習ったの?」
「孤児院にいた時、シスター・マリアに教わりました。『美しい文字は心を表す』って、いつも言われてて」
メルの過去について、凛はあまり詳しく聞かないようにしていた。きっと辛いこともたくさんあったのだろうから、話したくなった時に聞けばいい。
午後、ギルバートが食材の納品に来た。
「おお、随分と立派な店になったじゃないか!」
彼が運んできてくれたのは、新鮮な卵、上質な小麦粉、バター、それに数種類の香草だった。
「ギルバートさんのおかげです。これで美味しい料理が作れそう」
「それは楽しみだ。実は近所の連中も、新しいカフェの噂で持ちきりなんだよ」
「え、そうなんですか?」
「ああ。『どんな料理が出るんだろう』って、みんな興味津々さ」
それは嬉しい反面、プレッシャーでもあった。期待を裏切らない料理を提供しなければ。
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開店前夜、凛はメニューの最終確認をしていた。
コーヒー、紅茶、ハーブティー。それにシンプルなサンドイッチ、手作りクッキー、そして看板メニューとなる予定のガトーショコラ。
どれも味覚魔法で美味しさを向上させる自信があった。特に、この世界では珍しいチョコレートを使ったケーキには力を入れた。
「リンさん、緊張してるんですか?」
メルが心配そうに覗き込んできた。
「少しね。うまくいくかどうか……」
「大丈夫ですよ」
メルは力強く頷いた。
「この数日、リンさんの作る料理をずっと食べてきました。どれも今まで味わったことのない美味しさです。きっとお客様も喜んでくださいます」
メルの言葉に、凛の不安は少し和らいだ。
「ありがとう、メルちゃん。明日、頑張りましょうね」
「はい!」
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ついに開店当日。
朝早くから最終準備を整え、手作りの看板を店の前に出した。『本日開店 Cafe Luna』の文字が、朝日に美しく照らされている。
「いらっしゃいませ!」
メルが練習してきた挨拶を元気よく披露する。その明るい声に、通りかかる人々が振り返って店を見ていく。
でも、興味深そうに見るだけで、なかなか最初の客は入ってこない。
「やっぱり、新しい店は警戒されるのかしら」
凛が不安になり始めた頃、昼近くになってついに扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
二人で声を揃えて挨拶すると、入ってきたのは見知らぬ男性だった。
三十歳前後だろうか。整った顔立ちで背も高く、一見すると貴公子然としている。しかし、その鋭い瞳には冷たさがあり、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
濃紺の上質な服装からは、相当な身分の人物であることが窺える。こんな王都の片隅まで、何の用事があるのだろう。
「……席は空いているか?」
低く抑えた声だった。感情をあまり表に出さない話し方で、何を考えているかが読めない。
「はい、どちらでもお好きな席にどうぞ」
男性は迷わず窓際の席を選んだ。外の様子を見渡せる位置を選ぶあたり、警戒心が強いのかもしれない。
メニューをじっと見つめる男性の横顔は、まるで彫刻のように美しかった。でも、その美しさには氷のような冷たさが宿っている。
「ご注文はいかがなさいますか?」
凛が恐る恐る声をかけると、男性は顔を上げた。
「コーヒーを。それと……」
彼の視線がケーキの項目で止まった。わずかに眉をひそめているようにも見える。
「このガトーショコラとはなんだ?」
「チョコレートを使ったケーキです。当店のオリジナルで……」
「チョコレート?」
男性の表情に、かすかな興味の色が浮かんだ。やはりこの世界では珍しい食材らしい。
「それも頼む」
「かしこまりました」
厨房に向かいながら、凛は緊張で手が震えるのを感じた。記念すべき最初の客だ。絶対に美味しいものを出したい。
