第12話「新たな脅威」
ヘンリーとの関係が恋人同士に発展してから一ヶ月が経った。Cafe Lunaは相変わらず繁盛しており、凛の日々は充実していた。
「リンさん、今日は菓子職人組合の初会合ですね」
メルが嬉しそうに言った。一週間前に正式加入が認められ、今日が初めての定例会合だった。
「少し緊張するけど、レオナさんも一緒だから大丈夫」
凛は身支度を整えながら答えた。組合の会合は月に一度、王都中央の職人会館で開催される。
「頑張ってください。きっといい出会いがありますよ」
午後三時、職人会館に到着すると、レオナが既に待っていてくれた。
「リンさん、お疲れ様。準備はいかがですか?」
「おかげさまで。でも、やはり緊張しますね」
「大丈夫です。皆さん、とても親切な方ばかりですから」
二人は会合室に入った。そこには十数名の菓子職人たちが集まっている。年配の職人から若い職人まで、様々な世代が参加していた。
「皆さん、新しい仲間をご紹介します」
組合長のマスター・エドワードが立ち上がった。六十代の威厳ある男性で、王都で最も歴史ある菓子店を経営している。
「リン・アヤセさんです。先日、王宮での茶会で素晴らしい技術を披露され、筆頭文官殿からも高い評価を受けておられます」
拍手が起こった。職人たちは皆、好奇心に満ちた視線を向けてくる。
「リンさん、簡単に自己紹介をお願いします」
「はい」
凛は立ち上がった。
「リン・アヤセと申します。王都の片隅でCafe Lunaという小さなカフェを経営しております。まだまだ未熟な身ですが、皆様からご指導をいただければと思います」
「謙遜することはありません」
エドワードが微笑んだ。
「王宮で認められた技術をお持ちなのですから」
会合では、各職人の近況報告や技術交換が行われた。凛は他の職人たちの豊富な経験と知識に感銘を受けた。
「ところで」
会合の終盤、エドワードが深刻な表情になった。
「最近、気になる情報があります」
「なんでしょうか?」
「商業ギルドが、個人経営の菓子店に対して新たな規制を検討しているようです」
職人たちがざわめいた。商業ギルドの脅威は、誰にとっても他人事ではない。
「どのような規制ですか?」
若い職人の一人が質問した。
「『食品安全基準の厳格化』という名目です」
エドワードが説明した。
「表向きは安全性の向上ですが、実際は個人店には対応困難な基準を設定し、廃業に追い込むのが狙いでしょう」
凛は背筋が寒くなった。商業ギルドは表立った攻撃ができないため、法的な手段で圧力をかけようとしているのだ。
「対策はありますか?」
レオナが不安そうに尋ねた。
「職人組合として、正式に抗議することは可能です」
エドワードが答えた。
「しかし、相手も政治的な影響力を持っています。簡単ではありません」
会合が終わった後、凛とレオナは重い気持ちで会館を出た。
「やはり商業ギルドは諦めていませんね」
レオナが心配そうに言った。
「でも、今度は個人店全体を標的にしている。リンさんだけの問題ではありません」
「それが逆に不安です」
凛は正直な気持ちを話した。
「私のせいで、他の職人さんたちにまで迷惑をかけてしまうかもしれません」
「そんなことありません」
レオナがきっぱりと否定した。
「商業ギルドの野心は以前からあったのです。リンさんの成功は、単にきっかけに過ぎません」
夕方、Cafe Lunaに戻ると、メルが心配そうに待っていた。
「お疲れ様でした。会合はいかがでしたか?」
凛は商業ギルドの新たな動きについて報告した。メルの表情も曇った。
「また嫌がらせが始まるのでしょうか……」
「わからないけど、用心するに越したことはないわね」
そのとき、店の扉が開いて見慣れない男性が入ってきた。
三十代後半と思われる痩せた男性で、質素な服装をしている。商人風でもなく、職人風でもない、どこか掴みどころのない印象だった。
「いらっしゃいませ」
凛が挨拶すると、男性は軽く頷いて席に着いた。
「コーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
凛がコーヒーを淹れている間、男性は店内を観察するような視線を送っていた。その視線が、なぜか凛には不快に感じられた。
「お待たせしました」
コーヒーを出すと、男性は一口飲んで頷いた。
「美味しいですね。噂通りです」
「ありがとうございます」
「ところで」
男性が突然言った。
「あなたが『魔法のケーキ』を作る職人さんですね」
「はい……」
「とても興味深い技術だと聞いています。どのような原理なのでしょうか?」
男性の質問は、他の客とは明らかに違う鋭さがあった。単なる好奇心ではなく、何か特定の目的があるような……
「申し訳ございませんが、技術的な詳細はお答えできません」
「そうですか」
男性は残念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「では、その技術はどこで学ばれたのですか? 師匠がいらっしゃるのでしょうか?」
