第五話 邂逅
人が生まれたとき、世界に名は無かった。やがて誰からともなく『恵みの地』と名付けられたその地を巡り人々は融和と衝突を繰り返していく。
そして七十年前に起きた苛烈な大戦乱により疲れ果てた人々は恵みの地を十の領土に分割して統治することを決め、互いに不戦の協定を結んだ。こうして誕生したのが『恵みの地を祝うための人々の連帯』こと祝福同盟である。
レドは仮面の力を駆使して下山を終えると、一旦銀化を解き木陰で休息を取った。依然として雪は降り続いていて生身でいるには危険な状態なのだが変身したままでは負荷が大きい。彼女は何も言わず耳元を撫でる。
(レド様、お体の調子は?)
「……体はまだ平気……」
(なるべく早く雪を凌げる場所を探しましょう)
シュヴァンレードは平板な声で事務的に提案した。主君の心の傷が深いことは承知しているが、今の彼に求められているのは慰めではない。彼女の方もそれを求めることなく息を整えると立ち上がり、死体からはぎ取った衣服を動きやすく整えると銀化せずに歩き出す。
「山とはまた違った寒さね」
(そうですな。あまり比較するものでもございませんが)
「それもそう。でも、何かと人は物事を比べてしまうものね」
最初は道を進んでいた足はゆっくり脇へと逸れていった。
(銀の力はいかがいたしますか?)
「もう少し歩かせて……あの姿では雪に溶けてしまいそうだから」
仮面の意思に小さく答えると足を早める。寒さを感じない訳では無いが、今は少しでも長くレドの姿でいたかった。
(ランブルック領はドゥーリッド領とはどのくらい離れているのですか?)
「城から使者が行き来するのに十日ほど、急ぎの場合でも七日は必要だったわね」
(それなりの距離ですな。街道に沿えば、ですが)
「ええ、私達は街道を歩けない……可能な限り町や村も避けて行かねばならない……」
なおも歩きながら言葉を続けようとする彼女を遮るように仮面が断りなくその体を銀で包み込む。はっとするレドに彼は「しばらく私にお任せください」と告げた。
「シュヴァンレード?」
(歩きながら考えると危険です。分担いたしましょう)
「……分かりました。あなたに任せます」
彼女は体の自由を彼に委ねると以後は何も言わずに目に映る雪景色を眺め続け、シュヴァンレードもそんな主君に言葉のない謝罪を捧げながら、雪を避けて寒さを和らげられるような建物を求めて野原を駆けていく。
しばらくして炭焼き小屋と思しきものを見つけた主従は辺りに人の気配がないことを確かめてから中に入り、銀化を解いた。
「ご苦労さま、シュヴァンレード」
(雪が止むまではここで凌ぎましょう。食糧の調達はせねばなりませんが)
「干し肉の一つでも持ち出していれば良かったのだけど……」
(過ぎたことは再び問わない……貴女もそう仰っていたではありませんか)
また悲しみに心を引かれそうになる主君を引き止めるように強く諌めた彼は火を起こすことを提案し、彼女は小屋に残されていた炭の欠片と道具を用いて火を起こした。
「暖かい」
(体が銀化していても寒さまでは防げませぬ故)
「私がまだ人である証拠ね……良いことよ」
手製の水袋に雪を入れて火で溶かすと喉を潤す。外はまだしんしんと雪が降り続いていた。
「よく降るものね。ドゥーリッド領も同盟内では北にあるけれど、これほどの雪は記憶にないわ」
(より北の地はこれでは済みませんね)
「ええ、山を出て早速足止めかしら」
苦笑いを浮かべる彼女に言葉を伝えようとしたシュヴァンレードは、小屋に何かが近づいて来るのに気づく。彼の態度から異変を察したレドも表情が硬くした。
「道に迷った旅人かしら?」
(それにしては動きが早い……早めの備えか必要かと)
「待ちなさい。向こうが手練の戦士であったとしても、こう寒くては消耗を免れません」
