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第22話「新婚生活」

 結婚式から一週間が経った。凛はヘンリーの邸宅で新婚生活を始めていたが、まだその現実に慣れきれずにいた。


「おはようございます」


 朝食の席で、凛は少し緊張しながら挨拶した。結婚したとはいえ、筆頭文官の邸宅での生活は、まだどこか非現実的に感じられる。


「おはよう、リン」


 ヘンリーが穏やかに微笑んだ。


「もう少しリラックスしていいんだよ。ここは君の家でもあるのだから」


「はい……でも、まだ慣れなくて」


 確かに、邸宅は豪華で美しいが、Cafe Lunaの上の小さな部屋で過ごした日々とは大きく違う。広い寝室、専用の書斎、庭園の見える居間……すべてが夢のようだった。


「時間をかけて慣れればいい」


 ヘンリーが優しく言った。


「それより、今日はCafe Lunaに行くのか?」


「はい。メルちゃん一人では大変ですから」


 結婚後も、凛はCafe Lunaの経営を続けることにしていた。多くの常連客がいるし、自分の居場所でもある。


「俺も時間があれば顔を出そう」


「ありがとうございます」


 朝食を終えて邸宅を出るとき、凛は複雑な気持ちだった。幸せなはずなのに、どこか落ち着かない。


「リンさん、おかえりなさい!」


 Cafe Lunaに到着すると、メルが明るく迎えてくれた。


「新婚生活はいかがですか?」


「まだ慣れないけど、幸せよ」


「それはよかったです」


 メルが安心したような表情を見せた。


「実は、昨日も今日も、お客様からリンさんのことを聞かれるんです」


「私のこと?」


「はい。『新婚の奥様はお元気ですか?』『まだお店に来てくれますか?』って」


 常連客たちが心配してくれているのだ。凛は胸が温かくなった。


「みんな、リンさんが結婚されてお店を辞めてしまうんじゃないかって心配してるみたいです」


「そんな心配をかけてしまって……」


 凛は申し訳ない気持ちになった。確かに、筆頭文官夫人として忙しくなれば、店に出る時間は減るかもしれない。


 午前中、予想通り多くの常連客がやってきた。


「リンちゃん、結婚おめでとう!」


 マリーが嬉しそうに祝福してくれた。


「ありがとうございます」


「でも、まだお店を続けてくれるのよね?」


「はい、もちろんです」


「よかった!」


 マリーが安堵の表情を見せた。


「このお店がなくなったら、私たちはどうしたらいいかわからないもの」


 ギルバートもやってきて、同じような心配を口にした。


「リンちゃん、偉くなっても俺たちのことを忘れないでくれよ」


「なにを言ってるんですか。私はなにも変わりませんよ」


「そう言ってもらえると安心だ」


 午後、レオナも顔を出してくれた。


「リンさん、新婚生活はいかがですか?」


「まだ慣れませんが、幸せです」


「それはよかったです」


 レオナが少し遠慮がちに続けた。


「実は、職人組合から相談があるんです」


「相談?」


「筆頭文官夫人となられたリンさんに、組合の名誉顧問をお願いしたいという話が出ているんです」


 凛は驚いた。名誉顧問など考えたこともなかった。


「でも、私はまだ若い職人ですし……」


「技術と人格、そして影響力を考えれば、リンさんが最適だという意見が多数です」


 レオナが説明した。


「もちろん、強制ではありません。ご都合が悪ければお断りいただいても」


「少し考えさせてください」


 凛は即答できなかった。名誉顧問という立場の重さを考えると、簡単に引き受けられない。


 夕方、ヘンリーが約束通り店にやってきた。


「今日も忙しそうだったな」


「はい。みなさん心配してくださって」


「それは当然だろう。君は多くの人に愛されているのだから」


 ヘンリーがいつものようにコーヒーとガトーショコラを注文した。結婚前と変わらない、日常の一コマだった。


「実は、職人組合から名誉顧問の話をいただいたんです」


 凛はレオナからの相談について話した。


「それは名誉なことだ」


 ヘンリーが即座に答えた。


「ぜひ引き受けるべきだ」


「でも、筆頭文官夫人として忙しくなるのでは?」


「確かに、公式行事への出席などは増えるだろう」


 ヘンリーが説明した。


「でも、君らしい活動を続けることも大切だ」


「私らしい活動?」


「君は料理を通じて人々を幸せにしてきた。それは筆頭文官夫人になっても変わらないはずだ」


 ヘンリーの言葉に、凛は勇気をもらった。


「むしろ、その立場を活かして、もっと多くの人を幸せにできるかもしれない」


「そうですね」


 凛は決心した。


