第10話「王都の噂」
王宮での茶会から一週間が経ち、Cafe Lunaを取り巻く状況は劇的に変化していた。
「リンさん、今日も朝からお客様の列ができてますよ」
メルが興奮気味に報告した。店の外には、開店前から十数人の客が並んでいる。こんな光景は、これまで見たことがなかった。
「『奇跡のスイーツ』を体験したいお客様ばかりです。でも……」
メルの表情が少し曇った。
「みなさん、王宮で出されたような特別なケーキを期待されているようで」
確かに問題だった。王宮で提供したような複雑な魔法を使ったケーキを毎日大量に作るのは、体力的に不可能だ。
「予定通り、特別メニューとして週に数回だけ提供することにしましょう」
凛はレオナと相談して決めた計画を実行することにした。
開店と同時に、列を作っていた客たちが一斉に店内に入ってきた。普段の常連客とは明らかに違う、上流階級らしき人々が多い。
「『魔法のケーキ』をください」
「王宮と同じものを」
「時間差で味が変わるという、あのケーキは?」
口々に注文が飛び交ったが、凛は落ち着いて対応した。
「申し訳ございませんが、特別なケーキは火曜日と金曜日の限定メニューとなっております。本日は通常のメニューをお楽しみください」
客たちは明らかに失望した。中には不満を露わにする者もいた。
「それでは意味がありません」
「わざわざ来たのに」
「他の店とどう違うというのですか?」
厳しい反応に、凛は内心で動揺したが、それでも丁寧に説明した。
「通常のメニューも、心を込めて作らせていただいております。きっとご満足いただけると思います」
「心を込めて? そんな抽象的なことではなく、王宮で話題になった『魔法』を体験したいのです」
ある客が強い口調で言った。
「申し訳ございませんが、特別なケーキは材料や技術の関係で……」
「技術?」
別の客が疑問を投げかけた。
「一体どんな技術を使っているのですか? まさか本当に魔法を使っているわけではないでしょう?」
凛は答えに困った。まさか本当に魔法だとは言えない。
「企業秘密ということで……」
「企業秘密?」
客たちがざわめき始めた。
「そんな曖昧なことでは納得できません」
「王宮で認められた技術なら、もっと堂々と説明できるはずです」
状況は悪化していた。客たちの不満が高まり、店内の雰囲気が険悪になっていく。
そのとき、馴染みのある声が聞こえた。
「皆さん、少し落ち着いてください」
振り返ると、マリーが入ってきていた。いつもの気さくな笑顔で、新しい客たちに向き直る。
「私はこの店の常連ですが、リンちゃんの『通常の』お菓子も十分素晴らしいですよ」
「でも、王宮で出されたような特別なものとは違うでしょう?」
「確かに特別なケーキは素晴らしいです。でも、それは材料も時間もかかる贅沢品です」
マリーは穏やかに説明した。
「毎日食べるものと、特別な日の記念品は別物でしょう?」
マリーの説明に、何人かの客が頷いた。
「それに」
マリーが続けた。
「リンちゃんのガトーショコラは、特別な魔法がなくても十分に美味しいです。騙されたと思って試してみてください」
マリーの説得で、何人かの客が通常メニューを注文してくれた。ガトーショコラとコーヒーを味わった客たちは、すぐに表情を変えた。
「これは……確かに美味しいですね」
「王宮のものとは違いますが、これはこれで素晴らしい」
「この味なら、毎日でも楽しめそうです」
一人が認めると、他の客たちも次々に注文し始めた。凛の通常の味覚魔法でも、十分に感動を与えることができたのだ。
午後になって、客たちが帰った後、マリーが凛に声をかけた。
「大変だったわね」
「ありがとうございました。マリーさんのおかげで助かりました」
「でも、これは序の口よ」
マリーの表情が心配そうになった。
「王宮での成功は確かに素晴らしいことだけど、有名になりすぎるのも考えものね」
「どういうことでしょうか?」
「王都中の話題になったということは、よからぬ人たちの注意も引いているということよ」
マリーは声を潜めた。
「商業ギルドの連中も、黙って見てはいないでしょうし、王宮内部でも妬みを買っている可能性があるわ」
確かに、急激な成功には必ず反動がある。凛はそのことを考えていなかった。
「それに、お客様の期待も高くなりすぎている」
マリーが指摘した。
「今日みたいに『魔法のケーキ』だけを求める人が増えると、通常営業に支障が出るわよ」
マリーの警告は的確だった。確かに、特別なメニューばかりに注目が集まると、日常的な営業が困難になってしまう。
夕方、ヘンリーがいつものようにやってきたが、今日は表情が少し重かった。
「今日は大変だったようだな」
「ヘンリーさんもご存知なんですか?」
「王都の噂は早い。君の店に大勢の客が押し寄せたという話は、すでに王宮にも届いている」
ヘンリーはいつもの席に座った。
「茶会の成功は確かに喜ばしいことだが、予想以上の反響に戸惑っているのでは?」
「はい……正直なところ」
「無理もない。急激な変化に対応するのは難しい」
ヘンリーは理解を示してくれた。
「ところで、気になる情報がある」
「情報?」
「商業ギルドが動き始めた」
ヘンリーの言葉に、凛は背筋が寒くなった。
「今回の件で、君の店の影響力が無視できないレベルに達したと判断したようだ」
「それで、どんな行動を?」
「表立った嫌がらせはできない。王宮の公式認定があるからな」