位置が分かっているのなら出方を伺うのが良策のはずです、と話す主君に仮面は素直に従い、同時に彼女の適切な判断に感服する。悲しみを越えてレドはまた一歩強くなっていた。
やがて、レドにもはっきり分かるほど雪を踏む音が響き、無造作に小屋の扉が開け放たれる。外から姿を見せたのは黒い外套に身を包む黒髪の女だった。
「……なるほど」
レドの姿と周囲の状況を素早く見極めた黒髪は担いでいた袋からチーズの塊を投げてよこす。
「……場所代だ。悪くない取引だろう?」
「承知しました……」
素直に頷くと、チーズを割いて串に刺すと火で溶けない程度に炙り始めた。黒髪も衣服の雪をさっと払ってから火の側で暖を取る。
「酷い雪ですね」
「……そうだな。晴れていれば寄り道をする必要もないんだが」
「そう長くは降らないと思いますよ……どうぞ」
柔らかく溶ける寸前のチーズを受け取った黒髪は迷わずそれをかじると「お代を食べてばかりじゃ本末転倒だ」とレドにも勧め、彼女も小さく頷きながら串チーズを手に取り食べ始めた。様子を良しと見た黒髪の女はゆったりとした口調で話しかけてくる。
「……ランブルックに行くのなら止めておけ」
「どうして?」
「領主が亡くなったからな」
お前みたいな目立つ奴が行っても処刑台に直行するだけじゃないか、と世間話でもするように語り、彼女は仮面の中で表情を変えるものの何事もないように「なら貴女は逃げてきたの?」と切り返した。相手は苦笑いしながら「雪の中を逃げる理由はそんなにないだろう?」と言外の意を認める。
「お名前を聞いても良いかしら? 私はレド」
「……デスクス、だ」
デスクスは淡々と名乗り終えると次のチーズに手を伸ばし、レドもそれに習ってチーズを食べていった。食事を平らげた二人は向かい合うように壁にもたれて話をする。
「もうちょい話しても良いんだぜ?」
「意外ね。そういうのは嫌そうに感じたのだけど」
「時と場合によるさ」
お前は真面目そうな感じだしな、と余裕を見せるデスクスにレドも素直に微笑んだ。元々さっぱりとした性格なのだろうがもうひとつ、お前などいつでも殺せると言う自信も含まれているのだろう。逞しさと柔軟さを兼ね備えた見事な体つきを見ればその自信にも納得がいく、とレドは関心を隠さない。
「いい体をしているのねデスクス。ちょっと羨ましいわ」
「そうか? 色気が足りねえって旅先の男どもによく言われるがよ」
「貴女がまぶしすぎて臆病になってるだけじゃないかしら」
それを聞いたデスクスは「そいつは傑作だ!」と腹を抱えて爆笑した。
「レド、お前けっこう良いセンスしてるな。ちょっと舐めてた」
「私、お世辞は嫌いなの。感じたままを言ったまで」
「謙遜するな。嫌いじゃないぜ、その手の言葉は」
ひとしきり笑い終えるとデスクスは姿勢を正し、それを話し合いの合図と感じたレドも背筋を伸ばす。
「……片方の聞きたいことが尽きたらそこで終わりだ」
「十分よ」
「じゃあ俺から聞くが、お前は半年前からレドだったか?」
いきなり核心に迫る問いが飛んでくるが避けたりせず簡潔に「いいえ」と答えた。嘘を言っていい相手ではない。
「あなたはレドを追っているの?」
「違うな。俺の目的はあくまでランブルック候領だった」
「そう……」
彼女は耳元に手を伸ばす。仮面との同化はあれからまた少し進み、頬の感触が硬く変わりつつあるのが分かる。彼女に触れられたシュヴァンレードの意思が反応を示すが何も言わない。
「お前はその目立つ格好で何しに行くつもりだ?」
「……業歪を探しに」
答えを聞いたデスクスは何も言わずに羽織っていた外套の下から素早く何かを取り出すと身を乗り出し、やや遅れて動きを察知した仮面の意思は主の了解を得ずに銀の力を開放して体を包み込む。だが、その時までに悪魔の首元には凶器が突きつけられていた。
「……これだから、銀の悪魔、か……」
「……円盤?」
