第1話「さよなら、現代」
「クライアントの要求、また変わったんですか……」
綾瀬凛は撮影用のスイーツプレートを見つめながら、深いため息をついた。二十七歳、フリーのフードスタイリスト。一見華やかに聞こえるその肩書きだが、現実は厳しい。
今日で三度目の撮り直しだった。
「もっとインスタ映えするやつで」
「バズりそうな、こう……若い子が喜びそうなビジュアルにしてよ」
「予算は変わらないから、よろしく」
最後の一言が特に胸に刺さる。クライアントからの無理難題は日常茶飯事で、それでも生活のためには受け入れるしかなかった。
でも、凛には譲れないこだわりがあった。
『見た目だけじゃなく、本当に美味しいものを作りたい』
その想いを胸に、今日も食材を一つ一つ吟味し、色合いを考えて盛り付けを工夫し、一皿一皿に魂を込めてきた。けれど、それが報われることは少なかった。
「結局、写真映えすればいいのよね……」
撮影が終わると、せっかく作ったスイーツの多くは廃棄される。見た目は完璧でも、時間が経って味が落ちているからだ。そんな現実に、凛はいつも心を痛めていた。
食べ物は、本来人を幸せにするもののはずなのに。
「せめて、自分の店があったらなあ」
一人になった撮影スタジオで、凛は小さくつぶやいた。
小さなカフェを経営する——それが凛の密かな夢だった。お客様の顔を見ながら、心を込めて作った料理を提供する。「美味しい」という笑顔を直接見ることができる。そんな当たり前のことが、どんなに贅沢に思えることか。
でも現実は厳しい。都内でカフェを開くには莫大な初期投資が必要だし、競争も激しい。フリーランスの不安定な収入では、とても手が届かない夢だった。
夜の帰り道、コンビニで特売のカップ麺を手に取る。今月も家計は火の車。冷蔵庫には卵と野菜が少しだけ。明日の昼食用に、おにぎりでも作っておこうか。
「来月こそは、きっと大きな案件が……」
そんな淡い期待を抱きながら、凛は人通りの少ない夜道を歩いていた。街灯の光が薄く、影が長く伸びている。早く帰って、温かいお風呂に入りたかった。
そのときだった。
キーーッ!!
突然の急ブレーキ音が夜の静寂を破った。
振り返った瞬間、巨大なトラックのヘッドライトが凛の網膜を焼いた。運転手が居眠りしていたのか、車体が大きく蛇行している。
『あ、これは……だめだ』
頭の中が真っ白になった。体が宙に浮く感覚。激しい衝撃。でも、不思議と痛みは感じなかった。むしろ、妙に静かで落ち着いた気持ちだった。
意識が薄れていく中で、凛の脳裏に様々な記憶が蘇った。
子どもの頃、母と一緒に作ったクッキー。初めて一人で焼いたスポンジケーキ。調理専門学校での厳しい実習。就職活動で何度も落とされた日々。そして、フードスタイリストとして独立してからの孤独な日々……
最後に頭をよぎったのは、叶わなかった小さなカフェの夢だった。
温かい木のテーブル。手作りのケーキが並ぶショーケース。コーヒーの香りに包まれた店内で、お客様が笑顔でくつろいでいる光景……
『もう、叶わないのね』
そう思った瞬間、意識は完全に闇に沈んでいった。
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「お疲れさまでした」
気がつくと、凛は眩いばかりの白い空間に立っていた。足元は雲のようにふわふわして、でも確かな感触がある。目の前には、神々しい光を纏った美しい女性がいた。
長い金髪が光の粒子のように舞い踊り、青い瞳は深い海のように澄んでいる。間違いなく、神話に出てくるような女神だった。
「えっと……私、死んじゃったんですか?」
「はい。交通事故でした。ご愁傷さまです」
女神の返答は、あまりにもあっけらかんとしていた。まるで「今日はいい天気ですね」と言うような調子で。
凛は苦笑いした。「死」という重大事に対して、なぜかそれほど深刻に受け止められない自分がいた。むしろ、どこかほっとしているような……
「天国ですか? それとも地獄行きでしょうか?」
「実は、あなたには特別なご提案があります」
女神の表情が、わずかに真剣味を帯びた。
「あなたの強い想いが、遠く離れた別の世界から響いてきたんです。『美味しい料理で人を幸せにしたい』という、とても純粋で美しい願い。その世界の人々は今、とても困っているんです」
「困っている?」
凛は首をかしげた。
女神は手を優雅に動かすと、空中に映像が浮かび上がった。中世ヨーロッパのような街並み、魔法らしきものを使う人々の姿。そして、質素で単調な食事を取る人々の様子。
「食文化が十分に発達しておらず、人々は味気ない食事で満足せざるを得ない状況なのです。調味料の種類も限られ、調理法も単純。でも本当は、もっと豊かな味覚体験を心の奥底で求めているんです」
映像の中の人々は、確かに食事に喜びを見出せずにいるようだった。生きるための作業として、義務的に食べ物を口に運んでいる。
「あなたにお願いしたいことがあります」
女神の瞳が、凛を真っ直ぐに見つめた。
