第四話 旅立
しばらくは静かな時間が過ぎていく。
レドはさらなる休養を必要としていたが、同時により逞しくなることも求めていた。戦う上で必要となる本格的な鍛錬を経験しておらず、シュヴァンレードの助けを得てもその加護を十全に活かせない彼女としては、いきなりは無理にしても力を発揮させられる体にしていくのは当然の欲求と言える。
対するシュヴァンレードも鍛錬の必要性を感じてはいたものの、少し先の目標として考えていた。鍛錬は健全な体と正しい知識があって初めて機能するものであり、まだまだ衰弱している上に体の動かし方についての理解も足りていない主君にはまず戦士としての日常を覚えてからでも遅くはなく、幸いその教練が焦らずに出来る場所にいる。
小屋に来てから一週間後、レドは散歩に出ると周辺の歩ける位置に落ちている小枝を集め始めた。二十分も歩くとすっかり疲れてしまい、休みを取らねばならなかった。歩くのもそうだが、しゃがんでから立ち上がるのを繰り返すだけでも疲れは蓄積していき、小枝も数が多くなるとずしりと体にのしかかってくる。軽い気持ちで臨んだ彼女も見込みが甘かったことを痛感せざるを得ない。
「それにしても疲れたわね……私は今まで何をしていたのかしら」
(やりなれないことを初めてするとこうなるものです……何事も繰り返す事から始まります)
息を切らしながら苦笑いするレドにシュヴァンレードは労りの言葉をかけつつ、まずは意図した通りの効果が出たことに納得していた。回復の兆しを感じ取った彼女に自分の体の状態を正しく把握してもらうこと、出来ることと出来ないことを認識させること、それをするためには何が必要かを彼女自身に考えてもらうことが主な目的である。
彼女は侮っているが、この「散歩」には基礎の中の基礎とはいえ戦士に求められる要素が一通り含まれていた。重い武具をもって広い戦場を駆け回り、地の利を見極め、滑らかに体を伸ばしたり屈んだりして姿勢を正す。鍛錬にしようと思えばあらゆることが鍛錬であり、戦いは人にできるあらゆることの先にあった。
せっかく集めた小枝もその場に置いて帰らざるを得ずレドは仮面の中で表情を暗くしていたが、夕食を食べているうちに明日はもっと動けるようにと心のなにかが切り替わる。翌日も散歩に出た彼女は注意深く歩き周り少量ではあったが枝を持ち帰った。それでもなお息を切らしている自分を恥じながら、明日はどうすればいいだろうかと考えながら眠りにつく。シュヴァンレードはその試行錯誤に手がかりを与えながらも手は貸さずに見守り、猟師も日々活力を取り戻していく彼女を何も言わずに小屋に置き続けていた。
更に数週間が過ぎて、レドの体はほぼ仮面を着けた頃の状態を取り戻す。ふらつくことなく立って歩き、体への負担を抑えながら動かすことを学び、枝を集めて持ち運ぶのも無理することなく多くをこなせるようになった。仮面を着ける以前よりも体が引き締まり、より良い状態になったようにも見える。
猟師もそんな彼女を見て何かを感じたのか、何度か猟の現場に同行させていた。罠を仕掛けた場所に獲物が掛かっているのを見た猟師は動かないように告げるとそれを屠り、レドはその光景を黙って見届ける。
「何も言わないのか?」
「それで物事が解決するのなら」
「……帰るぞ」
猟師はレドに弓と矢筒を任せて自分は獲物を担ぎ帰路についた。老人は自分から話すことも少ないが返事をすることも少なく、少し耳が遠いのかも知れない。
シュヴァンレードは自らの主君が雌伏の時を乗り越えて新たな一歩を踏み出し始めたことを素直に喜んでいた。元々領主の妻として政務に携わるほどの聡明さを持っている彼女ならば、手掛かりを示せば自ずから動き始めるであろうと思っており、猟師の元から巣立つ日もそう遠くはないだろうと感じているが、同時に思案を巡らしはじめている。どうしたら老人と円満に別れを告げられるのであろうか、と。
猟から帰ってきて二日後、レドは珍しく猟師の方から山道の散歩へ行くようにと促される。理由は語らなかったものの猟師の元を時折誰かが訪れていることは察していたため、素直に頷き小屋から離れた。足取りは軽い。
(調子を崩されることも無く、具合は上々でしょうか?)