レドはつぶやきを漏らす。黒髪の女の手には一枚の円盤が携えられていた。手のひらより少し大きいそれの縁は研ぎ澄まされた刃となっていて、体を覆う銀すらたやすく切り刻めそうな鋭さを秘めている。
「……言ったろ、円盤だって」
「私の負けね」
「……そう簡単に諦めるな。業歪を探したいんだろ」
そう言うとあっさり円盤を引っ込め悪びれる風もなく元の通りに座り込み、それを見たレドは「もういいわ、シュヴァンレード」と銀化を解くように指示した。仮面は一瞬迷ったものの大人しく力を収めデスクスはそれを見て口笛を吹く。
「……便利なもんだな。いざとなれば勝手にも動く」
「この仮面……シュヴァンレードは私に似て真面目だから」
「物も人も結局合うか合わないかってことだな」
真面目な表情でそう語るデスクスにレドは「あなたと円盤もそうなのかしら」と穏やかに問いかけ、聞かれた方も「ずっと恋焦がれているが素っ気なくてよ」と満更ではない口調で答えた。
「他に何か聞きたいことはある?」
「特にないな。今ので噂の真偽は飲み込めたからよ」
「そう……」
「だが、お前はそれじゃ済まねえだろレド……さっきの詫びだ。ルールとは別に質問に答えてやるよ」
そうじゃねえと仮面に寝込みを襲われても文句を言えねえよ、と怯えるふりをするデスクスを見てレドは確信する。彼女は仕事以外では決して不必要に人を殺めない、命の重みを知る者だと。
ここまでの行動を振り返っても危険はない。そう結論付けたレドは次に聞くべきことを質した。
「あなたの知るレドの正体を教えて」
「俺の知ってるレドは仲間の一人だ。ただ、いくらか前から音沙汰が消えちまった」
「ドゥーリッドが目的ではなかったの?」
「違うな。俺がランブルックに向かう前、レドは別の任務に行っていた。一度表に顔を見せた以上、最低一年は陰に潜んでいるのが習わしだ」
デスクスは淡々と問いに答える。高度に組織化された暗殺者集団の存在はレダであった頃から半信半疑ながらも耳にしていた。しかし彼らはそれを広く請け負うことはなく、伝手を持つ人間も限られる。そして彼女の知る限り、ドゥーリッドには伝手が存在しない。
「……それが突然ドゥーリッドに現れたのなら困惑するわね」
「ああ……伝令の話では何度か刺客を立てたらしいがドゥーリッドに動きはなく、長老たちも焦っていたらしい。俺にもランブルックの任務を早めに切り上げて向かうようにと指示が出ていた」
言いながら肩をすくめた。確かに暗殺を成し遂げた人間を間も置かずに裏切り者の処断に差し向けるなど異例のことだろう。恐らくは出せる手駒が限られていたのもあるだろうが、レドが表舞台に立ってしまえば秘匿していた集団の正体が明るみになるのではないかという危機感もあったに違いない。
「……で、予定を早めて強引に役目を果たし逃げてきてみれば、ここにお前がいて自分をレドだと言いやがる。流石にどうしたらいいのかさっぱりわかんねえから、とりあえず出方を見ようとなったわけだ」
「でも、私は目標ではなかったわね」
「俺らしくもねえ。仮面に惑わされちまった……だが、おかげで収穫も出来た」
何かしら、と問われたデスクスは「ひとつはお前に会えたことだ」と答える。集団にいたレドが既に死んでいると分かった以上、無駄に刺客を立てることも無いし仮面のレドが刺客に襲われることも無い。
「まあ、行き違いか何かで狙われることもあるだろうがそれは勘弁してくれ」
「それはあなたのせいじゃないもの、仕方ないわ」
「で、もう一つは俺の任務が空振りだったのが分かったってことだ」
「何故?」
「成功だったとしたら俺達は出会ってねえ……」
円盤の女は仮面の女にそう告げるとそのまま口を閉ざし、静寂の中で二人は眠りについた。
翌朝、レドが目を覚ますと既にデスクスは姿を消しており、夜の間見張りをしていたシュヴァンレードは彼女に何かしら挑発でもされていたのか、珍しく憤慨している。
(あの女……破廉恥にも程があります!)