「その世界で、あなたの夢を叶えてもらえませんか? 小さなカフェから始めて、人々に本当の『美味しさ』を伝えてください。きっと、多くの人を救うことになるはずです」
凛の心臓が——まだあるのかどうかわからないが——激しく高鳴った。
「でも、私なんて大した料理人じゃありません。フードスタイリストって言っても、結局は見た目をよくするのが主な仕事で、本格的な調理は……」
「大丈夫です」
女神は微笑みながら手をかざした。温かい光が凛の全身を包み込む。
「あなたには特別な力を授けます。『味覚魔法』——食材の持つ本来の美味しさを最大限に引き出し、異なる味を調和させる魔法です。戦闘には全く向きませんが、料理においては非常に貴重で強力な才能なんですよ」
「味覚魔法……」
凛は自分の手を見つめた。見た目は変わらないが、確かに何かが宿ったような感覚がある。
「この力があれば、きっとあなたの理想とするカフェが作れるはずです。そして、その世界の食文化を豊かにし、人々の心も豊かにできるでしょう」
光がさらに強くなり、凛の体が透け始めた。転移が始まったようだ。
「最後に一つ。その世界では、あなたは十九歳の若い姿になります。新しい人生の始まりです」
十九歳——人生で一番希望に満ちていた頃の年齢だった。
「待って、まだ心の準備が……」
「頑張って、凛さん。あなたの作る料理で、きっと多くの人を幸せにできますから。私も、遠くから見守っています」
女神の声が徐々に遠ざかっていく。意識がまた闇に沈む寸前、凛は強く、とても強く思った。
『今度こそ、絶対に夢を叶える!』
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「うっ……ここは?」
石畳の上で目を覚ますと、そこは全く見知らぬ街だった。
中世ヨーロッパを思わせる石造りの建物が立ち並び、街の至る所で魔法らしきものを使う人々の姿が見える。野菜を売る商人は手から小さな炎を出して調理の実演をし、掃除をする女性は箒を浮遊させて高い場所の埃を払っている。
「本当に、異世界なのね……」
立ち上がると、体が驚くほど軽い。鏡代わりに近くの店の窓ガラスに映る自分を見れば、確かに十九歳の頃の顔だった。肌にハリがあり、目にも若々しい輝きが宿っている。
でも記憶も知識も、二十七歳まで生きた分がそのまま残っていた。これは大きなアドバンテージだ。
「とりあえず、情報収集から始めないと」
王都ルナリアの外れ——女神から授かった基礎知識がそう告げていた。この街の名前や基本的な地理、通貨制度、簡単な言語なども頭に入っている。
街を歩いていると、「不動産仲介業」と書かれた看板を見つけた。現代と同じような商売があるのは心強い。
「いらっしゃいませ。物件をお探しで?」
中年の男性店主が愛想良く出迎えてくれた。
「はい。小さなカフェを開きたくて、店舗兼住宅を探しています」
「カフェ……? 聞いたことのない言葉ですね」
「お茶や菓子を出して、ゆっくりくつろげる店のことです」
「なるほど! それは珍しい。こちらでは茶店がありますが、雰囲気が違いそうですね」
やはり、この世界にはまだカフェという概念が根付いていないようだ。それなら、なおさら差別化できるチャンスがある。
「予算はどの程度で?」
凛は女神からもらった革袋を確認した。中には金貨が五十枚入っている。この世界の通貨価値も頭に入っているが、かなりの大金だった。
「五十金貨以内で」
店主の目が丸くなった。
「それだけあれば、立派な物件が見つかりますよ! こちらなど、いかがでしょうか?」
案内されたのは、王都の中心部からやや外れた場所にある二階建ての建物だった。一階は十分な広さの店舗スペース、二階は居住空間として使える。築年数はそれなりに経っているが、構造はしっかりしている。
「立地としては少し不便ですが、その分静かで落ち着いた雰囲気です。家賃ではなく、購入でしたら二十五金貨でいかがでしょう?」
二十五金貨——予算の半分だが、家賃を払い続けるより購入した方が安心だ。
「お願いします」
契約手続きはあっさりと終わった。この世界の法制度は意外にシンプルで、印鑑の代わりに魔法で本人確認をするシステムになっている。
鍵を受け取り、ついに自分の店を手に入れた凛。建物の前に立って、改めて全体を見回した。
「よし、明日から本格的に改装を始めよう」
確かに古い建物だったが、それが逆に味わい深い雰囲気を醸し出している。丁寧に手を加えれば、きっと素敵なカフェになるはずだ。
夕日が石畳を美しい橙色に染める中、凛は新しい人生への第一歩を踏み出した。胸の奥で、希望という名の小さな炎が静かに燃え始めていた。
でも、そのときの凛はまだ知らなかった。この王都には複雑な政治的思惑が渦巻いていること。商業ギルドという大きな力が個人商店を支配していること。そして、運命を変える一人の男性との出会いが、すぐそこまで迫っていることを——
<第1話終了>
次回予告:第2話「新たな出会いと仲間」 改装作業に励む凛。そんな彼女の前に現れたのは、陽気な隣人と、助けを求める一人の少女だった。小さなカフェに、温かい絆が生まれ始める……