丁寧にコーヒー豆を挽き、湯の温度にも気を配って抽出する。そして、昨夜から仕込んでおいたガトーショコラに、いつも以上に強く味覚魔法をかけた。
『この世界で一番美味しいケーキになって』
心を込めて魔法を発動すると、ケーキから甘く豊かな香りが立ち上った。これまでで最高の出来栄えだ。
「お待たせしました」
男性の前にカップとケーキを置く。彼はまずコーヒーを一口飲んだ。
その瞬間、わずかに目を見開いた。
「……これは」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや……」
男性は何かを考え込むような表情を見せた。そして今度はガトーショコラに手をつける。
一口、また一口と、無言で食べ続ける。その表情からは感想を読み取ることができない。美味しいのか、そうでもないのか……
凛とメルは固唾を呑んで見守った。
最後の一口を飲み込むと、男性は長いため息をついた。そして、カップを置いてじっと凛を見つめる。
「料金は?」
「コーヒーとガトーショコラで三銀貨です」
男性はテーブルに銀貨を四枚置いて立ち上がった。
「釣りは結構だ」
帰り際、彼は振り返ってこう言った。
「この味……どこで覚えた?」
その瞳には、まるで何かを探るような鋭い光があった。ただの食事に対する質問とは思えない、何か深い意味が込められているような……
「え、えっと……」
凛が答えに詰まっていると、男性は小さく首を振った。
「いい店だ。また来る」
そう言い残して、男性は店を出て行った。
「なんだったんでしょうね、あの人」
メルが首をかしげる。
「さあ……でも、美味しく食べてもらえたみたい」
凛は安堵の息をついた。初日の初客が満足してくれたようで何よりだった。
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その日は結局、八人の客が来てくれた。近所の主婦、商人、職人など、様々な人々がCafe Lunaを訪れた。
みんな料理の美味しさに驚き、「こんな味は初めて」「また絶対に来ます」と言って帰って行った。味覚魔法の効果は絶大だった。
「リンさん、大成功ですね!」
「メルちゃんのおかげよ。接客、本当に上手だった」
メルの明るい笑顔と丁寧な対応が、お客様に好印象を与えたのは間違いない。
二人でささやかな祝杯を上げた。小さなカフェの、記念すべき第一日目が終わった。
でも、その夜。
凛は眠れずに窓から外を眺めていた。昼間の謎の男性のことが、どうしても気になって仕方がなかった。
『この味……どこで覚えた?』
まるで、どこかで食べたことがあるような口ぶりだった。でも、この世界に来てから初めて作った料理なのに、なぜそんなことを言うのだろう。
「もしかして、私と同じように異世界から来た人?」
そんな可能性も頭をよぎったが、確証はない。
月明かりの下、静まり返った王都の街並みを見つめながら、凛は小さな疑問を胸に抱いた。
明日からも、きっと多くの客が来てくれるだろう。そして、あの男性もまた現れるかもしれない。その時こそ、もう少し詳しく話を聞いてみたい。
新しい生活は順調に始まったが、凛はまだ知らなかった。この王都に渦巻く複雑な政治情勢を。商業ギルドという巨大な力が個人商店を支配している現実を。
そして、昼間現れた男性が、実は王国の命運を握る重要人物であることを——
彼の名前はヘンリー・ヴァルター。王国筆頭文官として政策を立案し、時には国王の代理として外交交渉も担う、この国でも指折りの実力者だった。
そんな男がなぜ、王都の片隅にある小さなカフェに現れたのか。そして、なぜ凛の料理にあれほど強い関心を示したのか。
すべての謎が明かされるのは、もう少し先のことだった。
<第3話終了>
<第1章「異世界へ、そして小さな夢」完>
第2章予告:「筆頭文官との再会」
順調なスタートを切ったCafe Luna。常連客も増え始めた頃、あの謎めいた男性が再び現れる。今度は王国の制服を身にまとった彼の正体は、王国筆頭文官ヘンリー・ヴァルター。なぜ彼は小さなカフェに通うのか? そして、商業ギルドの影が店に忍び寄る時、凛の運命は大きく動き始める……