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第2話「新たな出会いと仲間」

 翌朝、凛は日の出と共に目を覚ました。


 昨夜は興奮で眠れなかったが、朝の清々しい空気を吸うと自然と活力が湧いてくる。十九歳の若い体というのは、本当に素晴らしいものだった。


「さあ、今日から本格的に店作りを始めましょう」


 まずは店内の掃除から。長い間放置されていたらしく、至る所に埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。窓ガラスも曇って外の景色がよく見えない。


「これは相当大変そうね……」


 でも、やりがいがある。一つ一つ丁寧に掃除していけば、必ず素敵な空間に変わるはずだ。


 現代で培った器用さが意外に役立った。フードスタイリストの仕事では、撮影セットの細かい調整や小道具の配置なども担当していたため、空間作りには慣れている。


 床を磨き、壁の汚れを拭き取り、壊れた扉の蝶番を調整する。午前中いっぱいかけて、ようやく一階の半分程度が片付いた。


 昼頃になって一息つこうと外に出ると、隣の建物から香ばしくて甘い匂いが漂ってきた。


「パン屋さんかしら?」


 看板を見上げると、「ハーン・ベーカリー」と書かれている。確かにパン屋のようだ。せっかくなので、挨拶がてら覗いてみることにした。


「いらっしゃい!」


 扉を開けた途端、陽気で大きな声が響いた。カウンターの向こうには、小麦粉で白くなったエプロンを身につけた中年男性が立っている。がっしりした体格で、人懐っこい笑顔を浮かべていた。


「新顔だねえ。この辺りじゃ見ない顔だが」


「昨日からお隣に住むことになりました。綾瀬凛です。こちらでは、リン・アヤセと名乗ります」


「ギルバート・ハーンだ。よろしく頼むよ、リンちゃん」


 ギルバートは粉だらけの手をエプロンで拭いてから、力強く握手してくれた。その手は長年パン作りに従事してきた職人のものだった。


 店内を見回すと、様々な種類のパンが並んでいる。どれも美味しそうだが、現代のパンと比べると少しシンプルな印象だった。


「それで、隣でなにをするんだい?」


「カフェを開こうと思ってます」


「カフェ?」


 ギルバートは首をかしげた。やはり、この世界ではまだ馴染みのない言葉らしい。


「えっと、コーヒーや紅茶、それに軽食やお菓子を提供するお店です」


「ああ、茶店みたいなものか! それは面白い。この辺りは商店が少ないから、きっと重宝されるよ」


 ギルバートの表情が一気に明るくなった。


「実はな、この界隈の商店街復活が俺の長年の夢なんだ。昔はもっと賑やかだったんだが、最近は王都中心部に客を取られちまってね」


 そう言いながら、ギルバートは焼きたてのクロワッサンを一つ包んでくれた。


「これ、サービスだ。近所付き合いってやつさ」


「ありがとうございます」


 受け取ったクロワッサンはまだ温かく、バターの豊かな香りがした。一口食べると、外はサクサク、中はふんわりとした食感で、素朴だが味わい深い。


「とても美味しいです。こんなに上手にパンを焼けるなんて」


「おお、そう言ってもらえると嬉しいよ。実は俺、パン屋の他に食材の行商もやってるんだ」


 ギルバートは誇らしげに胸を張った。


「王都近郊の農家を回って、新鮮な食材を仕入れてくる。もし必要なものがあったら、何でも声をかけてくれ。多少無理な注文でも、なんとかしてみせるからな」


「それは本当に助かります。食材の仕入れ先を見つけるのに困っていたんです」


 これは思わぬ幸運だった。信頼できる食材供給業者との繋がりは、カフェ経営にとって生命線だ。


「じゃあ、今度詳しい話を聞かせてもらえますか?」


「もちろんだとも!」


 ギルバートとの会話で、凛の心は軽やかになった。この世界での最初の友人を得ることができたのだ。


---


 午後からは二階の居住スペースの片付けに取りかかった。一階ほどひどい状態ではないが、やはり長期間の放置で様々なものが散乱している。


 寝室として使えそうな部屋、小さな書斎、簡単な水回り設備。一人で住むには十分な広さだった。


 夕方になって一段落つくと、疲労感と共に達成感も湧いてきた。確実に店づくりが前進している。


「明日は厨房設備を整えましょう」


 基本的な調理器具や食器類は、明日ギルバートに相談して調達してもらおう。この世界の商習慣もよくわからないので、現地の人にアドバイスをもらうのが一番だ。


 夕食は近くの食堂で簡単に済ませた。料理は素朴で悪くはないが、やはり調味料の種類が限られているようだ。塩、胡椒、数種類のハーブ程度で、現代日本のように多彩な調味料は見当たらない。