今度の質問はさらに踏み込んだものだった。凛は警戒心を強めた。
「独学です」
「独学で、あれほど高度な技術を?」
男性の声には疑いが込められていた。
「天才的な才能をお持ちなのですね」
「そんな……」
「失礼」
男性は立ち上がった。
「長居してしまいました。コーヒー、とても美味しかったです」
料金を払って出て行く男性を、凛は不安な気持ちで見送った。
「リンさん、今のお客様、なんだか変でしたね」
メルも同じことを感じていたようだ。
「普通のお客様とは違う質問の仕方でした」
「そうね……少し気をつけた方がいいかもしれない」
夜になって、ヘンリーがやってきた。恋人同士になってからも、彼は毎日店に顔を出してくれる。
「今日はどうだった? 組合の会合は」
「それが……」
凛は組合で聞いた商業ギルドの新たな動きと、昼間の不審な客について話した。
ヘンリーの表情が険しくなった。
「商業ギルドの件は、俺も情報を得ていた。近日中に正式発表される予定だ」
「やはり本当だったのですね」
「ああ。『食品安全基準法の改正』という名目で、個人店には事実上不可能な基準を設定しようとしている」
ヘンリーは続けた。
「そして、その不審な客の件も気になる」
「ご存知なのですか?」
「詳細に技術について質問する人物が現れるという情報があった。商業ギルドの調査員の可能性が高い」
凛は背筋が寒くなった。
「私の技術を調べて、なにをするつもりでしょうか?」
「恐らく、『違法な技術の使用』や『食品安全への脅威』といった理由をでっち上げるつもりだろう」
ヘンリーの推測は的確だった。
「でも、対策はある」
「対策?」
「明日、王宮で緊急会議を開く。君の技術を王国の『重要文化技術』として正式登録するんだ」
「重要文化技術?」
「ああ。一度登録されれば、商業ギルドといえども手を出せない」
ヘンリーの提案は心強かった。
「ただし……」
彼の表情が少し曇った。
「登録には詳細な技術説明が必要になる。抽象的な説明では通らないだろう」
それが問題だった。味覚魔法のことは絶対に明かせない。
「なにか方法はありませんか?」
「考えてみよう」
ヘンリーが凛の手を取った。
「必ず君を守る。約束する」
その夜、凛は不安で眠れなかった。商業ギルドの新たな攻撃、不審な調査員、そして技術登録の問題。課題が山積みだった。
でも、一つだけ確かなことがあった。ヘンリーをはじめ、多くの人が自分を支えてくれるということ。
翌朝、予想通り店には不審な客が現れた。昨日とは違う人物だが、やはり技術について執拗に質問してくる。
「申し訳ございませんが、技術的な詳細はお答えできません」
凛は毅然として対応した。
「企業秘密ということでしょうか?」
「はい」
「しかし、食品安全の観点から、使用している材料や製法については説明義務があるのではないでしょうか?」
男性の質問は巧妙だった。法的な義務があるかのような言い方で、情報を聞き出そうとしている。
「現在のところ、そのような義務はございません」
「しかし、近々法改正が予定されていると聞いています」
やはり商業ギルドの関係者だった。法改正の内容を事前に知っている。
「法改正がございましたら、その時点で適切に対応いたします」
「そうですか……」
男性は諦めたように立ち上がった。
「また伺わせていただきます」
この脅しのような言葉を残して、男性は去って行った。
午後、レオナが心配そうにやってきた。
「リンさん、私の店にも変な客が来ました」
「同じような人ですか?」
「はい。技術について詳しく質問してきました」
やはり組織的な動きだった。商業ギルドは個人店を一軒ずつ調査しているのだ。
「エドワード組合長にも報告しましょう」
「そうですね」
その夜、ヘンリーは深刻な表情で報告した。
「明日、商業ギルドが正式に法改正案を発表する」
「内容は?」
「予想通りだ。個人店には対応不可能な安全基準が設定されている」
「それで、文化技術の登録は?」
「王宮内で反対意見が出ている」
ヘンリーが困った表情を見せた。
「一部の貴族たちが『平民の技術を過度に優遇するべきではない』と主張している」
政治的な対立まで巻き起こしているのだ。
「でも、諦めない」
ヘンリーが凛の手を握った。
「必ず道を見つける」
しかし、事態はさらに深刻化していた。翌日、ギルバートが青い顔でやってきた。
「リンちゃん、大変だよ」
「どうしたんですか?」
「商業ギルドが、俺に圧力をかけてきた」
「圧力?」
「『問題のある店舗への食材供給を停止するように』って命令されたんだ」
凛は愕然とした。ついに間接的な攻撃が始まったのだ。
「でも、俺は絶対に屈しない」
ギルバートが力強く言った。
「リンちゃんの店は俺にとっても大切だからな」
仲間たちの支援に感謝しつつ、凛は覚悟を決めた。
商業ギルドとの本格的な戦いが、いよいよ始まったのだ。
<第12話終了>