「ええ、お陰様で前よりも体がしっかりとしたようよ」
小屋から離れた所にある小さな湧き水の側で語り合う。多少暖かい日であれば猟師から譲り受けた布で体を清めることもあるのだが、空が曇っている今は少々具合が悪い。一口だけ水を飲み側にある樹に背を預けてレドは物思いに耽っていた。
「シュヴァンレード、もう少しご老人のお側にいるべきかしら?」
(難しい問題です。急ぐ必要も無いのでしょうが、さりとて我々はこの地に安住を考えるような身でもありません)
「お互いに答えが出せていないようね」
ふう、と息を吐きながら手を耳元へやりそっと撫でる。体が問題なく動くようになった以上、いつまでもここに留まることは主従と猟師双方にとって望ましい状態とは言えない。留まれば留まるほどに呪いは進みあの業歪にも隙を与えることとなりかねず、同時に猟師の身に良からぬことが起こるかもしれなかった。それでなくとも今日のように来客が来る毎に外へ行ってなどと繰り返さねばならないのは既に年老いている男にとっては面倒なことに違いない。だが、これほどの恩を受けながら何もせずにこの場を立ち去るのは心苦しく感じられる。考えれば考えるほどに答えは出てこなかった。
風が次第に冷気を帯びるようになったころ、レドは迷いを振り切るように姿勢を直す。
「考えるばかりでは物事は動きません。七日後までを目途にここを発ちましょう……」
(……ご決断を支持いたします)
仮面の下にあるレドの顔は微かに歪み、仮面の意思も苦みをこらえているのを隠さない。恩返し、という言葉がこの上もなく高みにあると感じられるのが歯がゆかった。
刹那、シュヴァンレードは異変を察知して警戒を促し、彼女もすぐに気付く。明らかに獣ではないものがこの周辺を動き回っていた。
「……シュヴァンレード!」
(遂にここまで……! ご老体が心配です)
仮面の意思に小さく頷き、足音を立てないで済むような場所を選びつつ足を急がせる。気付かれていいのは最後の最後だけで、その時は別れの時であること、それがすぐ近くまで来ている感覚に主従は胸を締め付けられるような苦しさを覚えていた。小屋に近付くにつれて嫌な予感は強まっていく。
何とか小屋の裏手側まで来たレドたちが見たものは、数名の軽装兵士と道案内をしたと思われる商人風の男、そして木に吊るされて無残に棒で打ち据えられた猟師の姿だった。
「言え、お前がかくまっていた女はどこにいる?」
「……知らん」
隊長格の兵士の質問に答えようとしない猟師の体に再び棒が打ち据えられるがもう悲鳴すら上げようとしない。それを見ていた商人が隊長に許可を得た上でとりなすように猟師に話しかける。
「おやっさん、いつまでも妙な意地張るなよ。大人しく女を差し出せば今からでも許してくれるって言ってるじゃねえか?」
「……」
「聞こえないのかよ? いくら耳が悪いったってそりゃねえだろ」
「……知らんもんは知らん」
知らぬ存ぜぬを続ける猟師にやれやれといった風情で両手を下げると後ろに下がった。
「気は済んだか?」
「ええ……もうこの爺さんはまともに喋れませんよ。耳も聞こえねえ喋れねえじゃあ商売相手にもなりゃしません。せめてこれ以上苦しまないようにしてやるのが、かえって恩返しになるってもんです」
「……なら下がっていろ。こいつを処断するかどうかは後の話だ」
隊長は鬱陶しげに手を振って商人を下がらせて再び尋問に移ろうとする。
一連のやり取りを聞いていたレドの心は制御できる限界を超えた。何も考えずにその場所へと走りだしながら大声で叫ぶ。
「やめなさい! 私ならここにいるわ!」
兵士たちは小屋の裏手から飛び出してきた女の姿に目をむき出した。
「……いたぞ、仮面の女だ。急いで分隊に知らせろ!」
「シュヴァンレード!」
(応っ!)
兵士たちが合図の笛を鳴らす中、主君の求めに応じた仮面の意思はその力を解放し、怒りに震える主君の体を包んで澄みわたるような銀色に染め上げる。
「悪魔めが! 良いのか? このじじいの命が惜しくないのか?」
「悪魔がそんな取引に応じると思って?」
相手の言い分を逆手にとって一蹴すると、隊長は大きめの短剣を構えて棒を持った兵士と共に行く手を遮った。レドは右手側にいる棒持ちの兵士を狙い相手が棒を振ってくるのを斜面を駆けて迂回して完全に振り切らせ、腕が伸び切ったところを急接近して腹に拳を叩き込み棒を奪うと、他の兵士と合流しようとする隊長を逃がさず頭を強打して昏倒させる。
残された兵士三人は二人が倒されたのを見ても焦ることもなく、ひとまず後退して仲間との合流を目指そうともしない。仲間のほうが駆けつけることを前提に時間稼ぎに徹する構えであった。
レドは棒を捨てて隊長の持っていた短剣を手に取ると自分から切り込み、常ならぬ速さでちょうど正面にいる兵士に接近すると喉を裂いて相手の短剣をむしり取り、即座にもう一人へ向けて投げつける。頭に刃を受けて倒れ込む兵士はもう見ずに、諦めたのか慌てて逃げ出そうとする残り一人を急斜面に追い込み下に追い落とした。
ひとまずこの場にいた兵士の抵抗力を奪い安堵するレドだが、シュヴァンレードは気を抜かないようにと警告する。
(安心はなりません……急いで離脱を!)