ヘンリーは慎重に言葉を選んだ。
「だが、間接的な圧力をかけてくる可能性がある」
「間接的な圧力?」
「たとえば、食材の供給業者への働きかけ、建物の所有者への圧力、近隣商店への離間工作など」
ヘンリーの説明で、凛は商業ギルドの狡猾さを理解した。直接的な攻撃はできないが、様々な方法で店の運営を困難にしようとするのだ。
「でも、対策はある」
「対策?」
「君の技術を王国の公式な『文化遺産』として登録することだ」
ヘンリーの提案に、凛は驚いた。
「文化遺産?」
「ああ。今回の茶会で、君の技術が外交的にも価値があることが証明された。それを正式に認定すれば、商業ギルドも手を出せない」
確かに、それは有効な防御策かもしれない。
「ただし……」
ヘンリーが付け加えた。
「正式な登録には、技術の詳細な説明が必要になる」
凛は困った。味覚魔法の詳細を公式に説明するのは不可能だ。
「抽象的な説明でも構わない」
ヘンリーが察したように言った。
「『特殊な調理技法』『独自の材料配合』程度の説明で十分だろう」
「それなら……」
「考えておいてくれ。急ぐ必要はないが、いざというときの備えとして」
その夜、凛は一人で店の片付けをしながら考えていた。王宮での成功は確かに嬉しかったが、それに伴う問題も多い。
特に気になるのは、お客様の期待の高まりだった。今日のように「魔法のケーキ」だけを求める客が増えると、通常の営業ができなくなってしまう。
「リンさん、なにか心配事ですか?」
メルが気づいて声をかけてきた。
「今日のこと、どう思う?」
「お客様が増えるのは嬉しいですが……少し複雑ですね」
メルも同じように感じていたようだ。
「みなさん、『魔法』という言葉に惹かれているようですが、リンさんの本当のよさを理解してくれているのか疑問です」
メルの指摘は的確だった。確かに、多くの客は「魔法」という珍しさにのみ興味を示しており、凛の料理に込められた心は理解していないようだった。
「でも、マリーさんみたいに理解してくれる方もいます」
「そうね。大切なのは、そういう方々を大事にすることかもしれない」
翌日、予想通りまた多くの客が押し寄せた。でも今度は、凛は準備していた。
「本日の『魔法のケーキ』は完売いたしました」
開店と同時に、こう発表した。実際には作っていなかったが、毎日提供するつもりはないからだ。
「完売? まだ開店したばかりじゃないですか」
「申し訳ございません。特別なケーキは数量限定で、予約制とさせていただいております」
凛は冷静に対応した。
「予約はいつから受け付けていますか?」
「火曜日と金曜日の朝九時からです。先着順で、一日五個限定です」
この制限により、特別メニューを求める客の殺到を防ぐことができた。
それでも通常メニューを注文してくれる客もいて、その中には凛の料理の本当の価値を理解してくれる人もいた。
「このガトーショコラ、本当に美味しいですね」
ある女性客が感動して言った。
「『魔法』というほど派手ではありませんが、心が温まる味です」
「ありがとうございます」
こうした感想が、凛には何より嬉しかった。
午後、レオナがやってきた。
「大変な人気ですね」
「レオナさんのお店も同じような状況ですか?」
「ええ。でも、私は最初から『王宮仕様のケーキは特別注文のみ』と決めていました」
レオナの判断は賢明だった。
「リンさんも、無理をする必要はありませんよ」
「そうですね。でも、期待してくださるお客様を失望させるのも……」
「期待と要求は違います」
レオナがきっぱりと言った。
「本当にリンさんのお菓子を愛してくれるお客様なら、リンさんのペースを理解してくれるはずです」
レオナの言葉に、凛は勇気をもらった。
「それに、毎日『魔法のケーキ』を作っていたら、リンさんの体が持ちませんよ」
「確かに……」
「特別なものは特別な時だけ。それが一番です」
その夜、凛は決心した。王都の噂や商業ギルドの圧力に惑わされず、自分のペースで店を運営していこう。
本当に大切なのは、お客様との心の繋がりだ。派手な魔法ではなく、心を込めた料理で人々を幸せにすること。
それが、自分がこの異世界でやりたかったことなのだから。
翌日から、凛は新しいルールで店を運営し始めた。特別メニューは週二回の完全予約制。通常メニューに集中し、一人一人のお客様を大切にする。
最初は不満を示す客もいたが、徐々に凛の方針を理解してくれる人が増えていった。
そして何より、常連客たちが戻ってきてくれた。マリー、ギルバート、そして近所の人々。彼らが店に活気と温かさを取り戻してくれた。
「これでよかったんだと思います」
メルが嬉しそうに言った。
「お客様も落ち着いて、前の雰囲気が戻ってきましたね」
確かに、店内には以前の温かい雰囲気が戻っていた。
その夜、ヘンリーがやってきたときも、いつものような穏やかな時間を過ごすことができた。
「よい判断だった」
ヘンリーが言った。
「君らしさを失わずに、成功を管理できている」
「ありがとうございます」
「ただし、商業ギルドのことは忘れるな。彼らはまだ諦めていないはずだ」
「はい。気をつけます」
でも、もう怖くなかった。仲間がいるし、自分の信念もはっきりしている。
どんな困難が来ても、きっと乗り越えられる。
Cafe Lunaは、新しい段階に入ったのだ。
<第10話終了>