『これなら、味覚魔法の効果も大きそう』


 凛の中で、確信が強まっていく。この世界の人々に、本当の「美味しさ」を伝えることができるかもしれない。


---


 夜が更けた頃、凛は二階で明日の計画を立てていた。


 まずは基本的な設備を整える。次にメニューの開発。そして試験営業を経て、正式開店という流れが理想的だろう。


 そのとき、階下から音が聞こえた。


 コンコン、コンコン。


 誰かが店の扉を叩いている。


「こんな時間に?」


 時計を見ると、既に夜の九時を過ぎていた。こんな遅い時間に店を訪ねてくる人なんているのだろうか。


 恐る恐る一階に下りて、扉の向こうに声をかける。


「どちら様ですか?」


「すみません……人を探してるんです」


 若い女の子の声だった。不安そうで、とても疲れ切っているような響きがある。


「この辺りに新しく住み始めた女性がいると聞いたんですが……」


「私のことでしょうか?」


 凛は慎重に扉を開けた。そこには、薄汚れた茶色の服を着た少女が立っていた。


 年の頃は十六歳くらいだろうか。栗色の髪を短めに切り、大きな緑色の瞳をしている。美しい顔立ちだが、頬がこけて栄養不足の様子が見て取れた。


「あ、あの……」


 少女は深々と頭を下げた。その動作から、礼儀正しく育てられたことが分かる。


「お仕事を、探してるんです」


 声が震えている。必死さと恥ずかしさが入り混じった、複雑な感情が込められていた。


「カフェというお店を開くって噂を聞いて……もし、もしよろしければ、私を雇ってもらえませんか?」


「あなたのお名前は?」


「メルです。フルネームはメル・ハートウッドですが、みんなメルって呼びます」


 メルと名乗った少女の瞳には、希望と不安が同時に宿っていた。


「料理は……正直に言うと、あまり得意じゃありません。でも、一生懸命覚えます。掃除でも接客でも、なんでもやります」


 その必死な様子に、凛は胸を打たれた。きっと様々な事情を抱えているのだろう。


「とりあえず、中に入りなさい。外は寒いでしょう」


「え、でも……」


「いいから。温かいものでも飲みましょう」


 メルの顔がパアッと明るくなった。まるで暗闇に希望の光が差し込んだような表情だった。


「ありがとうございます!」


---


 簡素な二階の居間で、凛は手持ちのハーブで温かいお茶を淹れた。メルは緊張した様子で正座している。


「リラックスして。まずは、あなたの事情を聞かせてもらえる?」


「はい……」


 メルは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。


「私、孤児院の出身なんです。十四歳まで聖マリア孤児院にいました」


 孤児院——この世界にもそういう施設があるのか。


「孤児院を出た後は、いくつかの店で働かせてもらいました。でも……」


 メルの表情が曇った。


「私、少しおっちょこちょいなところがあって、よく失敗するんです。お皿を割っちゃったり、注文を間違えたり……それで、どのお店も長続きしなくて」


「今はどこに?」


「教会の隅で寝泊まりさせてもらってます。シスター・アンナが優しくて……でも、いつまでもご迷惑をかけるわけにはいかないんです」


 メルの境遇を聞いて、凛の心は痛んだ。まだ十六歳の少女が、こんなに苦労しているなんて。


「実は私も、まだ開店の準備中なんです。だから、すぐにちゃんとしたお給料を払えるかわからないけれど……」


「それでも構いません!」


メルの返事は即座だった。


「食事と寝る場所があれば、それだけで十分です。この店を、一緒に素敵なカフェにしましょう!」


 その瞬間、凛は決心した。この真面目で一生懸命な少女と、一緒に夢を追いかけてみたい。


「わかりました。明日から、一緒に頑張りましょう」


「本当ですか?」


 メルの瞳に涙が浮かんだ。


「ありがとうございます、リンさん! 絶対に期待に応えてみせます」


「こちらこそ、よろしくお願いします、メルちゃん」


 その夜、凛は小さな家族を得た。血の繋がりはないけれど、同じ夢を追いかける大切な仲間。


 二人の笑顔が、薄暗い室内を温かく照らしていた。


 でも、深夜の静寂の中、凛もメルも気づかなかった。店の向かいの建物の影から、じっとこちらを見つめる鋭い視線があることを。


 その瞳の主は、明日から彼女たちの運命を大きく変えることになる男性だった——


<第2話終了>

次回予告:第3話「運命の出会い」

 メルと共に開店準備を進める凛。ついに迎えた開店の日、最初の客として現れたのは、冷たく鋭い瞳をした謎めいた男性だった。彼の正体は?そして、なぜ凛の料理に特別な関心を示すのか……

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