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       9 鬼を想えど

闇を逃れ、辿り着いた『百姫楼』


足早に歩く足音。

艶やかな着物、帯を締める切れの良い音。

髪を結う姉さま方と、白粉おしろいの匂い。


襦袢じゅばん姿の遊女が、あれよあれよと右往左往。

まるで、金魚鉢の中。

華やかな、囲われた世界。


私は、喧騒にまぎれ風呂へ向かった。

この忙しい時間に、私を咎めるものなどいないはず。


『男の匂い』


女将にそんな嫌味を言われるのも、ご免だ。

さっさと着物を脱ぎ、湯船に使った。

湯気の立ち込める風呂場は、一度に何人も入れるくらい大きさで……。

ひのき。確か、檜で出来ていると聞いた。

檜という言葉に覚えはあったが、風呂と檜が結びつかなかった。

檜の風呂に覚えがなかったようだ。


『きみの名じゃない』


少年は、はっきりと意志を持った顔でそう言った。

私の本当の名は、なんと言うのだろう。

なぜ、少年は本当の事を言えないのだろうか。


私に、二度も口付けしたあの唇。

あの唇で、私の名を何度も呼んだはずなのに。

真実には、口を閉ざしてしまうのだろう。


「あら、あんた。夕鶴のところの娘じゃないの」


誰もいないと思っていた風呂場に、先客がいた。


「はい。薄桃といいます」


化粧をしていないその顔に見覚えはなかった。


「夕鶴、具合悪いんだってねぇ」

「……そう、なんですか」

「知らないのかい。今日は具合が悪いから、客は取らないらしいよ」


看病をしたせいかもしれない。

私は、すぐさま湯船から出た。


「さぁて。今宵は誰が、お相手かしら。銀朱様は力の強いお人。皆、選ばれようと必死。さぞや、紅を引く手にも力が入ろう」


風呂場を出て行く私に、名も知らぬ姉さまが言った。

こんな所でゆっくりしているという事は、我関せずという事か。


***


「夕鶴姉さん」


襖越しに声を掛け、そっと中に入る。

いつもなら仕度の最中だというのに、今日はまだ床にせっている。

薄暗い部屋が、青白い肌がより病的に見せていた。

苦しそうに小さく呼吸する様は、なんともはかなげ。


「姉さん。私のせいで……ごめんなさい」


部屋の隅で、そう声を掛けるのが精一杯だった。

姉さんが弱ったのは私のせい。

ここに来る途中、女将にそう言われた。


『屋根裏なんかで夜を明かすから、陽に当たったんだよ』

『普段から、薄桃の陽の気に当てられてるというのに』


陽の気は、鬼にも物の怪にも確かに毒。

銀朱様はとても力が強いから、その力を分けてもらっている姉さんだから大丈夫だったんだと。


『陽の気』は私を守ってくれる半面、姉さんを弱らせていたんだ。


「薄桃……。私は大丈夫。そんなことより……」


赤い布団から、姉さんの白い腕が見えた。

姉さんは、苦しそうに呼吸しながらもゆっくりと起き上がった。


「……ぎん、しゅ様が来るから……」


姉さんは、私の方を見て微笑んだ。


「仕度しないと……。手伝ってくれるかい、薄桃」


「姉さん……」


ゆっくりと鏡台に向かい、姉さんは化粧を始めた。


「姉さん、今日は休むって。お客は取らないって……」


私が声を掛けると、紅を引く姉さんの手が止まった。


「お客は取らないよ」


「だったら……」


寝ていてください、そう言いたかった。


「薄桃」


咎めるような言い方だった。

姉さんはゆっくりと私の方を向いた。


「銀朱様は、客ではないのよ。あの方は、特別」


美しい。

でも、どこか憂いた笑顔。

姉さんは、銀朱様を……。


「愛しているのですか」


聞いてはいけない、ような気がした。

でも、私は口にしてしまった。


「仕方のない女でしょう」


姉さんの、笑顔が余計に痛かった。

どうしてだろう。

苦くて、胸が痛むのは。


『鬼は美しくとも、鬼。想いを寄せれど、待っているのは地獄』


きっと、女将の言葉のせいだ。

銀朱様は確かに美しい。

けれど、鬼。

誰の物にもなりはしないというのに。


私は、それ以上何も聞かなかった。

仕度をする姉さんの、しゃんとした背筋が辛かった。




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