「あなたがそこまで怒るのも珍しいわね」
寝ている間は銀化出来ないことに気づいたのか、主にいかがわしいことをしようとしていたと彼は主張するが、昨晩知ったデスクスの性格を考えると本気だとは考えにくい。暗殺者の隣で無防備にも熟睡している自分を見て、何かしら悪戯心をくすぐられたのだろうとレドは考えていた。もっとも、相手にその気が全く無かったとは断言できない。
なおも怒りを収めようとしない仮面に「重要なのはそこではないでしょう」と耳元を触りながら冷静に諭す。
「デスクスはあなたに伝言を残しているはずよ。その報告を」
(……ランブルックに行くのなら門の周辺ににある安酒場を目指すように。そこにいるドールという伝手に会え……そう申しておりました)
努めて穏やかそうな声で伝える。不満だらけとはいえ役割は忠実にこなさねばならない。それにどうやってランブルック領で立ち回ればよいかの手がかりを残してくれたことには彼も恩義を感じてはいた。
レドはクスクスと笑いながら戸を開く。外はすっかり白く染まっているが、そんな中に足跡がひとつ残されており綺麗に弧を描いていた。デスクスが去っていった跡であるからには、目指す地はその反対ということになるのだろうか。
(あの女め……日が出ているうちに動きましょう)
「そこまで焦ることもなさそうだけど?」
(……兵は迅速を尊ぶ、です)
憮然としている彼の意思を感じ、彼女は一層面白そうに笑った。
レドは中々機嫌の治らないシュヴァンレードをなだめることに一日を費やし、翌日に狩りを行い少ないながらも食糧を確保すると小屋を後にした。
銀化を行い全速で北を目指す。溶けかけの雪に足を取られることもなく、動きも力強い。
「やっぱり冷えるわね。適当な場所で休めると良いのだけど」
(そう都合良くも行かないかと……下手にどこかで休むよりも昼夜を問わずに走り続け、一刻も早くランブルックの城下町に近づくほうが有意義でしょう)
「それもそうかしらね……あなたに任せます」
元気よく了解の意思を示す従者に苦笑いする。戦いにおいては優れた判断を示す良い戦士なのだが、全体的に見るとどこか奥手な性格であるようにも感じられる。剣の意思としてろくに恋愛事の経験もなさそうな彼にそれを求めるのは酷な話かもしれない。
しかし、仮に業歪の呪いが相手を打倒しても解けず、そのまま仮面と完全に同化を終えてしまったら自分と彼はどうなってしまうのだろう。そんな考えがぽつりと心に浮かんでしまい、即座に思考を封じた。今はまだそんなことを考える時期ではない。彼女はシュヴァンレードに少し体を動かしたいと告げて自ら走り出す。
結果としては日が暮れるまでに寝場所は見つからずその日は徹夜で走ることになったが、疎らながらも民家がいくらか見られるようになってきた。近寄ることこそ出来ないものの確実にランブルックの城へと進みつつあるのが分かる。人目につきにくい林を見つけたら食事と仮眠を取って休み、少々の疲労は無視しながらも主従は旅を続けた。
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