雨雲にアイニージュー
胸の奥の方に煌めいている場所があるかのように、伝えたくなることがあるのだろうか。
体躯がとても大きな鳥が木に留まったのを見て驚いた。名前は知らないけれど、あの身体で飛び立てるという事が不思議に感じるほど。いつかに比べれば素朴な何かに浸っていることは多くなった。雲のカタチからUFOを連想していた子供時代をぼんやり思い出す。そこまで広くない世間ではあるものの、それなりに立場的なことを考えるようになって、それと同時に自分がどうこうするまでもなく世界は動いてゆくものだと半ば受け入れて、結局自分にとって大事なものが何なのか。気付くと何でもないことに目を奪われていたりする。
それから雨が降ったり止んだりの日が続いて、感じている事も取りたててどうという事もないから休日に傘を差してぶらぶらと出歩いてみた。街頭のビジョンに映る俳優の姿が誰かとよく似ているような気がして、一瞬だけ懐かしい気持ちになる。いつしか人通りの少ない路地を歩いていて、そこかしこにレトロな趣を感じ始めた。看板の色褪せ方や、電柱の年季の入り方も小雨が醸し出す匂いと調和していて、なんとなくだけれど心が落ち着く。
そういう場所が存在しているという事は知っているはずなのに、思い出すことは難しい。
パラパラという音が、パタパタという音が、心の中で静かに脈打っている。
大きめのビニール傘の柄を持っている部分がほんの少し冷たく感じる。ぼんやり雨雲を見上げているテンションはなんとも言えないもので、期待よりも認めている方が大きいような気がする。そのまま歩いてゆくと、一画に昔ながらという感じの書店があった。見た感じ古書店ではないようだが、ぱっと見品ぞろえが良さそうには思えなかった。
惹かれる理由はよく分からなかったけれど、気付いた時には店の方に歩き出していた。
…
無言のまま開いたままの入り口から入店し、一度周りを見渡す。店舗の広さにしては棚が多く、やや窮屈な印象を抱くが思った通り古書店ではないらしい。
「にゃあ」
居ると思っていなかった猫の鳴き声に驚かされた。正面の方から現れた三毛の猫がこちらを細目で見つめながら近付いてくる。人に慣れているのか、立ち尽くしていた足元までやってきてもう一回「にゃあ」と鳴く。撫でていいものかと少し躊躇っていると奥の方から人が現れて、
「いらっしゃいませ。女の人が来たのかと思ったら、男性の方でしたね」
と妙にニコニコしながら寄ってきた。
「え?どうして女性だと?」
「その猫、『カッパ』っていう名前なんですけど、媚を売るのが専ら女の人なんですよ。男の人に自分から寄ってゆくのは珍しいんです」
足に頭部を擦り付けている『カッパ』という猫の様子を見ているとかなり好かれているような気がする。
「僕が猫好きだからでしょうかね。飼ってるわけではないですけど」
「ほう!」
店主と思われる男性のその時の表情と声がなんというか物凄く感心した時のそれに思われたので、なんとなくコミカルに感じた。眼鏡を掛けていて歳も結構上に見えるが、どことなく頼りない感じに見えてしまうのは何故なのだろう。
「お客さん、もしかして悩み事とかあったりする?」
「そう見えますか?」
「ここ立地条件そんなに良くないからお客さんとかも多い方ではないんだけど、辿り着いた人は大体なんか抱えてたりするんですよ」
「悩みというほどのものではないですけど探してはいるかも知れないですね」
そんな会話をしていたら『カッパ』が役目を果たした感を出しながら奥の方へ戻ってゆく。店主の身なりが甚平姿であったり書籍が日本文学の方にこだわりがあるような印象を受けたものの、所々若い女性向けのファッション雑誌だったり、猫本のコーナーが作られていたりと正面から見た時とは違って中身は結構個性的な書店であった。
「今、同世代の人っていつも何かを発信していたりするんですよ」
「うちの娘もそうだ。積極的に発信しないとダメだって教育されてます」
「ははは。でもいつも発信できる何かがあるわけじゃないんですよね」
照れくさそうにしている店主の姿がなんとなく微笑ましくて自然と彼に気持ちを打ち明けていた。伝えたい何かを探して、ぼんやり歩き回って、あまり何も感じていない事がなんとなく物悲しいと感じていたのは確かだ。店主はゆっくり頷いて、
「器用ではないからね」
と言った。その一言に込められているものは、たとえばその日の雨雲のように、それが全然悪いというわけではないけれどだからと言って褒められもしないような、そんな『温度』のあるもののように思えた。
「でもね、ときどき何かがあるの。それが観たくて続けてるのかも」
「何か、ですか」
店主の微笑みはちょっとだけ説得力があった。書店では一冊の小説を購入した。帰り際、『カッパ』に挨拶させてもらって店の外に出る。ちょっとだけ長居しているうちに雨は上がったらしく、水たまりに雲間から射し込む光が反射してキラキラしている。傘の先っぽで水たまりをなぞり、その波紋を見つめる。
<そういえば、昔、こんなことして遊んでたな>
覚えているものだ、身体は。ついでに懐かしい歌を思い出して、ふんふんと口ずさむ。そんな思い出を誰かに話してみたくなったのはたしかだ。