「分かっているわ。ご老人を連れてすぐに……」
「おっと、動くな……悪魔さんよ」
背後から響く声に慌てて後ろを振り向くと、そこには木に吊るされたままの老人の足にナイフを突き立てようとする商人の姿。男の顔には怯えと横柄さが同居したような穢れた笑みが浮かんでいる。
「あなた……!」
「動くなって言っただろうが!」
声をかけるレドに構わず男は躊躇いなく刃を突き立て、老人は小さく弱々しい悲鳴を上げた。それを見た彼女が殺気を帯びて一歩前へと出た途端に再び足を抉り、光景を目の当たりにしたレドはやむを得ず足を止める。
「へ、へへ……そうやって素直になりゃいいんだよ!」
「そのナイフを下げなさい!」
「てめえがその魔法を解くのが先だ。ついでに俺へ命を捧げるってんなら、代わりにこのじじいの命は見逃してやるよ……」
その言葉にレドは苦悩した。老人の命は救いたい。しかし、そのために自分の命を捧げてはここまで積み重ねてきた生きるための努力を無にすることになる。どちらかを叶えるためにどちらかを犠牲にするなど、今の彼女には耐えられなかった。
「おら、早く魔法を解けっていってんだろ! ああそうか、悪魔は取引しねえんだったか。こりゃおみそれしてたなあ!」
「……!」
(……いけませんレド様!)
主君の意思が銀化を解くように指示するのをシュヴァンレードは拒絶する。男に約束を守る気が無いのは明らかであり、犠牲を最小限にしたいのなら多少の苦しみを無視してでも男を倒して老人を連れ場を退くのが最適解なのだが、銀化を解こうとまでしている今のレドにそれを言うのは望まない方向へと気持ちが暴発してしまう可能性が高い。しかし、ここで銀化を解くのは仮に彼が消失してしまうとしても受け入れられなかった。
なかなか元に戻ろうとしない彼女に苛立った男は一旦ナイフを抜いて刺す場所を変えようとするが、そこで今まで全く力の入っていなかった老人の脚が突然動いて頭を蹴り飛ばし、不意を突かれた男は大きくよろめきナイフを取り落としてしまう。
「このくそじじいが!」
「お前のことなど知らん!」
罵声を浴びせる男に構わず、老人はレドに告げた。
「何をしている、早く動け!」
「あ……!」
「罠にかかった獲物を逃がすつもりか!」
その叫びに体が勝手に動く。人とは思えぬ速さで一気に間合いを詰めるが、それより一足早く死に物狂いでナイフを拾い上げた男が老人の背中を深々と突き刺していた。
「ぐふっ!」
「へ、へへ……俺に逆らうから……」
老人の悲鳴に視線をふらつかせる男の首をレドは静かに掴み上げる。
「へ、へへへ……何だよ、俺を殺す気かよ。悪魔の分際で」
「……そうね。もう悪魔で十分……」
潰すようにその手に力を込め、しばらくして地面に転がした。
「……悪魔のままなら涙も見せずに……済むのだから」
見えない涙が地面に染み込んでいく。
やがて散らばっていた兵士たちが駆けつけ襲いかかってきたが、もう彼女は迷わない。躊躇わずに迫ってくる敵の命を刈り取り、半数ほどを倒すと残された兵士たちは逃げ出していった。
脅威がないことを確認して銀化を解いたレドは虫の息となった老人の体を抱きしめる。
「しっかりして……!」
「美しい姿だった……最後に良いものが見れた……」
老人は血の気を失い力のない顔にそれでも小さく笑みを作った。
「いや……嫌よ! こんな……こんな……!」
「……泣くな……お前さんは立派に猟師の役目を果たしたんだ……どこに行っても生きていける」
言い終えると、老人は首を動かして彼女の目を見つめて、ぽつりと言う。
「……すまんな……」
目を閉じた老人はそのまま覚めない眠りについた。
「……う、ああ……ああああああっ!」
死体しかない場所でただ一人生きて取り残された女は叫ぶことでしか自身の感情を表現できず、身に着けている仮面の意思もただただ無力な己を責め続けることしか出来ない。空からはそれを打ち消すように白いものが静かに舞い降りてくる。
微かな明るさすら失われていく中でどうにか気持ちに区切りを着けたレドは、再び銀で身を覆い老人の亡骸のみを小屋の中に安置した。今出来る最低限の弔いを終えると、降り積もろうとする雪の中を全力で駆け、山を下りていった。
目指す地もまた冷たい雪に覆われていることを覚悟しながら。
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