「名誉顧問をお受けしようと思います」


「よい判断だ」


 その夜、邸宅に戻った凛は、ヘンリーと今後のことについて話し合った。


「これからは、筆頭文官夫人としての公務も増えるだろう」


 ヘンリーが説明した。


「外国使節との晩餐会、慈善事業への参加、王室行事への出席など」


「大変そうですね」


「でも、君なら大丈夫だ」


 ヘンリーが励ました。


「君の人柄なら、だれからも愛されるはずだ」


「ヘンリーさんがそばにいてくれれば、きっと乗り越えられます」


「もちろん、いつでもそばにいる」


 翌日、凛は職人組合の名誉顧問就任を正式に受諾した。


「リンさん、ありがとうございます」


 エドワード組合長が感謝した。


「これで組合の地位も向上するでしょう」


「私こそ、このような機会をいただいて」


 就任式は来月に予定された。それまでに、筆頭文官夫人としての基本的なマナーを学ぶ必要があった。


 午後、王宮から礼法指導官がやってきた。


「リン様、本日よりご指導させていただくマーガレット・ハミルトンです」


 五十代の上品な女性だった。


「よろしくお願いします」


「まずは基本的な立ち居振る舞いから始めましょう」


 礼法の指導は想像以上に厳しかった。歩き方、座り方、お辞儀の仕方、食事のマナー……すべてに細かい決まりがある。


「背筋をもっとお伸ばしください」


「手の位置が少し高すぎます」


「笑顔は上品に、でも親しみやすく」


 一つ一つの動作に注意点があり、覚えることが山ほどあった。


「大変ですが、頑張ってください」


 マーガレットが励ました。


「リン様の自然な魅力を損なわないよう、基本だけしっかり身につければ十分です」


 夕方、疲れ果てた凛にヘンリーが声をかけた。


「礼法の指導は大変だったか?」


「想像以上でした」


「でも、君らしさを失わないことが一番大切だ」


 ヘンリーが慰めてくれた。


「形式も大事だが、君の温かい心が一番の魅力なのだから」


 その週末、凛とヘンリーは初めて夫婦として王宮の公式行事に出席した。


「緊張しています」


「大丈夫。俺がついている」


 行事は隣国大使との晩餐会だった。凛にとっては、筆頭文官夫人としてのデビューでもある。


「筆頭文官夫人、はじめまして」


 隣国大使が丁寧に挨拶してきた。


「リン・ヴァルターと申します。よろしくお願いします」


「あなたが噂の『魔法のケーキ』を作られる方ですね」


「はい」


「我が国でも話題になっております」


 大使の言葉に、凛は少し自信を持った。


 晩餐会は無事に終わり、多くの出席者から好評を得た。


「素晴らしいデビューだった」


 帰り道でヘンリーが褒めてくれた。


「君の自然な魅力が、皆の心を掴んだ」


「ありがとうございます」


 一週間後、凛は職人組合の名誉顧問就任式に臨んだ。


「リン・ヴァルター名誉顧問、就任おめでとうございます」


 エドワード組合長が祝辞を述べた。


「今後とも、職人組合の発展にご尽力ください」


「微力ながら、精一杯務めさせていただきます」


 凛の就任により、職人組合の社会的地位は大幅に向上した。筆頭文官夫人が名誉顧問を務める組合として、王宮からも注目されるようになったのだ。


「これからが本当のスタートですね」


レオナが励ました。


「一緒に頑張りましょう」


 その夜、凛は邸宅の庭で星空を眺めていた。


「なにを考えているんだ?」


 ヘンリーが隣に座った。


「この一週間のことを振り返っていました」


「忙しい一週間だったな」


「でも、充実していました」


 凛は正直に答えた。


「最初は戸惑いましたが、今は自分の役割が見えてきた気がします」


「どんな役割だ?」


「料理を通じて人々を結び、平和な世界を作ること」


 凛の言葉に、ヘンリーが微笑んだ。


「素晴らしい使命だ」


「ヘンリーさんと一緒なら、きっとできます」


「俺たちなら、どんなことでもできるさ」


 星空の下、二人は静かに語り合った。


 新婚生活はまだ始まったばかりだが、既に多くの変化があった。でも、本当に大切なものは変わっていない。


 お互いへの愛情、仲間たちとの絆、そして人々を幸せにしたいという想い。


 これからも、この気持ちを大切にしながら歩んでいこう。


 どんな困難が待っていても、二人なら乗り越えられる。


 そう信じて、凛は明日への希望を胸に抱いた。


 新たな挑戦が待っている。でも、もう怖くない。


 愛する夫と共に、新しい未来を切り開いていくのだから。


<第22話終了>

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